≪「666」とは 悪魔の数字として有名 ≫≪ 11は重要な数字 ≫≪ 46は重要な数字 ≫≪Tenboss Mori≫



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「666」とは、悪魔の数字として有名である。なぜ悪魔の数字と呼ばれているのか?


新約聖書の『ヨハネ黙示録』は、キリスト教が未来を世界を記した予言書として扱われている。その13章18節に「ここに知恵が必要である。思考のある者は、獣の数字を考察がよい。その数字とは、人間をさすものである

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サンフランシスコ大地震 10月17日 10+17= 18
プラズマ大地震 1月17日 10+17= 18
阪神淡路大震災 1月17日 1+17= 18
パキスタン大地震 10月8日 10+8= 18
中国青海大地震 4月14日 4+14= 18

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いずれも発生日から18という数字が導き出される 悪魔の数字「666」の合計は18となる 【上の画は】⇒18点の絵画で学ぶというヨハネの黙示録


 

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東日本大震災からも驚くべきことに悪魔の数字が導き出された

2011年03月11日 2+0+1+1+3+11= 18

 

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日本に存在する1円、5円、10円、50円、100円、500円をすべて足すと666円となり、6+6+6=18となります。

また、日本に存在する紙幣の1000円、5000円、10000円を足すと16000円ですが、今度で新たに発行された2000円を足すと18000円となり、ここにも18と言う数字が隠れています。

 

 

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≪Tenboss Mori≫≪成功の実現≫≪天風エピソード≫

2022年2月22日22時22分と「2」並びの日に・・・

各界の頂点を極めた人々が「生涯の師」として天風師に心服したのか──その波瀾万丈の半生から得た人生成功の哲学で触れる者をたちどころに魅了、かつて東郷平八郎元帥が「哲人」と称賛し、ロックフェラー3世が「生涯の師」と敬愛してやまなかった稀世の大哲人です。

 

「天衣無縫の座談の名手」と名高かった中村天風(なかむら てんぷう)師の、イキイキとした言葉づかいを再現するために、大聴衆を前にしての講演(録音テープ)を忠実に書籍化した絶賛の「感動の教え」

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≪Tenboss mori≫≪天風の多く書かれている出自①≫≪成功の実現≫

 

🔶【多く書かれている出自①】・・・「通説」の眼鏡の掛け違いを 正せる「新説」がここにきて出始めているから かつての口伝伝承からの出自を正せる説が 裏付けありとなりつつあるからである

先ずは  子の出自を知るには親を知ることで さらに祖父を知り高祖父の出自まで調べることで出自が分かるのではと考えたところで 紐解くことにしました

33693 【通説は】7月30日、東京府豊島郡王子村(現東京都北区王子)にて、大蔵省紙幣寮の抄紙部長の「中村祐興」と母テウの三男として生まれる、本名は、中村三郎。(幼少の名前は三午)母テウは江戸生まれの明朗快活な女性であったという 父「中村祐興」は旧柳川藩主の立花家に生まれ中村家に養子となっており 初代の柳川藩主立花鑑徳(あきのり)

 

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中村祐興は官公庁(特に現在の大蔵省造幣局)においては周知のひとではあったが 地元福岡の出生地と言われる・・・ではあまり知られていなかったようである
🍓🍓🍓 時に中村祐興が中央官庁で活躍しだしたあたりから地元でも関係資料をひも解いたのであろう いろいろなことが判明し 福岡藩主「立花家」の血筋を歴として引き継ぐ人物であることが判ったのである

 

 

 

伯爵の孫にあたる。祖父は初代九州柳河藩主で伯爵(伯爵となったのは柳川藩最後の藩主12代目)の立花鑑徳(あきのり)「したがって立花鑑寛=あきひろ)中村祐興は第二夫人(千代子)の子として生まれ、会津中村の相馬の跡を継いで中村となる。(会津中村藩の名跡を言っているようだが 間違い⇒九州の中村家(蝋売りの)

 

 

🔶【多く書かれている出自②】

天風の祖父というのは、もと柳川藩藩主、立花鑑寛(あきひろ)です。

 鑑寛は、立花家12代になります。天風の祖母は、お千代さんという美しい方だったそうで、鑑寛の側室となりました。そして、お千代さんは天風の父、佑興を生みます。佑興を連れ子にして、跡継ぎのなかった名跡、中村家(中村一甫)にとついだのです。

 天風は、しばしば講演で、「私の祖父は鑑徳(かんとく)だ」と言っていますが、これは天風の思い違いです。鑑徳は14代目の嫡流で、天風の従弟(いとこ)になります。この従弟と天風は、交際はなかったようです。

 

天風に出自のことを親切に教える人もいなかったのでしょう。天風が嫡流ではなかったことが、そういう記憶ちがいにつながったと、考えられます

 松原千枝という作家がいます。天風の弟子で、天風の出自を調べあげて本を書いていますが、その推理には誤りがあります。天風は「私は子供の頃、大名の家にそだった」という言い方をしていますので、東京に当時在住した立花家の人を天風の祖父と、松原氏は推理していますが、それが間違いです。そうではありません。父佑興は大名の子ですから、天風の育った家庭は、大名みたいな感じだったのでしょう。

 

🔶【多く書かれている出自③】

柳川藩の名跡である中村家には、跡取りがありませんでした。千代さんは、佑興を連れ子にして、中村家(中村一甫)に嫁入りしました。

 

天風の思い違いというより、だれかが誤って祖父の名前を教えたのでしょう。松原一枝という作家が、天風の祖母は千代さんといって、たいへん美人だったそうです。千代さんは、立花鑑寛にみそめられて、側室になりました。その間に生まれたのが、佑興(すけおき)という男児で、この人が天風の父となります。

 

天風の祖父は、立花鑑徳ではなく、立花鑑寛(あきとも)です。天風はいつも講演になかで、「私の祖父は柳川藩藩主の立花鑑徳という人でした」と誤って語っています。鑑徳は鑑寛の孫で、天風の従弟に当たります。交際はなかったのでしょう。

 

鑑寛は、幕末に近い1846年、18歳で九州柳川藩の藩主(12代)を相続しています。

明治4年、廃藩置県のため、鑑寛は柳川を去り、東京の江戸屋敷に移住しました。私は、天風が祖父鑑寛に会ったのは、この江戸屋敷であったろう、と想像しています。鑑寛の江戸屋敷の上屋敷は、今の台東区下谷御徒町にありました。(中屋敷、下屋敷も同じ台東区の浅草にあった)。佑興は、美しい側室の千代にうませた子供だったし、天風は孫だったからです。「私は大名の家に育った」とよく言いました。父の佑興は大名の子であり、名門中村から相当の財産を引きついだであろうし、大蔵省の高級官僚(局長)でもあり、裕福であったと思います。鑑寛はのちに伯爵となりました。

 

■天風先生は講演の中でしばしば 「こういう家(大名の家)に生まれたとわかったのは ものごころついた三つか四つの時だった」と語っている つまり立花鑑寛といっしょに大きな大名屋敷に住んでいたが 嫡出ではなく庶子(正妻から生れていない今でいう私生児)だったので 御所院番を務めていた藩士の祐興のところに養子としてもらわれていったのではなかろうか

 

三郎の母・長子(テウ)は 立花鑑寛に侍女として仕えていた それが身ごもり 出産したので 中村祐興に妻として下されたのではと推測される 松原一枝(天風の弟子)さんは調査結果を『中村天風 活きてきた生きた男』に詳しく書いた 私にもこれが一番正確だろうと思われる

 

🔴【中村祐興も大名の一族】

 

中村祐興は柳川藩の一藩士でしかなかったが 長崎で新知識を得たことから 紙幣用紙の製造で一家言持つようになり 大蔵省紙幣寮(現在の印刷局)で力量を発揮するようになった 新政府は偽札の製造を防ぐことができなければ 紙幣を発行できない 祐興は「中村紙」と呼ばれた特殊な紙幣用紙を開発し 明治政府を救った

 

この長崎留学の費用をみたのが 第9代藩主「立花鑑賢」(あきかた)の娘で 後に家老 小野勘解由 に嫁いだ宣子である 実は宣子の母は千代子で 祐興は同じ母から生まれた弟である

 

もしそれが事実だとすると 立花鑑寛は三郎の養育を 藩士一族の中村祐興に頼んだということになり つじつまがあってくる 庶子であったとしても 藩士の血を引く者の養育を 素性のわからない下賤の者に託すことはありえないからだ

 

自分の出自の謎を知った三郎は それに納得できなかった 荒れに荒れ 乱暴狼藉者となった あの豪胆に見える人が 実は我々と同じようにくよくよ悩み 八つ当たりし 憂さを晴らしたのだ 晩年 講演中 母のことに言い及ぶと しばしば絶句したしたというが 涙なしには不憫な母を語れなかったのだ

 

人間的悩みに苦しむ三郎・・・何だか 限りなく共感できる 木の股から生まれた英雄豪傑ではなく 我々と同じ素性を持っていた弱い人間だったのだ しかしながら それを乗りこえ あの颯爽とした生き方が出来るようになったのだから やはり哲人と言われるだけのことはある

 

破天荒な青春時代を過ごしたことは無意味ではなかった そんな破天荒な時代を過ごしたからこそ 人の痛みがわかる人になることができ 人々を助けることができた 天がなさることは無駄がない 一見マイナスのように思えることも 益となって働き ついに心眼が開けたのだ 心さえ折れなかったら 道は拓ける 天風先生自身の人生がそう語っているようだ

 

 

■天風先生は幼少のころ、大いにあれ、父の「中村祐興」は、ほとほと手を焼いて、縁故などをたどって大アジア主義の巨頭「頭山満」に預けてことはよく知られている話である・・・・(中略)

 

「これは戦場出途の往来よって受けた男の誇りの向こう傷じゃ よくうけたまわれ 男が戦うは腕じゃないぞ 度胸だぞ いかに腕前がすぐれているといえども度胸がなければ 必ずその戦いに負ける

 

爺が何べんもの戦場を往来しても この傷だけでもって命を全うしたのは 自慢をするわけじゃないが しいだま(度胸)があったからじゃな いざという時は度胸ぞ!」

 

これが必ず 爺が私に言う毎晩の言葉なんです もう毎晩なんですから知って(覚えてしまっているんですね)」(『中村天風 活きて生きた男』著松原一枝 中央公論社)

 

天風が語った幼少期の話には爺さん(殿さん)の話がたくさん出てきます。膳をいくつも並べ、腰元に囲まれながら「三午よ、どれを食うか?」などとかわいがられたようですが、時には爺さんが眉間の傷を指さし「爺のこの傷を見よ。いいか。いざとなったら人間しいだま(魂)ぞ。」と繰り返し教えていたというのです。

 

しかし このことは話半分で聞いた方がほうがいい この時期の戦場というと戊辰戦争しかない 徳川幕府支持藩との戦いに 藩主が おもむくことはないはず せいぜい武将が派遣されるぐらいであろう だから「立花鑑寛」(あきとも)が額に傷を負っていたというのは おそらく戦場で負った傷ではなく 幼少のみぎりに剣道場で得たという傷であろう

 

この頃 柳川藩の上屋敷は上野下谷にあり 藩主「立花鑑寛」(あきとも)が住まいしていた 資料上 三郎(天風の幼少名)は父・中村祐興と共に 王子村(現・東京都北区王子)に住んでいることになっているが 王子から上野下谷まで子供の足で毎晩通うことは到底不可能である

 

王子から上野下谷まで 直線距離で六キロ 大人の足でも一時間半 ましてや子供の足となるとゆうに二時間以上はかかる ということは 三郎は幼少の頃は上野下谷の柳川藩の上屋敷に「立花鑑寛」(あきとも)といっしょに暮していたのではないかと推測される

 

天風先生は講演の中でしばしば 「こういう家(大名の家)に生まれたとわかったのは ものごころついた三つか四つの時だった」と語っている つまり立花鑑寛といっしょに大きな大名屋敷に住んでいたが 嫡出ではなく庶子(正妻から生れていない今でいう私生児)だったので 御所院番を務めていた藩士の祐興のところに養子としてもらわれていったのではなかろうか

 

 

 

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≪Tenboss mori≫≪頭山満翁についてその歴史≫≪中村天風≫

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本名は筒井 乙次郎。1855年に福岡に生まれ母方の頭山家を継ぎ、太宰府天満宮に参拝したときに 「天満宮」の「満」の一字を頂きトウヤマ ミツルと名乗ることにしたらし
世間では「右翼の頭山満」と認識されていr人が多いのですが 「右翼とは「伝統を重んじ 現状を維持しようとする「保守派」の人々
「左翼」とは「新しい価値を提唱して啓蒙し 「革新派」の人々
さて その歴史ですが「頭山」は「西郷隆盛」を終生敬愛し、西南戦争に参加して共に戦えなかった また戦争中は萩の乱に連座して投獄中でもあったから 西南戦争後は西郷の後継と目されていた板垣退助とともに自由民権運動に身を投じます
そして この自由民権運動の流れの中から立ち上げた「玄洋社」 大アジア主義を掲げ 亡くなるまで、国内外の革命家、亡命者を庇護していくのです
庇護し匿った亡命者のうちの第一級の人物と言えば、「孫文」でしょう 「孫文」は彼のことを最後まで尊敬し、孫文の死の直前まで遠く離れた頭山満に思いを馳せていたそうです
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もう一人、頭山の下に亡命し身を寄せたインド革命の闘士「ビハリ・ボース」です ボースは日本に亡命したあと、頭山の斡旋で新宿の商店「中村屋」のアトリエに匿われるのですが 頭山の自家用で案内をしたのが「中村天風です
匿われている間に これぞ本もののカレーぞと「ボース」が伝えたのが「新宿中村屋カリー」なのです・・・個々の詳細は「中村屋のホームページに書かれてあります
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昭和16年に日中戦争が長期化、泥沼化していく過程の中で日本は中国との和平工作を試みる 日本政府とはレールは違え 孫文との縁から、「頭山満が上海まで来るなら会っても良い」という「蒋介石」の意向を引き出したのですが
この「和平工作」が実現していればどうなっていたでしょう

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≪ダビンチコード≫≪フィボナッチの数列≫≪Tenboss mori≫

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「フィボナッチ数列」とは、 イタリアの数学者であるフィボナッチ(1170 - 1259年)が名付けた数列で、「1、1、2、3、5、8、13、21、34、55、89、144、233…」のように、前の数字を足した数が続く法則のことです。

 

映画「ダビンチ・コード」・・・で書き込みをした2011年「数学ブーム」での 新しい書き込み⇒≪フェルマーの最終定理≫≪数学ブーム≫≪クローズアップ現代≫ その書き込みをした”フィボナッチの数列【黄金比率】が前半部分の重要なキーワードになっていたのには驚いた!

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レオナルドダビンチの画を解析していくうちにフィボナッチの法則【黄金比】が字幕に出てきて、ダビンチの人体は完全という
ウィトゥルウィウス的人体図」通りに殺人事件現場(ヒロインの叔父)から手に入れたスイス銀行の貸金庫のキー!この銀行のセキュリティから一度たりともパスワード(暗証番号)を間違えると永久に開けられなくなるという、それも10桁の数列!

 

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緊迫したなかで主人公は、ある数列の数字を入れていく!それがフィボナッチの数だったく「1・1・2・3・5・8・13・21」と果たして・・・・・この数列は自然界に多く見られるもので、ダビンチは黄金比だとかフィボナッチだとか知らずして適用して画に生かしていたのですね!

”植物の葉の付き方”はフィボナッチ数と関連している”蜜蜂の家系”を辿っていくとフィボナッチ数列が現れる。 この数列を考え出した人のファーストネームが、なんとですねレオナルドというのも何か因縁めいたものでも感じられませんか?レオナルド・フィボナッチと云う数学者【元々は商人】なんです

 

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ところで、レオナルド・ダビンチは女性の肖像画にも多くこの黄金比率【フィボナッチの数列】を取り入れているのですね!”無論モナリザの微笑み”もそうですよね。

私たちをひきつける美しいものには、ある決まった定理や比率が隠されているようです。このようなことを頭の片隅に置いて芸術作品は勿論!様々なものを見ると、また新しい目線で美しい世界を発見できるかもしれませんね。

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「…人間の体は、それを構成している一つ一つの細胞が正常なバランスを取っていれば病気にならない。また、細胞を正常に働けるようにしてやれば、病気は治る。 細胞に栄養を与えることが、これからの新しい医学である。」

「…病気を治す根本は薬ではなく、体の持っている本来の修復能力である。それに最も大切なものは、食べ物に含まれる栄養素である…」

 

 

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