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≪情報や本舗≫≪生い立ちから帰霊まで≫≪哲人ー中村天風の年譜≫

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Photo≪1876年(明治9)≫
・7月30日、東京豊島区王子村(現在北区王子)、父、祐興(すけおき)、母、テウの三男として王子の官舎で生まれる。
・祖父は初代九州柳河藩主で伯爵立花鑑徳(あきのり)、祐興は第二夫人の子として生まれ、会津中村の相馬の跡を継いで中村となる。
・祐興は柳河藩士、性は剛毅。若くして長崎に遊学、開明派で、英字新聞に通じていて1964年ジョセフ・彦による日本最初の「海外新聞」を、2年に渡り定期購読した二人うちの一人。もう一人は福沢諭吉。

・維新後は大津県(滋賀)の判事をふりだしに大蔵省に転じ、渋沢栄一に高く評価されて抄紙部長に就任し、工場長として紙幣紙の改良に努め「中村紙」という紙幣を開発したほか、日本出初めての官営「富岡製糸工場」(明治5年創業)の建設に事務主任として関与。明治42年10月、三郎の海外放浪の安否を思いながらも福岡にて永眠。後の大正14年に施主、天風により熊本県大牟田の慧日寺に墓を建立。(「志るべ」、平成2年1月号)

・母テウは1858年、神田の生まれる。性は気丈、顔立ちも言葉も、さわやかな明朗快活な大柄な女性であったという。伯爵前田正名の義姉として中村家に入籍。後に「長子」と名のる。
幼き天風に「男らしく、卑怯なことはするな。負けるな」と繰り返し諭す。

・中村三郎、号「天風」は、幼名「三午(さんご)」、午(うま)の月、午の日、午の刻に、産まれたことに由来する。号「天風」は、柳河藩に伝わる「随変流抜刀法」のなかで、天風が最も得意技とした「あまつかぜ」から由来し、後に頭山満翁から贈られて号である。
・生まれ出た時にすでに前歯が2本生えるおり、両親が心配して高嶋易に鑑定してもらったところ「これは油断すると石川五右衛門以上の悪人になるかもしれぬ」と言われる。
・幼児期に王子の官舎内で大蔵省の紙幣寮に住んでいたお雇い外国人、英国の印刷技術師の夫婦に可愛がられ、寮に遊びに行きながら日常の中で英会話を身につける。ここでの英語力が生涯の助けとなる。
・父と一緒に講談を聞いた帰りに、父から「世が世なら、ふたたび大名の世がきて、やがてそちも大名になる」と言われる。

Photo≪1881年(明治14年)5歳≫
・父が開発した中村紙幣で五円札が発行される。当時の父は資材開発のため全国各地を飛び回っていて家を留守にしたためにほとんどが母の手で育つ。

Photo≪1882年(明治15年)6歳≫
・武術を習い始め御徒町にある今泉八郎の道場に通い剣と儒学の手ほどきを受ける。
・日本刀の扱い方を仕込まれる。初めの3年は歩き型と身体の変化につけての足の運び方。次の2年が木刀の素振りと木綿糸に軽い重みを垂らして直前で止める鍛錬で、「武術の本来の目的は心を練る事」「心を明瞭に」と教え込まれる。
・小学時代に皇后陛下より神童賞なる栄光を賜る。
・この頃から父への反抗が芽生え、しだいに腕白となり、小学4、5年になると手のつけられない暴れん坊になってゆく。「自分は一種の変質的な男であった。喧嘩をすれば相手を必ず完膚なきまで叩きのめさずにはおかなかった」と懐述。

Photo≪1889年(明治22年)13歳≫
・東京文京区の湯島小学校卒業。
・熊沢蕃山翁の故事「憂き事のなおこの上に積もれ化し、限りある身の力、試さん」に発奮し、少年の胸にこのまま大名の子 としての環境で育つと、己が駄目になってしまうと考え、この頃から家を出ることを決心する。家を出るためにも手に負えない暴れ三昧の時を過ごす。織田信長の少年時代さながらであったという。
・9月、福岡の名門中学「修猶館」に入学。修猶館の教育方針は教科書に英語を用い、構内で「日本語を使用してはならぬ」というもので、Mr.Nakamuraと呼ばれる。
 英語は幼少から英国人に習い得意とし成績も優秀であった。大先輩に山座園次郎外務大臣、二年後輩に広田弘毅元首相がいる。

Photo≪1890年(明治24年)15歳≫
・華族の子弟として従五位を授かるが、家柄だけの薫陶に反発を覚える。
・悪ガキで両親の手に負えないことから、親族で農商政務次官をしていた前田正名男爵の紹介で、頭山満翁の玄洋社に預けられる。機敏で気性が激しいかったため「玄洋社の彪」と渾名され、養父頭山満翁から「彪」「彪」と呼ばれ、我が子の様に可愛がられる(当時頭山翁は35歳、昭和19年91歳没)。
 
※ (幼児期から少年期は「成功の実現」252ページから)


Photo≪1892年(明治25年)16歳≫
・3月24日、「第24連隊旗投石事件」で、自ら犯人を買って出て連隊長と激しく口論。営倉に2晩収監となる。
・秋、玄洋社付属の明道館道場の主将として他流試合で熊本に遠征に行き、負けた先方の恨みから殺傷事件の殴り合いとなり、警察に20日間拘留となるが正当防衛として無罪放免となる。しかし修猶館は退学となり、以後26歳までは浪人生活を送る。
・頭山翁の配慮で陸軍中佐で軍事探偵の河野金吉中佐のカバン持ちとして日清開戦前に主戦場となった、満州遼東半島の金州城、九連城の探索のお伴をする。

Photo≪1893年(明治24年)17歳≫
・河野中佐の手となり足となり精力的に探索行動。この約1年間に中国語をおぼえる。

Photo≪1894年(明治27年)18歳≫
・学習院に入学するが、教師に反攻してすぐに退学。机を並べていた岩崎久弥氏と親交をもつ。
・退学後に順天求合社で学ぶ。

Photo≪1898年(明治31年)22歳≫
・この頃に玄洋社で頭山翁を通じて孫文とも会う。

Photo≪1900年(明治34年)24歳≫
・夏、陸軍参謀本部情報官員歩兵大尉として採用され、厳しいスパイ特殊訓練を1年間受ける。
・3000人の募集から200人を選抜し、訓練を受けて113人が合格。

Photo≪1902年(明治35年)26歳≫
・満州に立つ直前にヨシ子(19歳)と結婚。ヨシ子(1884年−1962年)福岡久留米出身。
・母は「男は、男と生まれたら、男らしく生きて、男らしく死ぬのよ。それだけはいつまでも忘れずに」と送り出す。   
・12月9日、呼称番号103号、藤村義雄と変名して日本を下関から出国し上海、北京、天津を経て満州に潜入する。
・唖の苦力(クーリ)になりすまし、日露開戦前の情報収集と後方錯乱の謀謀略工作に奔走。満州生まれ、満州育ちの満州人さながらの容貌の橋爪亘氏と近藤信隆氏と組んで探索工作。

Photo≪1903年(明治36年)27歳≫
・しばらく北京と天津で任務。それから満州へ向かい、ハルピン西方400キロ宋屯近くの馬賊の頭目の所に数日滞留。

Photo≪1904年(明治37年)28歳≫
・2月4日、ロシアと国交断行。11日に日露戦争勃発。
 ロシアの後方基地であったハルピンにおいて破壊活動でめざましい活躍をする。
・シベリア第2兵団軍司令部に進入。
・大豆商人に変装し探索中に馬賊の頭目であった「ハルピンのお春」に遭遇し、2、3日を過ごす。後に「私は世界の三分の二を回ってきたが、美人だと思ったのは、ハルピンのお春とサラ・ベルナールの2人だけだ」と懐述。
・天風の遊び相手にと馬賊に拉致された少女を助け、馬車に乗せてお春の村を後にして少女の家の近くまで送り帰す。
・3月27日、コサック兵に捕らわれて翌朝に死刑宣告を受ける。「ロシア帝国皇帝ニコライ二世の名において銃殺刑に処する」。
 銃殺刑寸前に部下であった橋爪と1ヶ月ほど前に命を助けた16歳の少女「玉齢」の特攻救出の手榴弾で杭ごと吹き飛ばされて九死に一生を得る。しかし、玉齢はその場で戦死し天風は以後この日を、己の第二の誕生日と称するとともに玉齢を偲ぶ日とされた。
・4月、後方撹乱で東清鉄道爆破(旅順ーハルピンー満州里の1500キロ)。さらに二カ所の鉄道爆破。
・松花江の鉄橋破壊。
・ロジア軍に処刑された横川省三大佐、沖禎介大尉の遺骨を奪還。
・馬賊6人と切り合いしている時に、ピストル一発、左わき腹から背中へ抜ける銃弾を受ける。
・5月、南満州に移動し日本に一時帰国。
・ロシアの極東司令部作戦室の会議テーブルの下に忍びこんで盗聴し、追い詰められて高い煙突の上に登り夜中に煙突の中を伝わり降りて危機一髪で脱出する。
・秋、河北省承徳宮の高い楼門からロシア騎兵の動きを偵察中に狙撃にあい、即座にそれをかわし楼門の内側に飛び降りた弾みに背骨を強打し3日間昏睡状態で数十日の重傷を負う。それ以来、その時の後遺症でたびたび強度のめまいに襲われることになる。
・牡丹江では狼の群れに襲われ椎の木の上で3日3晩を過ごし命ながらう。部下は耐えきれずに3日めの夕方に木から飛び降りて狼の餌食となる。

Photo≪1905年(明治38年)29歳≫
・4月16日、ひとり娘の鶴子誕生。
・9月5日、日露戦争終戦。
・銃殺刑時の爆風や度重なる破壊工作二より、両眼に重度の視力障害を受けて右目は全く見えず、左目はわずか0.1に近く、耳は中耳炎と難聴になり、またハルピンの松花江の鉄橋爆破の爆風で下顎の歯を痛めてしまい、昭和23年にはすでに無歯顎で総入れ歯となる。まさに満身創痍となる。

Photo≪1906年(明治39年)30歳≫
・2月11日、日露戦争終結により任務解除。
・早春、死刑場跡の五站村に立ち戻り、奇跡の生還地に自ら彫り上げた地蔵尊を安置し「玉齢」の霊に追悼。
・満州奥地に3年9ヶ月、情報工作の生活を足掛け5年間。生死の境を約60回余潜っての奇跡の生還。選抜された113名の軍事探偵の内で大連に集結したのは6人、遅れて帰還が3人の9名。
・陸軍から朝鮮総督府の高等通訳官を拝命。その3ヶ月後に大喀血。
・6月、3年4ヶ月ぶりに東京本郷森川町の母の居る自宅に帰る。

Photo≪1907年(明治40年)31歳≫
・帰還後に根津嘉一郎氏に請われて、同氏が会長を勤める大日本製粉(後に日清製粉と合弁)の重役として経営にたずさわる。
・ギャロップ性の速度の速い悪性の奔馬性肺結核と診断され死に直面する。
 当時、結核に関する最高権威者の北里柴三郎博士の治療を受けるも好転する事無く、余命数年と言い渡される。右肺に二つの穴が開いて片肺となり、喀血は38回にも及んだ。
・死に直面し突然恐怖におびえ、惨めなか弱き心になってしまい、どうにかしてかつての自分らしく、死をも恐れぬあのたくましい強い心を取り戻してから死のうと決意して、精神訪歴を始める。
・国内の宗教権威者,キリスト教の第一人者、海老名弾正、禅の中原鄧州、新井石善、永平寺管長の森田禅師を訪ねても、「馬鹿者」と喝を入れられるも、また、医学、哲学、心理学の大家を訪ね歩き、著書を読みあさるも、強い心を取り戻すべき回答を得ることがなかった。
・足掛け8年にわたる病のため体重は17貫(64キロ)から10貫目(38キロ)にやせ細る。そのため1日の栄養摂取3500カロリーを心がけ、肉を30匁(110グロム)、牛乳6合、卵を6個、注射6本の療養生活を行う。これがインドへ行く事で菜食となり、1日1500カロリーほどになるが、体重は19キロ取り戻す。

Photo≪1908年(明治41年)32歳≫
・学友だった岩崎久弥氏が持ってきた一冊の著書、オリソン・スゥエッド・マーデンの「How to get what you want」に、大きな感銘を受けて「座して死を待つより、心の強さを取り戻したい」と、救いの道を求めて渡米を決心。渡航費は九州富豪の叔母から協助による。
・肺結核が小康を保ちアメリカへの渡航準備。

Photo≪1909年(明治42年)33歳≫
・5月11日、結核患者には出国許可が出ないため密航して上海に渡り、身分を孫文の父親の二号の子供「孫逸郎」と偽って(当時100円で戸籍を買う)、中国人としてアメリカの葉巻タバコの工場長のアシスタントとして、上海からインド洋を経て、希望岬から大西洋を横断してアメリカ大陸へ渡る。
・8月、93日間をかけてアメリカ東部ニューヨークに到着し、大学予備時代の友人、吉沢公使を頼る。
・9月、ペンシルバニア州、フェロドフィアにあるモーション・モチーブの健康法に出席するも得るものもなく全くの期待はずれとなる。
・11月、やっとの事で当時アメリカで随一と言われた待望のスゥエッド・マーデンとの面会が叶い訪ねる。この30代の青年哲学者は、自分の著書を何度読んだかを尋ね「10回」と答えると、「百万回読め。真理を知らずして死ぬよりも、一歩でも近づいて死ぬは幸いなり」と言うだけで、全く得るものがなく至極落胆する。

Photo≪1910年(明治43年)34歳≫
・エジソンの神経病を治療した哲学者で「How to live」の著者、カーリントン博士を訪ねても、「人生の真理を求める心が尊い、あ〜尊い、尊い」と言われただけで、体よくあしらわれて、ここでも得るものがなかった。
・渡航費も使い果たし「腹の空いた痩せ犬が、道端をほっつき歩いているようなものだった」。
・病状が一時小康を保ち、孫逸郎の名でニューヨークのコロンビア大学医学部に入学。免疫系と自律神経系統を学ぶ。
・当時のお金で5万円をもって渡米するも、半年で使い終わる。当時の1万円は女中を一人使い銀行の利子で過ごせた時代。お米一升三銭。

Photo≪1911年(明治44年)35歳≫
・コロンビア大学医学部博士課程を卒業。
・生活費と旅費を稼ぐために、吉沢公使(後に大使)の紹介で、広東省の華僑、李宗順(後に香港で開業)の通訳と授業の代行して、コロンビア大学で耳鼻咽喉科の卒業資格を得るアルバイトを8ヶ月ほどして、8千ドルとさらに8千ドル謝礼をもらい、ヨーロッパ旅行の旅費にあてる。
・日本商社の人に英国に行くことを勧められ、その紹介で途中に大西洋の嵐に遭いながらも英国にわたる。体重は50キロと痩せ衰えてトランクも持ち上がらぬ状態でやっとのことロンドンにたどり着く。
・ロンドンでアデント・ブリュース博士の講座「神経系統と精神活動」を2週間受講する。受講最終日に治る秘訣を教えるとのことだったが、「健康な体でなければ心は強くなれない」、「病いを治す秘訣は病いを忘れること」( Foget it! This is only this.)というだけで、「忘れ方を教えずに、どのように忘れられるか」と質問しても、アジアの後進民族に私の高尚な哲学など解らぬと軽蔑されるだけで、ここでもまた得るものがなく、その後はドバー海峡を渡りベルギーにそしてフランスに行く。
・ロンドンの日本クラブで新聞を読んでいる時に知り合った、医師である木村総三氏の紹介され、19世紀フランス演劇で最も有名な舞台女優サラ・ベルナール(ユダヤ人、1844−1923)を訪ね6ヶ月お世話になる。
 彼女は当時68歳でしたが、娘のように若く24〜25歳くらいにしか見えないことに驚く。若さの秘密は「日に一度赤子の心に戻る事」(65歳の時「ジャンウ・ダルクの裁判」の劇中で、裁判官に歳を尋ねられた時に、おもむろに観客の方に目をやって「19歳です」と答える場面で、観客席から一斉に大きな歓声が拍手喝采が湧き上がった)。
「女優に歳は無い」と、娘のように若く、天風が巡り逢った中で、サラ・ベルナールとハルピンのお春の二人を絶世の美人と讃え、こんな聡明な女性と会ったのはこれまでに一人だけと懐述。ルイ二世の宮殿であったベルナールの家に360数名の女優が寄宿し食事の時に女優たちが実に楽しそうに笑いながら食べるのに驚き、後にこれが天風会で食事の時に三回「笑え」の発想につながって行く。(杉山彦一講義「真実への希求」)
・心理学者でもあったベルナールの紹介で、リオン大学のリンドラ心理学博士に会い「鏡による暗示法」の指導を受ける。
・5月1日、ベルナールの紹介でドイツに赴き、当時世界で最高の権威であったベルリン大学で「生気論」の教鞭をとっていた哲学者ハンス・ドリュース博士を訪ねる。小柄で歳をました博士は天風の質問に目を閉じたまま耳を傾けた後、おもむろに「君の希求しているものは世界古来からの謎であり、心というものは絶対に人間の自由にならない。それは海の魚を森に求めるに等しい」「求めて探りだせれば自分だけの喜びでなく、人類を幸福にできる喜びとなる。ともに求めて行こう」と断言される。
・こうして2年間の精神遍歴は回答を得られぬままに暗礁に乗り上げて絶望となる。全てを諦めた絶望の時、急に母の顔と日本が懐かしく恋しく浮かんできてもう居ても立ってもいられなくなり、「えいくそ、めんどうくせい、日本まで行けなきゃ、途中で海の中へ飛び込んで死んだって解決つくわ」と、日本へ死に行く帰国を決心する。
・5月25日、「日本に帰ろう。母のもとに帰ろう。そしてわが家で死のう」と、ベルナールの滞在の勧めも断り、小雨そぼふるほの暗いマルセーユの港を、絶望の唾を吐き捨てるように失意と自嘲のうちに離れる。
・ベルナールの従兄が船長を務める3つの客室のあるペナン行きのフランスの貨物船に乗り込み、地中海の海上をゆっくりと南下。天風は客室から出る事も無く絶望のどん底。それこそ活きる屍が船底に寝たままでスエズ運河へ向かう途中でイタリアの軍艦が運河で座礁して不通となり、急遽迂回してエジプトの最大の港、クレオパトラの街として有名なアレキサンドリア港に5日間の臨時寄港となり、そこに錨を下ろしてカイロまで小舟で行く。
・6月8日、ピラミッド観光のため朝2時30分に起床するが、3時に激しい喀血となりホテルで横になる。4時頃にホテルのボーイに起こされ無理やりに抱かれる様にして食堂に連れて行かれ、モロヘーヤ(青葉スープ)を無理して喉に流し込んでいる時、偶然そこに客として居合わせた60歳前後と見受けられる老人(106歳)、カルマ・ヨガの聖者、カリアッパ師 ( Colliyaha、ペプチア人、インド南方)と、運命的な「世紀の出会い」となる。
 「お前はまだ死ぬ運命ではない。私について来なさい」、"You can save yourself.You had better follow me."の言葉に、"Certainly."と応えて従う。
・6月9日、早朝に出発。スエズ運河、紅海、アラビア海を、ヨットで従者2人を含めた4名で、途中名のある港に2、3泊しながら6月下旬にカラチに入港。
・カラチでヨットを降り、10数頭のラクダの曳船に乗り換え、インダス川を6日間かけおおよそ250キロほど北上。さらにラクダの背に乗り、広大なインダスタン平野を越え、遥かヒマラヤの東端カンチェンジュンガの麓にあるヨーガの里ゴーゲ村に向かう。
「私がついているから心配ない」との師の言葉を頼りに95日間の長旅であった。
・当時の病状は毎日、発熱、息切れ、脈切れ、そして7日〜10日に一遍の喀血の状態。
・9月中旬、ゴーケ村(Gorkay)にたどり着く。カースト制度により奴隷(スードラ)の身分として修行に入る。始めの2ヶ月間は心の垢を洗い落とし赤子ような心になるための準備期間となる。こうしてゴーゲ村にて2年7ヶ月の修行が始まる。
・10貫目(37キロ)の体重を養生するために菜食の食事の改善を要求しても、草食の大像の例えをとり相手にされず。しかし改善されなくも6ヶ月後には15貫目(56キロ)に回復してゆく。
・11月7日(満月)、修行の第一歩としてメハム川(Meham)で朝の打坐が始まる。肉体に受ける感覚から心を解放する制感の行。
・12月、朝の打座と昼から山中での瞑想が始まる。6キロの山路を11キロの重い石を背負わせて滝壺のすぐ近くで行き瞑想行。
・フランスでサラ・ベルナールの薦めで読んだ、「イマヌエル・カントの自叙伝」が、瞑想中に「もう一人の自分」が浮かんできて「たとえ身に病いがあっても、心まで悩ますまい」の悟り至り師から悟(ギャバティ)ったことを知らされる。

Photo≪1912年(明治45年)36歳≫
1月、早朝から1日中、華厳の滝の三倍くらい大きな滝壺の大理石の岩の上に打坐して瞑想行がはじまる。
・師からこれまでの呼吸法である、丹田とか、腹式とか、意識を限定した呼吸法をすれば、効果も限定とされるからと修正され、完全呼吸法(プラナヤマ法)を自分で悟れと言われる。
・言葉(マントラ)の大切さ教えられ、不平不満の更正。
「こっちを見れば綺麗な花園なのに、お前は墓場の方ばかり見ている」と心の置きどころを習う。
・夜叉(マナ)について暗示の重要さを教えられる。
・小犬の傷口の自然治癒から、生きる道を悟らされる。
・世界一の幸福者。生かされている事に先ず感謝せよと説く。
・初めての命題「この世になにしに来たのか?」与えられ、「進化と向上」と答える。
・虎、蛇、ツタ、リスの故事を話し、生死の問題を説き死に対する恐怖から解放。
・「聖なる体勢」(Kumvaphacca)クンバハカ習得までの1年7ヶ月間の修行内容は、大井満著「ヨーガに生きる」(春秋社刊)を参考。
・満月を眺めさせてアサナ法と一心集中を教えられる。
・「地の声」の命題に1ヶ月、その後に「天の声」の命題の悟りに4ヶ月かける。
・黒豹に膝をなめられた時に「聖なる体勢」無邪気を悟る。

Photo≪1913年(大正2年)37歳≫
・ヨギの集会場に入る事を初めて許される。10年ぶりに熱帯原始林の奧山からゴーゲ村に帰ったヨギの8日間の臨死から復活という神秘体験の行を見せられた後クンバハカの命題を与えられる。(この神秘体験には30年の修行が必要、カリッパ師も2度この行を通っているとされる)
・満月を眺めさせてアサナ(姿勢)法と一心集中を教えられる。
・修行中に非常に大きな地震があり、師から「アリの穴の中に入るべし」と言われ、アリの穴を探している間に恐怖がやんでしまう。
いざという時に、心を絶対的に虚にして気を平にすれば何も恐るものなしと悟。
・「地の声」の命題と、1ヶ月後に「天の声」の命題の悟りに4ヶ月かける。
・瞑想中に獰猛な黒豹に膝をなめられた時に、何の恐怖もわくことなく、「聖なる体制」、無邪気を悟る。
・3月、2年9ヶ月修行で悟に至りる。師が指導したヨギの中で最速での悟。
・4月、カリアッパ師より「オラビンダー」覚者の聖名をいただき修行を終えてゴーゲ村を離れる。
・カリアッパ師に送られガンジス川を下り、カルカッタを経由して上海へ向かう。上海で密航が時効になるのを待って日本に帰国予定。
・師は片手を天風の肩に置き「もし困ったことでも起これば、私の代わりに『もう一人のお前』が、それを解決してくれる。けして寂しがることはない」と優しく伝える。
・師と別れの際は「哭いたよ、声をあげて哭いたよ」という。 一説にカリアッパ師はカルカッタで天風を送った後、ゴーゲ村に戻ることなく行方知らずという。


Photo≪1914年(大正年)38歳≫
・4月、上海で当時中国大使で玄洋社の先輩であった山座円次郎大使と偶然に再会し、滞在中の頭山翁と会う。
・5月下旬、山座大使の要請で孫文を助けて第二次辛亥革命に最高政務顧問として革命に参加。
 孫文を補佐して南京から北京へ行くのに尽力し紫禁城で約2ヶ月間滞在する。紫禁城では美女に囲まれて王候以上の贅沢三昧の生活を味わう。
・北京の理髪店の二階で、天風が同席した孫文、頭山との会合で時に飴売りの刺客が襲う。
・上海でも頭山翁との席で刺客に襲われて、左中指の先を骨まで切られて、英国の医師が銀の針金を入れて縫い合わせるが、その後は神経が切れたまま曲がらなくなる。(京都支部編「哲人中村天風」)
・7月下旬、袁世凱に対し武装蜂起するが、第二次辛亥革命は挫折。孫文は失脚して8月9日〜16日まで日本へ立ち寄った後アメリカに行き、天風も8月に帰国。革命の軍資金の一部を(今の換算で20億円ほど)を日本に持ち帰る。これを元にして後に銀行を経営。
・8月、帰国時に船上から、おそらく二度と見る事ができるなど夢にも思っていなかった「霊峰の富士山を見た時には、泣けて、泣けて仕方がなかった」と回想している。
・帰国から半年間は中国人として舞子の八角堂で過ごす。お金も孫文らが日本に持ち込んだ軍資金があり、久々の日本を中国人「孫逸郎」として、近くの遊郭にでかけて楽しい時を過ごす。

Photo≪1915年−17年(大正4年−6年)39歳〜41歳≫
・晴れて中村三郎となり先ずは頭山満家に挨拶に行く。頭山夫婦は紋付着物で迎え、上座に座らさせて、翁は「あなたは選ばれた人じゃ。キリストは悟りたいために五か年、釈迦は六年、マホメットが七年、その間どこに行っていたのかわからなかった。それで全く見違えるような立派な人間になってあらわれた。あなたは自分自身をつくりかえて帰ってこられた。これは深い天の思し召しがあると思わなけりゃならん。『天のまさに大任をこの人にくださんとするや、必ずまずその心志を苦しめる』まさにあなたがそのとうり。これからのあなたは、あなたの人生を生きるのではない。人の世のために生きるために、あなたは生まれ変わられた。おわかりになったか」と諭す。
・一時は時事新報社に勤める。
・関西財界の巨頭、平賀敏氏から第百銀行の池田氏を紹介され、彼の推薦で東京実業貯蔵銀行の頭取となる。伊豆電燈株式会社社長、その他にもいくつかの会社を経営して実業界で活躍する。
・花柳界で「なァさん」と呼ばれ芸者遊びに派手にふるまい、本宅以外にも別宅を6軒ほど持ち「金を湯水のように遣う人はいるが、金を播くように遣うのは天風さんくらい」という放蕩三昧。
・しかし潜在意識下で天風統一道の体系化の潜伏期間で、芸者と箱根に行き、小用に立った便所の窓から満月を眺めていて、ふと「これでは行けない」と奮い立ち、芸者を置いたまま戻り修養に入るが、数日するとまた芸者遊びを繰り返したりしている。
 こうしているうちに遊び仲間に話しを始めると、何時しか自然に人々が集まってしまうことや、健康相談がよく持ち込まれてくるようになり、統一道がだんだんに結晶化されてくる。

Photo≪1918年(大正7年)42歳≫
・春、頭山の依頼で茨城県の平炭坑の労働争議を鎮定。
・全国的にひろがった米騒動を先頭にたって解決。
・猛獣使いのイタリアのコーンが頭山を訪ね、頭山翁と天風の顔を見て「この二人は猛獣の檻に入っても、猛獣はなにもしない」と話す。コーンが有楽座でショーをやる際、頭山翁と一緒に招かれた際に、まだ馴らされていない野性の三匹の虎の檻に入ると、天風の回りに二匹がうずくまり一匹がその後で写真を撮影(時事新聞)これはその人の発する「霊的作用の感化」である。
・頭山翁は天風と二人の時に、座席を改め天風に座らせて、「世の為、人の為に、汝は立つべし」と勧められる。それ以降、頭山翁は人前では「中村先生」と呼ぶようになる。
「天っ風のごとくである。天風と名乗れ」とし。以後は天風と名乗り始める。

Photo≪1919年(大正8年)43歳≫
・3月、妻ヨシ子の申し出で、自宅に数人のご夫人を招いて講話の集いを始める。
・6月8日、「日本の精神文化に貢献したい」、「真理にふれたら、人を救わずにはおられない」「教えの原理があればなにもインドに行かなくても人を救えることができる。その救いの原理はなにか。どうすべきか、この " How to do ? " から心身統一法がうまれた」(杉山彦一講義)
・妻に向かい「この仕事に自分の命をかける決意」を述べ、一切の社会的地位と財産を整理して、世ため人のために単身独力で「統一協会」(後に統一医学会と改称)を設立し、妻子2人を含む5人の弟子から始める。
・3ヶ月間、毎日握り飯を持って上野公園の精養軒近くの樹下石上と日比谷公園の大隈重信の銅像の前で大道説法を行い
・9月、検事長向井巌氏、三島弥吉氏に見いだされて、日本工業倶楽部で講演し時の総理大臣原敬と会う。原首相に「この人は大道で説法させておく人でない」と言わしめ、貴族議員に推薦されるがこれを固辞して辻説法を続ける。当時、天風会第三代会長野崎郁子は原敬の秘書。
・11月、向井巌氏の計らいで日本工業倶楽部での講演を境に、会員制となり辻説法をやめる。当時の会員は入会費が高いため、階級の高い官史や皇族を始めとした華族ばかりで庶民は入会できなかった。

Photo≪1921年(大正10年)45歳≫
・3月3日、昭和天皇が皇太子の時に、大正天皇の代理で英国のジョージ五世の戴冠式に参列するために訪英となる。国内がこれに賛成する者と反対する者で右翼および玄洋社の意見が鋭く対立し天風は賛成に立ち、たとえ頭山翁であっても己の信じる姿勢を貫き玄洋社の出入り禁止となる。
・ここ頃から己の健康にも確信を持つ事ができ、健康法に関する講義も始める。

Photo≪1922年(大正11年)46歳≫
・来日したアルバート・アンシュタインと会う。

Photo≪1923年(大正12年)47歳≫
・11月、司法大臣横田千之助氏の依頼で、朝鮮京南鉄道の騒乱事件を治める。これを機縁に朝鮮総監斉藤実氏に知己を得て同会朝鮮支部を創設。

Photo≪1924年(大正13年)48歳≫
・山本英輔海軍大将(当時少佐、海軍学校長)の紹介で、小松公爵(元北白川宮輝久王)が入会、
・12月に小松公爵の推挙により、東久迩、北白川、竹田の三内新王陛下に数回にわたって進講(「研心抄」の「笑いと人生」に収録)。
・昭和天皇、皇后(当時摂生宮殿下)に進講し、「ありのままに われある世とし 生きゆかば 悔いも恐れも なにもなし」と読み贈呈。新渡戸稲造氏列席。
・この頃の受講者にはさらに尾崎顎童法相を始めそうそうたる人物が名を連ねている。
・機関誌「自覚」を発行し、後1941年に紙料補充不可能のため休刊。

Photo≪1925年(大正14年)49歳≫
・2月、京城(ソウル)京城日報社で講演。
・5月、尾崎行雄の別宅で「健康法の真義」講演。小松輝久候伯爵、後藤新平、岡田啓介。浅野総一郎氏らが聴講。
・聖将東郷平八郎元帥、山本英輔海軍大将、昭和天皇の倫理帝王学の師である儒聖杉浦重剛翁、鶴見総持寺石川素童禅師をはじめ、政財界の有力者が次々に入会。
 東郷元帥には日本海船とクンバハカの逸話、また生き仏石川禅師との初対面に木魚にまつわる禅問答の話しが残されている。
・6月、大阪放送局開局記念講演に「病と病気」をラジオで放送。ついで「笑いの哲学」「働きの哲学」「成功の秘訣」等をレコードに吹き込む。
・11月に、自宅を本郷中丸福山町に移転。

Photo≪1926年(大正15/昭和元年)50歳≫
・この頃からテレパシーやインスピレーション等の特殊霊的作用が明確に出来上がる。
・心身統一の根本原則を発見するのに8年を要し、更にその真理を具現化するのに8年を費やし、心身統一法を完成せしめる。

Photo≪1927年(昭和2年)51歳≫
・本部道場が落成。この頃には全てが悟った気になり怠惰な気持が生じた時に、日本ペイントの長谷川直蔵氏が持って来た京都大学の図書館から有名な画家が描いた「十牛図」を見て、初心に還り精進する。この絵を大阪会員の野尻画家に摸写させて「十牛図」を用いて講演する。
・京都の岡崎動物園のライオンが檻から逃げ出し、天風がライオンを檻に戻す騒動がある。

Photo≪1928年(昭和3年)52歳≫
・11月、母、長子(テウ)逝去。


Photo≪1929年(昭和4年)53歳≫
・父の一存で一人娘の鶴子(24歳)が、天風会第二代目の安武貞雄会長に嫁ぐ。

Photo≪1930年(昭和5年)54歳≫
・春、京都桃山御陵を参拝した時に、青年と石段を駆け上り競争しても一人だけ先頭を切って一気に駆け上がる。
・娘の鶴子を嫁がせた後、肺病を心配し女学生の頃からの弟子であった16歳の菅野真瑳子を養女として向かい入れる。

Photo≪1934年(昭和9年)58歳≫
・数人の大学運動部の者と出町柳から鞍馬まで長距離競走するも、他を引き離して先頭になり「踊っていると思って右足と左足をかわるがわる出せばよい」と話す。
・みすぼらしい花売りの学生を見て、お弟子に花を買わせてから、その学生に「花を売ってみんなを楽しませていることで、君自身を敬することになる」と諭す。

Photo≪1936年(昭和11年)60歳≫
・二二六事件で決起将校の持ち物の中に、天風の書かれたものがあり特務か身辺を細かく調査され呼び出されたが不起訴となる。

Photo≪1939年(昭和14年)63歳≫
・5月に「統一歌」ができる。

Photo≪1940年(昭和15年)64歳≫
・1月、「統一医学会」を「天風会」と改称。終戦にいたるまで全国的に活動を展開。

Photo≪1941年(昭和16年)65歳≫
・12月8日、「思いおこせ日米開戦からの4ヶ年間(16年~20年)が、いちばん私の人生の歴史の中で、本当に文字通り苦難の毎日でした」と話す。

Photo≪1941年(昭和17年)66歳≫
・春、札幌講演を3日前にして、東京ガス会社の値上げ事件の調停の疲労か ら声が出なくなり、医師から悪性の癌の疑いがあり即刻手術を言い渡されるも、断固として札幌に向かい今井記念館に集まるた3千人余りの聴衆の熱意に応え て、壇上に上がり血の塊を吐いて血を流しながら講演を行う。それ以後は全治してしまう。


Photo≪1945年(昭和20年)69歳≫
・3月、特別強制疎開により東京本部が取り壊され、茨城県布川町に疎開。
・3月、布川近くでB29が墜落し捕虜となった飛行将校を無事に収容所で過ごせるようにする。
・疎開時は週に一度皇宮警察官の講話だけで後は布川町に起居し、残った時間は近くの鉄橋の坂下まで行き、東京から疎開で引いて来るリヤカーを坂上まで後押の手助けを、誰知ることなくやる。
・8月14日、天皇陛下の「終戦玉音放送盤」を秘匿して、陸海軍の将校の奪回から守る。
・翌15日終戦。

Photo≪1945年(昭和20年)69歳≫
・8月、終戦。
・戦前は政治問題、社会な紛争事件等に関与していたが、戦後は一転してひたすら真理のみを見つめ、人間としてのあるべき姿を説いてゆくことになる。真理の道そのものが全てとして説法三昧を展開してゆくことになる。
・10月、虎の門ビルで戦後初めての講演を再開。以後、焼け跡の各所に会場を求めては毎月講演会を行い、戦後の荒れ果てた精神の更改をすべく立ち向かう。
・戦争には反対を貫き、東条首相にも直言して憎まれ、特務機関から危険人物と睨まれるほどでしたが、戦争が終結すると戦犯の責任問題が渦巻くなかでも、一切批判する事無く、会員に向かっても、日本を批判すること無く黙って国の再建を促す。
・A級戦犯となった広田広毅元首相を巣鴨プリズンに見舞い、東京裁判でも何の弁明もすることなく黙って超然と死して行くことを助言する。

Photo≪1947年(昭和22年)71歳≫
・GHQマイケル・ハーガー中将の要請により、元毎日新聞地下ホールで、GHQの幹部約250人を対象に3日間の講話をする。たまたま来日中で同席していたロックフェラー三世に大きな感動を与え繰り返し、繰り返しアメリカに招かれるが、日本で信念することがあるとしてこれに応ずることがなかった
・4月、「真人生の探究」出版。講演活動を全国的に展開。

Photo≪1948年(昭和23年)72歳≫
・4月、「研心抄」を出版。
・4月、護国寺の月光殿を拝借して毎月講習会を開く。
 戦後になり天風会の会費が安くなり一般にも解放される。

Photo≪1949年(昭和24年)73歳≫
・4月、「練身抄」を出版。
・一般講演ができない戦時期に、天風哲理を体系的に解説した「真人生の探究」、心のあり方を説いた「研心抄」、身体のあり方を説いた「錬身抄」を、「天風三部作」として集大成させる。
・4月、「志るべ」誌、神戸で創刊し、6月から東京本部で発行。

Photo≪1953年、(昭和28年)77歳≫
・夏、「安定打坐考抄」を出版。

Photo≪1955年(昭和30年)79歳≫
・夏期修練会に東京で六百数十人、神戸で六百数十名、大阪で五百数十名と二千余人に近い参加者となり、終戦後10年にして盛況をみる。

Photo≪1956年(昭和31年)80歳≫
・80歳過ぎて長生きの確信を得てから初めて長寿法についての教義を始める。

Photo≪1957年(昭和32年)81歳≫
・7月、「天風誦句集」発行。

Photo≪1958年(昭和33年)82歳≫
・6月、「哲人哲語」出版。1948年〜55年「しるべ」誌の巻頭29編のエッセー。

Photo≪1961年(昭和37年)85歳≫
・2月、61年間連れ添った妻ヨシ子が逝去。享年78歳、護国寺の中村家の墓の左側に妻に贈った銘碑が刻まれている。
「先天一気即霊源 無作意而行自然 人生亦此制濤中 一切還元帰大霊」、この詩は色紙に書いてくださるよう頼まれても、妻に捧げたものとして誰にも書き贈る事はなかった。
・12月、「箴言注釈」(改訂版「叡智のひびき」)発行1957年〜61年「しるべ」誌、31回の箴言。後に日めくりカレンダーとなる。

Photo≪1962年(昭和38年)86歳≫
・公益性が認められ「財団法人 天風会」となる
・「自らを世に売り込むようなことはしたくない。縁ある者だけを、全力を尽くしてお教え説きたい」とし、当初より宗教法人にする考えはなかった。
・7月、「真理践行句集」発行。

Photo≪1965年(昭和41年)90歳≫
・4月19日の教義で、現在只今の時点で心身統一法を論理組織で説いているのは世界でただ一人であると断言(「天風先生座談」、宇野千代著)。

Photo≪1967年(昭和42年)91歳≫
・9月、「誦句集」英語版を発行。
・8月、全国を講演に回りながら会員たちに暗黙のうちにもお別れが始まる。
 西部地区での最後になった修練会に来られた時、会員がマッサージした足がいつもと違い冷たいことに次期に来る死を予感する。
・「新箴言注釈」(改訂版「真理のひびき」)発行。後に日めくりカレンダーになる。

Photo≪1968年(昭和43年)92歳≫
・4月、会員の尽力で護国寺門前に天風会館が落成。
・落成を目の前にして、「心身統一法という天風哲学を自分以上に熱心に実践した人間はいない。また、だからこそ自分以上に人の心に深く伝えられる人間もいない。従って、天風の2代目はいないのだから、これから先は天風会館を、自ら一人ひとりが心身統一法を学ぶ教えの殿堂としていってほしい」。
・落成時の挨拶に会員たちの気持に感謝しながらも「法を説くのに殿堂はいらず」と、辻説法初心の気迫を吐く。
・11月10日、創立50周年記念祝賀会を開催し、天風総裁、安武貞雄を二代目会長に就任。
・遺言ともとれるお言葉に;「天にへいとして輝く日月にかわりはない。俺は月を見よと指差して教えた。全国の会員に伝えよ。指を見ないで月をみよ。俺が指さそうと、安武会長が差そうとも、ささるる真理の月にかわりはない」。
・11月30日、正午に英語の勉強の際、Probably と Perhaps のニュアンスの違いを、安武会長に質問し、その回答に「よしわかった。"Thank you"」と死の直前まで勉学され、この言葉が安武会長と交わした最後の会話となる。
・12月1日、「今から寝るからじっとみておれ」と、午前1時55分に帰霊。
・両足をさすられながら、誠に静かな大往生だった。清らな美しい眼出で、黒目はあくまでも黒く白眼はあくまでも白く、濁りも充血もなく幼児の目のようであったという。
「俺が仮にこれから十年、二十年と生きてみたところで、過ぎたその時になってみれば、今と同じことだと思う。人間の寿命は望んだからといって得られるものでもない。俺は俺の教えを一生懸命に教えてきた。俺もその教え通りに怠らずやってきた。そして今度の病になってから、人の心の強さが人生にとっていかに大切であるかを、一層よく知った。今は俺の教えが正しく世の中に伝えられることを望んでいる」。
・直接薫陶を受けた者は、全国で10万人を数える。皇族をはじめ、大臣、実業家、学者、軍人、人間国宝や文化勲章者、落語家、俳優、相撲、金メダリスト、スポーツ選手、小説家、サラリーマン、市井の人々に及ぶ。
・12月7日、12時30分より天風会館にて、財団法人天風会葬、告別式。
・葬儀委員長に重宗雄三参議院議長、友人代表に笹川良一氏、一万三千本の白菊の生花で富岳をピラミッド型に造られ、祭壇の中央に「天風哲人」記され額とに遺影が置かれた。その前で粛然献花する会員、惜別無限の情はまことに胸せまる情景であった。
・真理を説いて五十年、人の幸福と 世の平和を願った哲人 ここに静かに帰霊なされた。    ※ 「志るべ」誌、哲人追悼特別号―記載大井満)

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