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≪名医・医聖「華佗」≫≪曹操・関羽の主治医≫≪情報や本舗≫

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彼は生前“青嚢(せいのう)の書”として遺して医術秘伝の書は、譲り受けた人の妻が持っているのは危険と判断し焼却してしまい、為に遂に華陀の“青嚢(せいのう)の書”は世に伝わらずに了ったものだと言うことである。その後直ぐ、曹操は66年の生涯を忽然と終えたのです。

もしは無いとは言え、残っていれば今の西洋医学も東洋医学も代替医療も違った形で健康増進を手に入れることが可能だったかも?】

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現代まで語られる伝説的名医。薬学・鍼灸を得意

 

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❶  陳登を診察し、胃の寄生虫を発見、2升の内服薬を投与して虫を吐かせて治癒したうえ、3年後の再発までも予言した。予言は的中したが、その時華佗はすでに他界していたため、陳登は死亡した。 李通の妻が重体になり原因すらわからなかったが、華佗が診察すると流産した胎児が残っているためと判明。

 

このとき、李通は「胎児はもう降りた」と言ったが、華佗は胎児は双子で、一人が残っていることを見抜いた。県の役人の尹正という人が、発熱、口の渇き、苛立ち、小便の不通などを訴えたときは、「熱いものを食べ、汗が出れば平癒するが、出なければ3日で泣きながら絶命する」と診断した。

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❷ 尹正は熱いものを食べたが汗は出ず、診断通りの有様で死亡した。軍の役人の李成という人が血膿を吐いたときは、腸炎と診断し、さらに18年後に軽い再発があるからと、その分も合わせて粉薬を処方した。しかし李成は5~6年後に同じ症状になった親戚にその予備の薬をあげてしまった。親類は治癒すると華佗に代わりの薬をもらいに行ったが、その時華佗が曹操に捕縛されていたため薬は手に入らなかった。李成は華佗の診断を受けてまさに18年後に再発し、死んでしまった。

❸ 劉勲の娘が7~8年にもわたり痒みを伴う腫れ物に悩まされていたが、華佗が診断すると「これは簡単に治る」と言った。華佗は赤犬を連れてきて縄をその首に巻き、馬に引っ張らせた。馬が疲れるまで引っ張り、その後は人にも引っ張らせた。華佗はその赤犬の腹を割き、娘の患部に近づけた。すると患部からうろこを持った三尺ほどの蛇のような生き物が出てきた。その後、娘は一週間ほどで治ったと言う。

 

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❹ 曹操に投獄・処刑される。三国志演義では曹操の頭痛をなおすため頭の外科手術を薦めた事が不信をかって殺される。その後、魏王曹操の頭痛がひどくなった時も天下の名医として呼ばれ、治療法について「無いこともありません。けれども非常に難しい手術を要します。御持病の病根は脳袋の内にあるので薬を召服がっても、所詮病には何の効も無いのです。

 

ただ一つの方法は、麻肺湯(まはいとう)を飲んで、仮死せるが如く昏々と意識も知覚も無くしておいてから、脳袋を解剖き、風涎(ふうぜん)の病根を切り除くことで御座ります。さすれば十中の八,九は、根治するやも知れません」と見立てるのです。曹操は不当の見立てをしたと華陀を投獄し殺戮してしまいました。


❺神業

曹操に殺される
頭痛もちの曹操は、それら華佗の評判を聞きつけ自らの典医とした。当時、医者を含め、政治・儒学・文学以外に携わる者は社会的に地位が低く、華佗は日ごろからこれを残念に思っていた。そして曹操の下でも自分に高い身分が与えられず医者としてしか見られないと、ついに「医書を取りにゆく」といって故郷に帰ると、籠もって戻ってこなかった。

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曹操は怒って華佗を投獄、拷問して、荀彧の命乞いも聴かず殺害した。曹操には溺愛していた曹沖という息子がいたが、曹沖は華佗の死を悼んで心痛のあまり13歳という若さで夭折したという。曹操はそれに加え、これで自らの頭痛を治療できる者がいなくなったので、華佗を殺害したことをたいそう後悔した。

            

麻沸散(まふつさん)という麻酔薬を開発し、世界で始めて麻酔による外科手術を行った人物とされる。華佗(かだ、華陀

 

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🔲「紫蘇」その名前の由来をご存知でしょうか?

後漢の末のある日、洛陽(らくよう)で、ある若者がカニを食べて食中毒を起こし、道端に倒れていたんだそうです。

 そこをたまたま、三国志でも有名な医者である華佗(かだ)が通りかかり、薬草を取り出しました。
その薬草を煎じて、紫色をした飲み薬を作ったんだそうです。
若者はたちどころに元気になり、以後、この話は巷に瞬く間に広がり、若者が飲んだ薬に使った薬草の事を「紫色」をした、たちまち元気に「蘇る」薬だという事で、「紫蘇」と呼ばれるようになったという事です。

 

■曹操に侍医として使えるも、曹操の元から去ったのを咎められr、

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