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≪天風翁の出自の不可思議をひも解く【高祖父編】≫❸≪情報や本舗≫

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「中村天風の養父「中村祐興」の足跡(経歴)」⇒ 郷土史家の「田中節」氏という方が言うには 先祖の「宝珠山」氏の女子「文子」が あの第11代「鑑備(あきのぶ)」を生んでいる

 

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「猷子姫」を1827年に生んでいる 既に書き於いたように 「千代子」は実家に御子(男子)がいないことを理由に また第9代「鑑賢(あきかた)」の側室「文子」には「鑑賢」公の二人の男子が嗣子となると決まっていたし 「千代子」が実家に戻ったときには第9代「鑑賢」公のお子を身ごもっていた そこで実家の中村を継がせたいと・・・・   

正室に男子の嗣子が恵まれず側室「文子」のお子が⇒「鑑広」1823年生 「鑑備」1827年生と生まれたゆえ継嗣となった さすれば他の側室が先に男子を授かっていれば・・・例えですよ「千代子」といえども可能性は秘めていたはず「祐興」1829年生だから 徳川家康が決めた長子の家督相続は外様大名といえども破るはご法度だったから

 

どうあれ 「千代子」は実家中村で二男四女を生んだことになっている そしてその長男の「祐興」は7歳から17歳になるまで異父姉弟(実際は父も母も同じ)の姉「小野勘解由」の正室「猷子姫=宣子」の小野家で育つ「祐興」だけが 藩命で姉「猷子姫」のお側役を承っていたばかりであろうか 裏には藩主「鑑賢」公の配慮が動いたと推察

 

母「千代子」は「祥光院殿の御事」に記載あるようにこれまた「鑑賢」公の特別な配慮での終身扶持を賜っていたにも関わらず御歳39歳にて他界された そして記載のある二男四女の長男「祐興」を除いて他のお子らの消息は一切不明である「祐興」は姉「猷子姫」のお側役をとの藩命をうけ 次に下った藩命が長崎への遊学であった

 

再三登場してくる作家「松原一枝」女史の書かれている 著書のなかに“天風の生い立ちを推理する”という章があって そこに祐興の孫にあたる方 の所持していた嘉永3年から明治31年までの過去帳に残された故人の戒名の写しから拾い挙げた「祐興」と「テウ」の間に生まれた子供らの出生記録からも またまた「おや!」「なぜ?」との記述が出て来て 意外な事が分かってきたのです

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まずは  その過去帳記載から 【長男】光次郎 (慶応3年7月7日生)【次男】豊次郎 ( 明治9年4月8日生 ・・・「おや!」【三男】三郎 の出生が明治9年7月20日ゆえ あり得ない記述が 「なぜ?」十月十日が必要でしょう

【長女】なぜか名も生年月日も記載がない 【次女】ミネ (明治10年5月10日生) 【三女】カメ(明治13年11月1日生)・・・何故かここに登場【三男】三郎 (明治15年7月20日生) 【四女】政(明治16年3月13日生) 【四男】祐吉 (明治17年9月30日生) 【五男】祐雄 (明治19年8月18日生)

 

と書き込みがあるが 多くの書物では“成功の実現”を筆頭に多くの作家の方々も天風翁の生まれを明治9年7月20日(1876)としている  なぜなら明治15年生まれ(除籍謄本と過去帳の戒名写し)とすると 

 

①長男の光次郎を母「テウ」は12歳で生んだことになる 

②「祐興」その子とされている三男「三郎=後の中村天風」の経歴が成り立たなくからです 数例をあげるとするなら修猷館での軍の進軍に向かっての投石事件が僅か9歳か10歳の頃となるし 日清戦争直前に時に「頭山満」翁のところに向野陸軍参謀本部中佐が尋ね来て鞄持ちとして満州視察(実際は軍事探偵として)に行く年齢も11歳か12歳くらいとなる・・・無理でしょう

③明治13年(1880)荒川小学校に金二十円を寄付している 三郎が明治9年生まれなら5歳~6歳 明治15年(1882)となると2歳で小学校に通ったことになる 明治13年 東京本郷の小学校を卒業すると その後中学は九州福岡の屈指の名門校修猷館(現修猷館高校)に入学させられる 

明治16年(1883 )九州の中学校だけの連合柔道試合の遺恨から殺傷事件をおこしてしまう。

④「祐興」が偽札防止のための“中村紙”を完成させたのが明治19年(1886)であるから三郎が明治9年(1876)生まれなら10歳である

⑤「祐興」の出世の糸口ともなった長崎遊学は小野家の多大なる恩恵ありき

 

このように歴史的事実からの検証をすると天風翁にまつわる記述に誤りが多いのですね 何故なのでしょうか 現存する天風翁の録音テープ(講演)の“テープお越し”(注釈:活字にすること)を無条件に“孫引き”したことが一つ 

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もう一つは残っている録音テープが昭和30年から天風の晩年の頃のものしかないのと 聴き取りもテープ録音技術・マイク機器の性能が優れてもいなく(注釈:京都天風会の方が多くのテープお越しを実践されていて いくつか“聴き取れないのでここまで”と補足つきのものもありました・・・別掲しましょう)発音など 果たして正確にとらえていなかったのではと考えられます

 

残されていたテープの中身で 本論に入る前の“まくら”での場所・年月などは書かれ語られてはいるものの そうこだわらずに歴史的史実からはずれることも 出自・生い立ちにこだわらずとも「心身統一法」を創見されただけで良いと いわれる方が大半という事実は理解しうることではありますが  

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出自に関して述べさせて頂けるなら 歴史上の人物として活きて生かされるには 場所・年月等が歴史的史実から外れてしまっては 天風翁の教えと同じく 価値ある大切なことであり 歴史上の人物として生きないのですよ

 

■三郎の父「中村祐興」の足跡(経歴)は歴史上明らかである そこから掘り起こして実証し 「天風」の存在もまた歴史の中に留めおきたいからだ

天風翁の出自について 先ずは親の出自からと「中村祐興」について郷土に残されている資料などから実証 その歴史的事実を紐解いた本を出版されている方がいました お一人は「原田信」さんといって天風会員ではないようですが福岡生まれの九州大学卒 NHK入局の方です ご本人が本を出されたのではなく 2004年に亡くなられた後に ご子息の「原田哲哉」氏が原稿の存在(補足:著者の「信」氏は生誕地の福岡県山川町の教育委員会に原稿を送っていたとのこと)を知り「中村祐興小伝」サブタイトルが“天風を育んだ開花人”という本を出版されたのですね

 

中村祐興が9代目「立花鑑賢」の側室「千代子」との間の子であり中村天風が11代目「立花鑑寛」と侍女「テウ‥後に長子」との間に生まれた中村祐興どうように史実としての認知・認識は薄いものの中村祐興が自筆で書き残した「祥光院殿の御事」に不可思議と思われたことがすっきりと分かった気がしました

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