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≪中村祐興という人とは≫≪出自の不可思議をひも解く【大名の子】≫≪情報や本舗≫

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中村祐興は9代藩主「鑑賢」と側室「千代子」との間に生まれたのは事実であろうからして大名の子である ただし立花家を母の側室「千代子」が実家の中村家に男の子がいないため藩主「鑑賢」に願い出て側室を辞して実家に戻ることが許され 戻る途中で藩主「鑑賢」の「子種を宿していたことが判ったのです

 

「鑑賢」と側室「千代子」との間にはすでに「祐興」の姉にあたる「宣子」という姉がいて(「猷子(ゆうこ)姫」である) 立花家の筆頭家老「小野勘解由」に嫁ぎ裕福な暮らしぶりであった 7歳から17歳まで「祐興」は 姉の嫁ぎ先の小野家で暮らし育っているのだが理由は分からない 後に「祐興「」自身が自筆の姉宛の書き留めて文書が見つかっている 

1_20200702200201  9代藩主【立花鑑賢】

 

その文書から推察出来るかも知れないというのも 藩主「鑑賢」の実子(庶子とはいえ)にかける思い入れが伝わる裏づけとなりうる文書内容にが読み取れるからです

 

≪立花家の筆頭家老「小野勘解由」について≫

小野家として藩主「宗茂」以来300年 武門の家として仕え栄える 立花家の重臣として9代藩主「鑑賢」に仕えし時には4000石の禄高を承り(注釈:当時は1万石の禄高取りで一国一城の大名であった) また石炭の採掘権(後の三池炭鉱)を有し 「鑑賢」の第7息女「猷子姫=宣子」を妻に娶り 「宣子」と同じ母から生まれた弟「祐興」をなぜか7歳~17歳になるまで小野家に於いて面倒を見たようです それまで石炭採掘の台所部門(経理)をみていた「祐興」が17歳のときに長崎に留学した際の一切の費用など捻出したのは姉の「猷子姫=宣子」です・・・この当時の「祐興」の事は後述します 

 

その文書は「祐興」自筆の「祥光院殿の御事」(祥光院とは「鑑賢」の第七息女である「のこと)という一文が大蔵省印刷局の記念館(福岡県)に残っていることが分かったことで

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それも昭和41年になって天風翁の息女「鶴子」の夫「安武貞雄」財団法人天風会会長が天風翁の命によって調査に突然来局して写真と履歴書を借りてコピーしている記録が残っている これらはその後「鶴子」女史の手元にそして天風会館に所蔵

同様に「中村祐卿小伝」という本を書かれている著者「原田信(まこと)」氏もその本の中に写真で公開していますし 平成2年には天風翁と交流のあった近盛氏がジョセフ=ヒコ(彦)記念会の会報誌「浄世夫彦」でも写真版にして全文を公開しています

 


≪注釈「近盛晴彦=ジョセフ彦」は毎日News記者・啼塚山学院教授・ジョセフ=ヒコ(彦)記念会会長で自ら語っている「当初は「祐興」についての知識など全く無かったのに その「祐興」の境遇を辿って行く内に天風翁の存在を知り 天風翁との手紙のやり取りをしたり大阪の天風会であったりしていた」・・・天風の息女で「安武鶴子」夫人はジョセフ=ヒコ(彦)記念会理事でもあった 「ジョセフ彦」氏は日本人でアメリカ市民権を得た帰化第一号のひとである≫

 

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生い立ちについては 大蔵省印刷局の記念館(東京新宿区)に残っていた「祐興」自身の筆による「祥光院殿の御事」という一文は現代文ではないためネットでの拾い集めと独断解釈できるように編集手直ししたものを以下に・・・・

 

≪注釈:祥光院は9代柳川藩主「立花鑑賢(あきかた)の側室「千代子」のことです)


祥光院殿ハ旧柳河藩主従四位下立花鑑賢公(道雪公ヨリ拾代目体慈院殿ノ御事ナリ)第七ノ息女ナリ御名ハ猷子、文政十丁亥年[1827]7月18日ヲ以テ生ル長シテ藩ノ大夫小野勘解由ニ入興明治17年[1884]10月4日卒ス山門郡下内村慧日寺内ニ葬ル。謚シテ祥光院殿天珠浄円大姉ト云フ実ニ我慈母(中村家五代目夘三郎ノ長女 法号宝樹院殿釈尼妙好信女)ノ産ム所ナリ 是レヨリ先キ千代子鑑賢公ノ側室タリ猷子姫生ル コノ後 中村家男子ナキノ故ヲ以テ請フテ家ニ帰ル 公其貞淑ヲ賞シ賜フニ終身扶持ヲ以テセラル 尋ネテ同藩士西田一甫ヲ納レテ焉レニ配ス 二男四女ヲ挙ク 弘化ニ年[1845年]8月16日逝ク 行年39歳 爾後世故多難我家々産頓ニ傾ク 偶々夫人ノ知ル所ト為リ 夫人御合力米ノ内ヨリ特ニ 三人扶持を祐興ニ給セラレ其側役ニ就クコトトハナリヌ 後藩命ヲ奉シ笈ヲ負フテ長崎へ遊学セシ如キ皆夫人斡旋ノ結果ニシテ 祐興ノ今日アル一々夫人ノ賜物ナリ矣  我子孫タルモノ須ラク牢記シテ其鴻恩ヲ忘ルルコト勿レ

 

祥光院殿は旧柳河(川)藩主従四位下「立花鑑賢」公の第七息女で御名は猷子(ゆうこ)(猷子姫=宣子のことである)(「鑑賢」公は「立花道雪」公から数えて10代目にあたる体慈院殿のことである)

 


≪注釈ただし「道雪」は主家-大友家との確執が根強く立花姓を名乗ることはなかったので「宗茂」を初代とすると「鑑賢」は9代目となる≫

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文政十丁亥年7月18日に生まれ 長じて柳河(川)藩の筆頭家老「小野勘解由」のところへ嫁ぐ その後明治17年10月4日に身罷りて山門郡下内村蕊日寺に埋葬される 法号(戒名)は祥光院殿天珠浄円大姉と云う 実に我が慈母(祐興の母)は中村家5代目「卯三郎」の長女であった 法号(戒名)は宝樹院殿釈尼妙好信女と云い産むところである これより先は「千代子」は「鑑賢」公の側室となり「猷子(ゆうこ)姫」を産む 母「千代子」は姫を産んだあと中村家に男子がいないことを理由に家に戻ることを願い出た(暇乞いである)「鑑賢」公からの許しを得て実家中村家に帰った 「鑑賢」公は其の貞淑を賞し終身扶持を以って賜る

 


≪注釈千代子の貞淑をなぜ「鑑賢」公が宿下がりを願いでた側室に終身扶持まで賜るほど誉めたことは不可解ですよね 終身扶持とは主君からの俸禄が一生賜れるということです・・・当時「千代子」に賜った終身扶持がどれほどかは記載が無いのですが その内から「祐興」 に3人扶持を給せられるとあります ですから推して知るべしとしましょう≫

 

柳河(川)藩藩士の「西田一甫」と結婚して二男四女を産んだいる 弘化2年8月16日に身罷る 行年39歳の若さであった 中村家は多難なことが次々と起こり・・・・・・・・産頓に傾く偶偶夫人(姉・猷子姫)の知るところと為り 特別に三人扶持を以って 藩命を受けて実の姉「猷子姫=宣子」の側役に就いてから 藩の大夫・小野家との関係が深まり 将来が開けてきたのだ 長崎へ遊学したのもすべてが全て夫人(姉・猷子姫)の斡旋によるもので 「祐興」の今日あるのは一にも二にも夫人(姉・猷子姫)賜物である 我が子その孫孫に至るまで此の事を牢記(肝に銘じ)して この御恩を努々(ゆめゆめ)忘れてはならない・・・「勿れ」と

 


≪注釈 終身扶持とは主君から一生賜れる俸禄のことで 当時「千代子」に賜った終身扶持がどれほどかは記載が無いのですが その内から「祐興」 に3人扶持を給せられるとあります 当時の一人扶持は今の金額で約7万5000円×3ですね…(大蔵省印刷局百年史 第2巻S47 による)

それに藩士の俸禄が47万5千円が加わると⇒60万円となります≫

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「祥光院殿の御事」を読むことでいろいろな事が解明される 最後の方で記述している小野家の援助で家計も助かり藩命を受けての長崎遊学は「祐興」の出世の糸口となったこと

 

「其ノ貞淑ヲ賞シ賜フニ終身扶持を・・・」とあるが 「祐興」が「鑑賢公」の男子ではあるけれど 実家に後継男子がいないので 中村家の跡取りとしたいゆえ 暇乞いをさせていただき伴侶たる者をさがし中村家存続を願うだけな

ら「鑑賢」公が果たしてこのように誉めるだろうか

 

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多くの側室がいた内で稀なこととは言え “終身扶持”という生涯生計で困ることの無い俸禄を賜ることは異例のことと推察 前述の似た話で家康公の側室「お梶」は生まれた御子とともに家康のもとに戻りたかったのだが 「鑑賢公」の側室「千代子」は中村家のために実家に戻ったのだから中村家において伴侶を求めず「鑑賢公」の庶子といえども一生涯我が子を守っていくという決意に対して貞淑であると誉めたのであろうと思える

 

また もしも男子を生まずして側室だけを辞退し暇ごいを願いでて実家に男子がいないことを理由に誰ぞと結婚をして中村家を存続させたいというだけなら ありきたりのことゆえ「鑑賢」公が賞めるでしょうか

 

そして「鑑賢」公は千代子がこのまま独り身のまま実家で独身を貫くことはないと 立花家の御書院番「西田一甫」と結婚させ「西田」が中村家へ入ったのでしょう 「同藩藩士西田一甫ヲ納レテ・・・」⇒結婚して云々との記述も 二男四女を産んだとだけで 「祐興」が「西田一甫」の息子だとは一言も書いていない 弘化2年8月16日(1845)に行年39歳で「千代子」身罷る

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ここまで「祥光院殿の御事」は「祐興」の自筆の書であることは福岡の瀬高町の町誌を昭和49年に調べたところ 間違いの無いことが分かり この御事に記述の「鑑賢」の側室「千代子」から生まれし「猷子姫=宣子」その伴侶である立花家代々の重鎮家老「小野勘解由」と なんとか読み解くことで 殿様「鑑賢」公の側室「千代子」の労わり・思いやり また「猷子姫=宣子」の実の弟であるから故に 母・「千代子」の実家が多難のことに困窮していることに見かね 中村家の危機を救っている

 

将来が開けてくるようになったのは「御事」に書かれてあるように「祐興」が藩命により「小野勘解由」夫人・猷子の側役になって三人扶持を給わるようになったからでしょう 家長制度からすると「千代子」の伴侶で藩士でもある「中村(旧姓:西田)一甫」こそ藩命が下りるべき本人でしかるべきであろう

 

ここにきて「祐興」が「西田一甫」の長男であるということは「御事」の記載から背景を察しても誤りで 冒頭に書いた「千代子」が暇乞いをして中村家に戻るときに身ごもっていて お腹にいたのが「祐卿」というのが納得できるお話であろうかと推察

 


【補足】なぜなら見る側の視点によって、見えてくる世界が全く違ったものになるからだ。■おおよそ 都合良く書かれるもの さまざまな思惑にて削除あり 改竄あり  捏造ありと 抹殺されるのである 関ヶ原の戦いで言わずと知れた西軍の将「石田三成」といえども その出自さえ定かならず 祐興に至っては諸説少なからず

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