【北野たけし・ビートたけし】

≪モリのいた場所≫≪情報や本舗≫

 

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「モリのいる場所」という映画が封切られている 好きな女優が出演しているから いろいろ検索していたところ 偶然にも むかし大学にもよう行かず遊びほうけていた場所の地図に出くわした私のいた場所である わたくしの名は「モリ」である すなわち「モリのいた場所」なのである

 

地図を見ていると「いた場所」のいろいろなことが頭に浮かんできて 思い出すままにとりとめもなく書き綴ってみた 書き込みしながらそういえばあんな事こんな事と思い出すことが多く その度に書き足していくことにした

 

  • 地図のオレンジ界隈でうろつき歩いた場所 ブルー界隈が家路にうろつきながら帰った場所である・・・いずれにしても「モリのいた場所」なんだ

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高校生活を同じ田舎の学び舎で過ごし、大学進学と決めていた「マコト」と私は、家の家計状況を考えると進学するなら国立大学なのだろうけれど二人とも、そこを目指すには脳の働きが役不足?だった、そこで国を私に変え、私立大学へとなんとか進んだ、大学はちがえ、東京暮らしには先ずは居住区のねぐらの確保が必須!

お互い大学が中央沿線に在りということもあり、何故か新宿の近くに見つけていた。ジャズ好きの二人のこと行くところが決まって東口の歌舞伎町への通り道にある「ビザール」というJAZZ喫茶だった 田舎の町にもJAZZ喫茶はある、それは「志乃」という名の店で高校の先輩でもあった女性オーナーからマコトも私も「ビザール」のことは聞いていたのがきっかけだった、JBLランシングの大型スピーカーを 外にも大音響をうならせてガンガンと店に入らずともJAZZが聞こえてくる、ユニークな店で一人がやっとの目いっぱいの狭く急な階段を下りドアを開けると、更なる大音響が!

 

この頃、田舎では蒸気機関車がいまだ煙を上げて走っていて、客車のように向かい合わせの長めの椅子がテーブルを挟んで6席ほど並ぶジャズ喫茶で、奥に座ろうものなら、トイレに行くときが大変なのである、壁には当時人気のJBJランシングの大型スピーカーが3基スピーカーを最大限に出力、これまでかというまでガンガンと鳴り響かせていた、ジャズを聴くことを一番の店だけに、店の中での話は無理、耳元で話してやっとなのだ

どこの店でも必ず居るのが「ご常連」と称する人!ビザールにも当然のことながら、居ましたねというより狭い店で4人掛けの列車スタイル!ビザールは6人掛け 隣人?居合わせたお隣り同士が また向き合う同士が自然知り合いになる確率が高く、「ビザール」通いで知り合になったのが、リクエストの曲がマイルス・デビス・ビル・エヴァンスと共通なことから、目と目が合い、隣に居合わせた折には耳元で短い会話、気が合いそうなことがわかった、名前もわかった、常連の「ヒデさん」と

 

時折、「マコト」と偶然出っくわす、「マコト」はいつも小脇に難しそうな本を抱え、「ビザール」でも本を読みながら大好きなジョン・コルトレーンの「至上の愛」をリクエストして、耳は心地よく流れるテナーサックスの音に聴き入っていたものだ、偶然が繰り返され、常連の「ヒデさん」が「マコト」の隣に座ったことがあった、「マコト」に紹介したく、人差し指を上に(外に出ようよ!の合図)「ヒデさん」もこの合図が送られたと思ったのかレシートをつかんで指で「OK!」の合図が戻った(簡単な手話だね?まさに以心伝心)

「何か?あったの」とヒデさん、「紹介するね、こちら同郷のマコト!俺どうようによろしく」「五十嵐まことです、よろしくね」「マコト」は午後の必須ゼミに出なくちゃと駅に向かっていった ビザールのビッグサウンドが地下からガンガンと流れてきていた曲は、クリフォードブラウンを偲んでの「I remember cliford」だ、多くのジャズメンが演奏しているが、特にリー・モーガンのレコード盤がお気に入りの一つでよくリクエストもしたものだ、ボーイの「ホウちゃん」の姉さんのようなレジの「レイちゃん」もお気に入りらしく客のリクエストを飛ばしてお気に入りのレコード盤をかけたようだ、彼女の笑顔にはいつも癒されていたよ

 

演奏が終わるのを待って常連の「ヒデさん」とはビザールの前で別れた ビザールにはフロア担当のボーイをしている「ホウちゃん」がいる、明治大学工学部の学生アルバイトで口数は少ないが笑顔でいつも迎えてくれる、その「ホウちゃん」が、非番の時ビザールに連れ立って来たのが「来たの?」いや「北野」だったのだが、名前も素性も何もわからず仕舞いで、分かったことといえば明治大学工学部の同じゼミ仲間でバイト先もジャズ喫茶で同じここが知り合うキッカケでもあった!

 

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≪数年後には秘めた才能を発揮、芸能界に突出し大ブレークをすることとなった!ビートタケシ⇒タケチャンマン⇒テレビ&映画で活躍しだし映画監督デビューしての「北野武」と出世魚のようにめまぐるしい呼び名の七変化、そのタケシもJAZZ喫茶「ヴィレッジヴァンガード」で学生アルバイトに精を出していたのだ≫

 

≪これも北野タケシの後述談であるが、遅番のボーイで、その時ヴィレッジヴァンガードで早番のボーイとして、あの”連続射殺事件”の「永山則夫」が働いていたことには、あとで分かったとはいえビックリ仰天だったさ≫

学生であって、大学生でない【大学が封鎖されているのだから】私にも「マコト」にも眠る寝蔵あったが、タケシは家出同様の「家なき子」状況ゆえ、寝蔵はない そんなこんなで、どういう経緯(いきさつ)で「北野」が「マコト」のところに転がり込んだのか(居候とも言うが)すでにマコトは今は亡く、聞かず仕舞いの分からず仕舞いだが・・いつか「北野」に会うことでもあったら聞いてみよう

 

「北野」は、大学生活に適応できなかったわけでもなかっただろうに、大学2年の時には、家出同然に一人暮らしを始め、新宿界隈で当ての無い日々を送るようになる。フーテンのような、フーテンでないような【この事も後述談として「北野」が語っている】

その日、「マコト」の大好きな「ジョン・コルトレーン」の奏でるサックスにテナーボイスで歌う「ジョニーハートマン」に聴き入っていた、この甘いボイスにすっかりファンになってしまった。曲が終わるまで我慢をしていた生理欲求の催促で、レジの奥のほうにあるトイレにたった私に

 

「マージャンは しないの?」といきなり「ホウちゃん」が通りしなに話しかけてきた。当時、私はジャズに夢中で、通いずくめでもあり彼とは話を交わすようになっていた

 

「やるけど・・・」というと「今日、早番で4時にあがりなので、一緒にやらないかな?」「・・・」「大学で同じゼミの友達と囲むのだけれど、メンツが一人、足りなくて・・・頼まれてくれないかな?」「レートは?」「ハコ5百点だけれど」・・・

 

3回続けてドン引きしても@1.500円の負けだ、当時どこの大学生も打っているレートだ、マコトもわれも仕送り組だ、平均2万8千円から3万円でやり繰りしている金額だから、無茶振りの生活には慣れているので、なんとかなる・・・ちょっとしたバイトもしていたし

 

今日は授業もきっちり出てきたし、他に予定もないことだし「好いよッ!」と引き受けた。「じゃ、あとで・・・」と用を足して席に戻った

しばらくして、入ってきた二人組みと「ホウちゃん」がカウンターの横で何やら話をしていて、直ぐに出て行った。これからマージャンを囲むメンツ二人だなとボーっと思いながら、かかる曲に聞き入っていた

 

スタンダードジャズがレコード盤で回っている内は良いのだが、遅番のボーイさんが、仕事につくころになると決まってにぎやかな不協和音のモダンすぎる曲をリクエストするヒッピー風な輩が一人、二人と増えてくる

「ビザール」ではレジ前の仕切りガラスに今かかっているレコードジャケットを提示して、次にかかるジャケットが横に並んでいる、なんとそこには苦手な「セシルテイラー」のジャケットがかかっている、「ホウちゃん」もよく知っていて、サインを送ってきた。「レイちゃん」と会話にならない言葉をかわし、「ホウちゃん」が「上で待っていて」と

 

ビザールは地下にあって、どでかい音を入り口の外に流している、耳も劈くような音を背中に頭に受けながら階段を上って、「ホウちゃん」が上がってくるのを待った、外には苦手な不協和音の大音響が鳴り響いている

 

「お待たせ~じゃぁ、行こうか」「うん・・」とうなずき、歌舞伎町の入り口手前の「一番乗り」という雀荘に向かっていった。2階の20台ほどのジャン卓のひとつに先ほどの二人が座って話し込んでいた

 

「大学で一緒の北野と こちらはビザールで同じボーイの松田君」「こちらはノリオ・・」お互いお決まり文句の「よろしく」「よろしく」も手短に、サイコロ振って場所決め・・・・

 

稗を打ちながら、個人情報の開示である、そこで初めて口をきいたのが「北野武」だったののだ、その後ビザールで雀荘でと出会う回数が度重なるごとに、呼び方も「おいノリオ!」「おいタケシ!」と そして、いつからか「おいギリ!」と変わった?

 

「タケシ」は正統派の打ち方で、ツービート漫才のあの喋りなど想像できないほど、寡黙に打ち続ける雀士?でしたね、唐突に呼び方が変わったのは何故なのかは、定かではないが、私を「ギリ」と呼ぶことにしたようである。名づけ親は「タケシ」である(笑い)

ひょっとして、この頃、鶴田浩二や高倉健の任侠映画を観に行っていたので、義理人情の世界からの義理⇒ギリとつけたのかなと思ったが。どうやら真っ黒に日焼けして、ギンギンにアブラぎっていたからだと、ずーっと後で別な仲間から聴いた

 

そうそう、これも後でわかったことなのだが、「ホウちゃん」だって「穂積」という苗字からなのだが、「タケシ」だけは「はすぺ」と呼んでいた なぜ「はすぺ?」「はすぺ」って何だろう思わず考えてしまうね、だが「マコト」だけはつけようが無かったのか「まこと」のままだったな・・・このこともいつか聞いてみるか?

 

タケシ軍団のいい加減な名前のつけ方は、この頃からの引っ張りなのかも!どうみても意味不明でいい加減だって!

 

「マコト」も私も、ノンポリで学生運動には関わらなかったが、「北野」は、一時期運動に参加していたようだが、チャランポランに熱心ではなかったようだ!ジャズに傾いたものにとっては新宿の東口の辺りには「Lefty(レフティ)」・「Canty(キャンティー)」や「ビザール」「DUG」「DIG」「ヴィレッジヴァンガード」それに「新宿ACB(アシベ)」・「風月堂」・・・・「北野」といえども同様で、ヴィレッジヴァンガードのバイト明けではゼミ仲間の「ホウちゃん」がいることもあって、ビザールにはよく顔をだしていたようだ

 

 

この頃は、「DUG=ダグ」に行く途中に地球座といって、3本立てのピンク映画を掲げる地下の映画館があって、眠るにも、夏なら涼むにも最適環境で「マコト」とも 私ともよく行ったものだ 「タケシ」が北野武と本名で映画をとるようになったのも(任侠カテゴリーのものも多く掲っていて)寝ながら観ていたから、北野武映画監督になっての撮影映画はここらあたりにあるのかも?

 

≪…「当時、新宿に『地球座』というピンク映画館がありまして、よく2人で観に行ってました。映画と映画の合間に福島県(拳弘二)さんという方のコント(実演ヌードショー)があってそれを見ているうちに 『俺もコメディアンを目指さなきやいけないんだ』 と思い出したように言い始めていました」・・・と南池袋時代の同居人「いがらしマコト」があるネット雑誌にコメントを載せていたよ≫

「マコト」も「ビザール」に現れることからマージャン仲間に引き込まれるハメになった、「マコト」はマージャンが強かった、というより賭け事が、好きこそモノの上手なれで、顔見知りになるのも上手だった?そんなこんなで、雀荘「一番乗り」でバッタリということも何度と無く・・「マコト」はタケシといつの間にかマージャン以外でも親交が深まったようで、マージャン仲間がいうには最近、「二人一緒のときが多いぞ!」と

 

ポケベル・携帯などない時代である、伝言・口約束で落ち会うしかない。その格好の場所が「ビザール」であり何故か「一番乗り」であった。それまでは、新宿東口の広場であったり、渋谷ならハチ公前であったりと、約束の場所がビザール・ビザールの入り口前とうことかになり、誰彼となく会うことで、情報の収集・発信の場所になっていたようだ

ジャズが聴きたくなれば「ビザール」、紀伊国屋裏の、「ダグ」・「ディグ」、旨いコーヒーが飲みたくなれば、「武蔵野茶廊」ぞくっとするような旨い?女が集まる、伊勢丹の派遣店員がよく来ていた、よく見る造花の植え込みの仕切りを挟んだだけの席で そこに旨そうな女が座れば、声をかけなきゃ失礼とばかりに、あれこれと聞いたり話したりで、世間で言うナンパ張りである

 

おしゃべりした後は、腹が減るもの行くのは決まって、「石の家」餃子の旨い店であるおまけに安いのは貧乏学生にはありがたいことだ、店に近づくにつれ、聞こえてくるのは、いくつもの餃子なべで焼いて、蒸す音!中華なべでチャーハン煽る音!2,3人の料理人が、長いカウンターの前で煽っている姿は圧巻である

 

≪当時から45年も経っているので、今も在るのか無いのか?ネット検索してみたところ在るにはあったぞ!場所も当時よりは少し離れて、本格中華の店のようだ≫

 

「ホウちゃん」と「タケシ」が、餃子ライスを頬張っている時に出っくわしたりしようものなら、互いに「半ちゃん!どうだッ・・」チャーハンの半ライスではない テーブルもすべてが私の顔以上にアブラでギトギトの店だったが、客の切れ間がない店だった記憶がいまでも、あの中華なべの煽りの音とともに強烈に今でも耳によみがえる・・・

不思議なことに、示し合わせたように誰か彼かに会うのだ、そこでマコトにばったり行き会おうものなら、いつもの事ながら、お互い懐具合が淋しいなと、マージャン面子も居ないときは、ビザール近くのパチンコ店で稼ごうと・・・

 

このころのパチンコ台は左手に玉を持ち、右手は玉をはじくばねを持つ、玉を1個づつ穴にいれ、はじき出す、入れては弾き、入れては弾く弾く 開ぃ~らけ♪・・開~け♪チュ-リップである

たまに勝つと、タバコ(人気のハイライトだ)に代えてビザールに持って行くと、レジの「レイちゃん」が20%OFFで換金してくれた。この交換比率は交換所の換金よりかなり好いのだから、たらればではあるが勝つと良い小遣い稼ぎではあった

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この頃あたりからだったのかな、「マコト」と「タケシ」がつるみ始めたのは!「ホウちゃん」や「レイちゃん」が「さっき、君の友達と北野くんと二人、一緒に出ていったけど・・・」やはりマージャン仲間が言っていた、二人のときが多いというのは、当たっていたようだ

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私は大学のゼミ仲間から、ちょっとしたバイトを紹介されて稼ぎに行っていた、その仕事は、新宿三幸町の三越の地下(今で言うデパチカである)で特設売り場での「売り子」のバイトである、名古屋名物の”みたらし団子”売りだ、団子を焼いてシズルを売れと言わんばかりに大きな団扇で焼いた団子に漬ける秘伝のタレを撒き散らし、ビザールの音響波に大声を出して、大道芸人だね?高校時代に応援団にいたことがひょんなことで役立つものだ【店主のオヤジがいうとおりウナギを焼いてシズルを売って、団子を焼いてシズルを売る オヤジの言うとおりよく売れたなァ】

 

大学の学生占拠のキャンパスも落ち着きを取り戻し、学校生活にそろそろ戻らないと卒業証書やらが手に出来なくなっては せっせと仕送りを続けてくれている親に合わせる顔がなくなる・・・バイトも昼日中は難しくなってきたようだ、

 

みたらし団子の売り子のバイトに行くには、まだ時間に余裕がありそうなので、大好きなソニー・クラークの「クールストラティン」を聴いてからとリクエストした。この曲を教えてくれたのが、同じ田舎で幼なじみの「ダイスケ」だ、彼は京都の大学に進んだため、行き会うことは少なかったとはいえ、休みで田舎に戻るとジャズ喫茶「志乃」で再会、偶然にもかかった曲がソニー・クラーク!「どうだ?これ好いだろう」と悦に入っている、「好いね!良いね!」と言葉を返した、

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「ダイスケ」はこの頃、京都で一番人気のあるジャズルーム「ビッグビート」に通い、その後ここでバイトをすることに、こと音楽に関しては、古希ならんとする今でもその薀蓄たるや流行言葉で「はんぱねえ~!」のだ

 

「ダイスケ」の「ビッグビート」でのある女性との出会い・つき合い・お連れ帰りの話はいずれ機会があったらの話にする

 

そうそう当時は禁煙もうるさくなく、と言うよりタバコがファッションの一部だったのでは、タバコにはマッチが付き物?とてもお洒落なマッチを提供している店と出会ったときなど嬉しかったですね!「ビッグビート」のマッチは「ダイスケ」が帰省のおり東京に途中下車した際にくれたもので、京都の香りがして?お洒落だったよ、そのマッチで火をつけたタバコの味わいはまた格別だった 

 

私ばかりではなく、ジャズ喫茶の目を引くマッチ集めは、当時のファッションだったのかも。ご他聞にもれず「ビザール」「キャット」「DUG」のマッチは持ちあるくことが新宿ジャズマン・ウーマンのステータス・シンボルであり、現在のように携帯電話などない時代の情報伝達手段の一つだったかも(ビジネスカードとしての役割も兼ね備えていたよ)ナンパの小道具としても

特に「DUG」のマッチデザインはイラストレーターの「和田誠」氏のデザインでね!当時の日本専売公社の一番人気のヒット商品タバコ「ハイライト」のパッケージデザインも「和田氏の作品でそのほか多くのデザインを手がけていた そうそう、私もこだわりのショートピースを缶入【通称ピーカン】と大型マッチを持ち歩いていたね

 

 

話をマコトに戻そう、新宿歌舞伎町の一角にベビグラ(ベビーグランド)というイーズイリスニングなジャズしか流さない、天井の低い窓のない薄暗く初めてだと少し臆する店にマコトはお気に入りらしかったのは、店のマスターが大の競馬ファンで、趣味の共通でも意気投合していたのかも 

そうそう、秋の天皇賞だったかな ミノルという馬が一着で飛び込んできた 単勝で高配当がつき その日ベビグラに居た客全員が無料になったことを後で マコトから聞いた マスターの名前が「実」だったからだそうだ まさに天皇賞で実り潤ったわけである

 

ここの常連で「バブーン」という男との出会いもマコトが風変わりな気風の良い男がベビグラによく来るからと マコトから紹介されたのがきっかけだった

 

彼は、ビザールにも必ず顔を出すので、いつからとなく言葉を交わすように、といってもビザールはJBLランシングの大型スピーカーを最大に出力これまでかというまでの音量だから、長話は出来ない、「学生さんには見えないけれど、何か仕事でも?」と聴いてみた、すると「シフトのバイト、アルバイトさ」と言う、

 

「もっと詳しく聴かせてよ」というと耳元で「お前さん、腹空かないか「石の家」にでも行かないかい?」「アカシア食堂にしない」とビザールを出ることにした、私はこの店の人気のロールキャベツを、バブーンはハンバーグを頬張りながら話を続けた

羽田空港の夜の仕事らしい、日本航空の下請けのAGSという会社での仕事でまじめに励めば良い稼ぎになるよという、大卒の初任給に届きそうな金額である。「紹介してよッ・・」と言うと「いま、空きがないと思うよ。聞いていておくけど・・」学校封鎖が長引きそうだし、「あったら頼むね」とその日はそこで別れた

 

それから、一ヶ月も経ったかな ビザールに入ると、バブーンが来ていて、人さし指を上に向け上下に振っている、どうやら外に出ないか?という合図らしい、先に出て待っているとバブーンが「時間ある?」とそこで頷くと「武蔵野茶廊にするか!」と言いスタスタ歩き始めた

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まさか?バブーンがナンパするはずもなく、茶廊に入るとお互いコーヒーを頼み、「空きが出そうだけど!」一瞬なんのあきなのか?と考えてしまったが、思い出した羽田の深夜のアルバイトの件だ、バイトの一人が事情があって辞めそうだということ、その後釜をやる意思が有や否やのお尋ねであった、「もちろん!」「わかった、はっきりしたらビザールに伝言しておくから連絡を!」とバブーンは仕事に向かっていった

 

「まこと」のねぐらは新宿から歩いて帰れる”十二社(じゅうにそう)池の下”で、その先の”初台”が私の寝泊りの巣だった。居候の「北野」は何度か「マコト」のねぐらに踏み込めない時に「初台」に臨時停車?しに来たことがあった

 

この頃、地方から東京暮らしの学生のねぐら代は月に一万円前後で、大卒の平均給与が2万8千円程度だったか?ねぐらがあるのと、無いのとでは、この住居費の差は大きい!そこでバイトに明け暮れ、より高額な処を求め歩くのだが、そこはビザールで拡がった、「ともだちの輪!」だ、今のアルバイト情報誌を越えているかも 大学の学生占拠のキャンパスも落ち着きを取り戻し、学校生活にそろそろ戻らないと卒業証書やらが手に出来なくなる。

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池の下から「マコト」は、吉祥寺にある池の上のような有名私立大学に通っていたのだが、時折ユニークで、聴いて楽しく、おまけに女子生徒の聴講の多いゼミなどあると誘われたりしてつき合ったものだ。明治大学工学部を休学中の「タケシ」も同様につき合いジャズ好きの二人のこと当時、吉祥寺にも人気のジャズ喫茶があった「ファンキー」という店だ 

「タケシ」も物好きに自分の大学に行かず吉祥寺まで遠征し、そこでジャズに憂かれ、マージャン仲間のいる新宿歌舞伎町へと、時には「マコト」の住むアパートへ、そんなこんなで、家を飛び出していたタケシにとって、ほとんど仙台に行ったきりの「マコト」の兄のいないアパートは都合も都合、好都合!であったのだろう?

 

おまけに、「マコト」は兄のご飯作りと六本木のスナックでのバイトで腕を磨いたか、料理が手早く、味もよく舌鼓をうたせるほどの技量だ。根無し草の「タケシ」が宿にたどり着き、餌にありつけたのだ!もちろん、気が合うことが一番で、そこは全くといって問題なかったのだろう。そうでもなければ、ここから3年・4年も可笑しくも、不思議な関係がつづくはずもない

 

二度、三度、こんなことがあった、徒然なるままに男と男の同居生活が始まったわけらしいのだが、大家(マコト)と一宿一飯の店子(タケシ)の関係だから、どこぞで飲んでいたか遅くに「タケシ」がアパートに戻り、ドアを叩き「マコト~」と呼ぶも中からの返事も無く、ドアにメモ書きも無い、察するに「ハハ~ン?」ということだろう、時に大家が居留守をつかうこともあったようで、そんな時

深夜であったり、明け方であったり、私の居住区(4畳半)に進入してくるのだった

ドンドンドンとドアのたたかれる音

寝ぼけ眼で、「誰ッ?」と声をかける、「俺!」・・・タケシだ

「マコトのところがさ・・・・」ドアを開ける、「泊めてくれッ」「ああ、いいけど・・・」

 

とは云ったものの、所狭い部屋に似つかないセミダブルのベッドを起き上がり、その抜け殻と同時に、なぜか「ふくらみ」が?残っている そんなことには、お構いなしに、押入れから座布団を数枚、取り出し、ベッド脇に敷き詰め、タケシは着のみ着のまま高イビキで寝入ってしまった

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寝込みを襲われたわけで、とり繕う暇もなく気にはなったふくらみは、飲んだアブサン2杯

の酔いと疲れとで心地よいけだるさが一緒になってか?身動きもせず寝入っている

タケシの肩をゆすり「代わるか?」「眠い、寝かしてくれ」照れやで、はにかみやのタケシだからの返事か!

 

雨戸からのわずかの光で、ふくらみとぬくもりは、セミの脱皮あとの抜け殻となっていた

時計のS針は短いのが11と交わりかかっていた。腹時計もなき始めたようで、ちかくの

定食家でニラレバ定食を食べ、「マコト」の所へと

 

ドアを叩いてみたが反応はなし!書置きを残し、二人で新宿に向かう、授業があったため山の手の線のホームへ急ぐ、「タケシ」は東口の方へと、「ギリ!じゃーな・・」と言って、どこへやら姿を消して行った

  

新宿東口の「ビザール」に出向けば、誰彼となく会うので、お仲間情報をゲットできる・・・

ポケベル・携帯などない時代である、口頭約束で落ち会うしかない。その格好の場所が「ビザール」であり何故か雀荘「一番乗り」であった。それまでは、新宿東口の広場であったり、渋谷ならハチ公前であったりと、約束の場所がビザール・ビザールの入り口前とうことかになり、誰彼となく会うことで、情報の収集・発信の場所になっていたようだ

 

ジャズが聴きたくなれば「ビザール」、紀伊国屋裏の、「DUG=ダグ」・「DIG=ディグ」(姉妹店)、電車に乗って吉祥寺の「ファンキー」、美味しいコーヒーが飲みたくなれば、ナンパ輩のよく行く「武蔵野茶廊」伊勢丹の派遣店員がよく来ていたよ

 

腹が減ると行くのは決まって、「石の家」餃子の旨い店である、向かう途中で聞こえてくるのが、いくつもの餃子なべで焼いて、ジュジューと蒸す音!中華なべでチャーハン煽る音!2,3人が長いカウンターで客の目の前で鍋を煽っている姿は圧巻である・・・

 

こんな生活の中でもう一人、「DUG」「キャット」で知りあって親交が深まったのが「桂重高」君だ!私より2才下の将に好青年だった!彼は東京芸術大学でパーカッションを履修して、どういうわけか打楽器科卒なのに管楽器のフルートが得意だった!学生時代からプロとして活躍していた。

彼が良く通っていたのは、代々木の、やはりジャズのお店で「ナル=NARU」!そこでセッションをしていたのだが、その後編曲の仕事が本格化して「木田高介」と名を変えて【お互い、多忙となり会う機会も少なくなったのだが】・・・

 

神田川=かぐや姫=・私は泣いています=リリー=・結婚するって本当ですか=ダカーポ=・出発の歌=上条恒彦これら数々のヒット曲の編曲を手がけた彼ですが・・・1980年5月の不運にも友人と交通事故で逝ってしまった、僅か31才でした!訃報に触れ、遠きにありきだった為又家族構成も知りえず!自宅の連絡先が手帳に残っていて、お母様には電話でお悔やみを申し上げました【詳細はウィッキペディアで】

故「桂重高=木田高介」君が編曲家として活躍始めたころの、1975年国分寺で「ピーターキャット」という名のジャズ喫茶を「村上春樹氏自身が経営していたことは今回の書き込みで検索結果として知り得た事でした!

 

「石の家」はよく通ったよ、「ホーちゃん」と「タケシ」が、餃子ライスを頬張っている時に出っくわし、互いに「半ちゃん!どうだッ・・」チャーハンの半ライスではない

 

≪当時から45年も経っているので、今も在るのか無いのか?ネット検索してみたところ在るにはあったぞ!場所も当時よりは少し離れて、本格中華の店のようだ≫

 

テーブルもすべてがアブラでギトギトの店だったが、客の切れ間がない店だった記憶が強烈に今でも残っている・・・そして、示し合わせたように誰か彼かに会うのだ

 

この頃あたりからかな、「マコト」と「タケシ」がつるみ始めたのは!ホウちゃんやレイちゃんが「さっき、ノリオの友達と北野と二人、一緒に出ていったけど・・・」やはりマージャン仲間が言っていた、二人のときが多いというのは、当たっていたようだ

石の家から伊勢丹に向かう途中、紀伊国屋裏に「DUG=ダグ」がある、ジャズ喫茶というよりジャズルームといったほうが似合う、とてもお洒落なお店でね、ビザールと同じく地下にある店で、下りていくと階段の壁に”マイルス・デビス”のポートレートを中心にかけてあるのだが、流れている曲は、当時ボサノバブームで確かスタンゲッツの曲が多かった

 

「DUG」といえば、いまや毎年ノーベル文学賞にノミネートとされる村上春樹!この頃はまだ「ノルウェイの森」や「海辺のカフカ」などの作品で知られ、日本のみならず世界中に多くのファンを持つ作家!「ノルウェイの森」などは累積販売部数が900万部と半端ナイベストセラー本である

 

その小説の中にこの行りが「…ドイツ語の授業が終わると我々はバスに乗って新宿の町に出て、紀伊国屋書店の裏手の地下にあるDUGに入ってウォッカ・トニックを二杯ずつ飲んだ。…僕は黙ってセロニアス・モンクの弾く「ハニサックル・ローズ」を聴いていた」・・・・

「DUG」が登場してくるのだ、ビックリだろう!当時はジントニックとか今若い人に人気の出始めた昭和の飲み物?ハイボール!ウオッカトニックは飲んだ記憶はないかな・・・・・

カウンターとボックスが2・3あって、よく女性がコーヒーを飲みながら本を読んでいた図書館にいるかのように・・・DUGのコーヒーはビザールのコーヒーとは比べものにならない薫り高い本格コーヒーだった、オーナーの“こだわり”だろうDIGに続く2件目ということも重なり

 

「ノルウェイの森」に登場する紀伊国屋書店の裏手から地下にもぐるジャズルーム「DUG」は「キャット」のマスター「太田さん」からボサノバのジャズを聞かせるお洒落な昼はティールーム夜はドリンクバーになるというお店がオープンしたと聞かされて「ビザール」「キャット」の仲間と何度となく通い始めたのですね!思い出すに階段の壁に”マイルス・デビス”のポートレートを中心にかけてあった記憶がある!当時ボサノバブームで確かスタンゲッツの曲が多く流れていた・・・・【ダッグ・ビザール・キャットともに地下の店でジャズの店というのも何かの?・・・かな?】

 

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武蔵野茶廊で何度この話をしたか、「ハニサックル・ローズを聴きに行かない?」「ダグのウォッカ・トニックは他の店にはない素敵な香りがしてココロがなぜか落ち着くから、行きたくない?」舞台はある、あとは演ずるヒロインを誘うだけ、なりきるとグラスが空になり、一杯・二杯・三杯と・・・と心配になることも?はたして

日も落ちあたりが暗くなる頃には「ダグ」から「キャット」に「ベビグラ」「たる小屋」と行くところに、こと欠かないが新宿だ東口から歌舞伎町にかけては楽しい!大學封鎖でお互いに共通項の輩が集まってくる町だった・・・このころだ○○族とは言わないが”フウテン“という呼び名が広まりだしたのは

 

当時、東口駅前には植え込みのある公園らしきスペースがあり「バブーン」は時折そこにいるので、その頃は宿はあってもわけ有りの巷をふらつく?フウテンの一人だと思っていた

羽田の深夜のバイトの稼ぎは大卒の初任給(平均2万8千円)には及ばずとも当時のバイト代にしては破格の手取りだった(社会保険などで減給されないから2万4千円程度)

 

このバイトの話は空きが出て、会社の採用面接日を(当時、バイトで履歴書など書いた覚えがない、いい時代であったかも)教えてくれることにもなっていた、あれから数ヶ月経っていたある日、ビザールに向かって東口公園を歩いていくとバブーンがわたしを見つけ、寄ってきて「ちょうど好かった、例の羽田の仕事で空きになった後釜の件のグッドニュースだ

ビザールか?」「そう!」「俺も行くわ」とそこにたむろしていたお仲間?になにやら声を掛け、「ノリオ、行くぞ」と歩き出した、「バブーン」が振り向きざま「腹もヘッタよな」「今日は給料が入ったから、チャーハン奢るよ」とビザールを通り越して「石の家」に矛先を変えた

 

仕事の内容を絶品のチャーハンに追加の餃子を口に運びながら聞くと、搭載係といって新人は、先ずこの部署から始まるとバブーンは言う、ほかには客室係、旅客係があって、見入りは同じなのだが、仮眠の時間が少々長かったり、特典と言えるかどうかは期待の差にもよりけりでだが、古参は得しているのは間違いないようである・・「バブーン」は客室係とのこと

 

ことはトントン拍子に進みAGS(JALの下請け子会社でエアーグランドサービスの略)の総務課長「酒田」さんの面接を受け、明日から来てくださいと、バブーンに感謝である、きっと根回しがよかったのだ

数ヶ月も俺ッチが搭載で気張っているときに、マコトも働きたいというので、AGSの総務課長「酒田」さんに引き合わせた、2・3週間内に空きが出そうだと聞いていたので、当然、搭載係で一緒に仕事ができると思っていたのだが、なぜかマコトは、いきなり客室係の配置であった 客室係の仕事内容を聞くと到着した飛行機の機内の清掃(掃除機をかけるわけではない、ヘッドレストのカバーの取替え、座席背当てに設置のチラシ・イヤホン・ゲロ袋などの補充&取替え、背当てのフクロのごみなどの処置・・等々)時に間にあわなかったのか?そのフクロに置き土産があったりするのだと・・・手探りでの確認ゆえ、あるのだそうだ

そうそう、「バブーン」はコクピット内の清掃だから、今はこのような体験はない、ノリオもマコトもコクピットはまだまだ先の話だなと、仕切りやバブーンの顔が出てくる客室係にいる間に一度もコクピット内に入ることはなかった 特典もありで 持ち込み手荷物を格納する棚に忘れ物が時々あるそうだ、どうしたかは?聞き及んでいない いろいろなものが置き忘れしているそうだ(時計・指輪・財布・ダラ銭・・・・)バイトにとってありがたいもう一つの特典は当時はスチュワーデス(いま客室乗務員とかキャビンアテンダントとか)とありきたりの挨拶会話から顔なじみになることで機内食の余りをくれるのだ

 

≪搭載から客室に移って、マコトから聞いていた通りのことが、荷物の積み下ろしではありえない、それを持って明けに湘南の海へとよく行き、二重三重の特典が待っていたのである≫

 

半年ほど客室係を務めていた中で、ここでのバイトの転機があったのだ、それは「高野ヒロタ」との出会いであった、バイト先の羽田空港AGSの事務所だった、その日は、給料日でこの仕事を紹介してくれた「バブーン」もきていて、総務部の「酒田さん」と、何やらお話ししているところに「高野ヒロタ」も給料を取りにきたところだった

 

そこで、バブーンに紹介されたわけである 「高野ヒロタ」は慶応義塾大学の学生アルバイトで、ここAGSでは、一番の古手で、旅客係というセクションに所属とのことだ、振り返るとここでの仕事始めは、「バブーン」が客室係で私は搭載係、最初に配属されるのが搭載係、つぎに客室係、そして旅客係と順序を踏むらしい、このことを仕切っていたのが、「バブーン」だった

 

順序だてての理由は、なぜなのかは、後で分かった。仕事量と仮眠の時間の長さの問題なのだ、それと余禄というバイトにとっては、有り難い副産物がついていることだ搭載は旅客手荷物の積み卸しと大型貨物コンテナなどを貨物機 、輸送機のフライングタイガーへの積み卸し、機内のレール上の作業のだが、僅かな隙間も逃さずと言ったら良いのか、貨物室に入り、一斉ので足で押し込むのだ、つま先に鉄で保護 された安全靴は慣れない身には重いのである、後に働くことになるタケシも当然この搭載からであった

 

おまけにシフト制とやらで(明け&休みの繰り返し)、実質15日の実働実績の報酬である、まさに仕事を紹介してくれた「バブーン」は救世主のように思えたよ 仕事の内容はというと飛行機が到着すると、まずは預かっていたといっても格納庫にあるお客の手荷物を到着口のターンテーブルの裏側に運ぶ仕事、これが終わると貨物便(日航機はもちろんアメリカの貨物専用機のフライングタイガー機)へのコンテナーの積み込み作業

客室係はというと、到着便に向かい室内の清掃 ヘッドレスの取り替え、シートの汚れチェック、背当てに取り付けの袋のなかのチェック  これは嬉しくない副産物で、何度か手を入れた瞬間に乗客が備え付けの吐瀉袋に間に合わなかった残留品?に気持ち悪良い事もあるのだ、良いこともあるスチュワーデス(いま客室乗務員とかキャビンアテンダントとか)とありきたりの挨拶会話から顔なじみになることで余った機内食をスチュワーデスが「今日のフライトの余りだけど、どうぞ」といってくれるのである。アルバイトと知ってのことではあろう

 

私の紹介でAGSのバイトにありつき、搭載係りから何かと工作でもしたか客室係にまわってきたジャズ仲間の本村と、よく5、6個の機内食を持って湘南の海に行った、野郎がふたりで海の潮風に吹かれていても様にもならず、早速その機内食をエサに釣り糸を垂らすのである、ようは砂浜でのナンパである

 

といってもその確率の高さは、この当時にしては、機内食という言葉は珍しくアプローチの小道具によることは、間違いのないことである。当時、国際線の機内食など、そうそう食べる機会があることなどなく、どうあれ、気を引くアプローチ・スピーチとしては成功の確率はともかく抜群でなかったかな!とおもう

ナンパ目的で逗子の海に行っていたわけではないので、昼近くにでもなると、歩いて10分程の所にある海の家に行って一宿なしの一飯と風呂の饗応に預かりに行くのだ、海の家というのは高野

ヒロタの家で、こうしてやって来るのもヒロタと明け番が同じで、彼が大学に行かないときと条件が重なった時だけ海にやって来るのだ

 

本村は女性がお好み人間で、ナンビト構わず口説く、ナンパ士の看板を背負っているような男だ、奴は浜辺で拾った貝のお気に入り?をコッソリと東京に戻っての逢瀬を約束していたようだ・・・テイクアウトの予約か?

 

奴はまた住まいなど訊ねられると広尾と!高級住宅街で知られているから誰しも興味がそそられる、でも、しかしという言葉が続く事に気がつかない。青山通り沿いには多くの学校が建ち並ぶ、地方から志しを抱えて向学に燃える苦学生に向けての長家のようなアパートなど多くあるのだが風呂やシャワーなどもちろんあるはずもなく、トイレも共同ときては地名からは想像とかけ離れすぎなのである

 

本村はそれでも言葉巧みにその御殿に案内して一宿一飯の儀を済ませるのだから、たいした奴としか言葉がない!バイト先でも、私の後を追うように旅客係り(ポーターの仕事である)の仕事に配置換えでやって来るしまつ、きっと何かしら策略したはずだ、そんなこんなで、奴とは長い付き合いになってしまった、

 

このポーターの仕事は朝の2時間だけなのだが、日本でも海外旅行ブームとかに乗せられて観光目的とおもえる日本国から出て行くのが初めてという日本人は、片手に旅行ガイドブックを持って先ずは、国際線のカウンターに向かう、小型のキャリーバックなど無い頃だからポーターの出番はここからだ、タクシーの降車口から搭乗手続きカウンターまでの距離わずか数メートル(搭乗客にとってはすべて初体験!

 

今なら笑い話にもならない、ガイドブックを片手に空港の入り口で待つ我われポーターを手招きし、荷物を指差しカウンターまで運んでほしいとガイドブックに書かれてある通りに事を進ませようと、ほとんどが「お願いします」と言ってくる。カウンターに着くと荷物の数を数え「3個だから、ハイ!150円だよね」と言って小銭入れからチップをとりだす

 

その海外渡航ガイドブックには一個につき@50と書かれてあったのであろう、この2時間が終わるとポケットが10円・50円で一杯になることもしばしばだった、まさに役得!さらにポケットいっぱいの硬貨が片方では足らなくなることが起きたのだ

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丁度それは大阪万国博の開催で世界各国からの客人が日増しに増えてきて日本の空の玄関口、羽田空港に押し寄せた時のことである、朝のこの時間は、半端ない忙しさで、半端ない収入でもあった、ズボンのポケットの膨らみも日増しに大きく、時には片方だけでは足りなく、AGS内のロッカールームで着替えをするときなど自然に顔がにんまりと心浮き浮きの日だったことが思い出される

 

本来、AGSは日航の下請け会社だから、当然にも荷物を運ぶのはサービスの内でAGS職員は金銭など貰ってはいけない規則になってはいる、われらバイトはお構いなしに要求はしないが、出されるものを拒みはしなかっただけである、日航の社員(グランドホステスもホストも)もバイトと知っていて、みて見ぬ振りをしてくれたのであろう

 

こんなことも数回あった、運よく万博を堪能し観光を終え帰国するファーストクラスの外国人に出会ったりでもすると2・3個の手荷物をそれも数メートル運んだだけで なんと聖徳太子のお札を「ヘイ!ボーイ サンキュー」といって渡すのだ、大げさに両の手を大きく広げて「ハ~イ、ミスター!トゥマッチ・・」と単語並べの英語で返すと親指を立て「グッド!サンキュー」といってカウンター手続きを始めてしまった、いやはや金持ちは違うわ!と・・・今で言うセレブ過ぎる人種だ

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特にファーストクラスのアメリカ人に出会すと、これはラッキー!&ハッピー!なのだ、というのも当時の航空運賃たるや並大抵の価格ではない、そんな今でいうまさにセレブな家族連れにでも出会おうものなら、そのチップのセレブさに、俺には何かある!と思わせるものがあった

 

(補足:この頃ニュージーランド・オーストラリアの航空運賃が@100万円を超えていた今や直行便があるけれど 当時は一端ハワイに向かいそれから羽田へというルートだ 何度も言うが当時の大卒の初任給が平均で2万8千円 押して知るべしの金額だ)

 

学校の門をくぐる回数が減った訳ではないがポケットのふくらんだ日は「おい!その今日の膨らみ具合いからすると!かなりなあがりだな」と ロッカールームで背中越しに声をかけられた 黙りこんでいると「明け番が一緒でマコトと今日は大井(競馬場だ)に行くことになっているけど、ギリもどうだい おまけに本日は給料も出ているしフトコロ具合は良し」されど3人とも賭け運はなしと来ている 結局、私一人が大井競馬場前で降りずに浜松町に直行便となった

タケシがいろいろとバイトをするきっかけになったのは、マコトとタケシに思わぬことがおきたからだった、居候先のマコトの同居の兄の就職が本決まりとなって、東北の都に出向社員で赴いていたのだが、転居せざる状況になり」マコトもタケシも急遽、引越し騒動と相成ったのだ、何故か新宿を離れ、南池袋のほうに、もちろん一緒であるが、違ったのは居候ではなく同居人である、そう家賃は折半と聞いた

 

≪世界のタケシと謂れ始めた頃、私の友人で明治大学の○○教授に確かめた話である「タケシは大学の140単位のうち106単位まで取得していたにも拘らず、結局通学せずに除籍。のち、2004年(平成16年)9月7日、明治大学より「特別卒業認定証」100単位以上を取得しながら、何らかの理由で通学できなくなった人物に与える制度。及び知名度アップに貢献したとして「特別功労賞」を受賞・・・母親の「さき」さんが授業料を払い続けていたことも大きな要因だった」と≫

 

理由はどうあれ、兎も角ふたりとも大学生活と縁を切ることを同時ではないが、どう決意したのかも定かではないが世間で言う”中退”の二文字を選択した!北野は池袋界隈でバイトに精を出し、「マコト」は六本木でスナックのカウンターを任され料理にシェーカーにと精を出していた

 

この頃は青春の葛藤期でもあり、「タケシ」は居候から同居人となった以上は、先ずは家賃を稼ぎ出さねばと、しばらくはアルバイト三昧の青春時代を過ごす。ジャズ喫茶のボーイ以外に、タクシー運転手、デパート菓子の計り売り(実演販売員)、若松プロ(ロマンポルノ)のエキストラ、ビルの解体工事の・・等々

 

雀荘「一番乗り」で、マージャンを打ちながら、2抜けで待っている時に、何かしら知り合いになった不特定な仲間とでもいうか、情報交換がだれかれとなく口コミ情報でコミュニケーションがとれていて、羽田のAGSの夜勤のバイトは金になるらしいよ、貧乏学生2.3人が飛びついたのだか、直ぐには採用というわけには、いかなかったようだ、

 

空きがないと駄目らしいのと、仕切り屋がいる(バブーンのことだろう)ことも、なにせ決まるのが難しいといった話を聞きつけた「タケシ」はそう言えば前に「マコト」が「ギリ」のバイト先が、どうやら金になるらしい,おまけに深夜の仕事で週3日!最近金回りも好いらしい・・・」と話が重なった、「マコト」に聞くのが一番とそこで確かめたらしい、

「マコト」にしても、同居人となった「タケシ」の分担する家賃の半分はおおいに気になること、仕切り屋「バブーン」に取り成しを願い?シフト出番の時に「タケシ」と連れ立ってAGSの総務課長の「酒見」さんに引き合わせ、空きが出たらよろしくと二人で頭を下げてお願いしたらしい、

 

≪後日談でどこかで語っていた⇒この頃、なぜか通訳になろうと思い立ち、留学費用を稼ぐ目的でタクシーの運転手を務めるも半年で退社、ガソリンスタンドでアルバイトをした。この間、若松との縁で『新宿マッド』『腹貸し女』など、幾つかの若松プロ初期作品に端役ながら出演したり学生演劇に参加したが、ヴォードヴィルのような軽演劇で、舞台役者ではなく構成に携わっていたという≫

 

タクシーの運転手の2種免許を取って、初乗りの日に、どこか田舎のあぜ道に車をひっくり返して首になったとキャットに現れ本人曰くが、どこまで本当なのかは判らず仕舞いだった

後にツービートでの漫才ネタで使っていた

 

若松プロのエキストラのバイトのきっかけは「めぐみ」という横浜から新宿東口に通う「浜の女番長」?からなので、ここらで話を羽田から新宿に戻して「ビザール」は”フウテン“が時折現れるが「キャット」「DUG」ではとんと見かけたことがなかった、その店によって客層が覗えた 

「キャット」はビザールの常連「ヒデさん」に新宿の空が夕暮れに染まる頃、よく連れて行かれたのが東口直ぐの建物の地下にあるジャズバーでした!物静かな太田さんというマスターが一人でカウンター内で物静かに客とお付き合いをするといった、どうと言って特徴のあるバーでもないのですが、考えるにマスターのただただ魅力でもって多くのジャズ好きで、話好きな客が何とはなしに集まって来ていたジャズショットバーだったのですね、一番おおく通った店かな

 

「マコト」はたる小屋の「めぐみ」の仲良し「チャコ」にぞっこんらしく、めったに「キャット」には現れることはなかった、雀荘「一番乗り」で新しい仲間も増え「キャット」通いともなったのかも、「タケシ」も浅草で何やかやと食えない苦労三昧の時も売れ始めた時も「キャット」だけは続いていたようだ、

 

東京を離れ数年してからも、この店にぶらりと行くと「IWハーパー」をロックで飲んでいる「タケシ」に出会うことが、直ぐに「おうギリ!久しぶりだな元気してた どうだいこれから「一番乗り」で囲むのは?「パンチ」もいるし、直ぐに誰か彼かメンツは揃う」と・・・・キャットの話は別な機会に書き込みする

 

そうそう港の「ヨウコ」横浜♪・・・♪ではないが、「めぐみ」といって浜の港(横浜)から時おり「ビザール」に来て、「ベビグラ」に行き、辺りが暗くなると「樽小屋がお気に入りで 頻繁に通っていたのだ、入り口が巨大な樽なのだ、ここも地下の店でこちらはファンキーな音楽が流れ、お酒を飲んで駄弁るのが好きな連中の集まる所のようだった

 

「めぐみ」と知り合うきっかけに、なったのは「ヨウコ」いや「めぐみ」も不協和音のハードなジャズは好きでもなく、苦手のようでレコードが廻り始めると、我慢の限界らしく、即さくと会計を済ませ地下の不興な音から逃げて、地上の平和を求めて階段を上って外へと

 

歩道の街路樹の下で腰を下ろして今まで読んでいた本を読み続けるといったことを何度か見かけ、ビザールでは軽い目線の挨拶ていどを繰り返すようになっていた 新宿中村屋の隣に神戸の「ドンク」という話題のパン屋が進出オープンしたばかりのときに 人気のフランスパンを千切りながら頬張っている「めぐみ」ビザールでは口をきくこともなかったのに

 

中村屋で仕入れたワインを「めぐみ」の前に差し出し「ドンクのパンにはワインがとっても合うの知っていた?」といって、初めて口を利いた、ワインはともかく、特に「ドンク」だからこその、フランスパンの味わいはすでに「マコト」と経験済みであった 美味いのだッ

 

この頃には、「タケシ」はすでにマコトのアパートに転がり込んでいたようだ、「マコト」が「タケシ」と連れ立って行ったのであろう「たる小屋」で接点ができて、「めぐみ」と知り合うきっかけにでもなったのであろうか?「めぐみ」は当時若松孝二プロダクションに所属と言ってもアシスタントとして【後に助監督となるのだが】働いていたのだ

 

後で「ホウちゃん」(この頃はハスペと呼んでいた)に聞いたことだが「めぐみ」はビザールに来ては、よくエキストラを募集していたようだ!いつからか、「めぐみ」と親しくなっていた「洋七」の取り計らい?でジャズ仲間の懐寂しい連中どもが、こぞってこのバイトに参加したようだ!タケシも「めぐみ」とはすでに顔見知りにもなっていたので、「洋七」と一緒に何度かエキストラ出演していたようだ、ひょっとしたらこの時に、映画の下地を取り込んでいたのかも?知れないな

 

「洋一」は名古屋から日大に通う学生で、阿佐ヶ谷に同じ大学生と数人でアパートを借りていて、そのうちの一人が「マコト」と私とも同郷の「タツヤ」という日大歯学部の学生だったことからそこの住人達と親しくなった、今でも続く仲間である、父親は民事の弁護士として名古屋方面では知られていると「タツヤ」から聞いていた、その「洋一」がいつの間にか「めぐみ」と親しくなっていたのだ

 

夏休みで新宿から遠ざかっている間に、「洋一」が「めぐみ」のお屋敷?(洋館風な)に

出入りするになり、時折寝泊りするようになっていったようだ「めぐみ」の母親は女手ひとつでめぐみを育てここ最近になって、フランス人の彼氏ができ、横浜の家も室内改装中に「洋七」がお手伝いに精出し、母親の受けも良く家族の一員のようにもみえたというのも、「めぐみ」は誰とでも仲良しになってしまう特技から?家に来るお友達も増えてきていて、沢山いる中でめぐみの母親がただ一人名前で呼ぶのが「洋七」だった、おまけに「さんづけでね!」私も含め他は全員「チョットあんた」「あんた達ねぇ」だったからだ

 

「洋一」が浜の「めぐみ」の家で知り合った慶応ボーイの「ヒロタ」くん!そして私がビザール・ベビグラで知ることとなった「バブーン」とが偶然なのか?同じバイト先 すでに書き込みの このバイトが、人様が眠る丑三つ時のお仕事で朝8時にあがる 学生にとっては   お金の入りもよくドンピシャのピッタシカンカンのお仕事だったのだ そうそう「ヒロタ」が「めぐみ」の家の最初の訪問者で頻繁に出入りの男だったので 当然「めぐみ」の母親は「ヒロタさん!」と呼んでいた

 

丑三つ時に働くお仕事は 親元からの仕送りがそっくりと手付かずに、当時の平和銀行の口座に残っていたのだから、万博景気、様!様!だったのですね 平和銀行というのは、なんとありがたい銀行であったか、ほとんどの銀行が15:00にシャッターを下ろす中19:00まで利用できる学生にとって有り難い銀行でしたよ

 

大卒の初任給が2万8千円の時代である、時にではあるが時給2万円~3万円とは驚きでしょう!おまけに通常の日当(給与)も計算され給料日に加算される≫

 

数年前とは、大阪万博の昭和45年のことでした、金回りは確かに良かったのも当然、私は旅客係り(手荷物の仕分け&朝便のポーター)といって外国客のポーターチップ!チップ!でポケットが一時間であっという間に宝の山・・・

 

一方、「マコト」は飛行機の清掃に精を出していた、一ヶ月も経ったであろうか、空きができたといって「タケシ」が友達と一緒に搭載係にやってきた、「タケシ」がビレッジヴァンガードでボーイとしてバイトしているときにジャズファンでよく来ていた常連客とだった、

 

「一緒にバイトしている中上!だよ」といって「マコト」は紹介されたそうだ、あとでわかったことが、「マコト」の早とちりが原因で芥川賞を受賞した「中上・・・」に思わぬようで、ありうるなという話が、ズーット後になってわかった(前代未聞の話だから耳を疑う)

 

搭載の仕事に乗客の手荷物を身にトラックに積み、後部に立ち乗りして機体に積み込みに行く、そのときに、客室係とあうときもある、私も搭載で働いていたので「マコト」に「たけし!元気でやっているのか?」と聞くと「あの中上とかと搭載途中のコンテナの上でふざけあっているのを何度か見た」・・・その相棒?が後の芥川賞作家とは、夢にも思わぬことだったのだから

 

中上氏が受賞したのが昭和50年・・・その数年前に 「タケシ」が後にまさかの人物と同時期に羽田空港のAGSという日航の下請けでバイトしていたのだから驚きである・・・後にこれまた驚きのことで、私も「マコト」も当時の仲間も後に「タケシ」がストリップ小屋のコントから漫才、ブームに乗ってテレビの人気者、冗談で書いた訳ではない本がメチャ受けの大ヒット、その印税収入たるや、「ハンパ無い!」のである頭脳明晰さが幸いして、その才能をマルチに丸出しあたりに当たって、今の「タケシ」・・・まさに「拝啓、北野武さま!」である

 

苦闘の修業時代からMANZAIブームで旧来の“漫才”と区別される為にカタカナ表記“マンザイ”が起こり まさに人気の出始めの頃をおもしろおかしく語る ネタ本「ツービートのわッ毒ガスだ」「タケシ」の初めての自伝エッセイというか書き下ろしエッセイというか

 

ここからも後でわかったことなのだが、1980年(昭和55年)6月に発刊し、年末までになんと約85万部の売り上げをあげたそうだ、当初事務所側はせいぜい2万~3万部程度の売り上げと見込み、超えた分は印税全額を2人(タケシと相方のきよし)が受け取る契約を結んでいたため、大金が転がり込んだという話だ・・・

 

事務所もまさかの真坂?を転がり落ちたのだろう ハンパ無い所得だ「本が売れたら返すから」と新宿のおネーちゃんの店に行くとき貸した現金5万円!いまもって空手形だ 

 

「わッ毒ガスだ」の本の単価が@500として85万部が事実だとしたら・・・・その印税たるや@50×85.000-30.000 金額¥41.000.000  「ツービートのわッ毒ガスだ」は今ではプレミアつきの@5.000もしていた(アマゾン検索)

 

≪ここらの話は「ビートタケシ」検索でウイッキペディアに掲載があるので、そちらで・・≫

 

話を戻し、万博が終わると同時に私は辞め、マコト・タケシ・芥川賞作家はバイトに精出していたようです・・・

 

【ここでチョット】

横道にそれて「中上健次」の「前代未聞話を」・・・ 執筆活動はお金に貧すること多々、多しで、芥川賞を受賞のときもバイトしながらの「物書き活動」

 

大変だったのでしょうね ココから30数年も経って、「週刊文春」に掲載された記事を「文芸春秋」の文学賞の特集を読んでの抜粋です・・・・・以下

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昭和50年度下半期に《岬》で芥川賞を受賞した受賞会場になんと酩酊状態であらわれたのだ!一緒に飲んでいた古山高麗雄(作家)と記者に肩を支えられながら 会見の中、突如として「そんなこと、知るかい!」と何故かぶち切れ、

 

前代未聞の話は続く 翌日に当時の担当だった高橋一清宅に押しかけ、芥川賞主催の日本文学振興会に掛け合って、贈呈式に渡される副賞の三十万円を今日、もらいたいと? いやはや、高橋氏は賞金を前借りを無心したのは、後にも先にも中上氏ただひとりであろうと

 

週刊文春2012・2・2より

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「マコト」も「タケシ」も羽田のバイトを続け、その後それぞれのはまり仕事に精を出し始めだした  相変わらず「ビザール」か「キャット」に仕事帰りに誰か彼かが現れる 中には毎日のように仕事を抜け出しては現れる輩もいた(キャットのマスターの話だ)ところで同郷以外の新宿仲間はどこに住んで どんな仕事で(どこの大学)そして名前は と知らぬ存ぜぬのままつながっているのだから不可思議なわけ 通称「パンチ」いって50歩と離れていない「メンズ・タカノ」が仕事先だ 演歌歌手タイプなのに いつもアイビールックの出で立ちで現れる 雑誌「平凡パンチ」から誰かが付けたのだろうまさに非凡ではないのであるからグッドネームであるよ

 

その「パンチ」が仲間の動向をつかんでいて(ほぼ毎晩キャットにいるのだから)情報には事欠かない 「マコト」もいつまでもバイトを転々というわけにもいかず  大学時代の友人の伝手で食品会社の営業を、その後も いくつかの会社を転々としていたが 水を得た仕事が見つかったようだ  それもいずれは田舎の実家木材会社に戻るつなぎ仕事だろうし

 

マコトはある時期 六本木のスナックで働き出したことがある その仕事というのはひょっとしてこの店がらみ・客がらみだったのかも というのも 六本木から青山に向かう途中の246(青山通り)沿いに出店していた「一枚の絵」という画廊のことである 

 

適材適所という言葉を適人敵業と変えて見るに 田舎に帰る直前までは ここのお仕事を続けていたのだから 「マコト」に、はまりの仕事だったのだろう とにかくたのしそうに飛び回っていたよ

 

絵画の販売だ 最初のうちは親兄弟・友人知人宇宙人、はたまた見知らぬ道行く人たち?と著名な絵だけに売れるものなんだな!まことの田舎の父親に東山傀夷の絵を購入させたのには驚きだったよ

   

また同期の「広瀬」くんの実家の玄関に片岡球子の赤富士が飾られていたのを見たときに、ひょっとしてとコチラもマコトがと?考え、「広瀬」くんの母親に尋ねると息子が「大切に預かってよ」 と壁に掛けて行ったと 母親は腕のいい和装のコートの仕立て屋さんで、特に雪国には欠かせないコート!沢山の和装派に喜ばれていたはずだ 私も数知れずお世話になり、創業250年という老舗問屋「千切り屋」が扱う「新繍コート地」は織物ではあるけれど 刺繍を施したような ここの老舗だからの生地なんです そこに仕立ての良さも加わり、客伝手に評判をとっていた、今でいうヒット商品である

 

50年振りに東京都での同期の会で彼に会い、絵の事を聴いてみた 正真正銘、片岡球子の絵だった  母親は既に亡く今は手許に有るという まことからの購入かと?尋ねたが 違ったようだいずれにしても、この頃のまことは意気揚々、溌剌としていたよ

 

≪絵の持ち主「広瀬」くん 自衛隊からの経緯(いきさつ)は知らないがフジテレビに入社して当時の「小川宏ショー」の製作スタッフの一員だったようで小川さんが病気で番組を降板した後の今で言うMCとして登場していた・・・そんなあたりで片岡さんの赤富士の絵を手に入れたのかな≫

 

一方「タケシ」の方はというと、こちらも、経緯(いきさつ)はしらないが浅草のストリップ小屋で働きだしたとマコトから聞いていた 「どんな仕事?」と聞くと「劇場のエレベーターボーイだって、日給@500円!」この頃は初任給で4~5万円の時代だから、休みなしで1万5000円とは辛い金額であるこの頃からよく「オイラもともと理工系の大学に進んだんだしエンジニアになることを考えていたが、本当はね 一番やりたかったことは運悪くできなかったわけ(通訳だったよね) 二番目がエンターテインメントだった だから本当はやりたいことがあったのに・・・という意識が常にあった」と言っていたそうだ、

 

私は私で コネとツテ(伝手)を活用して東京タワーの下にあるテレビ局に臨時職員で働き出した というのも当時はまじめに仕事をしていると その局か系列会社への社員という、なんとコネコネ就職の斡旋があったのだ

 

2年ほど前から働いている上智大学の遠藤君という男が日経新聞の子会社に見習社員として決まったのは、私が仕事を無難にこなし始めて、深夜の天気予報の番組を任された頃に、遠藤君が満面笑み顔で話してくれた「良かったよ、来年の仕事先が○○会社に内定したんだ!」と

番組を任されたといっても局(報道部)でその日の用意されたビデオテープを担当部署に取りに行きセットして時間に流すだけという 至って簡単な仕事なのだ国政選挙のときなどは党本部に出向くためにテレビ中継車に必要なカメラ・機器・器具などの積み込み仕事 到着したら今度は積み下ろして会場の指定されている処の持ち込み機器の設置作業のアシスト&ヘルパーである

 

この時 初めて分かったのだが NHKは別格という事がね 設置場所が正面の各テレビ局より 僅かとはいえ一段高いのである その周りを各局が取り囲むような陣形で(戦国時代の大将を守る陣か?)

 

そうそう その本部とは共産党本部でした その年の新入社員のなぜか気の合った「矢崎 」さんの仕事ぶりを見ていて TV局で働くという憧れを持っていたココロが失せたことは間違いない まさに雑用係なのだ(ここは後々 当たり前のことなんだと気がつく若気の至り)新たな就職活動に入らなくちゃと考えながら選挙放送のお手伝いだった

 

私も時折「キャット」に立ち寄ると「パンチ」とつるんでいる「ノブナガ」という学生なのか社会人なのか不明の御仁もいた(ほぼ毎晩のようにキャットで会っているからだな)他にも仕事帰りに誰か彼かが現れる 

 

「ノブナガ」は(ズーットあとになって分かったのだが あだ名ではなく本名の苗字だったらしい「信長」かどうかは分からずじまい)キャットによく現れる麻布でレストランを共同経営している「弓削」と同じ慶応大学と言っていた お仲間のなかで一番小柄なノブナガだったが IQは一番であろう頭脳明晰 さすが慶応ということを証明できうる事が起きたからだ 当時人気のクイズ番組「タイムショック」の番組編成スタッフがチョコチョコと「弓削」と一緒に来ていた事は知っていたのだが 大学もTV局のバイトもあり しばらく振りに言ったところマスターの大田さんから「ノブナガ」がタイムショックに出て あと一歩のところで100万を取り損なったとの話であった 

 

紀伊国屋の裏口にあった「レフティ」で「洋一」に出くわした 久々なことでもあってそのとき店内に流れていたオスカーピーターソントリオ聴きながら互いの近況の報告をし合い「ノブナガ」のタイムショック出演のいきさつも聞いた 「弓削」も慶応ボーイでキャットにもよく来ていた弓削のレストランの場所柄 テレビ界の戯れ人とのつながりも多かったのだろう いつしか数人で来るようになっていたとマスターからは聞いていた

 

詳しくは「洋一」から聞くことができた タイムショックの担当慶応ボーイが仕掛けの出演だったようだ 事実確認はできていないがどうやら賞金稼ぎを狙っての それもチョイと好からぬ仕込の「ノブナガ」登場劇だったようだ 白羽の矢を射った弓削たちも さすがだがクイズでIQの高さを見せつけた本人もさすがの慶応ボーイだ キャットのマスターが言っていた あと一歩のところでの話を洋一が話し続けた 「ノブナガ」は12問中11問正解だったから勝ち抜きのほうは大丈夫と思っていたところ 勝ち残りも負けてしまったのだ なんと12問正解して100万円をゲットした強敵が現れたのだそうだ 慶応ボーイの「加山雄三」さん そう世間を騒がす「若大将」だったのだ

 

キャットでとぐろを巻いて蛇視眈々と賞金を狙っていた「青大将」も鎌首下げて退散ということになったのだって と「洋一」が“おち”までつけて教えてくれたよ

 

何ヶ月か経ってから「ノブナガ」にキャットでバッタリと 「思わぬ収入が飛び込んだらしいから今日の払いは“ノブナガさんだね”・・・ご馳走さん」と冗談めかしていうと「いやいや ほとんど仕組んだ番組スタッフの越田が持って行ったよ」とやはりトンだ仕掛けがあったようだ 「ところで正解を外してしまった問題は何だったの・・」と聞くと「チッチ・・チッチ・・道場破りが頼もうといったら 何とこたえる?・・チッチ・・チッチ・・これが応えられなかった」あのIQをもってしてもか?「どーれ!・・だろう・・」と言うと「知らなかったのさ」という ノブナガはきっと時代劇映画を見なかったのだろう

 

局の番組担当がどれほどピンハネして ノブナガの手元にいくら落ちたかは今でも分からないままである ノブナガを負かした「若大将」はその後も全問正解を繰り返し100万円と車数台をゲットしたんだな この後ノブナガの件も落ち着いたころ「洋一」にキャットで合った 今さっき慶応ボーイの「ヒロタ」と羽田で別れたばかりで ふところの具合も豊か足はコチラに向いていた 「ヒロタ」はというと小指を天にかざし約あら束があるからと麻布のほうに向かっていったよと 羽田のバイト代を取りに行ってバッタリということだった

 

ふたり「IWハーパー」をロックでカウンター席に陣取り いつも置いてあるご自由にどうぞのナッツを口にいれながらスタン・ゲッツのボサノバサウンドを心地よくしていると 「洋一」が「ノリオ! あした時間空いていないかな?チョット付き合ってもらいたいんだけれど」「夜勤だから夕方までなら大丈夫だよ・・」「伯母のところに用事もあるのだけれど 留守番を仰せつかってさ 4時過ぎに伯母が戻るまで拘束されるのも一人じゃ退屈だし 付き合ってくれよ」「いいけど・・・」と二つ返事で引き受けた

武蔵野茶廊で待ち合わせして 表札に「加藤」とあった「ここだけれど・・続けて伯母とは面識のないのは当然ながらノリオは知った人だぜ」「会ってもいないのに 知るはずもないだろうが?」「いや それがさ・・」といって隣の部屋に行き何やら書類を数冊束ねたものを差し出して「知っているだろ!」と表紙を見ると台本らしく「サザエさん」の字が大きく書かれ目に入った 思わず「まさか洋一のおばさんというのはサザエさん?」「あまり人さまには言っていないけど そうなんだ」と  いや~ぁ ビックリしましたよ 高校同期の「タツヤ」と同じ日本大学の気の置けない友人たちの中でも 「洋一」が無二の親友という「岡田とおる」にも聴かされていなかったビックリ話だった

 

いやはや身近に今や日本の名だたる声優「加藤みどり」さんのお家だったのだ  そしてお笑い芸人・小説家・俳優・映画監督・絵とオブジェ作家等々 当時はまさかこうなるとは 思いもしなかった世界の「タケシ」と これらはすべて「モリのいた場所」からが始まりなのだ ここんでハタと思ったことは 「サザエ」さんと「タケちゃんマン」との知らぬ同士の出会いがあったことになるのだから 縁とは異なもの味なものとは本当にあるんだな~ぁ

 

昭和51年に「洋一」は日比谷“松本楼”で結婚式を挙げたときのことだ 世間にはまだまだ無名の「タケシ」が仲間の一人「洋一」の門出に一役かって出たのが式の司会進行だ 「タケシ」は1年ほど前にやはり仲間の「ヒロタ」の結婚祝いに司会を引き受けて花を添えている「ヒロタ」も「洋一」もいまや押しも押されぬエンタティナー世界の「タケシ」にギャラ無しで祝ってもらったのは 後にも先にもこの二人で最後のことだろう 私は「ヒロタ」の式には出れたのだが「洋一」のときはその半年前に田舎の父の病状が芳しくなく家業の手伝いを余儀なく大都会東京とはおさらばしていて出れずじまい 律儀な「マコト」は遣り繰りしてご祝儀に駆けつけるから偉いよ 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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≪情報や本舗≫≪たけしくん、ハイ!≫【はにかみタケシ】≪その男凶暴につき≫【チョイわるタケシ】・・・羽田でのバイト時代

Photo新宿時代・学生時代は【コチラ!】

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【北野たけし】 当時、北野は新宿のジャズ喫茶ビレッジヴァンガードでボーイのバイトをしていて 寝どころ(処)先と決め込み、一宿一飯どころか

数年!転がり込んでいた同居の誠くんが「ギリのバイト先が、どうやら金になるらしい,おまけに深夜の仕事で 週3日!最近金回りも好いらしい・・・」とでも言ったのか

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まずは、誠くンがバイトをするといって、客室係り(飛行機の客室の掃除)で働き始めた、続いて 数ヶ月してだったか?北野も働くといって、誠の紹介で搭載係り(貨物・手荷物の飛行機への積み込み)で働き始めたと

寝食を共にしていた 北野たけしが、私と誠君のアルバイト先(羽田空港のAGSという日航の下請け) に、「一緒にバイトしている中上!だ」といって紹介された記憶がある

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中上氏が受賞したのが昭和50年・・・その数年前に一度だけ接点があった 北野たけしが、私と誠君のアルバイト先(羽田空港のAGSという日航の下請け) に、「一緒にバイトしている中上!だ」といって紹介された記憶がある

誠くんに「たけし!元気でやっているのか?」と聞くと「あの中上とかと搭載途中の コンテナの上でふざけあっているのを何度か見た」・・・その相棒?が後の芥川賞 作家とは、夢にも思わぬことだったのだから

ここは、ウイッキペディアで分かったことだが「中上健次」はヴァンガードの常連客 だったらしく、「中上」がすでに羽田の搭載でバイトをしていたことから、聞き及んで 金になる仕事先とでも考えたのかも

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数年前とは、大阪万博の昭和45年のことでした、金回りは確かに良かったのも 当然、私は旅客係り(手荷物の仕分け&朝便のポーター)といって外国客のポーター チップ!チップ!でポケットが一時間であっという間に宝の山・・・

大卒の初任給が2万8千円の時代である、時にではあるが時給2万円~3万円とは驚きでしょう!おまけに通常の日当も計算され給料日に加算される


万博が終わると同時に私は辞め、誠くん・たけしくん・芥川小作家はバイトに精出して いたようです・・・

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親からの仕送りがそっくりと手付かずに、当時の平和銀行の口座に 残っていたのだから、万博景気、様!様!だったのですね

話を戻し、ここから本題「中上健次」の≪知られざる興味あるお話≫ 執筆活動はお金に貧すること多々、多しで、芥川賞を受賞のときもバイトしながら の「物書き活動」

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大変だったのでしょうね ココから30数年経って、「週刊文春」に掲載された記事を「文芸春秋」の文学賞の 特集を読んでの抜粋です・・・・・【お勧め】受賞作品は「文芸春秋」で読むことにして います

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昭和50年度下半期に《岬》で芥川賞を受賞した受賞会場になんと酩酊状態であら われたのだ!一緒に飲んでいた古山高麗雄(作家)と記者に肩を支えられながら 会見の中、突如として「そんなこと、知るかい!」と何故かぶち切れ、

前代未聞の 噺は続く 翌日に当時の担当だった高橋一清宅に押しかけ、芥川賞主催の日本文学振興会 に掛け合って、

贈呈式に渡される副賞の三十万円を今日、もらいたいと? いやはや、高橋氏は賞金を前借りを無心したのは、後にも先にも中上氏ただひとり であろうと 週刊文春2012・2・2より ________________

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≪情報や本舗≫≪北野たけし≫≪ツービート=ビートたけし≫≪北野武監督≫≪マス北野≫≪落語家立川タケシ=錦之助≫

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村上春樹といえば「ノルウェイの森や「海辺のカフカ」などの作品で知られ、日本のみならず世界中に多くのファンを持つ作家ですよね。累積販売部数が900万部というノルウェイの森」といえば、

小説の中にこの行りが「…ドイツ語の授業が終わると我々はバスに乗って新宿の町に出て、紀伊国屋書店の裏手の地下にあるDUGに入ってウォッカ・トニックを二杯ずつ飲んだ。…僕は黙ってセロニアス・モンクの弾く「ハニサックル・ローズ」を聴いていた」・・・・

当時はジントニックとか今若い人に人気の出始めた昭和の飲み物?ハイボール!ウオッカトニックは飲んだ記憶はないかな・・・・・

Cw1be 【DUG=ダグ】


同じような思いで、”DUG"にも、よく行ったものです。ジャズ喫茶というより、ジャズルームといったほうが似合う、とてもお洒落なお店でしたね・・・

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”DUG”以上によく行ったお店が、東口近くにあった「ビザール」!ドイツ語の授業ではなかったですが小説同様にバスでもなく、ダグでもなく、この「ビザール」に行っては、何かしら本を読みながら耳は心地よく流れるスゥイングジャズに傾ける(時に客のリクエストでハードジャズが流れると顔中央がシワシワ状態・・・


セシルテイラーだったかな?そんな時、店をぬけ”DUG"に立ち寄るのだ、途中に「石の家」の餃子で腹ごしらえをし【学生を終えてからも通ったお店でした・・・飛び切り易く、飛び切り旨い、めちゃめちゃ混んで、めちゃめちゃ油ギトギト】

Harukitokyojazz16 【ビザール

どんな店でも必ず居るのが「ご常連」と称する人!ビザールにも当然のことながら、居ましたねというより狭い店で3人掛けの列車スタイル!隣人?同士が、自然知り合いになる確率が高く、同郷の3人の友人とよく通ったわけですが?

友人より気の合う常連の「ヒデさん」と知り合ったのが」、それこそ「いい友の和」になって、ジャズ好きの明治大学に通う「ホウちゃん」放蕩癖の"放”か?法学部の"法”かの謂れは定かではない!

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その「ホウちゃん」が、ある時ビザールに連れ立って来たのが「来たの?」「北野!」そう、いまや世界の人となった当時明治大学に席のある頃の北野武=ツービートと知り合うキッカケでもあった!

だれかれとなく、示し合わせることもなく”ビザール”に来ては、4人集まれば中国文化の研究!人数が満たない時は韓国文化のパチ研究!と

北野は正統派の打ち方で、ツービート漫才のあの喋りなど想像できないほど、寡黙に打ち続ける雀士?でしたね、同郷の麻雀好きな五十嵐誠くんに付き合っての義理立てからか、私がエネルギッシュにいつも”脂ぎった顔”していたからか?定かではないが、私に「ギリ」とあだ名をつけたのもタケシ君でした!


Photo 【北野武君】

大学生活に適応できなかったわけでもなかっただろうに、大学2年の時には、家出同然に一人暮らしを始め、新宿界隈で当ての無い日々を送るようになる。フーテンのような、フーテンでないような

学生運動にも北野は、参加したようだが、チャランポランに熱心ではなかったようだよ!ジャズに傾いたものにとっては新宿の東口の辺りには「Lefty(レフティ)」・「Canty(キャンティー)」や「ビザール」「DUG」「DIG」「ヴィレッジヴァンガード」それに「新宿ACB(アシベ)」・「風月堂」・・・・北野といえども同様で、特にビザールに顔をだしていたようだ

Photo_2 【コチラ!から】 ←クリック


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≪情報や本舗≫≪たけしくん、ハイ!≫【はにかみタケシ】≪その男凶暴につき≫【チョイわるタケシ】・・・新宿時代・学生時代

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夜にもなれば「キャット」に「ベビグラ」「たる小屋」と行くところに、こと欠かないのだから新宿東口から歌舞伎町にかけては楽しい!大學封鎖でわれらと共通項の輩が集まってくる町だった

そうそう港の「ヨウコ」横浜♪・・・♪ではないが、「めぐみ」といって浜の港(横浜)から時おり「ビザール」に来て、「ベビグラ」に行き、辺りが暗くなると「たる小屋」へは、「チャコ」と言うエキゾチックな美人さんと現れたものだ!同郷の誠くんが、この美人さんにオカボレして出入りしていた

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この頃には、北野はすでに五十嵐のアパートに転がり込んでいた、「たる小屋」に接点があったのか、めぐみと知り合うきっかけになったのだろうか?

めぐみは当時若松孝二プロダクションに所属と言ってもアシスタントとして【後に助監督となる】働いていた

「めぐみ」はビザールに来ては、よくエキストラを募集に!めぐみと親しかった「洋一」の取り計らい?でジャズ仲間の懐寂しい連中どもが、こぞってこのバイトに参加したようだ!その中に「北野」がいた、ひょっとしたらこの時に、映画の下地を取り込んでいたのかも?知れない

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この頃、明治大学で一緒の「ホウちゃん」はビザールでボーイとして、また北野はヴィレッジヴァンガードでボーイとして働いていた。【北野タケシの後述談であるが、遅番のボーイで、その時ヴィレッジヴァンガードで早番のボーイとして、あの”連続射殺事件”の永山則夫が働いていたことが、あとで分かったと】

ここらあたりから、お互いにアルバイトに明け暮れえる生活が始まる・・・大学生であって、大学生でない【大学が封鎖されているのだから】私にはねぐらはあるが、「北野」は家出同様な状況ゆえ、ねぐらはなし、そんなこんなで、どういう経緯(いきさつ)なのか、私と同郷の「五十嵐まこと」のところに転がり込んだ「北野」!・・・居候とも言うが

「まこと」のねぐら=棲家は新宿から徒歩で帰れる”十二社(じゅうにそう)”で、その先の”初台”が余の棲家だった。居候の「北野」は何度か「まこと」の棲家に踏み込めない時に「初台」に臨時停車?しに来たこともあった

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この頃、学生のねぐら代は月に一万円前後で、大卒の平均給与が2万5千円程度だったか?ねぐらがあるのと、無いのとでは、この住居費の差は大きい!そこでバイトに明け暮れ、より高額な処を求め歩くのだが、そこはビザールで拡がった、タモリの「友達の和!」だ、今のアルバイト情報誌を越えているかも

大学の学生占拠のキャンパスも落ち着きを取り戻し、学校生活にそろそろ戻らないと卒業証書やらが手に出来なくなる。

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【こんなセット?で団子を焼いて・・・「シズルを売れ!」というとおりウナギを焼いてシズルを売って、団子を焼いてシズルを売る】

今のバイト新宿三幸町の三越の地下(今で言うデパチカである)で特設売り場での「売り子」のバイトである、名古屋名物の”みたらし団子”売りだ・・・バイトも昼日中は難しくなった時

「洋一」が浜のめぐみの家で知り合った慶応ボーイの「博太」くん!そして私がビザール・ベビグラで知ることとなった「バブーン」とが偶然なのか?同じバイト先【あとで「北野」もここで働くことになるのだが】このバイトが、皆が眠る丑三つ時のお仕事で朝8時にあがる学生には、ドンピシャのピッタシ、カンカンなのだ

一方、北野はというと、居候先の「まこと」の一緒にいた兄が就職が東北の都に出向社員で赴き、転居せざる状況になり、」何故か池袋の椎名町のほうに、もちろん一緒であるが、違ったのは居候ではなく同居人である、そう家賃は折半と聞いた

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理由はあれ、兎も角ふたりとも大学生活と縁を切ることを同時ではないし、挙ってでもない様だが、決意したのか!世間で言う”中退”の二文字を選択した!北野は池袋界隈でバイトに精を出し、「まこと」は六本木でスナックのカウンターを任され料理にシェーカーにと清を出していた

この頃は青春の葛藤期でもあり、友人の下宿に居候しアルバイト三昧の青春時代を過ごす。ジャズ喫茶のボーイ以外に、菓子の計り売り[実演販売員、ビルの解体工クラブのボーイ東京国際空港での荷卸し、タクシー運転手、ガソリンスタンド店員を転々とする。

東京国際空港のではジャズ喫茶でしった中上健次と共にAGS荷役作業役として働いていた

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後に通訳になろうと思い立ち、留学費用を稼ぐ目的でタクシーの運転手を務めるも半年で退社、ガソリンスタンドでアルバイトをした。この間、若松との縁で『新宿マッド』『腹貸し女』など、幾つかの若松プロ初期作品に端役ながら出演したり学生演劇に参加したが、ヴォードヴィルのような軽演劇で、舞台役者ではなく構成に携わっていたという。

大学は140単位のうち106単位まで取得していたにも拘らず、結局通学せずに除籍。のち、2004年(平成16年)9月7日、明治大学より「特別卒業認定証」100単位以上を取得しながら、何らかの理由で通学できなくなった人物に与える制度。及び知名度アップに貢献したとして「特別功労賞」を受賞。

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階段の壁に”マイルス・デビス”のポートレートを中心にかけてあった記憶がある!当時ボサノバブームで確かスタンゲッツの曲が多く流れていたのではないかな・・・・【ダッグ・ビザール・キャットともに地下の店でジャズの店というのも何かの・・・かな?】

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  【この頃集めたマッチはどこへ?】

そうそう当時は禁煙もうるさくなくと言うよりタバコがファッションの一部だったのでは、タバコにはマッチが付き物ですよね?とてもお洒落なマッチを提供している店に出向くといった、やはりファッションだったのですね。ご他聞にもれず「ビザール」「キャット」「DUG」のマッチは持ちあることが新宿ジャズマン・ウーマンのステータス・シンボルであり、現在のように携帯電話などない時代の情報伝達手段の一つだったかも(ビジネスカードとしての役割も兼ね備えていたよ】

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 【和田誠さんのイラスト=ウイキペディアより】

特に「DUG」のマッチデザインはイラストレーターの「和田誠」氏のデザインでしたね!当時の日本専売公社の一番人気のヒット商品タバコ「ハイライト」のパッケージデザインも「和田氏の作品でそのほか多くのデザインを手がけています!私はこだわりのショートピースを缶入【通称ピーカン】と大型マッチを持ち歩いた記憶があります

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≪情報や本舗≫≪たけしの家庭の医学≫≪がんワクチン療法≫⑪         

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「…人間の体は、それを構成している一つ一つの細胞が正常なバランスを取っていれば病気にならない。また、細胞を正常に働けるようにしてやれば、病気は治る。

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細胞に栄養を与えることが、これからの新しい医学である

Side_ttl_3この栄養素!摂ってみますか】⇒ 【コチラ】

「…病気を治す根本は薬ではなく、体の持っている本来の修復能力である。最も大切なものは、食べ物に含まれる栄養素である…」

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2010年9月28日「3時間SP=たけしの家庭の医学」で”情報や本舗にて数回ご紹介の≪がんワクチン療法≫が特集されていました!

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今年5月、厚生労働省が、これを高度医療に認定して保険の一部併用を認可されたことでもあるし!

Redox■≪がんワクチン療法≫①~⑩までの書き込みは右のカテゴリー【がん最新情報】にて⇒


「免疫の力」でガン細胞を退治!私達の身体の中では、毎日、2.000個とも5.000個>とも言われるガン細胞が発生しているのに、ガンになる人とならない人が!その大きな要因の一つが「免疫力」だと。免疫とは、細菌やウイルスといった侵入者や、体内で発生した数千個のガンなどの異常な細胞を見つけ、攻撃してくれる防御システムのことなのです・・・・・・

Photo_4【番組で放映のガンを攻撃するアニメー動画】は下段に

Photo■突起を持った細胞ががん細胞!


私達の身体には無数の免疫細胞があり、それらが力を合わせて体内の異物を攻撃【ウイルスに感染した細胞を撃退するなど】し病から身を守ってくれています。


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中でも、血液の中を絶えずパトロールし、異物を発見すると真っ先に攻撃を仕掛けるのが、「ナチュラルキラー細胞」、通称「NK細胞」。NK細胞とは、白血球の中のリンパ球の一種。ガン発症を未然に防ぐ頼もしい存在なのですが、このNK細胞をはじめとする免疫細胞は、年を重ねるごとに機能が低下していくのですね


Photo_6キラーTー細胞=攻撃部隊】が今や攻撃しようとしている後ろから【Bー細胞】から情報を得た【ヘルパーTー細胞=司令官】が指令を出している画像です

このような時に、様々な身体の不調を引き起こすだけでなく、ガン細胞も抑えきれず、最悪の場合、ガンを高下しきれない時に、今回の「がんワクチン療法」で活性化してがん細胞に立ち向かってくれるのが「キラーTー細胞」で、強力に攻撃!防御!をしてくれるのです!番組の免疫細胞の主役は。この「キラーTー細胞」なのでねす


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しかし、その免疫力を人工的に上げることによって、ガンを退治する新しい治療法が今、注目を集めています。いったいどんな治療法なのか?ここで番組では久留米大学先端癌治療研究センターの野口正典先生が登場して、それは 【ガンペプチドワクチン療法】という最新のガン治療法だと!

NK細胞が異物を撃退する決定的瞬間の映像が紹介された。NK細胞はパーフォリンというたんぱく質をがん細胞に撃ち込むことで死滅させるが、NK細胞をはじめとする免疫細胞は加齢とともに機能が低下する。

Photo_2⇒コチラ【動画】情報をゲットしたNK細胞は酵素(ドリル?)で穴を開け、パーフォリン(タンパク質)を撃ち込んで死滅させる動画をアニメーションにて・・・(細胞の外に突き出た目印が細胞のアンテナ「糖鎖」です!)

Photo_3⇒コチラ【動画】≪マクロファージの異物の補足映像を入手!≫・・・(後半の触手を伸ばして捕える映像は実写だけに迫力がある・・・触手の先に「糖鎖」が出ているのです)

免疫力を人工的に上げ、がんを退治する「がんペプチドワクチン療法」が摘出手術、抗がん剤、放射線に次ぐ第4の治療法として注目を集めている

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≪情報や本舗≫≪たけしの家庭の医学≫≪遺伝子の活動≫≪受精の瞬間≫≪糖鎖がON・OFF≫≪村上和雄≫

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もっと続きを読む糖鎖情報や本舗


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私たち人間は精子と卵子が結合し【補足:鍵と鍵穴のように糖鎖の働きがあって】受精した一個の細胞となるのです。 その一個の細胞が二個に、二個が四個に、四個が八個に・・・と分裂して いきます。


その過程で、手になるべきところはちゃんと手になり、足になるところは ちゃんと足になり、内臓になるところはちゃんと内臓になるんですね

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【補足】:遺伝子の活動をONにしたりOFFにしたりするスイッチ機能の可能性を糖鎖が持っているからとハーパー生化学の筆頭著者である「ロバート・K・マレー博士は言及しています。そして、十月十日(とつきとおか)で細胞数約三兆個の赤ちゃんになって、この世に誕生します。 大人になると、細胞の数は約60兆個にもなるそうです。


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そして、60兆個の細胞の一個一個に、同じ遺伝子が組み込まれています。 私たち人間の遺伝子の幅は、1ミリの50万分の1という細さです。

今この地球上に住んでいる60億人分の遺伝子を全部集めても、米粒一つの重さにしかならないそうです。そのきわめて小さな一つの遺伝子の中には、30億にものぼる化学文字が書き込まれています。

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細胞の一つ一つにある遺伝子のすべてに、30億の文字情報が書き込まれ ているわけです。ということは、体のどこの細胞にも、一人の人間の生命活動に必要な全情報が書き込まれているのです。

しかし実際は、爪の細胞は爪にしかならないし、髪の毛の細胞は髪の毛にしかならないのです。


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【補足】:1996年にハーパー生化学に糖タンパク質という項目が始めて掲載され糖鎖(細胞のアンテナの働きが解明され始めて今や臓器の細胞は臓器にしか、免疫細胞・血液・肉・骨・歯・他の全てが整然と決まりごとで形成されていく )

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これを村上和雄教授は、「スイッチのオンとオフ」という表現で説明されています。
つまり爪の細胞は、「爪になる」というスイッチはオンになっているが、「心臓になる」というスイッチはオフになっているわけです

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【補足】:糖鎖が持っているスイッチ機能で遺伝子をオンにしたり、オフにしたりする】 だから、爪にはなるが、心臓にはならないわけです。各細胞の遺伝子には、すべてのスイッチがあって、それのどことどこが オンになっているかで、その細胞の役割が決まるわけです。

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また、私たち人間はみな99.9%以上同じ遺伝子を持っているそうです。そして能力や才能の違いは、遺伝子のスイッチがオンになっているか どうかの違いだというのです。
           【略】
村上教授によると、「私たち人間は、存在するだけでも奇跡中の奇跡だ」とのことです。

           【略】

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「この生命の設計図は、生命を生み出すという意図をもって 何者かが設計したとしか考えられない。」
村上教授は、その設計者のことを≪サムシング・グレート(偉大なる何者か)≫と呼んでいます。

             野口嘉則 地球の法則と「幸せな成功」より

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≪情報や本舗≫≪ミリオンセラー≫≪1Q84≫≪村上春樹≫≪ジャズ喫茶⇒ビザール・キャット・DUG≫

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_news_21Q84」好調売り上げで6月現在100万部超えて、昨年5月に発売されたbook1・2巻の244万部を会わせると344万部の大ベストセラーとなっている!

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”ミリオンセラー達成確実!の本   「1Q84」(全2巻)という【長編小説】 ”
                

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2日間で実売部数が推計約10万部という本が!村上春樹の新作長編「1Q84」(全2巻)この一風変わったタイトルもビックリマーク「!」ですが、発売直前までは作品の情報(表題と発売日以外登場人物の名前すら不明)がまったく知りえない状況という本だったのですね!

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昨年、新潮社から書き下ろしで発刊されて1年がたとうとしているが昨年の内に「BOOK1」「BOOK2」の全2冊あわせて200万部を超えている!この一風変わったタイトルの本も、人気はとどまらず、14版・15版と何処まで行くのか?

村上春樹といえば「ノルウェイの森や「海辺のカフカ」などの作品で知られ、日本のみならず世界中に多くのファンを持つ作家ですよね。累積販売部数が900万部というノルウェイの森」といえば小説の中にこの行(くだり)が「…ドイツ語の授業が終わると我々はバスに乗って新宿の町に出て、紀伊国屋書店の裏手の地下にあるDUGに入ってウォッカ・トニックを二杯ずつ飲んだ。…僕は黙ってセロニアス・モンクの弾く「ハニサックル・ローズ」を聴いていた」・・・・当時はジントニックとか今若い人に人気の出始めた昭和の飲み物?ハイボール!ウオッカトニックは飲んだ記憶はないかな・・・・・

Harukishogatsu14w 【DUG=ダグ】


ここに登場する”DUG"というジャズ喫茶というより、ジャズルームといったほうが似合う、とてもお洒落なお店でした!というのも今回のニュースを見聞きして当時の思い出が再び!グーグル検索で深みに落とし入れる凄いサイトがありまして、なおさらの事でした

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東口近くに「ビザール」というジャズ喫茶があってドイツ語の授業ではなかったですが小説同様にバスでもなく、ダグでもなく、この「ビザール」に行っては、何かしら本を読みながら耳は心地よく流れるスゥイングジャズに傾ける(時に客のリクエストでハードジャズが流れると顔中央がシワシワ状態・・・


セシルテイラーだったかな?)そんな時は、スタイル抜群のレジ係【リクエストのレコードもかける】の確か「レイちゃん」を見つめたり、時折現れるエキゾチックな美人オーナーママに一眼集中?だったり【学生を終えてからも通ったお店でした】


Harukitokyojazz16 【ビザール

どんな店でも必ず居るのが「ご常連」と称する人!ビザールにも当然のことながら、居ましたねというより狭い店で3人掛けの教会スタイル!隣人?同士になる確率で自然知り合いになるのですね、同郷の3人の友人とよく通ったわけですが?友人より気の合う常連の「ヒデさん」と知り合ったのが」、それこそ「いい友の和」になって、ジャズ好きの明治大学に通う「ホウちゃん」放蕩癖の"放”か?法学部の"法”かの謂れは定かではない!その「ホウちゃん」ある時ビザールに連れ立って来たのが「来たの?」「北野!」そう、いまや世界の人となった当時明治大学に席のある頃の北野武君=ツービートと知り合うキッカケでもあったのですね!私に「ギリ」とあだ名をつけたのもタケシ君でした!タケシ君とのエピソードはあまりにも多すぎて『別途書きこみ予定』・・・・
Photo 【北野武君】


もう一人、ここで知り合って親交が深まったのが桂重高君だ!私より2才下の将に好青年だった!彼は東京芸術大学でパーカッションを履修して、どういうわけか打楽器科卒なのに管楽器のフルートが得意だった!学生時代からプロとして活躍していた。

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彼が良く通っていた代々木の、やはりジャズのお店で「ナル=NARU」!そこでセッションをしていたのだが、その後編曲の仕事が本格化して「木田高介」と名を変えて【お互い、多忙となり会う機会も少なくなったのだが】・・・神田川=かぐや姫=・私は泣いています=リリー=・結婚するって本当ですか=ダカーポ=・出発の歌=上条恒彦これら数々のヒット曲の編曲を手がけた彼ですが・・・1980年5月の不運にも友人と交通事故で逝ってしまった、僅か31才でした!訃報に触れ、遠きにありきだった為又家族構成も知りえず!自宅の連絡先かお、母様には電話でお悔やみを申し上げました【詳細はウィッキペディアで】

13010089_1382_2  【キャット】


常連の「ヒデさん」に新宿の空が夕暮れに染まる頃、連れて行かれるのが同じく東口近くの「キャットというジャズバーでした!物静かな太田さんというマスターが一人でカウンター内で物静かに客とお付き合いをするといった、どうと言って特徴のあるバーでもないのですが、考えるにマスターのただただ魅力でもって多くのジャズ好きで、話好きな客が何とはなしに集まって来ていたジャズショットバーだったのですね

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さてさて、話を戻して「ノルウェイの森」に登場する紀伊国屋書店の裏手から地下にもぐるジャズルーム「DUG」は「キャット」のマスター太田さんからボサノバのジャズを聞かせるお洒落な昼はティールーム夜はドリンクバーになるというお店がオープンしたと聞かされて「ビザール」「キャット」の仲間と何度となく通い始めたのですね!思い出すに階段の壁に”マイルス・デビス”のポートレートを中心にかけてあった記憶がある!当時ボサノバブームで確かスタンゲッツの曲が多く流れていたのではないかな・・・・【ダッグ・ビザール・キャットともに地下の店でジャズの店というのも何かの・・・かな?】

Photo_3  【この頃集めたマッチはどこへ?】

そうそう当時は禁煙もうるさくなくと言うよりタバコがファッションの一部だったのでは、タバコにはマッチが付き物ですよね?とてもお洒落なマッチを提供している店に出向くといった、やはりファッションだったのですね。ご他聞にもれず「ビザール」「キャット」「DUG」のマッチは持ちあることが新宿ジャズマン・ウーマンのステータス・シンボルであり、現在のように携帯電話などない時代の情報伝達手段の一つだったかも(ビジネスカードとしての役割も兼ね備えていたよ】

Photo_2 【和田誠さんのイラスト=ウイキペディアより】


特に「DUG」のマッチデザインはイラストレーターの「和田誠」氏のデザインでしたね!当時の日本専売公社の一番人気のヒット商品タバコ「ハイライト」のパッケージデザインも「和田氏の作品でそのほか多くのデザインを手がけています!私はこだわりのショートピースを缶入【通称ピーカン】と大型マッチを持ち歩いた記憶があります

故「桂重高=木田高介」君が編曲家として活躍始めたころの、1975年国分寺で「ピーターキャット」という名のジャズ喫茶を「村上春樹氏自身が経営していたことは今回の書き込みで検索結果として知り得た事でした!

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