【中村天風】

≪天風翁の出自の不可思議をひも解く【高祖父編】≫❸≪情報や本舗≫

M51309824990_1_20200703165401

「中村天風の養父「中村祐興」の足跡(経歴)」⇒ 郷土史家の「田中節」氏という方が言うには 先祖の「宝珠山」氏の女子「文子」が あの第11代「鑑備(あきのぶ)」を生んでいる

 

Images-2_20200703164501

「猷子姫」を1827年に生んでいる 既に書き於いたように 「千代子」は実家に御子(男子)がいないことを理由に また第9代「鑑賢(あきかた)」の側室「文子」には「鑑賢」公の二人の男子が嗣子となると決まっていたし 「千代子」が実家に戻ったときには第9代「鑑賢」公のお子を身ごもっていた そこで実家の中村を継がせたいと・・・・   

正室に男子の嗣子が恵まれず側室「文子」のお子が⇒「鑑広」1823年生 「鑑備」1827年生と生まれたゆえ継嗣となった さすれば他の側室が先に男子を授かっていれば・・・例えですよ「千代子」といえども可能性は秘めていたはず「祐興」1829年生だから 徳川家康が決めた長子の家督相続は外様大名といえども破るはご法度だったから

 

どうあれ 「千代子」は実家中村で二男四女を生んだことになっている そしてその長男の「祐興」は7歳から17歳になるまで異父姉弟(実際は父も母も同じ)の姉「小野勘解由」の正室「猷子姫=宣子」の小野家で育つ「祐興」だけが 藩命で姉「猷子姫」のお側役を承っていたばかりであろうか 裏には藩主「鑑賢」公の配慮が動いたと推察

 

母「千代子」は「祥光院殿の御事」に記載あるようにこれまた「鑑賢」公の特別な配慮での終身扶持を賜っていたにも関わらず御歳39歳にて他界された そして記載のある二男四女の長男「祐興」を除いて他のお子らの消息は一切不明である「祐興」は姉「猷子姫」のお側役をとの藩命をうけ 次に下った藩命が長崎への遊学であった

 

再三登場してくる作家「松原一枝」女史の書かれている 著書のなかに“天風の生い立ちを推理する”という章があって そこに祐興の孫にあたる方 の所持していた嘉永3年から明治31年までの過去帳に残された故人の戒名の写しから拾い挙げた「祐興」と「テウ」の間に生まれた子供らの出生記録からも またまた「おや!」「なぜ?」との記述が出て来て 意外な事が分かってきたのです

Photo_20200703163601

まずは  その過去帳記載から 【長男】光次郎 (慶応3年7月7日生)【次男】豊次郎 ( 明治9年4月8日生 ・・・「おや!」【三男】三郎 の出生が明治9年7月20日ゆえ あり得ない記述が 「なぜ?」十月十日が必要でしょう

【長女】なぜか名も生年月日も記載がない 【次女】ミネ (明治10年5月10日生) 【三女】カメ(明治13年11月1日生)・・・何故かここに登場【三男】三郎 (明治15年7月20日生) 【四女】政(明治16年3月13日生) 【四男】祐吉 (明治17年9月30日生) 【五男】祐雄 (明治19年8月18日生)

 

と書き込みがあるが 多くの書物では“成功の実現”を筆頭に多くの作家の方々も天風翁の生まれを明治9年7月20日(1876)としている  なぜなら明治15年生まれ(除籍謄本と過去帳の戒名写し)とすると 

 

①長男の光次郎を母「テウ」は12歳で生んだことになる 

②「祐興」その子とされている三男「三郎=後の中村天風」の経歴が成り立たなくからです 数例をあげるとするなら修猷館での軍の進軍に向かっての投石事件が僅か9歳か10歳の頃となるし 日清戦争直前に時に「頭山満」翁のところに向野陸軍参謀本部中佐が尋ね来て鞄持ちとして満州視察(実際は軍事探偵として)に行く年齢も11歳か12歳くらいとなる・・・無理でしょう

③明治13年(1880)荒川小学校に金二十円を寄付している 三郎が明治9年生まれなら5歳~6歳 明治15年(1882)となると2歳で小学校に通ったことになる 明治13年 東京本郷の小学校を卒業すると その後中学は九州福岡の屈指の名門校修猷館(現修猷館高校)に入学させられる 

明治16年(1883 )九州の中学校だけの連合柔道試合の遺恨から殺傷事件をおこしてしまう。

④「祐興」が偽札防止のための“中村紙”を完成させたのが明治19年(1886)であるから三郎が明治9年(1876)生まれなら10歳である

⑤「祐興」の出世の糸口ともなった長崎遊学は小野家の多大なる恩恵ありき

 

このように歴史的事実からの検証をすると天風翁にまつわる記述に誤りが多いのですね 何故なのでしょうか 現存する天風翁の録音テープ(講演)の“テープお越し”(注釈:活字にすること)を無条件に“孫引き”したことが一つ 

Images-6_20200703164901

もう一つは残っている録音テープが昭和30年から天風の晩年の頃のものしかないのと 聴き取りもテープ録音技術・マイク機器の性能が優れてもいなく(注釈:京都天風会の方が多くのテープお越しを実践されていて いくつか“聴き取れないのでここまで”と補足つきのものもありました・・・別掲しましょう)発音など 果たして正確にとらえていなかったのではと考えられます

 

残されていたテープの中身で 本論に入る前の“まくら”での場所・年月などは書かれ語られてはいるものの そうこだわらずに歴史的史実からはずれることも 出自・生い立ちにこだわらずとも「心身統一法」を創見されただけで良いと いわれる方が大半という事実は理解しうることではありますが  

Images-5_20200703164501

出自に関して述べさせて頂けるなら 歴史上の人物として活きて生かされるには 場所・年月等が歴史的史実から外れてしまっては 天風翁の教えと同じく 価値ある大切なことであり 歴史上の人物として生きないのですよ

 

■三郎の父「中村祐興」の足跡(経歴)は歴史上明らかである そこから掘り起こして実証し 「天風」の存在もまた歴史の中に留めおきたいからだ

天風翁の出自について 先ずは親の出自からと「中村祐興」について郷土に残されている資料などから実証 その歴史的事実を紐解いた本を出版されている方がいました お一人は「原田信」さんといって天風会員ではないようですが福岡生まれの九州大学卒 NHK入局の方です ご本人が本を出されたのではなく 2004年に亡くなられた後に ご子息の「原田哲哉」氏が原稿の存在(補足:著者の「信」氏は生誕地の福岡県山川町の教育委員会に原稿を送っていたとのこと)を知り「中村祐興小伝」サブタイトルが“天風を育んだ開花人”という本を出版されたのですね

 

中村祐興が9代目「立花鑑賢」の側室「千代子」との間の子であり中村天風が11代目「立花鑑寛」と侍女「テウ‥後に長子」との間に生まれた中村祐興どうように史実としての認知・認識は薄いものの中村祐興が自筆で書き残した「祥光院殿の御事」に不可思議と思われたことがすっきりと分かった気がしました

Images-14_20200703163601

 

| | Comments (0)

≪天風翁の出自の不可思議をひも解く【高祖父編】≫❷≪情報や本舗≫

1_20200702200201

天風の父「中村祐興」の生い立ちに大きく関わるのが9代藩主「鑑賢」だ 8代「鑑寿」の娘を正室に養嗣子となった「鑑賢」は「千代子」という側室をもっていて「鑑賢」との間に第7息女「猷子姫」をもうけていた

 

立花家の前の田中家は子供に恵まれない無継嗣のため改易となっていた、ですから家名を残すためにも藩主たちは多くの側室を抱えていたのでしょう それは将軍といえども同じで「徳川家康」公は20人からの側室がいた

Images-2_20200702231801030dc722ec2f050497bf5b8155bee2d8ec2e38fe 竹弓

9代目の「鑑賢(あきかた)」も同様に抱えていた側室の「千代子」は美しく聡明な女性であったようだ 実家の中村家に嗣子が居ないことから藩主鑑賢に側室を辞する許しを得て山川村原町の櫨(はぜ)蝋作りの中村家に戻る

 

「千代子」は9代「鑑賢」の間に猷子姫をもうけていて その猷子姫は立花家の筆頭家老職の「小野勘解由」に嫁いでいる この姫と家老の詳細は後述するとして「千代子」が実家に幾つかの「おや!」「なぜ?」との記述が出て来てしまうのです 

 

中村天風にまつわる書籍・テープお越し・文字お越し等には ある時 側室「千代子」から 実家の中村家に継嗣がいないので改易にならぬよう 側室を辞して実家に戻るという宿下がりをねがいでたのだ 「鑑賢」はこころ広く許したことで「千代子」は実家にもどることができたのだ

 

せっかく中村家が実家に戻ったというのに 名跡中村家に戻った側室「千代子」は立花家藩士「西田一甫(御所院番」を夫に迎え 、2男4女をもうけ、その長男が「祐興」であるということになっている書き込みが多い

               Photo_20200702232301

御所院番というのは下級藩士です そもそも藩士を婿養子に迎えるなら「千代子」が実家に跡継ぎがいないからといって側室を辞さずとも中村家が婿養子を迎えることで解決したのではないでしょうか また側室「千代子」の戻った名跡中村家とあるが その千代子の生家の中村家は山川町原町で櫨蝋(和ロウソク)造りの家で名跡ということはない

 

≪出生の地=瀬高町の町の町史に戸籍の保存があります≫ 柳川藩の名跡である中村家とか 藩主と血縁のある中村家とか はたまた会津中村の相馬藩の名跡であるとか いずれも誤りである 御所院番というのは下級藩士だからである

1_20200702232701

数冊の天風翁に関わる本を書かれている ある方の「祐興」の出生についての書き込みでは立花藩主「鑑賢」の第二夫人の子として生まれ「祐興」を連れ子にして跡継ぎの無かった名跡中村家「中村一甫」の養子となったと記載があるが

側室「千代子」が第二夫人かどうかは定かではない 「文子」という側室が嫡男を生んでいる(正室に子が出来なかったのであろう)多くの側室がいたからで また「千代子」が中村家に戻ったのは間違いないであろうが「祐興」を連れ子としてあるのは 既に生んでからということになるので(千代子が立花家を出てからの子であり現代で言うならば認知の無い庶子である) ここの二つは不可思議なところが残る

 2_20200702232901   

この連れ子の件に関しては 天風翁の愛弟子で天風翁にまつわる天風の出生を福岡県のお墓まで追跡して、天風の出自を調べあげて本を書いている「松原一枝」という小説家は その本“「中村天風、活きて生きた男」のなかで” 柳川藩藩主「鑑賢」の隠し子であったのでは と記述がある・・・・・

 

側室「千代子」が宿下がりの際に千代子のお腹に子供がいたのではないかと 現代と違い三ヶ月・四ヶ月は妊娠しているかどうかは判らずじまいであっただろうから中村家に戻ってから気がつき利発な「千代子」のことゆえ仕えていた殿様には当然ながら報告をしたであろう

≪徳川家康に纏わる似たお話がありました≫

家康には20人もの側室がいて その内でも寵愛を熱くうけていた「お梶」だが子宝に恵まれず将軍職を秀忠に譲り渡した家康は完成した駿府城に移り住む際 居城につれ行く側室を各々に言い渡したのだが側室「お梶」はそこから外れていた  家康はお梶に松平昌綱 のところに行くよう申し渡した  ところが1ヶ月で城に戻ってきたのです なんとなんとお梶が懐妊していたというのです  松平昌綱は 恐れ多いと指一本触れぬからして  まちがいなく家康の16人目のお子である・・・≫

 

| | Comments (0)

≪中村祐興という人とは≫≪出自の不可思議をひも解く【大名の子】≫≪情報や本舗≫

Images-9_20200702195701

中村祐興は9代藩主「鑑賢」と側室「千代子」との間に生まれたのは事実であろうからして大名の子である ただし立花家を母の側室「千代子」が実家の中村家に男の子がいないため藩主「鑑賢」に願い出て側室を辞して実家に戻ることが許され 戻る途中で藩主「鑑賢」の「子種を宿していたことが判ったのです

 

「鑑賢」と側室「千代子」との間にはすでに「祐興」の姉にあたる「宣子」という姉がいて(「猷子(ゆうこ)姫」である) 立花家の筆頭家老「小野勘解由」に嫁ぎ裕福な暮らしぶりであった 7歳から17歳まで「祐興」は 姉の嫁ぎ先の小野家で暮らし育っているのだが理由は分からない 後に「祐興「」自身が自筆の姉宛の書き留めて文書が見つかっている 

1_20200702200201  9代藩主【立花鑑賢】

 

その文書から推察出来るかも知れないというのも 藩主「鑑賢」の実子(庶子とはいえ)にかける思い入れが伝わる裏づけとなりうる文書内容にが読み取れるからです

 

≪立花家の筆頭家老「小野勘解由」について≫

小野家として藩主「宗茂」以来300年 武門の家として仕え栄える 立花家の重臣として9代藩主「鑑賢」に仕えし時には4000石の禄高を承り(注釈:当時は1万石の禄高取りで一国一城の大名であった) また石炭の採掘権(後の三池炭鉱)を有し 「鑑賢」の第7息女「猷子姫=宣子」を妻に娶り 「宣子」と同じ母から生まれた弟「祐興」をなぜか7歳~17歳になるまで小野家に於いて面倒を見たようです それまで石炭採掘の台所部門(経理)をみていた「祐興」が17歳のときに長崎に留学した際の一切の費用など捻出したのは姉の「猷子姫=宣子」です・・・この当時の「祐興」の事は後述します 

 

その文書は「祐興」自筆の「祥光院殿の御事」(祥光院とは「鑑賢」の第七息女である「のこと)という一文が大蔵省印刷局の記念館(福岡県)に残っていることが分かったことで

2_20200702201501

それも昭和41年になって天風翁の息女「鶴子」の夫「安武貞雄」財団法人天風会会長が天風翁の命によって調査に突然来局して写真と履歴書を借りてコピーしている記録が残っている これらはその後「鶴子」女史の手元にそして天風会館に所蔵

同様に「中村祐卿小伝」という本を書かれている著者「原田信(まこと)」氏もその本の中に写真で公開していますし 平成2年には天風翁と交流のあった近盛氏がジョセフ=ヒコ(彦)記念会の会報誌「浄世夫彦」でも写真版にして全文を公開しています

 


≪注釈「近盛晴彦=ジョセフ彦」は毎日News記者・啼塚山学院教授・ジョセフ=ヒコ(彦)記念会会長で自ら語っている「当初は「祐興」についての知識など全く無かったのに その「祐興」の境遇を辿って行く内に天風翁の存在を知り 天風翁との手紙のやり取りをしたり大阪の天風会であったりしていた」・・・天風の息女で「安武鶴子」夫人はジョセフ=ヒコ(彦)記念会理事でもあった 「ジョセフ彦」氏は日本人でアメリカ市民権を得た帰化第一号のひとである≫

 

3_20200702201801

生い立ちについては 大蔵省印刷局の記念館(東京新宿区)に残っていた「祐興」自身の筆による「祥光院殿の御事」という一文は現代文ではないためネットでの拾い集めと独断解釈できるように編集手直ししたものを以下に・・・・

 

≪注釈:祥光院は9代柳川藩主「立花鑑賢(あきかた)の側室「千代子」のことです)


祥光院殿ハ旧柳河藩主従四位下立花鑑賢公(道雪公ヨリ拾代目体慈院殿ノ御事ナリ)第七ノ息女ナリ御名ハ猷子、文政十丁亥年[1827]7月18日ヲ以テ生ル長シテ藩ノ大夫小野勘解由ニ入興明治17年[1884]10月4日卒ス山門郡下内村慧日寺内ニ葬ル。謚シテ祥光院殿天珠浄円大姉ト云フ実ニ我慈母(中村家五代目夘三郎ノ長女 法号宝樹院殿釈尼妙好信女)ノ産ム所ナリ 是レヨリ先キ千代子鑑賢公ノ側室タリ猷子姫生ル コノ後 中村家男子ナキノ故ヲ以テ請フテ家ニ帰ル 公其貞淑ヲ賞シ賜フニ終身扶持ヲ以テセラル 尋ネテ同藩士西田一甫ヲ納レテ焉レニ配ス 二男四女ヲ挙ク 弘化ニ年[1845年]8月16日逝ク 行年39歳 爾後世故多難我家々産頓ニ傾ク 偶々夫人ノ知ル所ト為リ 夫人御合力米ノ内ヨリ特ニ 三人扶持を祐興ニ給セラレ其側役ニ就クコトトハナリヌ 後藩命ヲ奉シ笈ヲ負フテ長崎へ遊学セシ如キ皆夫人斡旋ノ結果ニシテ 祐興ノ今日アル一々夫人ノ賜物ナリ矣  我子孫タルモノ須ラク牢記シテ其鴻恩ヲ忘ルルコト勿レ

 

祥光院殿は旧柳河(川)藩主従四位下「立花鑑賢」公の第七息女で御名は猷子(ゆうこ)(猷子姫=宣子のことである)(「鑑賢」公は「立花道雪」公から数えて10代目にあたる体慈院殿のことである)

 


≪注釈ただし「道雪」は主家-大友家との確執が根強く立花姓を名乗ることはなかったので「宗茂」を初代とすると「鑑賢」は9代目となる≫

Images-4_20200702203801

文政十丁亥年7月18日に生まれ 長じて柳河(川)藩の筆頭家老「小野勘解由」のところへ嫁ぐ その後明治17年10月4日に身罷りて山門郡下内村蕊日寺に埋葬される 法号(戒名)は祥光院殿天珠浄円大姉と云う 実に我が慈母(祐興の母)は中村家5代目「卯三郎」の長女であった 法号(戒名)は宝樹院殿釈尼妙好信女と云い産むところである これより先は「千代子」は「鑑賢」公の側室となり「猷子(ゆうこ)姫」を産む 母「千代子」は姫を産んだあと中村家に男子がいないことを理由に家に戻ることを願い出た(暇乞いである)「鑑賢」公からの許しを得て実家中村家に帰った 「鑑賢」公は其の貞淑を賞し終身扶持を以って賜る

 


≪注釈千代子の貞淑をなぜ「鑑賢」公が宿下がりを願いでた側室に終身扶持まで賜るほど誉めたことは不可解ですよね 終身扶持とは主君からの俸禄が一生賜れるということです・・・当時「千代子」に賜った終身扶持がどれほどかは記載が無いのですが その内から「祐興」 に3人扶持を給せられるとあります ですから推して知るべしとしましょう≫

 

柳河(川)藩藩士の「西田一甫」と結婚して二男四女を産んだいる 弘化2年8月16日に身罷る 行年39歳の若さであった 中村家は多難なことが次々と起こり・・・・・・・・産頓に傾く偶偶夫人(姉・猷子姫)の知るところと為り 特別に三人扶持を以って 藩命を受けて実の姉「猷子姫=宣子」の側役に就いてから 藩の大夫・小野家との関係が深まり 将来が開けてきたのだ 長崎へ遊学したのもすべてが全て夫人(姉・猷子姫)の斡旋によるもので 「祐興」の今日あるのは一にも二にも夫人(姉・猷子姫)賜物である 我が子その孫孫に至るまで此の事を牢記(肝に銘じ)して この御恩を努々(ゆめゆめ)忘れてはならない・・・「勿れ」と

 


≪注釈 終身扶持とは主君から一生賜れる俸禄のことで 当時「千代子」に賜った終身扶持がどれほどかは記載が無いのですが その内から「祐興」 に3人扶持を給せられるとあります 当時の一人扶持は今の金額で約7万5000円×3ですね…(大蔵省印刷局百年史 第2巻S47 による)

それに藩士の俸禄が47万5千円が加わると⇒60万円となります≫

Photo_20200702202301

「祥光院殿の御事」を読むことでいろいろな事が解明される 最後の方で記述している小野家の援助で家計も助かり藩命を受けての長崎遊学は「祐興」の出世の糸口となったこと

 

「其ノ貞淑ヲ賞シ賜フニ終身扶持を・・・」とあるが 「祐興」が「鑑賢公」の男子ではあるけれど 実家に後継男子がいないので 中村家の跡取りとしたいゆえ 暇乞いをさせていただき伴侶たる者をさがし中村家存続を願うだけな

ら「鑑賢」公が果たしてこのように誉めるだろうか

 

Images-3_20200702203001

多くの側室がいた内で稀なこととは言え “終身扶持”という生涯生計で困ることの無い俸禄を賜ることは異例のことと推察 前述の似た話で家康公の側室「お梶」は生まれた御子とともに家康のもとに戻りたかったのだが 「鑑賢公」の側室「千代子」は中村家のために実家に戻ったのだから中村家において伴侶を求めず「鑑賢公」の庶子といえども一生涯我が子を守っていくという決意に対して貞淑であると誉めたのであろうと思える

 

また もしも男子を生まずして側室だけを辞退し暇ごいを願いでて実家に男子がいないことを理由に誰ぞと結婚をして中村家を存続させたいというだけなら ありきたりのことゆえ「鑑賢」公が賞めるでしょうか

 

そして「鑑賢」公は千代子がこのまま独り身のまま実家で独身を貫くことはないと 立花家の御書院番「西田一甫」と結婚させ「西田」が中村家へ入ったのでしょう 「同藩藩士西田一甫ヲ納レテ・・・」⇒結婚して云々との記述も 二男四女を産んだとだけで 「祐興」が「西田一甫」の息子だとは一言も書いていない 弘化2年8月16日(1845)に行年39歳で「千代子」身罷る

             Photo_20200702202301

ここまで「祥光院殿の御事」は「祐興」の自筆の書であることは福岡の瀬高町の町誌を昭和49年に調べたところ 間違いの無いことが分かり この御事に記述の「鑑賢」の側室「千代子」から生まれし「猷子姫=宣子」その伴侶である立花家代々の重鎮家老「小野勘解由」と なんとか読み解くことで 殿様「鑑賢」公の側室「千代子」の労わり・思いやり また「猷子姫=宣子」の実の弟であるから故に 母・「千代子」の実家が多難のことに困窮していることに見かね 中村家の危機を救っている

 

将来が開けてくるようになったのは「御事」に書かれてあるように「祐興」が藩命により「小野勘解由」夫人・猷子の側役になって三人扶持を給わるようになったからでしょう 家長制度からすると「千代子」の伴侶で藩士でもある「中村(旧姓:西田)一甫」こそ藩命が下りるべき本人でしかるべきであろう

 

ここにきて「祐興」が「西田一甫」の長男であるということは「御事」の記載から背景を察しても誤りで 冒頭に書いた「千代子」が暇乞いをして中村家に戻るときに身ごもっていて お腹にいたのが「祐卿」というのが納得できるお話であろうかと推察

 


【補足】なぜなら見る側の視点によって、見えてくる世界が全く違ったものになるからだ。■おおよそ 都合良く書かれるもの さまざまな思惑にて削除あり 改竄あり  捏造ありと 抹殺されるのである 関ヶ原の戦いで言わずと知れた西軍の将「石田三成」といえども その出自さえ定かならず 祐興に至っては諸説少なからず

| | Comments (0)

≪天風翁の出自の不可思議をひも解く【高祖父編】≫❶≪情報や本舗≫

 

M51309824990_1

 

≪天風翁の出自の不可思議を高祖父からひも解く≫

 

「運命を拓く」の序章は次のように始まっています 人は、自分の体験と学問の範囲でものをいう 範囲を越えたことに遭遇すると人は、うそ(否定)、ほんと?(疑惑)、信じられない(不信)と、拒絶的態度に出る

 

一人の人物やその思想を理解しようとするならば、まずその人の性格、その生きてきた環境、生い立ちを見つめてゆかねばなるまい

Images-3_20200702184601

中村天風翁は生前に 言い残している 「世の中のためになるなら私が言ったといわなくっても構やしない どしどし人に話せ  いちいち私の了解をとるな 私の教えは天の教えだからだ 私の名前などどうでもいい」

【注釈】 関ヶ原の天下分け目の戦いの西軍の将(司令塔)「石田三成」と言えどもその出自は全く不明のままである イエスキリストも然り 世界中が祝う12月25日キリスト生誕の日 これとて羊たちの生息の厩でと伝わるが「あり得ない話なのでsる」⇒どうやら4月17日という説が真説のようである

天風翁は次のようにも語っています 「わたしの講演を聴き なるほどと思い実行し実証した人は数知れない それが啓発されたものだとしても いつしか自説になっても それは最早や自己のものにした人のものである」と

Images-4_20200702185001

そしてこうも云っていた「世の中のためになるなら 私が言ったといわなくっても構やしない どしどし人に話せ いちいち私の了解をとるな 私の教えは天の教えだからだ」

 

また「模倣も極致に到達すると 真実と同様になる この真理にのっとって善いということは極力 模倣に専念すべきである 理屈抜きで先ず優れた人の言行を ひたむきに模倣すべし」と

 

そのように云われたところで 天風翁の歩んできた歴史だけは 他人が自己のものとするわけにはいかない天風翁の生きた証は紛れもなく天風翁自身の個人の歴史にしかないことを こころして於くべきだ

Images-8_20200518093101

多くの口述本・文字お越し・テープお越し・自らの著述本(成功の実現ほか7冊)などには 必ず簡略であっても天風翁のプロフィールが書かれてあるのだが史実として残されている文書等を検証すると 明らかに記述の誤りが見出されるのである

 

天風翁は講演(当初は主に公園で口演かな)で 本論に入る前に落語で云う“まくら”として自身の身上を体験談とともに話された そこでは史実にそれは年月であったり場所であったり 天風翁があまり留意されなかったのでしょう   また思い違いを繰り返し話されることが時に応じてはということもあり

 

天風翁は本論で話される”教え“は人と人との人格とのふれ合いの因縁によって伝えられるものとの信念がつよく 最初の頃の口演内容の文字お越しとか録音とか残っているものも少なく(昭和30年ごろからのものでそれ以前はほぼないのではなかろうか)機器の性能とか技術などの問題もあっただろうから

 

4_202005180932013_20200518093201

  【現在の上野精養軒】     【大正8年頃の精養軒】

天風翁が上野の精養軒の前にある敷石の上に立ち手に持った鐘をガランガランと鳴らし 道行く人には「そこの道行く人たちよ」とでも語りかけ また界隈にいる人には手招きして「健康や運命は心の持ちようできまる 病気でも不幸でも必ず立て直すことができるもんだし その人の心次第で幸せになれる」

 

Images-7_20200518093501 Photo_20200518093601

と後の「心身統一法」につながるであろう話をやさしく語り始めた 時には講談を交えたりして 声をかけたのが大正8年6月8日から数えて ことし2019年は100年目にあたる

Images-5_20200702185401

■■■

天風の出自には多くの話・それも天風の本を何冊も書かれている作者たち 弟子もいれば弟子ではないが天風を啓蒙してやまない人も また天風自身が思い違いか・勘違いからか誤った祖先の名を講演でしばしば使い その口述本にも記載があったりして意見がお飛び交っていて どれが本当のことなのか

 

調べるに値ありと考えていたところに2019年2月に それらの教えとはかけ離れたこととは云え 600年も前の東と西の雌雄を決する あの「関が原の戦い」に ある戦国武将が開戦に間に合っていれば 西軍が勝利していたかも知れないとのネット記事を見つけた 

Images-6_20200702185601

その武将というのは 歴史シュミレーションゲーム「信長の野望」などで お城・よろい(鎧)&かぶと(兜)の甲冑ブームで戦国武将人気ランキング第一位の武将で 九州筑後の国の武勇卓越した武将でした 天下を統一した あの秀吉に「その忠義・武勇 まさに鎮西一(九州) 天下無双の武将である」と言わしめた「立花宗茂」という武将である

Images-11_20200518103101

NHK大河ドラマにと福岡【筑後】ではネットで全国に応援支持会員を募り盛り上がりをみせている・・「立花宗茂」だけではなく実父の「高橋紹運」・養父の「立花(戸次)道雪」・そして「道雪」のひとり娘でもあり「宗茂」の妻となった立花誾(ぎん)千代といずれも話の話題づくりには こと欠くことはない 

 

子の出自を知るには親を知ることで さらに祖父を知り高祖父の出自まで調べることで出自が分かるのではと考えたところで「立花宗茂」で検索して見ると天風の名前の由縁にもなった 剣術⇒居合い・抜刀流“隋変流”の開祖とある ならば中村天風の高祖父であることの所以 そしてまたネット時代の為せるワザなんでしょうね 立花家の系図も出てきたのですから 

 

「中村天風」の高祖父が筑後の国柳川藩の藩主立花家に継承されている既成年譜から「立花道雪」とわかった ただし道雪は立花を名乗ることがなかった

 

「道雪」は百戦錬磨(37戦37勝)の武勇高き 大友家の重臣であった 幾度となく大友家との確執があり 戸次(べっき)鑑連(道雪のこと)は立花氏の跡継ぎとして高橋紹運の子の高橋統虎(むねとら、宗茂の初名)を養嗣子として迎えようとした(道雪と紹運は共に大友氏の庶流にあたる)

 

Photo_20200702185801

     【戸次(本来なら初代立花家藩主)】

初代立花家を継いだのが宗茂である 中村天風とその父中村祐興との関わりが出てくるのが9代の鑑賢(あきかた)からである 鑑賢は父である鑑一(あきかず)が早世したため嫡子(長男)として継承すべきところ4歳では儘ならず改易を避けるべくして鑑一の弟に継承したり養嗣子にしたりと画策し 晴れて9代目立花家の藩主となる

 

【立花家の系図】・・・(以下の系図は公開 まかりならぬ とありここだけに留め置き下さい)

 

田中家・・改易(本来は筑後国柳川藩の藩主であるべきところ継嗣に恵まれず)

 

田中吉政1600-1609

田中忠政1609-1620

無継嗣、改易

 

Images-8_20200702190201

 

そこで立花家が継承した 「立花道雪」が初代藩主となるべきところ大友家との確執から「道雪」は 嫡男にも恵まれず 予てから自身の嫡男にと想いをはせていた同じ大友家に使える「高橋招雲」の嫡男「宗茂」を養子に迎えたいと「招雲」に折衝 本来ならありえないことながら「道雪」の息女に9歳で城督していた「ぎん千代」を嫁として柳川藩主となった

 

《立花家の既成年譜》・・・(個々の注釈は勝手に付け足ししました)

 

    立花道雪

初代    【宗茂】(高橋招雲の嫡男)

2代    【忠茂】(宗茂の弟 宗茂に子が無かった)

3代         【鑑虎】

4代    【鑑任】

5代    【貞淑】

6代    【貞則】

7代    【鑑通】(あきなお)鑑門の子・・孫・鑑賢は立花鑑門の死去により、祖父鑑通の嗣子となったが1793に早世

 

8代    【鑑寿】(あきとし)鑑門の子立花鑑寿その跡を幼少の鑑賢が継ぐわけにもいかず 家督は叔父で鑑一の弟・立花鑑寿が継いだ。

 

9代    【鑑賢】(あきかた)筑後国・柳河藩の第9代藩主 第7代藩主・立花鑑通の嫡子だった立花鑑一の長男。母は立花茂久の娘 正室は第8代藩主 立花鑑寿の娘

      7代藩主立花「鑑通」の嫡子であった「鑑一」の長男であったが               「鑑賢」が4歳のときに父「 鑑一」が早世 家督を継ぐわけにいかず 祖父「鑑通」の嗣子となって年を得て正当相続した

 

10代    【鑑広】(あきひろ)「鑑賢」の長男として家督を継ぐも11歳で病死 また当然ながら子もおらず 末期養子の許可も下りておらず このままでは改易となるため 「鑑広」が生存していることにしようと「鑑賢」が辻褄合わせの策略を描いたのだ

11代    【鑑備】(あきのぶ)兄「鑑広」が天■したため急遽 立花家の存続のためにも替え玉にならざるを得なかった (次男)娘(内藤政義正室)

 

【なんと明治35年(1902)まで極秘事項とされ守り抜かれた】

 

12代    【鑑寛】(あきとも)18歳で家督相続

 

≪天風翁の出自の不可思議をひも解く祖父から❷≫・・・に続く

3_20200518105501

| | Comments (0)

≪プラナヤマ呼吸法は人工呼吸器のような!人工肺(ECMO)のような!≫≪情報や本舗≫

 

 完全に終息しない新型コロナ対策で「ヨガ」の呼吸法が見直されて規定います中村天風師はインドで大僧正「カリアッパ大僧正」から秘策の呼吸法を直に学んだのが明治の頃です⇒プラナヤマ呼吸法と言います・・・

Images-7_20200518044901

風邪にかかわらず 病になったとき「1日も早く治してしまおう」 これがいけないんだよ「早く治そう」とすると その気持ちが先に出て 正しい処置をしなくなる 風邪を引いたときは自然法則に順応した処置をとること そう風邪を引いたら 安静にする これだけだ

「本当に病を治すには、体全体に、自然の法則を応用して、体の中で病を起こすもととなっているものを体の外へ追い出すように力づけてやらなきゃいけないんだよ」

 

Images-2_20200630075401

病人というのは、体内に毒素や病原菌などが蓄積している人のことだ 病人の汗や呼気からは たくさんの毒素や老廃物 不純ガスを出している だから新鮮な空気を供給することが大事なんだ

「体内の病的物質を出来るだけ早く体の外へ追い出してしまわなきゃいけない。そこで、空気の中に存在する酸素の力で、その病的物質を1日も早く焼き尽くす

Photo_20200518045301

≪ココはまさにコロナウイルスにとりつかれ重篤になった人に使用している「体外式膜型人工肺(ECMO=エクモ)」・・・透析と同じ仕組みで、血液をいったん体外に取り出し、酸素を供給してから体内に戻し 酸素の力を使ってまさに天風理論(基礎医学を学んでいますからね)焼きつくすという言葉!好いですね≫(テンボスモリ)

 

Images-8_20200518045801

 

「病で恐るべきものは、寒い風でもなければ、その部屋が乾燥しているようなことでもない それよりも恐るべきことは 新鮮な空気を絶え間なく供給してやることを怠ることのほうだ」

それなのに、換気もしないでいると 部屋の中は毒素や不純ガスで充満してしまう そうなると 病人だけでなく その部屋で看病している人にも良くないんだよ

≪船に監禁?して換気しなかった重大な間違いは この初期措置を天風先生はきっとお嘆きになったことでしょうね≫  (テンボスモリ)

 

冬は「冷たい風は良くない」と思って換気をしない人がいるが それは逆効果だ わずかな時間でかまわないから換気をして新鮮な空気を供給することが大切なんだよ ただし直接 冷たい空気があたらないようにすること

 

「折りある毎に 時ある毎にたとえ一息でも二息でも深呼吸をしなさい 空気の新鮮 不新鮮よりも肺の抵抗力を強くすることが大切」

「深呼吸をするときは吸い込むことを先にせず  先ず肺の中を空っぽにすることを先にするんだよ 体内の病的物質を出来るだけ早く体の外へ追い出してしまわなきゃいけない 

 

 

 ≪人工呼吸器の活用・・・プラナヤマ呼吸法に通じますと解釈⇒呼吸する力が弱くなり、酸素不足になるだけではなく、二酸化炭素も十分吐ききれなくなり、体にたまってしまいます。こうなると、酸素を補うだけでは不十分で、過剰な二酸化炭素を排出する必要が生じます。そこで、機器を使って呼吸の補助をおこない、過剰にたまった二酸化炭素を排出し、酸素の取り込みを促します≫ (テンボスモリ)

「本当に病を治すには、体全体に自然の法則を応用して 体の中で病を起こすもととなっているものを体の外へ追い出すように力づけてやらなきゃいけないんだよ」

「最後に何故 心の持ち方が大切かを説明する 人間の身体は細胞で出来ているがその細胞の中にも神経がある 従って心の状態が消極的になると神経を通じて その影響が細胞に出る このように心というものが結局 人生支配の総司令官だと思えばよい」

3_20200518051901

 

財団法人中村天風会の会員「石田純一」も 心図らずも(ゴルフ場らしい?)コロナ陽性と判定され入院加療…おそらく天風の教え「プラナヤマ呼吸法【上記の呼吸法】をベッドの中でも実践していたものと考えたい・・・もちろん近代医療の賜物であるには違いないのだが コロナ克服良かった良かった

            

| | Comments (0)

天風翁が直筆の『統一法践行偈辞(とういつほうせんこうげじ)』と言うもの【誦句集=黒表紙である】

 

 

                                    

話を戻して、お送りいただいたファイル①は32年版の天風翁が直筆の『統一法践行偈辞(とういつほうせんこうげじ)』と言うもの【誦句集=黒表紙である】

「今日一日 怒らず 怖れず 悲しまず」で始まる「誓詞」を始めとして、「私は力だ。力の結晶だ」で始まる「力の誦句」など、心を鼓舞され、また虚心平気の心境に導かれる中村天風による命の言葉。

76822_n_2
            【この力!この強さ!・・・・】

 

 

現在の「力の誦句」では、冒頭「私は力だ、力の結晶だ」 と始まるところ、32年版では 「私は万物の霊長たる人間である。しかも人の命は力の結晶である」と始まっている。

 

 


これを我々にどう伝えようかと天風先生は思考して、工夫を重ねた結果、最初の言葉を 私は力だと置き換えられたのである。これには大きな意味がある、と村里泰由先生は言われる

Niv3

すなわち「これは 万物の霊長である人間 てあるから 私は力だ」 とい言う。天風哲学の土台となる自己認証を最初に確実にさせるための誦句なのである

 

 

32年版の 私は万物の霊長たる人間である をどう掴みとるかが 真理瞑想の大きなポイントであり、理性で理解するのではなく、霊性的直感でとらえる

0lp0ho

 


≪村里先生は ああ 、そうだったのか とヒラメキを実感することが重要である≫と「機関紙「志るべ」(9月号)で説かれている

A42r6yc

この「統一法践行偈辞」は、村里先生がお住まいの飯能の100歳を超えてなくなられた天風会の会員のご子息がついぞ最近、持って来られたそうです・・・・本当に素晴らしいものを頂戴いたしました

| | Comments (0)

【ソリロキズム】

 

Photo_20191119073201

     ≪古書「ソリロキア」-紀元300年代の本ですぞ≫

【chrome】をグーグル検索してみたが、天風師に関わることしかヒットしない⇒すなわち天風翁の造語ではないかと?と情報や本舗は解釈しました!そこでさらに検索中に「ソリロキア」!という言葉が出てきた、

Photo_20191119072501

調べるに紀元354年ー430年の守護聖人「アウグスティヌス」の最初の著書といわれる「≪ソリロキア≫」でこの意味が”私との対話”(昭和17年の古書ー翻訳版)”自分が自分へ話しかけ”ということは”つぶやき”じゃないですか!

Photo_20191119072502

「アウグスティヌス」にとっての真の転換は≪ソリロキア≫による瞑想の発見!ソリロキアは「一人で語りあう」という意味の「アウグスティヌス」にとってはどうしても必要だった想像力による対話方法である・・・と「告白論」?で論じている

Images-11_20191119072601 作者の聖人「アウグスティヌス」

 

中村天風師は古書「ソリロキア」を読破したのでしょう 自身のためにではなく 心に悩みを抱えている多くのひとに教唆して役立つことになるのならと紀元1900年に蘇られさせたのですよね

天風師の口述本の一つ「心に成功の炎を」<研心>の篇・第4章 心の正体に「ソリロキア」の言葉が出てきます 如何に書き込み

Photo_20191119074601

だから とにもかくにも 本能心の中の掃除をしなきゃいけないんですよ


さあ いよいよ時間がないから方法を教えるが まず第一番に必要なのは すでに教えられたあの三つの方法。観念要素の更改と積極観念の養成と神経反射の調節ね。これはむろん一生懸命やらなきゃだめですぜ

・・・・・・・・・(中略)・・・・・・・・・・・・・

それからもう一つ必要な方法は 低級な欲望や劣等感情情念がヒョイと心の中に発動してきたなと思ったらね ソリロキズムというのをやってもらいたい。日本語に訳すと<つぶやきの自己暗示法>と言いましょうか

ソリロキズム。何も口の中でブツブツ出さなくていいんです。それは 心知ったる人の前なら構いませんけれど 知らない人の前で口でブツブツ言うと おかしいなこの人 気でも違ったかなと思われるからね。

要するに 観念でひとりごとを言えばいいんですよ。それを否定するつぶやきを心の中でやればいいんです。<こんなことに腹が立つか。こんなこと悲しくない。自分はそれより以上すぐれた心の持ち主だ>というふうに 自分自身が一人でつぶやくのを ソリロキズムというんであります。これがまたばかに効き目があるんです。

 

                 Images-6_20191119072701
 

 

 

 

| | Comments (0)

≪天風門人となる者≫≪情報や本舗≫

Images-25_20200608140401

 

皇族、政界・実業界・医学会・軍部・芸能界・スポーツ等々の重鎮をはじめ各界の頂点を極めた幾多の人々が「生涯の師」として心服した。昭和43年没後も、平成・令和となっても 天風門人となる者が後を絶たない

6_20200608140501

 

   【さてさて その名前をジャンル別に列記しました】




≪政治の世界≫

原 敬(元首相)・尾崎行雄(元法相・憲政の神様とも)・村田省蔵(商工相・大阪商船元社長)重宗雄三(元参議院議長)・佐藤義詮(元大阪府知事)・内海倫(元防衛事務次官・元人事院総裁)・園田直(元厚生相・外相)・庄野五一郎(元水産庁長官)・佐々木義武(元通産相)・尾身幸次(元科学技術庁長官・元財務大臣)・ 山内一次(元鉄道大臣)・後藤新平氏(内相、満鉄総裁・東京市長)・横田千之助(司法大臣)・駒形作次(原子力委員会元理事長)・

 

≪経済・実業の世界≫

松下幸之助(松下電器産業創業者)・浅野総一郎(浅野セメント創業者)・稲盛和夫(京セラ名誉会長第二電電創業者・日本航空会長)・山中鏆(東武百貨店元会長)・永守重信(日本電産創業者)・長谷川直蔵(日本ペイント元社長)・倉田主税(日立製作所元社長)・飯田清三(野村証券元社長)・渡辺安太郎(大和証券元社長)・駒形作次(原子力委員会元理事長)・株木正郎(日立セメント元社長)・越後正一(伊藤忠元社長)・山本宗二(東急百貨店元副社長)・向野達児(東レメディカル相談役)・砂野仁(川崎重工元社長)・小保方宇三郎(講談社最高顧問)・素野福次郎(TDK相談役)・星一(星製薬の創業者で作家・星新一の父親)・ロックフェラー3世・村田省蔵(大阪商船元社長・堀越二郎(零戦設計者)

 

≪学術・芸術の世界≫

三島徳七(東大名誉教授・文化勲章)・杉浦重剛(儒学者)・石川素童(鶴見総持寺禅師)・池田寅次郎(大審院院長・元中央大学総長)・北村西望(長崎平和祈念像製作者・文化勲章)・堀越二郎(「零戦」設計者)・松田権六(漆芸家・文化勲章・人間国宝)・大佛次郎(作家)・宇野千代(作家)・ 今関常次郎 (農学博士)・和田一郎(哲学博士 )・杉原重剛(教育家)・御橋廣眞(名古屋大学名誉教授)・稲松信雄(東邦大学名誉教授)・おおいみつる(作家)・松原一枝(作家)

 

≪皇族・華族の世界≫

小松輝久(侯爵・元北白川宮輝久王)・上野正雄(伯爵)・甘露喜令室(伯爵)・有馬令室(伯爵)・三峰後室(公爵)・甘露喜令室(子爵)・日高壮之丞(男爵)・ 京極高徳(子爵) ・本田忠鉾(子爵)・山口弘連(子爵)・ 鮫島具重(男爵)・向井巌 (錦鶏間祗候 )・後藤新平(子爵)

※① 【甘露喜伯爵】・・・子の受長は昭和天皇侍従次長。のち明治神宮宮司
※② 【錦雛間祇侯】・・・きんけいのましこう・功労のあった華族や官吏を優遇資格

 

≪医学の世界≫

額田豊(医学博士)・松浦爛根(医学博士) 杉田直樹(医学博士)・島田廣(医学博士) 中尾太一郎(海軍々医中将)・松本光正(医師)・中尾太一郎(海軍軍医中将)

 

≪軍部の世界≫

山本五十六(元帥)・東郷平八郎(元帥)・山本英輔(当時海軍大学校長・海軍大将)・大迫尚道(陸軍大将)・本郷房太郎 (陸軍大将 )・ 山本英輔(海軍大将)・ 野田鶴雄(海軍造船中将)・ 土山哲三 (海軍少将)・ 臼井國(海軍少将)・上泉徳正(海軍中将)・ 堀内三郎(海軍中将)・西義一(海軍少将)・菱田菊次郎(陸軍少将)・山内一次(前鉄道大臣)

 

Haze34

≪司法・司直の世界≫

岩松三郎(初代最高裁判事・法務省特別顧問)・ 池田寅次郎(大審院院長・元中央大学総長 )・ 松寺竹雄(朝鮮法務局長)・ 清水孝蔵(大審院判事)・大谷喜一郎(皇宮警察部長)・向井巌 (検察官 )・今関常次郎(司法省民事局長)・


Haze34
≪芸能の世界≫

7代目松本幸四郎(歌舞伎俳優)・市川海老蔵(歌舞伎俳優)・石田純一(俳優)・6代目三遊亭円生(落語家)・

 

Haze34

≪スポーツの世界≫

双葉山定次(日本相撲協会元理事長・横綱)・西竹一(五輪馬術金メダル)・広岡達朗(野球評論家)・大谷祥平(現大リーガー)・伊達公子(元テニスプレーヤー)・松岡修造(元テニスプレーヤー)・北葉山(大関)・九州山(小結・本場所と準場所で87連勝中だった双葉山を破った力士)・ 西竹一(オリンピック馬術金メダル)・藤平光一(武道-合気道

 

 

____________ __________ ___________

 

天風先生の皇室に関わりがあったことの検証です・・・・

大正13年12月18日と大正14年15,16,17日の2回、中村天風先生は小松輝久侯爵に同行し、皇族各宮の

午前に於いて精神療法について講演をせられたことである 日本の精神療法家・霊術家で皇族各宮の午前で

講演したものは実に天風先生をもって 他に聞き及びがない

 

 

 

| | Comments (0)

≪天風先生座談≫≪帯の推薦文は松下幸之助が≫≪情報や本舗≫

7_20190919053301

 

『天風先生座談』帯の推薦文は松下幸之助さんが書いています。宇野さんが きっと直接頼んだのでしょうかね

松下さんは、初期の頃に講演を聴きに来ていたようなので、39年に初めて講演を聴きに来た宇野さんとは面識は無かったと思うのですが?現在の出版物で、松下幸之助が天風先生について語っている唯一のものではないでしょうか?

51piytgfuhl_sy344_bo1204203200_

 

【帯書き】・・・「誰しも倖せをもとめながら、それが得られないのが人間の現実の姿。これはいったいどういうことであろうか。天風先生は波瀾万丈のその体験を通じて、生きるか死ぬかというギリギリのところで、その一つの答えを身をもって悟られた方だと思う。 

その説かれるところきわめて明快 しかもまことに面白く 思わずひきこまれて読みすすむうちに 知らず知らずに人間として大切なものを教えられる思いがする

 推薦 松下幸之

Images-15_20190919053401  
そこへ天風が「今度ね、自分の頭の中に舞台をこしらえて、その中でいろいろ、あの女とこの男とひっつけよというふうに躍らせながらそいつを書いていったら好いだろう」と

さらに「出来ないと思うものはできない! 出来ると信念することは どんなことでも出来る!」とも言った

 

                          3_20190919053401

 

そこで「いい事聞いた!」・・・宇野千代はそれいらいスランプを脱し、書く文章も変った

Images-16_20190919053401 「私はオンナ天風である!」とも言っていたそうですよ

| | Comments (0)

≪成功の実現≫≪中村天風≫≪情報や本舗≫

51dt2oeyxol_sx362_bo1204203200_

なぜ 各界の頂点を極めた人々が「生涯の師」として中村天風師に心服したのか  天風師の 波乱の半生から得た「人生成功の哲学」は 触れるものをたちまち魅了し 皇族、政財界の重鎮をはじめ各界の頂点を極めた幾多の人々が「生涯の師」として心服した

「座談の名手」として定評のあった中村天風師の録音テープの発見を機に その積極的な「人生成功の哲学」と魅力の全貌を、誰にも分かりやすくしかも面白くまとめた 天風師の「成功三部作」の最初の一冊で 成功開眼の書である(1988年に発刊)

 

【目次】
「力」の篇 人生礼讃・真の積極・悟入転生―天風自伝
「勇気」の篇 恬淡明朗・より強く、逞しく・もはや何ものも恐れず
「信念」の篇 新天地を拓く・幸福の醍醐味・大いなる我が生命の力・成功の実現
各編を一部引用しました・・・以下

■■■「力の篇」■■■   

Photo_51 ≪第1章≫ 人生礼賛より

・・・心と体がうって一丸とされたものが生命である以上、”心と体の両方”をです、自然法則に絶対にそむかせないようにすることです。自然法則にそむかないようにするには一体どうすればいいかというと、第一に「心」の態度を終始一貫いかなる場合であろうとも積極的であらしむることです。積極的であらしめるということは、尊く、強く、正しく、清く生きることなんであります。およそこのことぐらい人生及び生命に対して大事なことはないのであります。


それから「体」のほうは、常に訓練的に積極化するということを心がけなければいけません。つまり、秩序をおってだんだん慣れさせる。以上が”生命生存確保”の大事な要諦なのです。

・・・「心身統一法」によってその内容量をふやす力、第一が体力であります。第二が胆力、第三が判断力、第四番目が断行力、第五番目が精力、第六番目が能力。この六つの力が生命の中にその内容量を豊富にしていいない限りは、どんなことをしても完全健康と完全運命を自分の人生のものにすることはできないのであります。

・・・そして、人生という現実の世の中に生きる自分を、本当のリアリストとして生かさなければだめです。夢のような現のような、おとぎ話のような、自己欺瞞で人生を過ごしてしまったのでは、二度と繰り返すことのできないこの人生、もったいないです。


あっそうか、と気のついた時が新しいバースディであります。自己に新しい百八十度コンバージョン(転換)を与えるバースディをつくるかつくらないかは、あなた方の自覚に待つのみであります。


Photo_51 ≪第2章≫    真の積極より

・・・極論しますと、人生の一切合財のすべてがこの積極的精神というもので決定されるためなのであります。心の態度が積極的だと、お互いの命の全体が積極的に運営される。その反対に消極的だと、またその通りに全生命の力が消極的に委縮せしめれらてしまう。

・・・「陽気の発する処金石また透る」(「心が強くなる言葉」でUPしました)

・・・積極的精神をつくる心得。第一に準備として必要なことは、平素の人生に生きる場合に、何事の場合でも、出来るだけ自分の心を強く持つ努力をすることです。

・・・準備の第二としては、日常の人生に生きる際に、健康に対しても、また運命に対しても、今現在の自分の心は積極的かしらん、消極的か知らんということを、厳格に第三者の心になって、常に検討することが、必要なのであります。
そして、少しでも自分の心の中に消極的なものを感じたならば、断然それを心の中から追い出してしまわなければいけない。己の心の中にあるものは、己の心を明るく、朗らかにするもののみ、という心掛けが必要なんです。

・・・第三に必要なことは、自分では気がつかないが、他の人の言葉や行いのなかの消極的なものに自分の心を同化せしめないこと。・・十分に注意しないと、本当に恐ろしい結果が来てしまう。

・・・第四は、これも多くの人が気がつかずに盛んにやっていることなんですけれど、取り越し苦労ということ。これはもう断じてすべからざることなのです。・・昔の人の言葉に「さし当たる事柄のみをただ思え、過去は及ばず、未来は知られず」また「心は現在を要す、過ぎたるは逐(お)うべからず、来たらざるは遨(むか)うべからず」

 

読、成功開眼の書。発刊以来、全国の社長から絶賛の声がやまない衝撃のロングセラー!

 

≪第3章≫    悟入転生(天風自伝)

Images-1_2

    ≪第4章≫    恬淡明朗より


・・・人間の夜の寝際の心は、「特別無条件同化暗示感受習性」という状態になっているのよ。つまり、無条件で同化しちまう暗示感受性があるんです。ですから夜の寝際にちょいとでも、それが嘘でも本当でも、良きにつれ悪しきにつれ、考えた事はそのまま感光度の速いフィルムの入ったカメラのシャッターを切ったと同じ、パーッと潜在意識に刻印されちまうんです。

・・・つまり、明るく朗らかに、生き生きとして勇ましい気持ちを持たせればいいんだよ。それだけを毎晩毎晩やってごらんよ。それだけを毎晩毎晩やっていると、どんどん心の中がキレーイに洗われてくるんだ。

・・・人間の精神生命のなかには、「暗示の感受習性」というのがある。だから、一言言うのでも、この暗示の感受習性が、自分じゃ気がつかなくとも、かならずすぐに感じて、感じると同時に潜在意識に対して、その通りの状態で働き出す。潜在意識の状態が実在意識の状態に同化してくる。
そしてその結果が、気高い言葉、神聖で高級な言葉、いいかえれば、積極的な言葉を表現した場合には、生命の一切が極めて状態のいい事実になって現われてくるけれども、万が万一、消極的な怒りや恐れや、悲しみや悶えや、迷いや悩みが遠慮なく口から出される場合には、それが恐ろしい結果を神経系統の生活機能に与えちまうんだ。

・・・だからねえ、つねに積極的な言葉を使う習慣をつくりなさい。習い性となれば、もう大した努力をする必要ないもの。「習慣は第二の天性」だから。常にあとうかぎり善良な言葉、勇気ある言葉、お互いの気持ちを傷つけない言葉、お互いに喜びをよく与える言葉を実際につかう習慣をつくりなさい。

・・・言葉はねえ、言霊というのが本当なのよ。言葉というものは魂から出る叫びなんだから。

・・・人間はやっぱり、始終感謝の気持ちを頭の中に持って生きるということ。そうすると、不平や不満というのは無くなる。感謝を知らないで生きてる奴は罰当たりだ。

・・だから、常にできるだけにこやかな人生に生きて、何事に対しても感謝を先にして、そして喜びの人生に生きなさい。・・人生は心ひとつの置きどころ。

 

■■■「勇気の篇」■■■


≪第5章≫    ”より強く、逞しく” より


・・・インドでヨガ哲学のなかの一番階級の高い、ラジャとカルマの哲学を研究・最高の精神方面のヨガなんです。あなた方の知っているヨガは、アクロバットみたいなヘンテコな格好をするインド乞食のやる方法だと言います。(⇒)「クンバハカ」という方法を悟れた。

・・・肛門とお腹と肩。腹が立つこと、心配なこと、何かにつけて、感情、感覚の刺激衝動を心に感じたら、すぐに肛門を締めちまう。そして、おなかに力を込めると同時に肩を落としちまうんだ。この三か所がそうした状態にされた時に初めて感情や感覚の刺激衝動が、心には感じても神経系統に影響を与えないという、いわゆる影響を減ずる効果がある。

・・・そこで習慣をつけるのにいちばんいい一石二鳥の方法がある

・・・折りあるごとに時あるごとに、日に何千回でもいいから深呼吸をすることを稽古なさい。肛門が締って、肩が落ちて、おなかに力が入る

・・・出す時が肝心なのよ。深呼吸は出すだけ。その時に肛門は締めて置いて、肩だけおとして、腹のほうは考えないで、息を出すだけ出しちゃう。出しちゃって出し切ったなと思った時に、改めてまた肛門を絞めて、肩を落として置いて、息を吸い込む。いっぱい吸い込んだときにおなかにぐっと力を入れて、そしてまたハーッと出す。

 

 ≪第6章≫    ”もはや何ものも恐れず” より


・・・見えない一つの気が、現象世界にその生命を表現しようとする場合に必要な道具として与えられたのが肉体と心なんです。だから、肉体を使うだけ使えば、この気はその肉体という道具をもう使て行かれないから、肉体から離れるだけなんです。

・・・どんな場合であっても、肉体が自分だなんて下等な気持ちで、人生に生きちゃいかんぜ。そうかと言って、心が自分だと思うと、人生を生きる場合に非常に生きづらい負担を余計に感ずるという結果がくるのよ。なぜだというと、心が自分だと思うと、精神至上主義に知らざる間に人生観がおちいっちまうんです。

・・・霊魂というものは、無条件で宇宙本源に還元する。宇宙本源そのものの在り方は、眞、善、美いわゆる本心、良心なんだから、なんの汚れもなければ濁りもない。ありのまま、そのままなんだ。したがって眞、善、美という心の能動は、いずれの時代が来ても変わりはない。

・・さあて、この言葉だ。「あるがままに生きる」

・・・人生かくのごとく、大局に立って静かに考えるときに、人生というものは厳しい姿であると同時に、また生きる上にこの本然の自覚があれば、まことに生きよい世界だってことがわからない?

 

■■■「信念の篇」   

≪第7章≫   ”新天地を拓く” より


・・・生命は、命を生かしている根本要素である霊魂が主宰権を持っているんだ。この真理をあなた方が悟れれば、悟ると同時にそれは確固たる信念になります。

・・・もっとはっきり言うと、自分というものを知らず知らず心の奴隷にしているために、年中煩悶や苦悩の虜になっているんです。

・・・そもそも意志というものは、人間の心のなかの最高級な霊性心をすらその支配下に従えているという、絶対的な権能があるんだよ。これは霊魂が持っている固有性能だもん。心の中から意志が出るから、心から湧いて出る様に思ったら、とんでもない間違いだよ。・・ともかく意志力を一日も早く完全に出しうる人間になることを努力なさい。

・・・積極観念の養成の第一は「内省検討」同じく「暗示の分析」。一番難しいのは、「交人態度」と「苦労厳禁」ってことだ。

・・・現在苦労はもちろんいけない。取り越し苦労ももちろんいけない。そうかといって、持ち越し苦労も、もろにいけない。

・・・補助的な手段としては、出来るだけ積極的な人と交わりなさい。

・・・自分のことを第三者の立場に立って考えるように習慣づけなさいって言うんだよ。すると、心の統御上、全く格段の相違が出来てくる。
  さ、少しでもこの言葉の真似が出来る人は幸せ。そうすればまったく違う人間になれるぞ。


≪第8章≫    ”幸福の醍醐味” より


・・・何かなしにあなた方の心はとらわれてるぜ。そうすると、心は自分の生命を監督するために働かさなければならないのが、感情や感覚の奴隷になっちまう。そうなったら、もう実に人間は惨め以上の哀れなものになっちゃう。

・・・とにかく、「観念要素の更改」「日常の心がけ」「積極観念の養成法」「神経反射の調節」という方法を熱心にやってると、自然と不必要な雑念や下らない妄念や、その他の邪念は、別に自分が非常な努力をしなくっても心の中から消え失せるんですよ。それが自然現象なんだもの。

・・・意識を明瞭にして、はっきりした気持ちをもつってことを心がけの第一にしなければだめじゃないか。そうすると、正確に観念が集中する。正確に観念が集中すれば、黙っていても精神は統一されるんだ。

・・・自分の心を常にはっきり使う習慣をつけることを努力すれば、三年五年の後には自分でもビックリするような「霊性心意識」という、思ってもみなかった高級な意識状態が自分の心の中から発動するようになるんだよ。そうなると、どんな場合であろうと、自分の人生の出来事に心配する事もなければ、懸念する事もなくなっちまうだろう。

・・・インドの仏像には必ず額に星がついてます。これを第三の目という。

・・・つまり、霊性心意識のでたものはみんな第三の目をつけなければいけないというのことが、ヨガの哲学の何千年来の習慣なんです。

・・・霊性心意識が心の中からでるようになると、諸事万事、自分でも不思議なぐらいフウ―っと名案工夫が出てくるんです。

・・・執着というのは、心の前に生ずることや物に心がとらわれちゃって、その心を他の方面に円滑に振り向けることが出来ない。例えば病を持っていると病ばっかり首っ引き

・・・そういうこだわりから離れなければいけないんだよ、心が。自分が嫌な運命の中に生きてる場合でも、注意がもっと良い運命のほうに振り向けられていれば、たとえどんな運命の中に居たってそれを気にしなくなる。幸福を本当に味わおうと思う秘訣はここにあることを考えなければだめだぜ。

・・・「一切を肯定し、苦なお楽しむ」の境涯。幸福の達人となる要諦を説く

Images-7_2

≪第9章≫    ”大いなる我が生命の力” より


・・・自分一人の至福を越え、広く衆人に光栄をもたらす堂々たる人生の第一歩

・・・もう何千年も前に、仏教では心の大きいことを有名な「正法眼蔵」というお経の本に書いてある。・・心は広大無辺といわれる大宇宙よりも大きいんじゃないか。

 

第10章 成功の実現
・・念じた通りに次々と新たな夢や願望を必ず実現する「人生成功の哲学」の完全なる指針

・・想像力を応用して、心に念願知る事柄をはっきり映像化することによって、絶えざる気持ちでぐんぐん燃やしていると、信念がひとりでに確固不抜なものになる。

・・「思考は人生をつくる」という言葉の意味は、心はその人をつくりもし、また壊しもするという恐ろしいものなんだ。人生はまこと心ひとつの置きどころ。

・・もっと簡単にわかりやすく言うと、潜在意識は人間の生命を生かし、また守る貴重な役割りを実行すると同時に、実在意識の思念するものを現実化するよう自然に努力を行う傾向がある。・・だから・・いわゆる想像力を応用して自分の念願、宿願をはっきりと心に描くことを絶え間なくやるという技術に完全に熟達しなさい。上手になりなさい。

 

Images-29_1

■■■「最後の言葉」■■■


「そして、その信念というものがもつ神秘的な感化作用、いわゆる奇跡以上の不思議は現実が生命に現われると言う事もわかってくるに違いない。ですから、この心理現象のトオトイ項目をほんとうに心を入れて活用して、天風会員としての本領発揮されたいことをほんとうにお願いします。これがきょうの悟りです。めったやたらと、こんなにわかりやく話してくれる人はありはしないぜ。」


「我はいま、我が心の奥深くに奇跡を行いうる神秘の力の潜在することを悟り得た そして、人はこの力を正しく活用することにより、人の値打ちを決定されることをも悟り得た さらにまた我は、この現実の悟りによりて、我が命のなかに新しい真の喜びに輝く尊い光を自覚する


同時に過去の一切の無価値より解脱して、格調高き価値ある人生へと今まさに鹿島立つ感激に我が心は炎と燃え立つそもや自己をつくるものは自己であるしかも自己を正しくつくらんには、まず自己を正しく律するにある


今やこの尊い悟りを心に得た我は、いかなるときにも我が心の中に純にして正なる連想の観念を不断に燃やし続けて、我が命を正しくつくる自律基盤の力をかりそめにも緩めざらんことを、つつましやかに己の心としよう」

 

| | Comments (0)

より以前の記事一覧