【中村天風】

【ソリロキズム】

 

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     ≪古書「ソリロキア」-紀元300年代の本ですぞ≫

【chrome】をグーグル検索してみたが、天風師に関わることしかヒットしない⇒すなわち天風翁の造語ではないかと?と情報や本舗は解釈しました!そこでさらに検索中に「ソリロキア」!という言葉が出てきた、

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調べるに紀元354年ー430年の守護聖人「アウグスティヌス」の最初の著書といわれる「≪ソリロキア≫」でこの意味が”私との対話”(昭和17年の古書ー翻訳版)”自分が自分へ話しかけ”ということは”つぶやき”じゃないですか!

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「アウグスティヌス」にとっての真の転換は≪ソリロキア≫による瞑想の発見!ソリロキアは「一人で語りあう」という意味の「アウグスティヌス」にとってはどうしても必要だった想像力による対話方法である・・・と「告白論」?で論じている

Images-11_20191119072601 作者の聖人「アウグスティヌス」

 

中村天風師は古書「ソリロキア」を読破したのでしょう 自身のためにではなく 心に悩みを抱えている多くのひとに教唆して役立つことになるのならと紀元1900年に蘇られさせたのですよね

天風師の口述本の一つ「心に成功の炎を」<研心>の篇・第4章 心の正体に「ソリロキア」の言葉が出てきます 如何に書き込み

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だから とにもかくにも 本能心の中の掃除をしなきゃいけないんですよ


さあ いよいよ時間がないから方法を教えるが まず第一番に必要なのは すでに教えられたあの三つの方法。観念要素の更改と積極観念の養成と神経反射の調節ね。これはむろん一生懸命やらなきゃだめですぜ

・・・・・・・・・(中略)・・・・・・・・・・・・・

それからもう一つ必要な方法は 低級な欲望や劣等感情情念がヒョイと心の中に発動してきたなと思ったらね ソリロキズムというのをやってもらいたい。日本語に訳すと<つぶやきの自己暗示法>と言いましょうか

ソリロキズム。何も口の中でブツブツ出さなくていいんです。それは 心知ったる人の前なら構いませんけれど 知らない人の前で口でブツブツ言うと おかしいなこの人 気でも違ったかなと思われるからね。

要するに 観念でひとりごとを言えばいいんですよ。それを否定するつぶやきを心の中でやればいいんです。<こんなことに腹が立つか。こんなこと悲しくない。自分はそれより以上すぐれた心の持ち主だ>というふうに 自分自身が一人でつぶやくのを ソリロキズムというんであります。これがまたばかに効き目があるんです。

 

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≪天風門人となる者≫≪情報や本舗≫

 

皇族、政界・実業界・医学会・軍部・芸能界・スポーツ等々の重鎮をはじめ各界の頂点を極めた幾多の人々が「生涯の師」として心服した。昭和43年没後も、平成・令和となっても 天風門人となる者が後を絶たない

 

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   【さてさて その名前をジャンル別に列記しました】




≪政治の世界≫

原 敬(元首相)・尾崎行雄(元法相・憲政の神様とも)・村田省蔵(商工相・大阪商船元社長)重宗雄三(元参議院議長)・佐藤義詮(元大阪府知事)・内海倫(元防衛事務次官・元人事院総裁)・園田直(元厚生相・外相)・庄野五一郎(元水産庁長官)・佐々木義武(元通産相)・尾身幸次(元科学技術庁長官・元財務大臣)・ 山内一次(元鉄道大臣)・後藤新平氏(内相、満鉄総裁・東京市長)・横田千之助(司法大臣)・駒形作次(原子力委員会元理事長)・

 

≪経済・実業の世界≫

松下幸之助(松下電器産業創業者)・浅野総一郎(浅野セメント創業者)・稲盛和夫(京セラ名誉会長第二電電創業者・日本航空会長)・山中鏆(東武百貨店元会長)・永守重信(日本電産創業者)・長谷川直蔵(日本ペイント元社長)・倉田主税(日立製作所元社長)・飯田清三(野村証券元社長)・渡辺安太郎(大和証券元社長)・駒形作次(原子力委員会元理事長)・株木正郎(日立セメント元社長)・越後正一(伊藤忠元社長)・山本宗二(東急百貨店元副社長)・向野達児(東レメディカル相談役)・砂野仁(川崎重工元社長)・小保方宇三郎(講談社最高顧問)・素野福次郎(TDK相談役)・星一(星製薬の創業者で作家・星新一の父親)・ロックフェラー3世・村田省蔵(大阪商船元社長・堀越二郎(零戦設計者)

 

≪学術・芸術の世界≫

三島徳七(東大名誉教授・文化勲章)・杉浦重剛(儒学者)・石川素童(鶴見総持寺禅師)・池田寅次郎(大審院院長・元中央大学総長)・北村西望(長崎平和祈念像製作者・文化勲章)・堀越二郎(「零戦」設計者)・松田権六(漆芸家・文化勲章・人間国宝)・大佛次郎(作家)・宇野千代(作家)・ 今関常次郎 (農学博士)・和田一郎(哲学博士 )・杉原重剛(教育家)・御橋廣眞(名古屋大学名誉教授)・稲松信雄(東邦大学名誉教授)・おおいみつる(作家)・松原一枝(作家)

 

≪皇族・華族の世界≫

小松輝久(侯爵・元北白川宮輝久王)・上野正雄(伯爵)・甘露喜令室(伯爵)・有馬令室(伯爵)・三峰後室(公爵)・甘露喜令室(子爵)・日高壮之丞(男爵)・ 京極高徳(子爵) ・本田忠鉾(子爵)・山口弘連(子爵)・ 鮫島具重(男爵)・向井巌 (錦鶏間祗候 )・後藤新平(子爵)

※① 【甘露喜伯爵】・・・子の受長は昭和天皇侍従次長。のち明治神宮宮司
※② 【錦雛間祇侯】・・・きんけいのましこう・功労のあった華族や官吏を優遇資格

 

≪医学の世界≫

額田豊(医学博士)・松浦爛根(医学博士) 杉田直樹(医学博士)・島田廣(医学博士) 中尾太一郎(海軍々医中将)・松本光正(医師)・中尾太一郎(海軍軍医中将)

 

≪軍部の世界≫

山本五十六(元帥)・東郷平八郎(元帥)・山本英輔(当時海軍大学校長・海軍大将)・大迫尚道(陸軍大将)・本郷房太郎 (陸軍大将 )・ 山本英輔(海軍大将)・ 野田鶴雄(海軍造船中将)・ 土山哲三 (海軍少将)・ 臼井國(海軍少将)・上泉徳正(海軍中将)・ 堀内三郎(海軍中将)・西義一(海軍少将)・菱田菊次郎(陸軍少将)・山内一次(前鉄道大臣)

 

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≪司法・司直の世界≫

岩松三郎(初代最高裁判事・法務省特別顧問)・ 池田寅次郎(大審院院長・元中央大学総長 )・ 松寺竹雄(朝鮮法務局長)・ 清水孝蔵(大審院判事)・大谷喜一郎(皇宮警察部長)・向井巌 (検察官 )・今関常次郎(司法省民事局長)・


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≪芸能の世界≫

7代目松本幸四郎(歌舞伎俳優)・市川海老蔵(歌舞伎俳優)・石田純一(俳優)・6代目三遊亭円生(落語家)・

 

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≪スポーツの世界≫

双葉山定次(日本相撲協会元理事長・横綱)・西竹一(五輪馬術金メダル)・広岡達朗(野球評論家)・大谷祥平(現大リーガー)・伊達公子(元テニスプレーヤー)・松岡修造(元テニスプレーヤー)・北葉山(大関)・九州山(小結・本場所と準場所で87連勝中だった双葉山を破った力士)・ 西竹一(オリンピック馬術金メダル)・藤平光一(武道-合気道

 

 

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天風先生の皇室に関わりがあったことの検証です・・・・

大正13年12月18日と大正14年15,16,17日の2回、中村天風先生は小松輝久侯爵に同行し、皇族各宮の

午前に於いて精神療法について講演をせられたことである 日本の精神療法家・霊術家で皇族各宮の午前で

講演したものは実に天風先生をもって 他に聞き及びがない

 

 

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≪成功の実現≫≪中村天風≫≪情報や本舗≫

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なぜ 各界の頂点を極めた人々が「生涯の師」として中村天風師に心服したのか  天風師の 波乱の半生から得た「人生成功の哲学」は 触れるものをたちまち魅了し 皇族、政財界の重鎮をはじめ各界の頂点を極めた幾多の人々が「生涯の師」として心服した

「座談の名手」として定評のあった中村天風師の録音テープの発見を機に その積極的な「人生成功の哲学」と魅力の全貌を、誰にも分かりやすくしかも面白くまとめた 天風師の「成功三部作」の最初の一冊で 成功開眼の書である(1988年に発刊)

 

【目次】
「力」の篇 人生礼讃・真の積極・悟入転生―天風自伝
「勇気」の篇 恬淡明朗・より強く、逞しく・もはや何ものも恐れず
「信念」の篇 新天地を拓く・幸福の醍醐味・大いなる我が生命の力・成功の実現
各編を一部引用しました・・・以下

■■■「力の篇」■■■   

Photo_51 ≪第1章≫ 人生礼賛より

・・・心と体がうって一丸とされたものが生命である以上、”心と体の両方”をです、自然法則に絶対にそむかせないようにすることです。自然法則にそむかないようにするには一体どうすればいいかというと、第一に「心」の態度を終始一貫いかなる場合であろうとも積極的であらしむることです。積極的であらしめるということは、尊く、強く、正しく、清く生きることなんであります。およそこのことぐらい人生及び生命に対して大事なことはないのであります。


それから「体」のほうは、常に訓練的に積極化するということを心がけなければいけません。つまり、秩序をおってだんだん慣れさせる。以上が”生命生存確保”の大事な要諦なのです。

・・・「心身統一法」によってその内容量をふやす力、第一が体力であります。第二が胆力、第三が判断力、第四番目が断行力、第五番目が精力、第六番目が能力。この六つの力が生命の中にその内容量を豊富にしていいない限りは、どんなことをしても完全健康と完全運命を自分の人生のものにすることはできないのであります。

・・・そして、人生という現実の世の中に生きる自分を、本当のリアリストとして生かさなければだめです。夢のような現のような、おとぎ話のような、自己欺瞞で人生を過ごしてしまったのでは、二度と繰り返すことのできないこの人生、もったいないです。


あっそうか、と気のついた時が新しいバースディであります。自己に新しい百八十度コンバージョン(転換)を与えるバースディをつくるかつくらないかは、あなた方の自覚に待つのみであります。


Photo_51 ≪第2章≫    真の積極より

・・・極論しますと、人生の一切合財のすべてがこの積極的精神というもので決定されるためなのであります。心の態度が積極的だと、お互いの命の全体が積極的に運営される。その反対に消極的だと、またその通りに全生命の力が消極的に委縮せしめれらてしまう。

・・・「陽気の発する処金石また透る」(「心が強くなる言葉」でUPしました)

・・・積極的精神をつくる心得。第一に準備として必要なことは、平素の人生に生きる場合に、何事の場合でも、出来るだけ自分の心を強く持つ努力をすることです。

・・・準備の第二としては、日常の人生に生きる際に、健康に対しても、また運命に対しても、今現在の自分の心は積極的かしらん、消極的か知らんということを、厳格に第三者の心になって、常に検討することが、必要なのであります。
そして、少しでも自分の心の中に消極的なものを感じたならば、断然それを心の中から追い出してしまわなければいけない。己の心の中にあるものは、己の心を明るく、朗らかにするもののみ、という心掛けが必要なんです。

・・・第三に必要なことは、自分では気がつかないが、他の人の言葉や行いのなかの消極的なものに自分の心を同化せしめないこと。・・十分に注意しないと、本当に恐ろしい結果が来てしまう。

・・・第四は、これも多くの人が気がつかずに盛んにやっていることなんですけれど、取り越し苦労ということ。これはもう断じてすべからざることなのです。・・昔の人の言葉に「さし当たる事柄のみをただ思え、過去は及ばず、未来は知られず」また「心は現在を要す、過ぎたるは逐(お)うべからず、来たらざるは遨(むか)うべからず」

 

読、成功開眼の書。発刊以来、全国の社長から絶賛の声がやまない衝撃のロングセラー!

 

≪第3章≫    悟入転生(天風自伝)

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    ≪第4章≫    恬淡明朗より


・・・人間の夜の寝際の心は、「特別無条件同化暗示感受習性」という状態になっているのよ。つまり、無条件で同化しちまう暗示感受性があるんです。ですから夜の寝際にちょいとでも、それが嘘でも本当でも、良きにつれ悪しきにつれ、考えた事はそのまま感光度の速いフィルムの入ったカメラのシャッターを切ったと同じ、パーッと潜在意識に刻印されちまうんです。

・・・つまり、明るく朗らかに、生き生きとして勇ましい気持ちを持たせればいいんだよ。それだけを毎晩毎晩やってごらんよ。それだけを毎晩毎晩やっていると、どんどん心の中がキレーイに洗われてくるんだ。

・・・人間の精神生命のなかには、「暗示の感受習性」というのがある。だから、一言言うのでも、この暗示の感受習性が、自分じゃ気がつかなくとも、かならずすぐに感じて、感じると同時に潜在意識に対して、その通りの状態で働き出す。潜在意識の状態が実在意識の状態に同化してくる。
そしてその結果が、気高い言葉、神聖で高級な言葉、いいかえれば、積極的な言葉を表現した場合には、生命の一切が極めて状態のいい事実になって現われてくるけれども、万が万一、消極的な怒りや恐れや、悲しみや悶えや、迷いや悩みが遠慮なく口から出される場合には、それが恐ろしい結果を神経系統の生活機能に与えちまうんだ。

・・・だからねえ、つねに積極的な言葉を使う習慣をつくりなさい。習い性となれば、もう大した努力をする必要ないもの。「習慣は第二の天性」だから。常にあとうかぎり善良な言葉、勇気ある言葉、お互いの気持ちを傷つけない言葉、お互いに喜びをよく与える言葉を実際につかう習慣をつくりなさい。

・・・言葉はねえ、言霊というのが本当なのよ。言葉というものは魂から出る叫びなんだから。

・・・人間はやっぱり、始終感謝の気持ちを頭の中に持って生きるということ。そうすると、不平や不満というのは無くなる。感謝を知らないで生きてる奴は罰当たりだ。

・・だから、常にできるだけにこやかな人生に生きて、何事に対しても感謝を先にして、そして喜びの人生に生きなさい。・・人生は心ひとつの置きどころ。

 

■■■「勇気の篇」■■■


≪第5章≫    ”より強く、逞しく” より


・・・インドでヨガ哲学のなかの一番階級の高い、ラジャとカルマの哲学を研究・最高の精神方面のヨガなんです。あなた方の知っているヨガは、アクロバットみたいなヘンテコな格好をするインド乞食のやる方法だと言います。(⇒)「クンバハカ」という方法を悟れた。

・・・肛門とお腹と肩。腹が立つこと、心配なこと、何かにつけて、感情、感覚の刺激衝動を心に感じたら、すぐに肛門を締めちまう。そして、おなかに力を込めると同時に肩を落としちまうんだ。この三か所がそうした状態にされた時に初めて感情や感覚の刺激衝動が、心には感じても神経系統に影響を与えないという、いわゆる影響を減ずる効果がある。

・・・そこで習慣をつけるのにいちばんいい一石二鳥の方法がある

・・・折りあるごとに時あるごとに、日に何千回でもいいから深呼吸をすることを稽古なさい。肛門が締って、肩が落ちて、おなかに力が入る

・・・出す時が肝心なのよ。深呼吸は出すだけ。その時に肛門は締めて置いて、肩だけおとして、腹のほうは考えないで、息を出すだけ出しちゃう。出しちゃって出し切ったなと思った時に、改めてまた肛門を絞めて、肩を落として置いて、息を吸い込む。いっぱい吸い込んだときにおなかにぐっと力を入れて、そしてまたハーッと出す。

 

 ≪第6章≫    ”もはや何ものも恐れず” より


・・・見えない一つの気が、現象世界にその生命を表現しようとする場合に必要な道具として与えられたのが肉体と心なんです。だから、肉体を使うだけ使えば、この気はその肉体という道具をもう使て行かれないから、肉体から離れるだけなんです。

・・・どんな場合であっても、肉体が自分だなんて下等な気持ちで、人生に生きちゃいかんぜ。そうかと言って、心が自分だと思うと、人生を生きる場合に非常に生きづらい負担を余計に感ずるという結果がくるのよ。なぜだというと、心が自分だと思うと、精神至上主義に知らざる間に人生観がおちいっちまうんです。

・・・霊魂というものは、無条件で宇宙本源に還元する。宇宙本源そのものの在り方は、眞、善、美いわゆる本心、良心なんだから、なんの汚れもなければ濁りもない。ありのまま、そのままなんだ。したがって眞、善、美という心の能動は、いずれの時代が来ても変わりはない。

・・さあて、この言葉だ。「あるがままに生きる」

・・・人生かくのごとく、大局に立って静かに考えるときに、人生というものは厳しい姿であると同時に、また生きる上にこの本然の自覚があれば、まことに生きよい世界だってことがわからない?

 

■■■「信念の篇」   

≪第7章≫   ”新天地を拓く” より


・・・生命は、命を生かしている根本要素である霊魂が主宰権を持っているんだ。この真理をあなた方が悟れれば、悟ると同時にそれは確固たる信念になります。

・・・もっとはっきり言うと、自分というものを知らず知らず心の奴隷にしているために、年中煩悶や苦悩の虜になっているんです。

・・・そもそも意志というものは、人間の心のなかの最高級な霊性心をすらその支配下に従えているという、絶対的な権能があるんだよ。これは霊魂が持っている固有性能だもん。心の中から意志が出るから、心から湧いて出る様に思ったら、とんでもない間違いだよ。・・ともかく意志力を一日も早く完全に出しうる人間になることを努力なさい。

・・・積極観念の養成の第一は「内省検討」同じく「暗示の分析」。一番難しいのは、「交人態度」と「苦労厳禁」ってことだ。

・・・現在苦労はもちろんいけない。取り越し苦労ももちろんいけない。そうかといって、持ち越し苦労も、もろにいけない。

・・・補助的な手段としては、出来るだけ積極的な人と交わりなさい。

・・・自分のことを第三者の立場に立って考えるように習慣づけなさいって言うんだよ。すると、心の統御上、全く格段の相違が出来てくる。
  さ、少しでもこの言葉の真似が出来る人は幸せ。そうすればまったく違う人間になれるぞ。


≪第8章≫    ”幸福の醍醐味” より


・・・何かなしにあなた方の心はとらわれてるぜ。そうすると、心は自分の生命を監督するために働かさなければならないのが、感情や感覚の奴隷になっちまう。そうなったら、もう実に人間は惨め以上の哀れなものになっちゃう。

・・・とにかく、「観念要素の更改」「日常の心がけ」「積極観念の養成法」「神経反射の調節」という方法を熱心にやってると、自然と不必要な雑念や下らない妄念や、その他の邪念は、別に自分が非常な努力をしなくっても心の中から消え失せるんですよ。それが自然現象なんだもの。

・・・意識を明瞭にして、はっきりした気持ちをもつってことを心がけの第一にしなければだめじゃないか。そうすると、正確に観念が集中する。正確に観念が集中すれば、黙っていても精神は統一されるんだ。

・・・自分の心を常にはっきり使う習慣をつけることを努力すれば、三年五年の後には自分でもビックリするような「霊性心意識」という、思ってもみなかった高級な意識状態が自分の心の中から発動するようになるんだよ。そうなると、どんな場合であろうと、自分の人生の出来事に心配する事もなければ、懸念する事もなくなっちまうだろう。

・・・インドの仏像には必ず額に星がついてます。これを第三の目という。

・・・つまり、霊性心意識のでたものはみんな第三の目をつけなければいけないというのことが、ヨガの哲学の何千年来の習慣なんです。

・・・霊性心意識が心の中からでるようになると、諸事万事、自分でも不思議なぐらいフウ―っと名案工夫が出てくるんです。

・・・執着というのは、心の前に生ずることや物に心がとらわれちゃって、その心を他の方面に円滑に振り向けることが出来ない。例えば病を持っていると病ばっかり首っ引き

・・・そういうこだわりから離れなければいけないんだよ、心が。自分が嫌な運命の中に生きてる場合でも、注意がもっと良い運命のほうに振り向けられていれば、たとえどんな運命の中に居たってそれを気にしなくなる。幸福を本当に味わおうと思う秘訣はここにあることを考えなければだめだぜ。

・・・「一切を肯定し、苦なお楽しむ」の境涯。幸福の達人となる要諦を説く

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≪第9章≫    ”大いなる我が生命の力” より


・・・自分一人の至福を越え、広く衆人に光栄をもたらす堂々たる人生の第一歩

・・・もう何千年も前に、仏教では心の大きいことを有名な「正法眼蔵」というお経の本に書いてある。・・心は広大無辺といわれる大宇宙よりも大きいんじゃないか。

 

第10章 成功の実現
・・念じた通りに次々と新たな夢や願望を必ず実現する「人生成功の哲学」の完全なる指針

・・想像力を応用して、心に念願知る事柄をはっきり映像化することによって、絶えざる気持ちでぐんぐん燃やしていると、信念がひとりでに確固不抜なものになる。

・・「思考は人生をつくる」という言葉の意味は、心はその人をつくりもし、また壊しもするという恐ろしいものなんだ。人生はまこと心ひとつの置きどころ。

・・もっと簡単にわかりやすく言うと、潜在意識は人間の生命を生かし、また守る貴重な役割りを実行すると同時に、実在意識の思念するものを現実化するよう自然に努力を行う傾向がある。・・だから・・いわゆる想像力を応用して自分の念願、宿願をはっきりと心に描くことを絶え間なくやるという技術に完全に熟達しなさい。上手になりなさい。

 

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■■■「最後の言葉」■■■


「そして、その信念というものがもつ神秘的な感化作用、いわゆる奇跡以上の不思議は現実が生命に現われると言う事もわかってくるに違いない。ですから、この心理現象のトオトイ項目をほんとうに心を入れて活用して、天風会員としての本領発揮されたいことをほんとうにお願いします。これがきょうの悟りです。めったやたらと、こんなにわかりやく話してくれる人はありはしないぜ。」


「我はいま、我が心の奥深くに奇跡を行いうる神秘の力の潜在することを悟り得た そして、人はこの力を正しく活用することにより、人の値打ちを決定されることをも悟り得た さらにまた我は、この現実の悟りによりて、我が命のなかに新しい真の喜びに輝く尊い光を自覚する


同時に過去の一切の無価値より解脱して、格調高き価値ある人生へと今まさに鹿島立つ感激に我が心は炎と燃え立つそもや自己をつくるものは自己であるしかも自己を正しくつくらんには、まず自己を正しく律するにある


今やこの尊い悟りを心に得た我は、いかなるときにも我が心の中に純にして正なる連想の観念を不断に燃やし続けて、我が命を正しくつくる自律基盤の力をかりそめにも緩めざらんことを、つつましやかに己の心としよう」

 

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≪お気に入り一冊の本は運命を拓く≫≪沢田秀雄≫≪がっちりマンデー≫

 

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本棚から選ぶ私の一冊は…? とTBS「がっちりマンデーが選んだ6人のスゴイ社長が選ぶ本、私の1冊!は 果たしてどんな本なのでしょう やって来たのは都内某所の巨大な一軒家

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かなり厳重な警備が敷かれている様子ですが、一体、どの社長のお家なのでしょうか?

こちらのお家は、H.I.S.会長でハウステンボス社長の澤田社長がプライベート・お仕事・客人をおもてなしする場としても使っていると

10人掛けのソファを兼ね備えた、打ち合わせなどで使用する応接室

 

ホテルか大使館のような豪華な作りと数百名規模のパーティーが開催できるパーティールームとこの豪邸の一体どこに、澤田社長の本棚があるのでしょうか?

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階段を下りて向かった先には、地下室への扉が…。こちらの地下室は、部屋全部がまるで図書館の本棚ルーム

さて そろそろ「私の一冊」のご披露というこで  本棚から取り出して・・・

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澤田社長いわく 「この「運命を拓く」 中村天風さんの良い本ですよね ものの考え方とか、生き方とか非常に勉強になりますよね」 とおっしゃる

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澤田社長が選んだのは、中村天風の「運命を拓く(ひらく)」
思想家の中村天風さんが自身の体験を通じて、積極的な思考を勧めるこの本 京セラの創業者・稲盛和夫さんや、大谷翔平選手も愛読してる  名著らしい!

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さらに澤田社長いわく 「人生色々ありますからね。失敗もあれば辛いこともあれば、病気になることもあれば…その時、どういう風に心の持ち方ですよね。常に前向きにという」

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 ちなみに実際紹介されたのは講談社さんの『運命を拓く』

 

こんなふうに火がつくこともあるんですね。 これも勉強、頑張るHISやスカイマークを創業し、ハウステンボスを復活させた澤田社長にとって、この前向きという思考は、絶対に欠かせないんだそうです!

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澤田秀雄氏が中村天風先生の本を「私の1冊」として紹介したことで 翌日から弊社の電話が鳴り止まず、注文や問い合わせが殺到すぐに品切れに。 おかげさまで大増刷も決まりました。

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≪十牛図≫≪情報や本舗≫

 

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「十牛図」は 本当の自分とは何か を探求し、心(牛馴らし)の修練過程を十段階に分けて解説した禅書。(天風の「盛大な人生」の中にも収録してあり)いま 自分は 十牛の何番目だろうと、自覚し努力を続ける 

以前にが十牛図の一から十までの天風翁が講演でのテープ起しを 差し上げていた友人が 十牛訓の「つかみ」を要約して、易しく解説しててくれましたので以下に

≪中村天風翁も次のように語っています「十牛の教えというのはね。それを難しく聞いた人は 禅の坊さんが難しく説いたおかげで それがために 耳を傾けて聞こうとする者が少ないんだろうと思うんだ それを私はできるだけ「くだけて」語っている≫

第一図「尋牛」



病なり運命なりに突き当たって、良くなる方法はないだろうかと 探し始める

第二図「見跡」



牛をたずね求めて、山、また山と探しまわって、牛の足跡を発見。教典や語録で 手がかりを見い出したという意味。  「こんな 良い本があった!」。 こんな教えを聞いた!

第三図「見牛」



ようやく牛を見つけた。自然の摂理をわかりかけ、やや安心の道を見出した様に感じた。正しい人生観や宇宙観を おぼろげながらも考えだした時の喜び

第四図「得牛」

苦心惨憺の結果、牛を捕まえた。が しかし牛は もとの山の奥に逃げ帰ろうと 暴れる。逃がしてなるものかと 一生懸命に努力して、引っ張りっこしている

心身統一法の方で言うと、教えを一通り聞き、実際方法もやるにはやったが、健康や運命上の出来事が新しく顔をだして、全部が自分のものに完全になっていないように思う。 延々と努力するという状態。

第五図「牧牛」


 
本当の自分を知らない自分に気づき 牛(心)を飼いならして、育てあげようとする図。悟りを開くのは易しいけど、それを続けていくのは難しい。目的とするより 楽しみにする。

第六図「騎牛帰家」



荒牛も、次第に飼い主の思うように馴れてきて、背中に乗って、のんびりと笛を吹いて、牛と共に楽しみながら家に帰れる様になった。心身統一の 正しい境地に生きられるようにり 命の力を発揮できるようになった「安心立命の大義はらしくする」学んだ者らしくしなさい。

病になってる者は、現在 もうすでに病が治った気持ちに なりなさい。理想の成就は、頭のなかで 出来てない事でも 出来きた格好にしてしまう。不平不満もなく、純一無雑な、きれいな気持ちで生きている。それが騎牛帰家。

第七図「忘牛存人」



(今まで一緒にいた牛がいない。)牛と一体に為って居るので 別に気づかない今まで求めていた牛(自我の本質)が、自分自身であった という事。今まで熱心に求めていた真実の人生が、今まさに その人と一体になった。

殊さらに 幸福な人生を考える必要がない。既に 共にあるのだから。自分を忘れて 物を忘れて 道を見ている。

第八図「人牛倶忘」



人も牛も 共に忘れちゃった。何もない。修養が進み、迷いも 悟りもない 聖人も 凡夫も 善人も 悪人も ない。病も薬も、名誉も地位も、金も物も、全てが心から離れた状態。恬淡明朗、颯爽溌剌。仏性独朗(仏性はひとり朗らか)ただの人間と同じ様にしか見えない。が 何か事がある時だけ 違うのみ。

第九図「返本還源」

修養もしつくして、本然に返る。何の塵も汚れもない、清浄無垢の姿 霊性世界の生活が完全にできている人人生の出来事は何でも、突いてくる刀と同様に、受けず、流して 相手にしない。「大賢は愚の如く、大人は小児の如し」。

第十図「入鄽垂手」



布袋さん ニコニコし 霊性生活 常に 誠と愛で 人間としての正しい境涯を生きている

 

第八図までが、自分の願い。九図と十図が 利他のために生きる命ができる。自己より他の為を先にする正念を 心のなかに求め 魚一つ食べる時でも、心の中で、「有難う御座います」と言って食べる正しいことを言ってさえすれば 共鳴した者がくっついてくる。

他人に勧めて来ないようだったら、できてないのだ。どんな些細なことでも、自分一人で決して成しあげる事はできない。修行の階段を、牧童と一匹の牛の絵にたとえて教えている。自分は 十牛の何番目にいるかを考えて 努力を続ける。

                                      「十牛図」要約;2019.03.17 

 

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≪情報や本舗≫≪生い立ちから帰霊まで≫≪哲人ー中村天風の年譜≫

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Photo≪1876年(明治9)≫
・7月30日、東京豊島区王子村(現在北区王子)、父、祐興(すけおき)、母、テウの三男として王子の官舎で生まれる。
・祖父は初代九州柳河藩主で伯爵立花鑑徳(あきのり)、祐興は第二夫人の子として生まれ、会津中村の相馬の跡を継いで中村となる。
・祐興は柳河藩士、性は剛毅。若くして長崎に遊学、開明派で、英字新聞に通じていて1964年ジョセフ・彦による日本最初の「海外新聞」を、2年に渡り定期購読した二人うちの一人。もう一人は福沢諭吉。

・維新後は大津県(滋賀)の判事をふりだしに大蔵省に転じ、渋沢栄一に高く評価されて抄紙部長に就任し、工場長として紙幣紙の改良に努め「中村紙」という紙幣を開発したほか、日本出初めての官営「富岡製糸工場」(明治5年創業)の建設に事務主任として関与。明治42年10月、三郎の海外放浪の安否を思いながらも福岡にて永眠。後の大正14年に施主、天風により熊本県大牟田の慧日寺に墓を建立。(「志るべ」、平成2年1月号)

・母テウは1858年、神田の生まれる。性は気丈、顔立ちも言葉も、さわやかな明朗快活な大柄な女性であったという。伯爵前田正名の義姉として中村家に入籍。後に「長子」と名のる。
幼き天風に「男らしく、卑怯なことはするな。負けるな」と繰り返し諭す。

・中村三郎、号「天風」は、幼名「三午(さんご)」、午(うま)の月、午の日、午の刻に、産まれたことに由来する。号「天風」は、柳河藩に伝わる「随変流抜刀法」のなかで、天風が最も得意技とした「あまつかぜ」から由来し、後に頭山満翁から贈られて号である。
・生まれ出た時にすでに前歯が2本生えるおり、両親が心配して高嶋易に鑑定してもらったところ「これは油断すると石川五右衛門以上の悪人になるかもしれぬ」と言われる。
・幼児期に王子の官舎内で大蔵省の紙幣寮に住んでいたお雇い外国人、英国の印刷技術師の夫婦に可愛がられ、寮に遊びに行きながら日常の中で英会話を身につける。ここでの英語力が生涯の助けとなる。
・父と一緒に講談を聞いた帰りに、父から「世が世なら、ふたたび大名の世がきて、やがてそちも大名になる」と言われる。

Photo≪1881年(明治14年)5歳≫
・父が開発した中村紙幣で五円札が発行される。当時の父は資材開発のため全国各地を飛び回っていて家を留守にしたためにほとんどが母の手で育つ。

Photo≪1882年(明治15年)6歳≫
・武術を習い始め御徒町にある今泉八郎の道場に通い剣と儒学の手ほどきを受ける。
・日本刀の扱い方を仕込まれる。初めの3年は歩き型と身体の変化につけての足の運び方。次の2年が木刀の素振りと木綿糸に軽い重みを垂らして直前で止める鍛錬で、「武術の本来の目的は心を練る事」「心を明瞭に」と教え込まれる。
・小学時代に皇后陛下より神童賞なる栄光を賜る。
・この頃から父への反抗が芽生え、しだいに腕白となり、小学4、5年になると手のつけられない暴れん坊になってゆく。「自分は一種の変質的な男であった。喧嘩をすれば相手を必ず完膚なきまで叩きのめさずにはおかなかった」と懐述。

Photo≪1889年(明治22年)13歳≫
・東京文京区の湯島小学校卒業。
・熊沢蕃山翁の故事「憂き事のなおこの上に積もれ化し、限りある身の力、試さん」に発奮し、少年の胸にこのまま大名の子 としての環境で育つと、己が駄目になってしまうと考え、この頃から家を出ることを決心する。家を出るためにも手に負えない暴れ三昧の時を過ごす。織田信長の少年時代さながらであったという。
・9月、福岡の名門中学「修猶館」に入学。修猶館の教育方針は教科書に英語を用い、構内で「日本語を使用してはならぬ」というもので、Mr.Nakamuraと呼ばれる。
 英語は幼少から英国人に習い得意とし成績も優秀であった。大先輩に山座園次郎外務大臣、二年後輩に広田弘毅元首相がいる。

Photo≪1890年(明治24年)15歳≫
・華族の子弟として従五位を授かるが、家柄だけの薫陶に反発を覚える。
・悪ガキで両親の手に負えないことから、親族で農商政務次官をしていた前田正名男爵の紹介で、頭山満翁の玄洋社に預けられる。機敏で気性が激しいかったため「玄洋社の彪」と渾名され、養父頭山満翁から「彪」「彪」と呼ばれ、我が子の様に可愛がられる(当時頭山翁は35歳、昭和19年91歳没)。
 
※ (幼児期から少年期は「成功の実現」252ページから)


Photo≪1892年(明治25年)16歳≫
・3月24日、「第24連隊旗投石事件」で、自ら犯人を買って出て連隊長と激しく口論。営倉に2晩収監となる。
・秋、玄洋社付属の明道館道場の主将として他流試合で熊本に遠征に行き、負けた先方の恨みから殺傷事件の殴り合いとなり、警察に20日間拘留となるが正当防衛として無罪放免となる。しかし修猶館は退学となり、以後26歳までは浪人生活を送る。
・頭山翁の配慮で陸軍中佐で軍事探偵の河野金吉中佐のカバン持ちとして日清開戦前に主戦場となった、満州遼東半島の金州城、九連城の探索のお伴をする。

Photo≪1893年(明治24年)17歳≫
・河野中佐の手となり足となり精力的に探索行動。この約1年間に中国語をおぼえる。

Photo≪1894年(明治27年)18歳≫
・学習院に入学するが、教師に反攻してすぐに退学。机を並べていた岩崎久弥氏と親交をもつ。
・退学後に順天求合社で学ぶ。

Photo≪1898年(明治31年)22歳≫
・この頃に玄洋社で頭山翁を通じて孫文とも会う。

Photo≪1900年(明治34年)24歳≫
・夏、陸軍参謀本部情報官員歩兵大尉として採用され、厳しいスパイ特殊訓練を1年間受ける。
・3000人の募集から200人を選抜し、訓練を受けて113人が合格。

Photo≪1902年(明治35年)26歳≫
・満州に立つ直前にヨシ子(19歳)と結婚。ヨシ子(1884年−1962年)福岡久留米出身。
・母は「男は、男と生まれたら、男らしく生きて、男らしく死ぬのよ。それだけはいつまでも忘れずに」と送り出す。   
・12月9日、呼称番号103号、藤村義雄と変名して日本を下関から出国し上海、北京、天津を経て満州に潜入する。
・唖の苦力(クーリ)になりすまし、日露開戦前の情報収集と後方錯乱の謀謀略工作に奔走。満州生まれ、満州育ちの満州人さながらの容貌の橋爪亘氏と近藤信隆氏と組んで探索工作。

Photo≪1903年(明治36年)27歳≫
・しばらく北京と天津で任務。それから満州へ向かい、ハルピン西方400キロ宋屯近くの馬賊の頭目の所に数日滞留。

Photo≪1904年(明治37年)28歳≫
・2月4日、ロシアと国交断行。11日に日露戦争勃発。
 ロシアの後方基地であったハルピンにおいて破壊活動でめざましい活躍をする。
・シベリア第2兵団軍司令部に進入。
・大豆商人に変装し探索中に馬賊の頭目であった「ハルピンのお春」に遭遇し、2、3日を過ごす。後に「私は世界の三分の二を回ってきたが、美人だと思ったのは、ハルピンのお春とサラ・ベルナールの2人だけだ」と懐述。
・天風の遊び相手にと馬賊に拉致された少女を助け、馬車に乗せてお春の村を後にして少女の家の近くまで送り帰す。
・3月27日、コサック兵に捕らわれて翌朝に死刑宣告を受ける。「ロシア帝国皇帝ニコライ二世の名において銃殺刑に処する」。
 銃殺刑寸前に部下であった橋爪と1ヶ月ほど前に命を助けた16歳の少女「玉齢」の特攻救出の手榴弾で杭ごと吹き飛ばされて九死に一生を得る。しかし、玉齢はその場で戦死し天風は以後この日を、己の第二の誕生日と称するとともに玉齢を偲ぶ日とされた。
・4月、後方撹乱で東清鉄道爆破(旅順ーハルピンー満州里の1500キロ)。さらに二カ所の鉄道爆破。
・松花江の鉄橋破壊。
・ロジア軍に処刑された横川省三大佐、沖禎介大尉の遺骨を奪還。
・馬賊6人と切り合いしている時に、ピストル一発、左わき腹から背中へ抜ける銃弾を受ける。
・5月、南満州に移動し日本に一時帰国。
・ロシアの極東司令部作戦室の会議テーブルの下に忍びこんで盗聴し、追い詰められて高い煙突の上に登り夜中に煙突の中を伝わり降りて危機一髪で脱出する。
・秋、河北省承徳宮の高い楼門からロシア騎兵の動きを偵察中に狙撃にあい、即座にそれをかわし楼門の内側に飛び降りた弾みに背骨を強打し3日間昏睡状態で数十日の重傷を負う。それ以来、その時の後遺症でたびたび強度のめまいに襲われることになる。
・牡丹江では狼の群れに襲われ椎の木の上で3日3晩を過ごし命ながらう。部下は耐えきれずに3日めの夕方に木から飛び降りて狼の餌食となる。

Photo≪1905年(明治38年)29歳≫
・4月16日、ひとり娘の鶴子誕生。
・9月5日、日露戦争終戦。
・銃殺刑時の爆風や度重なる破壊工作二より、両眼に重度の視力障害を受けて右目は全く見えず、左目はわずか0.1に近く、耳は中耳炎と難聴になり、またハルピンの松花江の鉄橋爆破の爆風で下顎の歯を痛めてしまい、昭和23年にはすでに無歯顎で総入れ歯となる。まさに満身創痍となる。

Photo≪1906年(明治39年)30歳≫
・2月11日、日露戦争終結により任務解除。
・早春、死刑場跡の五站村に立ち戻り、奇跡の生還地に自ら彫り上げた地蔵尊を安置し「玉齢」の霊に追悼。
・満州奥地に3年9ヶ月、情報工作の生活を足掛け5年間。生死の境を約60回余潜っての奇跡の生還。選抜された113名の軍事探偵の内で大連に集結したのは6人、遅れて帰還が3人の9名。
・陸軍から朝鮮総督府の高等通訳官を拝命。その3ヶ月後に大喀血。
・6月、3年4ヶ月ぶりに東京本郷森川町の母の居る自宅に帰る。

Photo≪1907年(明治40年)31歳≫
・帰還後に根津嘉一郎氏に請われて、同氏が会長を勤める大日本製粉(後に日清製粉と合弁)の重役として経営にたずさわる。
・ギャロップ性の速度の速い悪性の奔馬性肺結核と診断され死に直面する。
 当時、結核に関する最高権威者の北里柴三郎博士の治療を受けるも好転する事無く、余命数年と言い渡される。右肺に二つの穴が開いて片肺となり、喀血は38回にも及んだ。
・死に直面し突然恐怖におびえ、惨めなか弱き心になってしまい、どうにかしてかつての自分らしく、死をも恐れぬあのたくましい強い心を取り戻してから死のうと決意して、精神訪歴を始める。
・国内の宗教権威者,キリスト教の第一人者、海老名弾正、禅の中原鄧州、新井石善、永平寺管長の森田禅師を訪ねても、「馬鹿者」と喝を入れられるも、また、医学、哲学、心理学の大家を訪ね歩き、著書を読みあさるも、強い心を取り戻すべき回答を得ることがなかった。
・足掛け8年にわたる病のため体重は17貫(64キロ)から10貫目(38キロ)にやせ細る。そのため1日の栄養摂取3500カロリーを心がけ、肉を30匁(110グロム)、牛乳6合、卵を6個、注射6本の療養生活を行う。これがインドへ行く事で菜食となり、1日1500カロリーほどになるが、体重は19キロ取り戻す。

Photo≪1908年(明治41年)32歳≫
・学友だった岩崎久弥氏が持ってきた一冊の著書、オリソン・スゥエッド・マーデンの「How to get what you want」に、大きな感銘を受けて「座して死を待つより、心の強さを取り戻したい」と、救いの道を求めて渡米を決心。渡航費は九州富豪の叔母から協助による。
・肺結核が小康を保ちアメリカへの渡航準備。

Photo≪1909年(明治42年)33歳≫
・5月11日、結核患者には出国許可が出ないため密航して上海に渡り、身分を孫文の父親の二号の子供「孫逸郎」と偽って(当時100円で戸籍を買う)、中国人としてアメリカの葉巻タバコの工場長のアシスタントとして、上海からインド洋を経て、希望岬から大西洋を横断してアメリカ大陸へ渡る。
・8月、93日間をかけてアメリカ東部ニューヨークに到着し、大学予備時代の友人、吉沢公使を頼る。
・9月、ペンシルバニア州、フェロドフィアにあるモーション・モチーブの健康法に出席するも得るものもなく全くの期待はずれとなる。
・11月、やっとの事で当時アメリカで随一と言われた待望のスゥエッド・マーデンとの面会が叶い訪ねる。この30代の青年哲学者は、自分の著書を何度読んだかを尋ね「10回」と答えると、「百万回読め。真理を知らずして死ぬよりも、一歩でも近づいて死ぬは幸いなり」と言うだけで、全く得るものがなく至極落胆する。

Photo≪1910年(明治43年)34歳≫
・エジソンの神経病を治療した哲学者で「How to live」の著者、カーリントン博士を訪ねても、「人生の真理を求める心が尊い、あ〜尊い、尊い」と言われただけで、体よくあしらわれて、ここでも得るものがなかった。
・渡航費も使い果たし「腹の空いた痩せ犬が、道端をほっつき歩いているようなものだった」。
・病状が一時小康を保ち、孫逸郎の名でニューヨークのコロンビア大学医学部に入学。免疫系と自律神経系統を学ぶ。
・当時のお金で5万円をもって渡米するも、半年で使い終わる。当時の1万円は女中を一人使い銀行の利子で過ごせた時代。お米一升三銭。

Photo≪1911年(明治44年)35歳≫
・コロンビア大学医学部博士課程を卒業。
・生活費と旅費を稼ぐために、吉沢公使(後に大使)の紹介で、広東省の華僑、李宗順(後に香港で開業)の通訳と授業の代行して、コロンビア大学で耳鼻咽喉科の卒業資格を得るアルバイトを8ヶ月ほどして、8千ドルとさらに8千ドル謝礼をもらい、ヨーロッパ旅行の旅費にあてる。
・日本商社の人に英国に行くことを勧められ、その紹介で途中に大西洋の嵐に遭いながらも英国にわたる。体重は50キロと痩せ衰えてトランクも持ち上がらぬ状態でやっとのことロンドンにたどり着く。
・ロンドンでアデント・ブリュース博士の講座「神経系統と精神活動」を2週間受講する。受講最終日に治る秘訣を教えるとのことだったが、「健康な体でなければ心は強くなれない」、「病いを治す秘訣は病いを忘れること」( Foget it! This is only this.)というだけで、「忘れ方を教えずに、どのように忘れられるか」と質問しても、アジアの後進民族に私の高尚な哲学など解らぬと軽蔑されるだけで、ここでもまた得るものがなく、その後はドバー海峡を渡りベルギーにそしてフランスに行く。
・ロンドンの日本クラブで新聞を読んでいる時に知り合った、医師である木村総三氏の紹介され、19世紀フランス演劇で最も有名な舞台女優サラ・ベルナール(ユダヤ人、1844−1923)を訪ね6ヶ月お世話になる。
 彼女は当時68歳でしたが、娘のように若く24〜25歳くらいにしか見えないことに驚く。若さの秘密は「日に一度赤子の心に戻る事」(65歳の時「ジャンウ・ダルクの裁判」の劇中で、裁判官に歳を尋ねられた時に、おもむろに観客の方に目をやって「19歳です」と答える場面で、観客席から一斉に大きな歓声が拍手喝采が湧き上がった)。
「女優に歳は無い」と、娘のように若く、天風が巡り逢った中で、サラ・ベルナールとハルピンのお春の二人を絶世の美人と讃え、こんな聡明な女性と会ったのはこれまでに一人だけと懐述。ルイ二世の宮殿であったベルナールの家に360数名の女優が寄宿し食事の時に女優たちが実に楽しそうに笑いながら食べるのに驚き、後にこれが天風会で食事の時に三回「笑え」の発想につながって行く。(杉山彦一講義「真実への希求」)
・心理学者でもあったベルナールの紹介で、リオン大学のリンドラ心理学博士に会い「鏡による暗示法」の指導を受ける。
・5月1日、ベルナールの紹介でドイツに赴き、当時世界で最高の権威であったベルリン大学で「生気論」の教鞭をとっていた哲学者ハンス・ドリュース博士を訪ねる。小柄で歳をました博士は天風の質問に目を閉じたまま耳を傾けた後、おもむろに「君の希求しているものは世界古来からの謎であり、心というものは絶対に人間の自由にならない。それは海の魚を森に求めるに等しい」「求めて探りだせれば自分だけの喜びでなく、人類を幸福にできる喜びとなる。ともに求めて行こう」と断言される。
・こうして2年間の精神遍歴は回答を得られぬままに暗礁に乗り上げて絶望となる。全てを諦めた絶望の時、急に母の顔と日本が懐かしく恋しく浮かんできてもう居ても立ってもいられなくなり、「えいくそ、めんどうくせい、日本まで行けなきゃ、途中で海の中へ飛び込んで死んだって解決つくわ」と、日本へ死に行く帰国を決心する。
・5月25日、「日本に帰ろう。母のもとに帰ろう。そしてわが家で死のう」と、ベルナールの滞在の勧めも断り、小雨そぼふるほの暗いマルセーユの港を、絶望の唾を吐き捨てるように失意と自嘲のうちに離れる。
・ベルナールの従兄が船長を務める3つの客室のあるペナン行きのフランスの貨物船に乗り込み、地中海の海上をゆっくりと南下。天風は客室から出る事も無く絶望のどん底。それこそ活きる屍が船底に寝たままでスエズ運河へ向かう途中でイタリアの軍艦が運河で座礁して不通となり、急遽迂回してエジプトの最大の港、クレオパトラの街として有名なアレキサンドリア港に5日間の臨時寄港となり、そこに錨を下ろしてカイロまで小舟で行く。
・6月8日、ピラミッド観光のため朝2時30分に起床するが、3時に激しい喀血となりホテルで横になる。4時頃にホテルのボーイに起こされ無理やりに抱かれる様にして食堂に連れて行かれ、モロヘーヤ(青葉スープ)を無理して喉に流し込んでいる時、偶然そこに客として居合わせた60歳前後と見受けられる老人(106歳)、カルマ・ヨガの聖者、カリアッパ師 ( Colliyaha、ペプチア人、インド南方)と、運命的な「世紀の出会い」となる。
 「お前はまだ死ぬ運命ではない。私について来なさい」、"You can save yourself.You had better follow me."の言葉に、"Certainly."と応えて従う。
・6月9日、早朝に出発。スエズ運河、紅海、アラビア海を、ヨットで従者2人を含めた4名で、途中名のある港に2、3泊しながら6月下旬にカラチに入港。
・カラチでヨットを降り、10数頭のラクダの曳船に乗り換え、インダス川を6日間かけおおよそ250キロほど北上。さらにラクダの背に乗り、広大なインダスタン平野を越え、遥かヒマラヤの東端カンチェンジュンガの麓にあるヨーガの里ゴーゲ村に向かう。
「私がついているから心配ない」との師の言葉を頼りに95日間の長旅であった。
・当時の病状は毎日、発熱、息切れ、脈切れ、そして7日〜10日に一遍の喀血の状態。
・9月中旬、ゴーケ村(Gorkay)にたどり着く。カースト制度により奴隷(スードラ)の身分として修行に入る。始めの2ヶ月間は心の垢を洗い落とし赤子ような心になるための準備期間となる。こうしてゴーゲ村にて2年7ヶ月の修行が始まる。
・10貫目(37キロ)の体重を養生するために菜食の食事の改善を要求しても、草食の大像の例えをとり相手にされず。しかし改善されなくも6ヶ月後には15貫目(56キロ)に回復してゆく。
・11月7日(満月)、修行の第一歩としてメハム川(Meham)で朝の打坐が始まる。肉体に受ける感覚から心を解放する制感の行。
・12月、朝の打座と昼から山中での瞑想が始まる。6キロの山路を11キロの重い石を背負わせて滝壺のすぐ近くで行き瞑想行。
・フランスでサラ・ベルナールの薦めで読んだ、「イマヌエル・カントの自叙伝」が、瞑想中に「もう一人の自分」が浮かんできて「たとえ身に病いがあっても、心まで悩ますまい」の悟り至り師から悟(ギャバティ)ったことを知らされる。

Photo≪1912年(明治45年)36歳≫
1月、早朝から1日中、華厳の滝の三倍くらい大きな滝壺の大理石の岩の上に打坐して瞑想行がはじまる。
・師からこれまでの呼吸法である、丹田とか、腹式とか、意識を限定した呼吸法をすれば、効果も限定とされるからと修正され、完全呼吸法(プラナヤマ法)を自分で悟れと言われる。
・言葉(マントラ)の大切さ教えられ、不平不満の更正。
「こっちを見れば綺麗な花園なのに、お前は墓場の方ばかり見ている」と心の置きどころを習う。
・夜叉(マナ)について暗示の重要さを教えられる。
・小犬の傷口の自然治癒から、生きる道を悟らされる。
・世界一の幸福者。生かされている事に先ず感謝せよと説く。
・初めての命題「この世になにしに来たのか?」与えられ、「進化と向上」と答える。
・虎、蛇、ツタ、リスの故事を話し、生死の問題を説き死に対する恐怖から解放。
・「聖なる体勢」(Kumvaphacca)クンバハカ習得までの1年7ヶ月間の修行内容は、大井満著「ヨーガに生きる」(春秋社刊)を参考。
・満月を眺めさせてアサナ法と一心集中を教えられる。
・「地の声」の命題に1ヶ月、その後に「天の声」の命題の悟りに4ヶ月かける。
・黒豹に膝をなめられた時に「聖なる体勢」無邪気を悟る。

Photo≪1913年(大正2年)37歳≫
・ヨギの集会場に入る事を初めて許される。10年ぶりに熱帯原始林の奧山からゴーゲ村に帰ったヨギの8日間の臨死から復活という神秘体験の行を見せられた後クンバハカの命題を与えられる。(この神秘体験には30年の修行が必要、カリッパ師も2度この行を通っているとされる)
・満月を眺めさせてアサナ(姿勢)法と一心集中を教えられる。
・修行中に非常に大きな地震があり、師から「アリの穴の中に入るべし」と言われ、アリの穴を探している間に恐怖がやんでしまう。
いざという時に、心を絶対的に虚にして気を平にすれば何も恐るものなしと悟。
・「地の声」の命題と、1ヶ月後に「天の声」の命題の悟りに4ヶ月かける。
・瞑想中に獰猛な黒豹に膝をなめられた時に、何の恐怖もわくことなく、「聖なる体制」、無邪気を悟る。
・3月、2年9ヶ月修行で悟に至りる。師が指導したヨギの中で最速での悟。
・4月、カリアッパ師より「オラビンダー」覚者の聖名をいただき修行を終えてゴーゲ村を離れる。
・カリアッパ師に送られガンジス川を下り、カルカッタを経由して上海へ向かう。上海で密航が時効になるのを待って日本に帰国予定。
・師は片手を天風の肩に置き「もし困ったことでも起これば、私の代わりに『もう一人のお前』が、それを解決してくれる。けして寂しがることはない」と優しく伝える。
・師と別れの際は「哭いたよ、声をあげて哭いたよ」という。 一説にカリアッパ師はカルカッタで天風を送った後、ゴーゲ村に戻ることなく行方知らずという。


Photo≪1914年(大正年)38歳≫
・4月、上海で当時中国大使で玄洋社の先輩であった山座円次郎大使と偶然に再会し、滞在中の頭山翁と会う。
・5月下旬、山座大使の要請で孫文を助けて第二次辛亥革命に最高政務顧問として革命に参加。
 孫文を補佐して南京から北京へ行くのに尽力し紫禁城で約2ヶ月間滞在する。紫禁城では美女に囲まれて王候以上の贅沢三昧の生活を味わう。
・北京の理髪店の二階で、天風が同席した孫文、頭山との会合で時に飴売りの刺客が襲う。
・上海でも頭山翁との席で刺客に襲われて、左中指の先を骨まで切られて、英国の医師が銀の針金を入れて縫い合わせるが、その後は神経が切れたまま曲がらなくなる。(京都支部編「哲人中村天風」)
・7月下旬、袁世凱に対し武装蜂起するが、第二次辛亥革命は挫折。孫文は失脚して8月9日〜16日まで日本へ立ち寄った後アメリカに行き、天風も8月に帰国。革命の軍資金の一部を(今の換算で20億円ほど)を日本に持ち帰る。これを元にして後に銀行を経営。
・8月、帰国時に船上から、おそらく二度と見る事ができるなど夢にも思っていなかった「霊峰の富士山を見た時には、泣けて、泣けて仕方がなかった」と回想している。
・帰国から半年間は中国人として舞子の八角堂で過ごす。お金も孫文らが日本に持ち込んだ軍資金があり、久々の日本を中国人「孫逸郎」として、近くの遊郭にでかけて楽しい時を過ごす。

Photo≪1915年−17年(大正4年−6年)39歳〜41歳≫
・晴れて中村三郎となり先ずは頭山満家に挨拶に行く。頭山夫婦は紋付着物で迎え、上座に座らさせて、翁は「あなたは選ばれた人じゃ。キリストは悟りたいために五か年、釈迦は六年、マホメットが七年、その間どこに行っていたのかわからなかった。それで全く見違えるような立派な人間になってあらわれた。あなたは自分自身をつくりかえて帰ってこられた。これは深い天の思し召しがあると思わなけりゃならん。『天のまさに大任をこの人にくださんとするや、必ずまずその心志を苦しめる』まさにあなたがそのとうり。これからのあなたは、あなたの人生を生きるのではない。人の世のために生きるために、あなたは生まれ変わられた。おわかりになったか」と諭す。
・一時は時事新報社に勤める。
・関西財界の巨頭、平賀敏氏から第百銀行の池田氏を紹介され、彼の推薦で東京実業貯蔵銀行の頭取となる。伊豆電燈株式会社社長、その他にもいくつかの会社を経営して実業界で活躍する。
・花柳界で「なァさん」と呼ばれ芸者遊びに派手にふるまい、本宅以外にも別宅を6軒ほど持ち「金を湯水のように遣う人はいるが、金を播くように遣うのは天風さんくらい」という放蕩三昧。
・しかし潜在意識下で天風統一道の体系化の潜伏期間で、芸者と箱根に行き、小用に立った便所の窓から満月を眺めていて、ふと「これでは行けない」と奮い立ち、芸者を置いたまま戻り修養に入るが、数日するとまた芸者遊びを繰り返したりしている。
 こうしているうちに遊び仲間に話しを始めると、何時しか自然に人々が集まってしまうことや、健康相談がよく持ち込まれてくるようになり、統一道がだんだんに結晶化されてくる。

Photo≪1918年(大正7年)42歳≫
・春、頭山の依頼で茨城県の平炭坑の労働争議を鎮定。
・全国的にひろがった米騒動を先頭にたって解決。
・猛獣使いのイタリアのコーンが頭山を訪ね、頭山翁と天風の顔を見て「この二人は猛獣の檻に入っても、猛獣はなにもしない」と話す。コーンが有楽座でショーをやる際、頭山翁と一緒に招かれた際に、まだ馴らされていない野性の三匹の虎の檻に入ると、天風の回りに二匹がうずくまり一匹がその後で写真を撮影(時事新聞)これはその人の発する「霊的作用の感化」である。
・頭山翁は天風と二人の時に、座席を改め天風に座らせて、「世の為、人の為に、汝は立つべし」と勧められる。それ以降、頭山翁は人前では「中村先生」と呼ぶようになる。
「天っ風のごとくである。天風と名乗れ」とし。以後は天風と名乗り始める。

Photo≪1919年(大正8年)43歳≫
・3月、妻ヨシ子の申し出で、自宅に数人のご夫人を招いて講話の集いを始める。
・6月8日、「日本の精神文化に貢献したい」、「真理にふれたら、人を救わずにはおられない」「教えの原理があればなにもインドに行かなくても人を救えることができる。その救いの原理はなにか。どうすべきか、この " How to do ? " から心身統一法がうまれた」(杉山彦一講義)
・妻に向かい「この仕事に自分の命をかける決意」を述べ、一切の社会的地位と財産を整理して、世ため人のために単身独力で「統一協会」(後に統一医学会と改称)を設立し、妻子2人を含む5人の弟子から始める。
・3ヶ月間、毎日握り飯を持って上野公園の精養軒近くの樹下石上と日比谷公園の大隈重信の銅像の前で大道説法を行い
・9月、検事長向井巌氏、三島弥吉氏に見いだされて、日本工業倶楽部で講演し時の総理大臣原敬と会う。原首相に「この人は大道で説法させておく人でない」と言わしめ、貴族議員に推薦されるがこれを固辞して辻説法を続ける。当時、天風会第三代会長野崎郁子は原敬の秘書。
・11月、向井巌氏の計らいで日本工業倶楽部での講演を境に、会員制となり辻説法をやめる。当時の会員は入会費が高いため、階級の高い官史や皇族を始めとした華族ばかりで庶民は入会できなかった。

Photo≪1921年(大正10年)45歳≫
・3月3日、昭和天皇が皇太子の時に、大正天皇の代理で英国のジョージ五世の戴冠式に参列するために訪英となる。国内がこれに賛成する者と反対する者で右翼および玄洋社の意見が鋭く対立し天風は賛成に立ち、たとえ頭山翁であっても己の信じる姿勢を貫き玄洋社の出入り禁止となる。
・ここ頃から己の健康にも確信を持つ事ができ、健康法に関する講義も始める。

Photo≪1922年(大正11年)46歳≫
・来日したアルバート・アンシュタインと会う。

Photo≪1923年(大正12年)47歳≫
・11月、司法大臣横田千之助氏の依頼で、朝鮮京南鉄道の騒乱事件を治める。これを機縁に朝鮮総監斉藤実氏に知己を得て同会朝鮮支部を創設。

Photo≪1924年(大正13年)48歳≫
・山本英輔海軍大将(当時少佐、海軍学校長)の紹介で、小松公爵(元北白川宮輝久王)が入会、
・12月に小松公爵の推挙により、東久迩、北白川、竹田の三内新王陛下に数回にわたって進講(「研心抄」の「笑いと人生」に収録)。
・昭和天皇、皇后(当時摂生宮殿下)に進講し、「ありのままに われある世とし 生きゆかば 悔いも恐れも なにもなし」と読み贈呈。新渡戸稲造氏列席。
・この頃の受講者にはさらに尾崎顎童法相を始めそうそうたる人物が名を連ねている。
・機関誌「自覚」を発行し、後1941年に紙料補充不可能のため休刊。

Photo≪1925年(大正14年)49歳≫
・2月、京城(ソウル)京城日報社で講演。
・5月、尾崎行雄の別宅で「健康法の真義」講演。小松輝久候伯爵、後藤新平、岡田啓介。浅野総一郎氏らが聴講。
・聖将東郷平八郎元帥、山本英輔海軍大将、昭和天皇の倫理帝王学の師である儒聖杉浦重剛翁、鶴見総持寺石川素童禅師をはじめ、政財界の有力者が次々に入会。
 東郷元帥には日本海船とクンバハカの逸話、また生き仏石川禅師との初対面に木魚にまつわる禅問答の話しが残されている。
・6月、大阪放送局開局記念講演に「病と病気」をラジオで放送。ついで「笑いの哲学」「働きの哲学」「成功の秘訣」等をレコードに吹き込む。
・11月に、自宅を本郷中丸福山町に移転。

Photo≪1926年(大正15/昭和元年)50歳≫
・この頃からテレパシーやインスピレーション等の特殊霊的作用が明確に出来上がる。
・心身統一の根本原則を発見するのに8年を要し、更にその真理を具現化するのに8年を費やし、心身統一法を完成せしめる。

Photo≪1927年(昭和2年)51歳≫
・本部道場が落成。この頃には全てが悟った気になり怠惰な気持が生じた時に、日本ペイントの長谷川直蔵氏が持って来た京都大学の図書館から有名な画家が描いた「十牛図」を見て、初心に還り精進する。この絵を大阪会員の野尻画家に摸写させて「十牛図」を用いて講演する。
・京都の岡崎動物園のライオンが檻から逃げ出し、天風がライオンを檻に戻す騒動がある。

Photo≪1928年(昭和3年)52歳≫
・11月、母、長子(テウ)逝去。


Photo≪1929年(昭和4年)53歳≫
・父の一存で一人娘の鶴子(24歳)が、天風会第二代目の安武貞雄会長に嫁ぐ。

Photo≪1930年(昭和5年)54歳≫
・春、京都桃山御陵を参拝した時に、青年と石段を駆け上り競争しても一人だけ先頭を切って一気に駆け上がる。
・娘の鶴子を嫁がせた後、肺病を心配し女学生の頃からの弟子であった16歳の菅野真瑳子を養女として向かい入れる。

Photo≪1934年(昭和9年)58歳≫
・数人の大学運動部の者と出町柳から鞍馬まで長距離競走するも、他を引き離して先頭になり「踊っていると思って右足と左足をかわるがわる出せばよい」と話す。
・みすぼらしい花売りの学生を見て、お弟子に花を買わせてから、その学生に「花を売ってみんなを楽しませていることで、君自身を敬することになる」と諭す。

Photo≪1936年(昭和11年)60歳≫
・二二六事件で決起将校の持ち物の中に、天風の書かれたものがあり特務か身辺を細かく調査され呼び出されたが不起訴となる。

Photo≪1939年(昭和14年)63歳≫
・5月に「統一歌」ができる。

Photo≪1940年(昭和15年)64歳≫
・1月、「統一医学会」を「天風会」と改称。終戦にいたるまで全国的に活動を展開。

Photo≪1941年(昭和16年)65歳≫
・12月8日、「思いおこせ日米開戦からの4ヶ年間(16年~20年)が、いちばん私の人生の歴史の中で、本当に文字通り苦難の毎日でした」と話す。

Photo≪1941年(昭和17年)66歳≫
・春、札幌講演を3日前にして、東京ガス会社の値上げ事件の調停の疲労か ら声が出なくなり、医師から悪性の癌の疑いがあり即刻手術を言い渡されるも、断固として札幌に向かい今井記念館に集まるた3千人余りの聴衆の熱意に応え て、壇上に上がり血の塊を吐いて血を流しながら講演を行う。それ以後は全治してしまう。


Photo≪1945年(昭和20年)69歳≫
・3月、特別強制疎開により東京本部が取り壊され、茨城県布川町に疎開。
・3月、布川近くでB29が墜落し捕虜となった飛行将校を無事に収容所で過ごせるようにする。
・疎開時は週に一度皇宮警察官の講話だけで後は布川町に起居し、残った時間は近くの鉄橋の坂下まで行き、東京から疎開で引いて来るリヤカーを坂上まで後押の手助けを、誰知ることなくやる。
・8月14日、天皇陛下の「終戦玉音放送盤」を秘匿して、陸海軍の将校の奪回から守る。
・翌15日終戦。

Photo≪1945年(昭和20年)69歳≫
・8月、終戦。
・戦前は政治問題、社会な紛争事件等に関与していたが、戦後は一転してひたすら真理のみを見つめ、人間としてのあるべき姿を説いてゆくことになる。真理の道そのものが全てとして説法三昧を展開してゆくことになる。
・10月、虎の門ビルで戦後初めての講演を再開。以後、焼け跡の各所に会場を求めては毎月講演会を行い、戦後の荒れ果てた精神の更改をすべく立ち向かう。
・戦争には反対を貫き、東条首相にも直言して憎まれ、特務機関から危険人物と睨まれるほどでしたが、戦争が終結すると戦犯の責任問題が渦巻くなかでも、一切批判する事無く、会員に向かっても、日本を批判すること無く黙って国の再建を促す。
・A級戦犯となった広田広毅元首相を巣鴨プリズンに見舞い、東京裁判でも何の弁明もすることなく黙って超然と死して行くことを助言する。

Photo≪1947年(昭和22年)71歳≫
・GHQマイケル・ハーガー中将の要請により、元毎日新聞地下ホールで、GHQの幹部約250人を対象に3日間の講話をする。たまたま来日中で同席していたロックフェラー三世に大きな感動を与え繰り返し、繰り返しアメリカに招かれるが、日本で信念することがあるとしてこれに応ずることがなかった
・4月、「真人生の探究」出版。講演活動を全国的に展開。

Photo≪1948年(昭和23年)72歳≫
・4月、「研心抄」を出版。
・4月、護国寺の月光殿を拝借して毎月講習会を開く。
 戦後になり天風会の会費が安くなり一般にも解放される。

Photo≪1949年(昭和24年)73歳≫
・4月、「練身抄」を出版。
・一般講演ができない戦時期に、天風哲理を体系的に解説した「真人生の探究」、心のあり方を説いた「研心抄」、身体のあり方を説いた「錬身抄」を、「天風三部作」として集大成させる。
・4月、「志るべ」誌、神戸で創刊し、6月から東京本部で発行。

Photo≪1953年、(昭和28年)77歳≫
・夏、「安定打坐考抄」を出版。

Photo≪1955年(昭和30年)79歳≫
・夏期修練会に東京で六百数十人、神戸で六百数十名、大阪で五百数十名と二千余人に近い参加者となり、終戦後10年にして盛況をみる。

Photo≪1956年(昭和31年)80歳≫
・80歳過ぎて長生きの確信を得てから初めて長寿法についての教義を始める。

Photo≪1957年(昭和32年)81歳≫
・7月、「天風誦句集」発行。

Photo≪1958年(昭和33年)82歳≫
・6月、「哲人哲語」出版。1948年〜55年「しるべ」誌の巻頭29編のエッセー。

Photo≪1961年(昭和37年)85歳≫
・2月、61年間連れ添った妻ヨシ子が逝去。享年78歳、護国寺の中村家の墓の左側に妻に贈った銘碑が刻まれている。
「先天一気即霊源 無作意而行自然 人生亦此制濤中 一切還元帰大霊」、この詩は色紙に書いてくださるよう頼まれても、妻に捧げたものとして誰にも書き贈る事はなかった。
・12月、「箴言注釈」(改訂版「叡智のひびき」)発行1957年〜61年「しるべ」誌、31回の箴言。後に日めくりカレンダーとなる。

Photo≪1962年(昭和38年)86歳≫
・公益性が認められ「財団法人 天風会」となる
・「自らを世に売り込むようなことはしたくない。縁ある者だけを、全力を尽くしてお教え説きたい」とし、当初より宗教法人にする考えはなかった。
・7月、「真理践行句集」発行。

Photo≪1965年(昭和41年)90歳≫
・4月19日の教義で、現在只今の時点で心身統一法を論理組織で説いているのは世界でただ一人であると断言(「天風先生座談」、宇野千代著)。

Photo≪1967年(昭和42年)91歳≫
・9月、「誦句集」英語版を発行。
・8月、全国を講演に回りながら会員たちに暗黙のうちにもお別れが始まる。
 西部地区での最後になった修練会に来られた時、会員がマッサージした足がいつもと違い冷たいことに次期に来る死を予感する。
・「新箴言注釈」(改訂版「真理のひびき」)発行。後に日めくりカレンダーになる。

Photo≪1968年(昭和43年)92歳≫
・4月、会員の尽力で護国寺門前に天風会館が落成。
・落成を目の前にして、「心身統一法という天風哲学を自分以上に熱心に実践した人間はいない。また、だからこそ自分以上に人の心に深く伝えられる人間もいない。従って、天風の2代目はいないのだから、これから先は天風会館を、自ら一人ひとりが心身統一法を学ぶ教えの殿堂としていってほしい」。
・落成時の挨拶に会員たちの気持に感謝しながらも「法を説くのに殿堂はいらず」と、辻説法初心の気迫を吐く。
・11月10日、創立50周年記念祝賀会を開催し、天風総裁、安武貞雄を二代目会長に就任。
・遺言ともとれるお言葉に;「天にへいとして輝く日月にかわりはない。俺は月を見よと指差して教えた。全国の会員に伝えよ。指を見ないで月をみよ。俺が指さそうと、安武会長が差そうとも、ささるる真理の月にかわりはない」。
・11月30日、正午に英語の勉強の際、Probably と Perhaps のニュアンスの違いを、安武会長に質問し、その回答に「よしわかった。"Thank you"」と死の直前まで勉学され、この言葉が安武会長と交わした最後の会話となる。
・12月1日、「今から寝るからじっとみておれ」と、午前1時55分に帰霊。
・両足をさすられながら、誠に静かな大往生だった。清らな美しい眼出で、黒目はあくまでも黒く白眼はあくまでも白く、濁りも充血もなく幼児の目のようであったという。
「俺が仮にこれから十年、二十年と生きてみたところで、過ぎたその時になってみれば、今と同じことだと思う。人間の寿命は望んだからといって得られるものでもない。俺は俺の教えを一生懸命に教えてきた。俺もその教え通りに怠らずやってきた。そして今度の病になってから、人の心の強さが人生にとっていかに大切であるかを、一層よく知った。今は俺の教えが正しく世の中に伝えられることを望んでいる」。
・直接薫陶を受けた者は、全国で10万人を数える。皇族をはじめ、大臣、実業家、学者、軍人、人間国宝や文化勲章者、落語家、俳優、相撲、金メダリスト、スポーツ選手、小説家、サラリーマン、市井の人々に及ぶ。
・12月7日、12時30分より天風会館にて、財団法人天風会葬、告別式。
・葬儀委員長に重宗雄三参議院議長、友人代表に笹川良一氏、一万三千本の白菊の生花で富岳をピラミッド型に造られ、祭壇の中央に「天風哲人」記され額とに遺影が置かれた。その前で粛然献花する会員、惜別無限の情はまことに胸せまる情景であった。
・真理を説いて五十年、人の幸福と 世の平和を願った哲人 ここに静かに帰霊なされた。    ※ 「志るべ」誌、哲人追悼特別号―記載大井満)

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≪永平寺ーつもりちがい十ヵ条≫≪二人の雲水のお話≫

≪禅のお話しで結構有名な「二人の雲水の話 」≫ 

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ある時、二人の僧侶≪曹洞宗の学僧≫が旅をしていた時、急流の川のほとりに辿り着きましたが、そこでひとりの若くて美しい女性が川を渡れなくて困っているところに遭遇しました ここで難しい問題が二人の僧侶の頭に禅の戒めが!

女性に触れないという誓いを立てている僧侶にとって、どうすべきかその時、何も言わずに年配のほうの僧侶が女性を背負い、川に入り、 向こう岸に到着すると、そっと彼女を降ろしました。そしてそのまま、何もなかったように旅を続けたそうです


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一方の若いほうの僧侶は、年配の僧侶がしたことが信じられません しばらくは無言のまま歩き続けたのですが 何時間もたって、悶々と歩いていた若い僧侶が我慢ならなく年配の僧侶に次のように言いました「僧侶たるもの、女性に触れてはならないと教えられてきました、 なのに女性を背負って運んだことは、一体どういうことなのでしょうか?あなたは戒を破った事になりませんか」と


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年配の僧侶は、するとこう答えました「兄弟よ、私は川を渡り、彼女を岸に降ろしたではないか お前は!なぜまだ彼女を背負っているのだ?」と

天風翁がよく、説かれていることを思い返されました

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かりそめにも 消極的なことを いっさいもちこまない。それを凡夫凡庶のあさましさ 床に入って気が休まると よけいにくだらないことを考えてるわ あなた方。「昼間のあいつの言いぐさは いま思い出しても腹が立つ」なんて 消極的な気持ちのおさらいをしている人がいる

自分に自己矯正の暗示をかけると 自然とその暗示通りに心が作りかえられていくという効果があるんです

ですから 最初はうそでもいいから たとえば 何か非常に気になってしょうがないことがあったならば「こんなこと気にならない 気になるもんか 今までは気になったが もう気にしてやしない 何もない へいちゃらだ」と暗示をかける

自分自身で自分自身につぶやいても 大きな効果があるんです、話を戻して とっくに女性とは別れたのに 若い僧侶は未だに気持ちの上で女性を背負い続けているからです

私たちに多くあることかも知れませんよね、過去のことを忘れずにずっと背負い続けていると、この若い僧侶と同じことをしているのだと気づかされます


『永平寺 つもりちがい十ヵ条』というものがあるそうです

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高いつもりで 低いのが 教養  
低いつもりで 高いのが 気位  
深いつもりで 浅いのが 知識
浅いつもりで 深いのが 欲望  
厚いつもりで 薄いのが 人情  
薄いつもりで 厚いのが 面皮
強いつもりで 弱いのが 根性  
弱いつもりで 強いのが 自我  
多いつもりで少ないのが 分別
少ないつもりで多いのが 無駄


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≪情報や本舗≫≪日本電産‥永守社長≫≪中村天風ー座右の書≫

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”関西弁のジョブズ”を支える中村天風とは・・・という記事をオンラインに見つけ「日本電産ー社長・永守 重信」氏のことを知ったのが2011年のこと

そして今回は冬のオリンピックでスピードスケートの女子たちがメダルラッシュともなった、中でも金メダルを2個もとった高木菜那選手【大活躍の姉妹「美帆」選手の妹】が日本電産に働いていて、かねてから永守社長はオリンピックでメダルを取ったらメダルごとに金額ランクをつけ、日本電産の所属選手に約束をしていた
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高木菜那選手が、この大舞台でやり遂げたのです、そして約束の金メダル2個分の報奨金を手にしたのですね!各TVで日本電産の社長と話題となって何度も報道されていた

44年、京都府の農家に6人兄弟の末っ子として生まれた永守社長の父親の口癖が「中学を出たら丁稚(でっち)にいけ」だったそうです

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小・中学生のときは学校の図書館で歴史本!中でも信長・秀吉・家康とそれぞれに経営哲学の基礎を学び、中国の三国志からも多くを学び取り・・事実ほど面白いものはないと、行動指針、実理論を求めてきていた

28歳で経営者になり「経営はそんな簡単なものだけじゃない」と、、松下幸之助さんの本も読み、名だたる創業者が赤裸々に失敗談を語って、うまくいっている人ほど多くの挫折を生きてきた来たことを学んだ

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経営を進めてき、いくつかの難局を乗り越えるものとなったのが、ご本人の言われる「座右の書」に答えがありそうだと?日本電産の社長室にその本!中村天風の3冊の口述本が神棚の下に鎮座ましましているそうだ

日から、「運命は自分の言葉と行動で決まる」と自身でもかみしめ、人にも披露する永守社長も中村天風の3冊のうちの「成功の実現」の表現の影響を受けてのものだと推察


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永守社長が、中村天風の本に出合うのは創業後、かなりたってのこと、知人の公認会計士からもらい「キリスト教徒にとっての聖書のように読んできたという。それは本の中で、中村天風が哲学者カントに関する本に登場する医師とのくりかえしの活動や時のインドの大僧正「カリアッパ」とのやりとりを同じような趣旨で述べていて

永守氏も次のように仰る・・・■■■・・・苦しい、辛いと「言えば言うほど、よけい苦しくなる」、周りも「かえって迷惑する」。心は患っていないのだから、それを「喜びと感謝に振り替えろ」 永守らの企業家が逆境期に中村の本にひかれるのは、かつて自分が固めた決意を再確認してくれるからだろう。「信ずる通りになるのが人生」(永守)なのだと


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【おまけ】・・・気持ちが下向きになる時、この本を開いてきました。 心が落ち着き、勇気づけられます。 何百回も読みました。 何か、とんでもないことを教えてくれるわけではありません。


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しかし、天風さんが、とても楽観的で、可能性を信じていることに共感を覚えます。 言っていることも単純明快。
『どんな場合があっても消極的な言語表現をしないように気をつけなさいよ』『信念となると、それがいつかは具体化する』とかね

 


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≪情報や本舗≫≪玉音放送録音盤秘話 ≫≪日本のいちばん長い日≫≪宮城事件=クーデター≫≪中村天風≫≪戦後70年≫

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今年の夏は、戦後70年を迎え、メディアでは多くの特別番組をいつに無く放映していた。また映画「日本のいちばん「長い日」のリメイク版の公開上映に、合わせたかのように終戦の詔勅「大東亜戦争集結に関する詔書」ー玉音放送の原盤が発見されたと公開された!

8月1日に宮内庁から、その玉音放送の原盤ノーカット音源がこれだ・・・・

あらためて、昭和天皇の心底・心痛はいかにかと、映画「日本のいちばん長い日」のリメイク版でも昭和天皇の戦争の終結の詔勅に至るまでの思いが画かれている


以前にも≪終戦玉音放送録音盤秘話≫と見出しに、いまだ誰もがご存じない、昭和20年8月14日の夜中に起こった大きな事件が、日本のしかも宮城(皇居)の中で起こっていたので宮城事件(きゅうじょうじけん)と!・・・


多くの方のご存知の”五一五事件”だとか、”二二六事件”などと同様の若き青年将校を中心としたクーデター事件と言っても過言でないと考えられる

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さて、さて宮城事件(きゅうじょうじけん)とは、1945年(昭和20年)8月14日の深夜から15日(日本時間)にかけて、一部の陸軍省幕僚と近衛師団参謀が中心となって、御前会議でポツダム宣言の受諾が決まると、終戦に反対し、徹底抗戦を叫び日本の降伏を阻止しようと起こしたクーデター未遂事件である

■封切り中の映画「日本のいちばん長い日」を見る方は、是非ともここからの書き込みをお読みください
Ph_1_1【皇居前を行進する近衛師団兵・・・】

戦争終結を良しとしない陸軍省幕僚と近衛師団参謀たちが、近衛師団を動かそうとして、森近衛師団長に、蜂起に加わるよう説得するも、これを強く拒否。将校たちに殺害されてしまう・・・なんと天皇を守るべき近衛師団がですぞ

Ph_1_3

そうして近衛師団長の印を使い、偽造の命令によって近衛師団の部隊を動かし皇居を占拠し、外部との遮断を実行し、さらに、天皇が終戦の詔勅の「玉音放送」の録音盤を奪おうしたのだが、見つけられないまま、クーデターは陸軍東部軍管によって鎮圧された

クーデターは未遂に終わり翌日の正午、玉音放送が行われ、終戦の事実はラジオ放送を通じて、国民に広く伝えられた
________________________


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伝えられている事実は、表面のある一部の事柄だけで、実際的な事は誰も知らないがために、知らない事はなにも報道されずに、誰も知らない事を知っているのは、私一人なのでありますと

昭和35年8月13日 神戸修練会での中村天風翁が口演された内容を、平成に年号も変わり、中村天風翁に関わる重大な秘話でもあると、アメリカ在住の天風会会員「野口五十六」さんが、所有の講演テープ(もちろん肉声である)をテープお越ししたものを、終戦玉音放送録音盤秘話とし公開していただいたものである・・


Photoこの件の詳細は⇒http://morrich.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-b2d5.html

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野口五十六さんのお話によると、クーデターを未然に防いだと言える時の天風翁の活躍は、まさに秘話中の秘話である。昭和も遠く、歴史も風化し、いつまでも秘話として封印せずに史実として残して置くべきものと考えた故、これまで会員の間だけで秘話として拝聴してきたテープ起こしの公開に・・・・

ただこの講話だけですと事件の前後関係がわからず、なぜ天風が終戦前夜にたまたま宮城(皇居)に居合わせたのか、理解できないと思いますのでその背景を補記しました。
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天風は秘話のなかで終戦前夜にたまたま宮城に居合わせたと言ってますが、これは天風独持の粋からくる美意識でして、けしてたまたまそこに居合わせたわけでありません。

終戦前夜8月14日から15日にかけて極限状態にあった宮城内に、たまたま居合わせたなどあり得ぬ話しですし、そこには明らかに必然性があったはずです。


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見つけられなかった二枚の録音盤は皇后宮職事務室から運び出された、その運搬に際してもいかにも正式な勅使らしい偽物を仕立てつつ、本物は粗末な袋に入れて木炭自動車で運搬するという念の入れようであった


決起した若き将校たちは宮城内(皇居内)を必死に隈なく録音盤を、探し回ったがついに見つけることが出来なかったのです、教科書に載らないこと自体が不可思議な話ですよね

芥川龍之介が言うように、「運命は偶然よりも必然的であり、運命はその人の性格の中にあります」。天風がこの歴史的な一夜に遭遇したのは、けしてたまたまではなく、そこには天風が心に秘めた熱い至誠といくつかの伏線がありましたと

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【本編】   日本のいちばん長い日
        (2011年6月19日

【本編】 終戦玉音放送録音盤秘話 
     (昭和35年8月13日 神戸修練会)

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≪スミスの本棚≫≪WBS≫≪市川海老蔵≫≪中村天風≫≪情報や本舗≫

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大江麻理子をメーンキャスターに、2014年3月31日、リニューアルした報道番組「WBS」

 

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大江アナは「田勢康弘の週刊ニュース新書」で4年半アナウンサーとしてまたサブとして務めあげた、

 

 

テレビ東京の元アナウンサー八塩圭子は「大江を不採用にした局は、その不明を恥じるべき」と才能を高く評価している。

 

 

まさに、その通りである、私は「田勢康弘の・・・・」の番組当時からの大江の大ファンである、もちろん「ニュース23」から「WBS」にお引越しである

 

 

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さてさて、報道番組「ワールド・ビジネス・サテライト」で、著名人がリレー形式で自身の人生や仕事の転機になった一冊の本を紹介する「スミスの本棚」というコーナーに「市川海老蔵」さんが登場した

 

 

【「スミスの本棚」森本智子キャスターと語り合うロングインタビュー

 

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歌舞伎の名門、市川家で幼少のころから稽古!稽古!と海老蔵さんは稽古の記憶は「もう死にそうだった」というぐらい厳しかったと「それでも命ある限り乗り越えなくてはいけない」

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そんな厳しい歌舞伎界のなかで海老蔵さんが薦める一冊は、中村天風(1876~1968)の言葉を口述本にした「成功の実現」という本です

 

 

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天風翁は奔馬性結核を患ったがために世界を放浪する羽目になり、波乱万丈の生涯を送った人物なのです。思想家として哲学者として残した言葉は数多く、100万人を超える人々を啓蒙し、先人の道しるべとなり、その中には松下幸之助や稲盛和夫といった経済人も天風翁を師と仰いだのです

この本の中で、海老蔵さんと森本智子キャスターが共に最も心ひかれたのは、「心と体」のエピソード・・・・・天風翁は「心身統一法」と称する教義を集大成とした

世界を放浪して、治らぬ結核にあきらめを決め、どうせどうせ亡くなる命なら、せめて日本の地でと帰国の途についていいる途中で、

 

 

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ヨガの聖人に「お前が胸に抱えている病は、まだ死ぬ運命ではない、治るよきっと治る、付いてくるかい」という言葉に「イエス、サーテンリー!」と思わず言ってしまった天風翁は、ヒマラヤ山脈のふもとカンチェンジュンガという村で修業を積みます。

 

 

そこで悟ったのは、「人は『気』であり、心と体は道具に過ぎない」という考え方です。海老蔵さんは、この教えは歌舞伎に通じるといいます。

「歌舞伎は月に25日間の公演を5ヵ月、6ヵ月と続けたりする。そうすると体は本当に道具」
「心も、役を演じているときに、(自分から)離れることがある」

世阿弥の言葉にある「離見の見」。舞台に立つ自分を、もう一人の自分が客席から見るという境地。「心は道具、という考え方は、『離見』にとても近い」

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≪天風教義に心身統一法の一つに「内省検討」あり、この教義⇒須(すべか)らく我執を離れて行なうべしそうしないと往々独善に陥る ≫

歌舞伎だけでなく、映画、テレビドラマと幅広く活躍する海老蔵さん。今後もさまざまな壁を乗り越えていきたいといいます。

「壁を乗り越えるというのは、それを栄養にするということ。壁はあくまでプレゼント。良いことでも悪いことでもプレゼントなんです」

 

 

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「スミスの本棚」の水先案内人?森本智子アナの番組を終えての感想が書かれてありました、またスミスさんの名はいずこから?も解析⇒経済学の神様と言われるアダム・スミスさん【国富論】に由来するようだとも述べられています
【森本智子アナの感想文】

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彼が選んだ本。それは、これから私の「指南書」にしたいと思う貴重な一冊でした。【成功の実現】中村天風 著 ・・・・・【補足】著とありますが、天風翁の講演話の口述本です 
■ 『自分の心の置き方を変えるだけで、人生は変えられる』
この本の著者 中村天風さんは松下幸之助さんや稲盛和夫さん他、各界の大物が「師」と仰いで教えを乞うてきた、伝説の人物。
■ 『まずは人間をつくりなさい。 それから後が経営であり事業である』
というベースの考え方を元に、より成熟した人間となる為の 日常の心構えなどを具体的に指南します。

 

各々の成熟レベルに合わせた訓練・鍛錬が提示されていて、努力を重ね、それをクリアしていかねばならない・・わりと 実践的な本でもあるのです・・・・【補足:】天風翁は訓練とか鍛錬とか、言わず”修練”という言葉を使われた  中でも、海老蔵さんと私が 心を深く揺さぶられた部分があります。
それが、『心の管理の仕方』人間とは 気=霊魂 である心と体を道具として使うことで、常に心の態度を積極的にしておく
訓練でそれが可能になれば、どんな状況においても負けることがないのです。( 本を読んで頂けると、もっと意味が深く理解できると思います )
まさに 目から鱗の教え・・ 海老蔵さんも同じ部分で強い刺激を受けていたようでした。しかも、彼はそれを歌舞伎という舞台で常に訓練することである意味、その境地に達しているように感じました。
■ 『人生の哲学書』

 

 

Book

 

価格は1万円を超える(スミス史上最高値)ずっしり分厚い本ですが、ページをめくる毎に、「これはすごい!」 と夢中になりました。
読み進めるうちに、自分の心が強くなっていくのがわかります。生き方の価値観が音を立てて変化していくのを感じた 一冊でした。

 

■『乗り越えられない壁はない。 身に起きる 良いことも悪いことも 全てプレゼント』 

 

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と語る海老蔵さん。その前向きな強い精神力、そして、たまに垣間見せる少年のような純真な心をもたれて語られていました

 

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