【ワイン・ワイナリー】

≪シャトー・オー・ブリオン≫≪芸能人格付けチェック⇒ワイン≫≪山瀬まみ≫≪情報や本舗≫

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世界にまったく同じワインは無いといわれるほど、強い個性を放つワインですが、その違いを明確にするために必要なことがあります。それが、テイスティングです ワインブームにも乗って このテイスティングを元旦に「芸能人格付け・・・・・・・」でゲーム感覚での放映番組があります

       【1989年の「シャトー・オー・ブリオン」】

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2017年「Happy NEW YEAR」の元旦にテイスティングに供されたはワインは仏ボルドー産の最古級ワイン「シャトー・オ・ブリオン」でした「シャトー・オ・ブリオン」といえば 2015年の秋にエリザベス女王が習近平国家主席を主賓として迎えた晩餐会を主催した際に 席上に添えられたのは1989年「シャトー・オー・ブリオン」


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≪チョイトの話し≫1989年といえばワインの当たり年で さらに「世界で最もエレガントで、アロマの複雑なワイン」と絶賛されている 英王室が「最大限の歓迎の意を表した」とコメントするのは当然ながら 数あるワインの中から89年をあえて選んだことには なぜか中国政府にとっては触れてほしくない”事件”のあった年ではないか 英国らしい中国への皮肉を込めたのでもあろうか?  (出典:一部です産経ニュース 習主席訪英2015.10.27)

一般庶民はなかなか口にはできない このワイン1本30万円もする仏ボルドー産の高級ワインとか 1928年生産の超レアビンテージワインなら一流ホテルで1本100万は!と番組内で言っていましたよそのテイスティングで比するワインは フランス産の1本5000円のワイン ワイン通の芸能人の中で正解するのは果たして? 


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数か月前の「新婚さんいらっしゃい」でゲストと丁々発止の盛り上げで こちらも人気番組 進行役の 「桂文枝(三枝)」と「山瀬まみ」に毎年ワイナリーで生産(こちらは余市産)のワインをプレゼントとゲストが約束した⇒【詳細はコチラ】https://www.facebook.com/occigabi/posts/1871667873066913

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その「山瀬まみ」さんがテイスティングで ”お見事!” 正解を出され一流芸能人のお仲間に・・・

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≪落希一郎の「男もすなる日記」≫≪150投稿⇒全文公開中≫≪情報や本舗≫

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「男もすなる日記というものを・・・」オチガビを創業してからフェイスブックに投稿しつづけている その日記というかエッセイから 以下

http://morrich.cocolog-nifty.com/blog/2018/12/post-6d43.html 

かつて25年前、新潟でCave d’ Occi(カーブドッチ)というワイナリーを興した時、現在同様会員制の組織を作りました。(ワインの木のオーナー制度)そしてその会報誌(ワインのひとり言とタイトルで)の巻頭に毎度原稿用紙4枚程の雑感を書いたのが、私の物書きの始まりです

新潟で80回程、余市に来てのオチガビでは「from the good Earth(よいちより)」と名付けた会報に18回、ぶどうやワインのことを軸に書いております。さらには自分の健康年令をあと10~15年と想い定めて、一昨年春からfacebookにも週に一度の割合で書くようになりました。エッセイなんてシャレたものでは決してなく、雑文の類をです

と本人は言っておりますが、私の周りのオチガビというより落希一郎のファンはこうも言います「本にしたら良いのに・・」「彼は知識も半端なく、文才がありすぎるわ」とよく会話にのぼる話です なかには「知識は広く意志強固で不屈からか特別な人に使われる言葉”博覧剛毅”だよな彼は!」とも


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そのエッセイ!落の謙遜からか雑文?それも現在140投稿を越えている フェイスブックはツイッターと同じくタイムラインで流れてくるので見過ごし(読み過ごし)てしまうと読み返しはスクロールダウンして見つけ出さなければならない(かなり面倒な作業・・))


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添付でオチガビのフェイスブックにも オチガビ裏サイト?(この応援サイト)にも公開も出来ないし、そこで全文でなくとも カジリでもとお思いの方に 管理者「テンボス・モリ」が30年ほどほど書き続けているブログ(情報や本舗)に全文紹介しておこう 読む方には便利な「おまけ」?も付けておきましょう・・・まずは「索引」を1~140まで⇒以下、その後に全文公開しておきます
http://morrich.cocolog-nifty.com/blog/2018/12/post-6d43.html

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お問い合わせ】⇒ 【コチラ】


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≪落の「男もすなる日記」というものを・・・≫

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かつて新潟でCave d’ Occi(カーブドッチ)というワイナリーを興した時、オチガビ同様に会員制の組織を作りました、その会報誌の巻頭に原稿用紙4枚程の雑感を書いたのが、私の物書きの始まりです

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そのエッセイ!現在140投稿を越えている さてさて読む方には便利な「おまけ」・・・まずは「索引」を1~140まで⇒以下、その後に全文公開しておきます

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1 「ワイン地帯を作る」
2 「今が真のワイン地帯を作るチャンス」
3 「私の考えるワイン作り」
4 「AWARDのはなし」
? 「訪ね来る人々I」
? 「訪ね来る人々Ⅱ」
? 「ワイナリーの集積と町おこし


? 「大きな国アメリカ、北海道に似た国アメリカ」
11 「ナパ紀行Ⅰ」
12 「ナパ紀行Ⅱ」
13 「雪解け、新たなるシーズンの始まり」
14 「ワインとはどんなものか」
15 「光は西から」
16 「濃縮果汁でワインを作る」
17 「ビオ・ディナミ農法とワインⅠ」
18
19 「ワイナリーの規模についてⅠ」
20 「ワイナリーの規模についてⅡ」
21 「ぶどうのこと」
22 「ワイン・ブームの話Ⅰ」
23 「ワインブームの話Ⅱ
30 「Hermann Hesseのこと」
31 「庭づくりの楽しみ」
32 「自分達の住む町だから」
33 「6次産業って何?」
34 「みかんとりんご」
35 「再びワインの表示ルールのこと
36 「駄ジャレ、小咄」
37 「S.F.の面白さ」
38 「道産ワイン懇」という不思議な組織
39 「ヴィンヤードって何?」
40 「坂口巧一氏のこと」
41 「輸入原料でワインを作るということ」
42  輸入原料を使っているかどうかの見分け方
43  高付加価値型ワインの登場
44  非常に分かり易い理屈
45  現代のマルコ・ポーロ
46  外国でワイン作りを学ぶ
47  LEDのこと
48  地飼い鶏のこと
49  倶知安酒場
50  ワインツーリズム
51  推敲
52  ジャガイモ・タンゴのこと
53  フェルディナントとモニカ
54  9回目のNapa滞在
55  fume blancのこと。
56  CIAのこと
57  アルゼンチンのこと
58  余市こそ真のワイン地帯となる
59  北海道ルネッサンス・プロジェクト①
60  北海道ルネッサンス・プロジェクト②
61  北海道とアメリカ合衆国
62  サンフランシスコと小樽
63 「ローマ人の物語」とワインの里作り
64  冬の南ドイツ
65 「日本ワイン」① 混迷の時代の始まり
66 「差し木苗について」
67  本のこと
68  パン職人のコンクール
69 「日本ワイン」② ワイン作り、これからの方向性。
70 「秋保(あきう)ワイナリー」のこと。
71  人類最初のワイン作り ①遠来のお客様
72  人類最初のワイン作り ②アンフォーラのこと
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74  品種交配について①
75  Cavee Cabernet(キュベ・カベルネ)について
76  品種交配について②
77  Dornfelder(ドルンフェルダー)という品種
78  愉快なフランス人の来訪①
79  愉快なフランス人の来訪②
80  庭作りの楽しみ、バラの季節到来
81  ウィンブルドンとガーデン巡り
82  ドゥルリー・レーン氏の異能
83  訪ね来る首都圏の人々
84  Columbian Exchange
85 国産ワインの原料は8割が外国産
86 「1493」読書経過
87 ワイン維新
88 これからの日本ワインは
89 何故、今ワイン新法かⅠ
90 何故、今ワイン新法かⅡ
91 又々、ジョージアの人々来たる
92 Chardonnet et Chardonnay
93 Cuvee Cabernet
94 妻Gabiの小言Ⅰ
95 妻Gabiの小言Ⅱ
96 「新婚さんいらっしゃい」出演
97 文枝師匠とまみさん
98 文章を書くということ
99 ワインの目利き
100 我がワイン業界は明日どうなるか
101 ブルゴーニュの老舗、北海道に進出?
102 ワインぶどう、品種の変遷
103 無調と不調法
104 ショーン・Kは今いずこ
105 ワイン評論家の思い違い
106 古いワインほど美味しい?
107 モンタルチーノとモンテ・プルチアーノ
108 ディエゴ・モリナーリのこと。
109 新大陸でのワイン・マーケティング
110 ヘミングウェイ①
112 マルチリンガルのミル
113 北海道でのワインぶどう栽培
114 アロイス君のこと?
115 アロイス君のこと②
116 EPAについて
117 ガウアー君の思い出
118 欧米人の姓名考 
119 温暖化のスピード

121 日本食文化の伝導者フランス
122 Kazuo Ishiguroのノーベル文学賞
123 取りやめる勇気
124 「新ワイン法」考察Ⅰ
125 「新ワイン法」考察Ⅱ
126 カイ君のこと
127 毎年味が違ってこそワイン
128 アントニオ・ガウディのこと
129 「新ワイン法」考察Ⅲ
130 「新ワイン法」考察Ⅳ
131 「新ワイン法」考察Ⅴ
132 怪しげなワインおじさん
133 私の札幌大通公園改造論
134 怪しげなる評論家が次々と
135 地名に於ける面白い符合
136 北海道での赤ワイン作り
137 ちょっと違ったワイン
138 我が庭礼賛
139 ワイン法改正余話Ⅰ
140 ワイン新法余話Ⅱ
141 時代が変わる
142 ロワールよりのお客様
143 山のあなたの空遠く

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落希一郎  2015年6月19日 に書き出しは始まりました 「男もすなる日記」というものを
 
 「ワイン地帯を作る」
 昭和23年生まれで現在67才。かつては60才を過ぎれば死ぬ準備と思っていたものが、実際にはそうならず至って健康で元気。それならばやってみようと、現在マッサンの地余市町で「日本一のワイン里」づくりを進めています。

 十数年前までの北海道は亜寒帯の地らしく、3年に一度は「冷害」に見舞われました。それがどうでしょう。このところ完全に温帯化して、ワイン用ぶどうの栽培もかつてのドイツ系品種一辺倒から、フランス・ブルゴーニュやアルザスの品種群へと移行しつつあります。

 ところが経済面では、北海道の地はバブル崩壊以降の長期低迷期に入ったまま。人口減少・雇用激減・後継者不足と、何処も同じ、地方農村を襲う過疎の暗雲が、この余市をも覆っています。「北海道の果樹園」を自認して来た余市・仁木の産業構造を変えるべく、ワイン用ぶどう作りの農業をベースにして、そのぶどうからワインを作り、更にこの地にワインファンを迎え入れて観光化する「6次化された町」とする計画を着々と推進しています。

 一昨年の2013年秋に私の人生4度目のワイナリーを、ニッカの後背地3kmのところにオープンしました。ワイナリーという言葉に人々は何を期待するでしょう。ぶどうの仕込み、発酵、ビン詰め等の設備が整った醸造所。試飲する場所や売店も必要でしょう。しかし、現代のワイナリーの定義では一番欠かせないのは、それらを取り囲む広大なワイン用ぶどうの畑と、良く整備された庭園です。2000年以上前のユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)の言葉ではありませんが、「来た、見た、飲んだ、買った」という訳です。

 私のワイン作り、そしてワイナリー作りでは、ですから見えるぶどう畑作りと大きな敷地の美化をとても重要視します。この余市の OcciGabi Winery はそれを実現したものです。そして同様の定義に基づくワイナリーをこの周辺に多数現出させること。そのことを使命として現在鋭意活動中です。

現に、この春第2の同規模ワイナリーが着工します。第3と第4は来年でしょうか。もう土地は取得したと聞きます。私が知る限り、畑・庭・醸造所(そして出来たらレストランも)とセットで複数並んでいる地帯は国内では新潟の Cave d'Occi 以外は、ここだけでしょう。

更にこの5年間で2~30軒、15年程で200軒と展望出来る所は、この余市川ヴァレー(余市町とに木町)以外に存在しません。ワインぶどう適地がそれ程大量に休耕地としてあるからです。近々、栽培・醸造・分析・マーケティングの専門家を養成すべく専門の教師を海外より招き入れてアカデミーを開校する予定です。真実、自分の生業としてのワイナリー経営を考える方々の来訪を歓迎します。先ずは出掛けて、見ること。その後に判断してください。

 「今が真のワイン地帯を作るチャンス」
 生まれが鹿児島で楽天的なせいでしょうか。ピンチこそチャンスと考える性癖があります。日本中の田園地帯にある農村の殆んどが消滅危惧と言われ、中でも北海道の農村はその傾向が著しいと思われています。若年層が減り、高齢者の比率が年を追って高くなっているからです。若い人はもう返って来ないのでしょうか。

 私の考えは違います。私の地元である余市町や仁木町は実際に人口が急速に減少して経済が収縮し、新規の就職口を見付けるのも至難のワザです。基幹産業の果樹生産は私と同世代の人々が必死に守っていますが、後継者難で放棄された農地が目立ちます。

 しかし、よおく考えると、それ故新規にワイン用ぶどうを沢山植える余地があるとも言えます。先人が耕した農地をそのまま放って荒地とせず、新しい将来性のある作物を植えて行く好機と見るべきです。自分の人生の大部分を賭けた作物だからワイン用ぶどうを推す訳ではありません。現在は、この作物には大いなる可能性があるからです。

 私がドイツでぶどう作り、ワイン作りの勉強をして帰って来てから約40年経ちますが、我が国内でのワイン需要の事情が近年大きく様変わりして来ました。きちんとワイン用ぶどうを栽培して、ワインを作ってみようという運動が台頭して来たのです。幸い、といっては何ですが、現在の国内の殆んどすべてのワイン会社が、輸入ワインや輸入の濃縮ぶどうジュースに頼ってワインを作っていますし、国産100%といっても食べるぶどうのハネ品で作っているのです。完全に100%ワイン用ぶどうをつぶして、しぼって、という作り方をしているワイナリーは全国に10社あるかないかです。約300軒のうちのですよ。

 いかがですか。ここに大きなチャンスがあるのです。夢ではありません。実現の可能性の話をしています。片やこの国のワイン作りの現状がこうで、そうしてもう一方に過疎に悩む果樹の里があるのです。私でなくとも、この理屈は容易に理解出来るらしく、私の説明を聞いて、すでにこの地に土地を求めた人が、この2年間で5名も来ました。

 「ワイン特区」という制度があり、余市町でもその適用を受けられます。しかし本当にワイン作りをしたい人は決して近付いてはいけない制度です。何故といって、年間2000リットル製造で免許されるのですよ。720ml入りのビンで2,800本。1本2,000円で直か売りしたとして、560万円。まともなワインを作るには醸造所、醸造設備だけで数千万円から1億、2億円かかります。

(因みに私共の施設はレストランを含め4億円強かけました)一体どうやって元を取るのでしょうか。他人にワイン醸造を委託するですって?そんなのワイナリーとはよべません。何よりも雇用の伴わない事業はワイナリーとよぶべきではないでしょうし、そんなワイナリーがこの里に何十軒出来たって、地域の経済は活性化しません。言葉は悪いかも知れませんが、そんな自己中心的な計画を立てたところで、地元の人には、疲弊した田舎に侵入して来た害虫のように思われかねません。外来者は地元に恩返しすべきなのです。それが雇用です。


 「私の考えるワイン作り」
 近年醸造の天才を名乗る輩が我が国でも何人か出て来ました。私は否定します。何故と言って、現在地球上にはきっと20~30万軒のワイナリーがありましょう。私も少ないお金とたっぷりある時間を使って、世界各地のワイン地帯にオーナー達を訪ね歩きますが、そんな話は聞いたことがないのです。

だってそうでしょう。日本中の約300軒のワイナリーにざっと数えて20人程そんなことを言っている若手が居ますが、もしそうなら、先進地の欧米豪あたりには数万人もの天才醸造家がいて、色々なところでしょっちゅうそんな人に出逢いそうなものです。それが全くといってよい程無いのです。

 正直な人は「私は収穫したぶどうを丁寧にワインにするだけです」と言うことでしょう。謙遜ではありません。事実をそのまま述べているのです。何故ならワインの味はぶどうですべてが決まることを良く知っているからです。ましてや近頃、醸造機器は格段の進歩を遂げました。良いぶどうから美味しくないワインを作り上げることの方が至難のワザなのです。

 逆に、ぶどう栽培には工夫の余地がまだ多少あります。それでも誠心誠意ぶどうと対峙すれば、矢張り、「ぶどうの味を決めるのは天候だなぁ」となります。要は人知の及ばざるところに行き着く、という次第。肩に力を入れず、従容として天命に付き従う。それがワイン作りかもしれません。もし美味しくないワインが出来上がったとしたら、その理由は次のどれかです。

・天気が悪かったから ・ぶどう作りの手を抜いたから ・ぶどうの木が若過ぎたから ・自分が作り方で大きな間違いを犯したから

ことほど左様に、ワイン作りの作法はネガティブなもので、決して「攻める」ということはないのです。それと、作り手にとっては強い味方が居ます。熟成です。特にビン熟成は劇的でさえあります。上手に10年寝かせれば、きっと面白いものになります。(白の場合は5年?)

 いかがですか。外国から輸入したワインを自分のワインとしてビン詰めしたり、本来目的に叶っていない食べるぶどうからワインを作ったり、又、手品師のようなマネをして世間の注目を引いたり、、、、なんて詰まらないことをするとワインに笑われてしまいますね。深いけれど難解なものでは決してないのがワイン作りなのです


 「AWARDのはなし」
 世界中にワイナリーが20~30万軒あるとして、1軒が平均4~5種類のワインを毎年リリースするとしたら、理論的に言って、今現在味わうことの出来るワインは直近の数年分プラス古酒でゆうに500万種類はあることでしょう。そんなワインに順番を付ける行為がどれ程愚かかすぐ分りますね。誰が評価するのか。何の為に評価するのか。オリンピックのように数値比較出来る訳じゃないし、球技のように直接対決する訳でもありません。詰まらないことです。

 と考えて、少しでも誇りある人はまず出品しないことでしょう。ベルギーのブリュッセルで行われている「モンデ・セレクション」を見ればよく分ります。幼稚園児が花マル欲しさに右往左往しているようで醜くさえあります。そりゃあ、やりたい人はやればよろしい。でも美味しい、美味しくないは結局自分自身で判断すべきことでしょう。人や物の好き嫌いだってそうです。そんな人生最大の楽しみのひとつである「評価をする」という行為を他人任せにするのは非常に勿体無いことです。

 我が国で一番騒々しくワインのコンクールを行っているのがY県というところにも問題があります。だってワイナリーが80数軒あって、きちんとワイン用ぶどうを栽培してワインを作っているところが2~3軒しかないのです。コンクールをやる前に浄化運動でもやったらどうでしょう。まぁこの話を進めて行くと、瀬戸内の海塩も日本中の養蜂園も大変でしょうが。

 とにかく、名にし負うワイン産地では順番付けのコンクールなんて成立しません。ロンドンやブリュッセルは金儲けのショーです。それにしてもワインはインテリの飲み物かと思いきや、コンクールに群がる人々がAWARDをアワードと発音しています。私も英語は中級程度ですが、英語は決してローマ字読みしない言語なのは知っているつもりです。アウォードと言いましょう。ついでにデジャブーは止めてデジャヴューと行きましょう。


❺ 「訪ね来る人々I」
 以前20年以上新潟でCave d'Occi Wineryを経営していた時もそうでしたが、ワイナリーというものは面白いもので、とにかく来訪者の多いところです。一昨年秋に醸造所・レストランが完成し、昨春は周囲の6haのぶどう畑の植え付けも完了し、きれいな庭も出来上がったせいでしょうか、偽りなく1日平均1組以上は本州のお客様が見えます。

2~5人でいらっしゃるのは車でのせいでしょうか。食事なさる方々も多いのですが、地下の醸造・貯蔵スペースをご覧になった後、私と話し合って行かれる方々も沢山いらっしゃいます。2013年11月初旬にオープンして現在(2015年4月初旬)で15か月が経ちましたが、概算4000人程の人々をご案内し、対話したことになります。

 余市・仁木両町にまたがる地帯がワイナリーの集積地になる話をします。粒も房も小さくて甘みの強いワイン専用ぶどうの話をします。Vitis viniferaといって、ワインにするためだけに存在しているぶどうです。八百屋さんの店先に並ぶことはない特殊な農産物です。ですからこのワイン用ぶどうは一般の流通経路には乗りません。きっと日本一の量と思われる余市・仁木の15品種1000t程のワイン用ぶどうは殆んど決まった先へ流れます。

 23年前新潟でCave d'Occi Wineryを興した時は、新潟のワイナリーの周辺に沢山ぶどうを植えると同時に、この余市の農家3軒と契約して、こちらでもワイン用ぶどうを契約栽培して貰いました。ですから現在はその昔馴染みの農家さんのぶどうを頂いてのワイン作りです。自分で周囲に植えたぶどうは昨秋から成り始めました。今秋はもっといっぱい成るでしょう。

 これから私共の周囲で始める人々もスタート時はぶどうの調達に困ることでしょう。私共に余裕が出来たら、率先してそのような人々にぶどうを譲るつもりです。大きなワイン会社は要らない。中程度、小規模をいっぱい。それがワイナリー・ゾーニングで大切なことです。

 お陰様で私の話を信じて、この近隣でワイナリーを開こうという人が次々と手を挙げています。自分でぶどうを植えて頂くのは勿論ですが、スタート時の呼び水的ぶどうの供給量を安定させるため、譲渡目的型ワイン用ぶどう生産法人の設立を考えています。


 「訪ね来る人々Ⅱ」
 欧・米・豪で功成り名を遂げた人々が、肩の力を抜いて半分趣味的に興す事業のひとつに「ワイナリー経営」があることは、私も以前から海外のあちこちで実例を見ていて知っていました。古いワイナリーのオーナーシップを買ったり、新規に土地を求め、人を雇用して作ったりという具合いにです。本物のワイン作りが定着していない我が国では百年後のことかと思いきや、そうでもありません。

すぐ隣に1軒現れました。ご当主は東京で事業を成功させ、人生の最終章に南極・北極両極地点と、6大陸最高峰を征服している最中に、どういう因縁でか私共のところに立ち寄りました。「そりゃあ、勿体ない。貴方の人生最終章に”ワイナリーでの地域起し”を加えてください」60代なかばの同じ団塊の世代のよしみとばかりに私が申しますと、じゃあやってみよう、ということになりました。言った私のほうがビックリするくらいの速断でした。この春もう建設に入ります。

 昨春の私共の「ぶどうの苗植え」に手伝いに来て、ワイナリー作りを決心した30代の夫婦もいます。何やかやと、私の囲りには、ぶどうとワインのことを人生の中心に据えようという人が沢山集まってきました。そんな人達8人に加え余市・仁木の経済・政治の有力者も加え、総勢14名で4月3日~8日とカリフォルニア・ナパに旅行します。とにもかくにも、先進地を見ることが大事。そこに行くと余市・仁木の15年後、20年後を見ることが出来ます。信じたくない人はそうして下さい。信じる人は私共と歩を共にする大切な仲間となります。日本で唯一の、そして一番素晴らしいワイナリー・ゾーンの建ち上げに参加するメンバーとなるのです。


 「ワイナリーの集積と町おこし」
 70年前の大きな戦争の直後に生まれて、今日まで精一杯生きて来た人間の一人として思うことがあります。「経済」という言葉を「人間の営み」という具合に拡大して考えるとしましょう。物流も情報も教育も医療もその他すべてを包括的に考えるという意味です。そうすると現在は戦前のものとは丸切り異なっていることに気づきます。人類の叡智でしょうか。進化の宿命でしょうか。何やら行き着くところまで来たなと実感します。

 経済活動に於いて世界の最先端にあると思われる我が国で、田舎の疲弊・崩壊が起きているのは偶然でしょうか。その原因を狭い意味での経済、いわゆる金銭活動に求めるのは安直すぎます。金銭に関した活動は、人間の思想、人生観による行動の結果として現れるのであって、それを原因に捉えると議論が堂々巡りし始めます。より高い収入を得たいから、人々は田舎を捨てて、都会に行くのではなく、田舎に居たくないから田舎を出ていくのではないでしょうか。以前はあんなに豊かだったのに、功利的な人々の動きゆえに田舎には職も無くなり、若い人々は皆出て行った。だから私も出て行こう。

 いや私はこの田舎が好きだ。ここで精神的にも金銭的にも豊かに生きていくためにはどうしたらよいのだろう。私自身、何も政府の言うことにべったりの人間ではありませんが、今回の各省庁あげての大合唱「地方創生」には大きな意味があると考えます。自分達のいる地域を自分達の力で豊かにしよう。足りない力は積極的に誰からでも借りよう。だって自分達はこの地域で豊かに暮らしたいのだから。政府も狡猾です。「天は自ら助くる者のみを助く」とばかりに、自分達できちんとした創生プランを作り上げない地域にはこの特別予算を下さないと。

 居残った自分達だけで豊かに創生・復興することは不可能と皆が悟りました。外部より若い人を招き入れ、彼等にもこの地域を豊かにする仕掛けを一緒に進めて貰おう。全国1700余の自治体(市・町・村)のうち半分以上が消滅可能性を云々される時、それは前総務相の唱えた怪談論法だと一蹴する人もいます。そんな人に限って、何もせずに自分の葬式を迎えるような生き方をしています。

物事何もしなくとも何とかなる、と。私は考えが全く違います。たった1回の人生、しかもえらく長くなってしまった人生を、より強く周囲の人に、そして地域にコミットして生き抜いてみたい。かつて1960年代に、ジャン・ポール・サルトルの説いたアンガージュマン(engagement 社会参加)の思想です。仙人を気取るのではなく、この地域をより魅力のある社会にするため、皆で議論し、行動することです。人生が非常に長くなったのですから、隠棲は80才、90才を過ぎてからにしましょう。文化勲章と一緒です。死ぬ数年前でよいのです。

 全国のすべての過疎地域に同じ条件が揃っているとは考えません。真のワイナリーが集積した地域を作り上げる上で、必要な条件が殆んど存在する場所として、私は現在住んでいる余市・仁木地域を選びました。土壌と天候。水田の殆んどない丘陵地形。前面にある良港群。維新開拓以来百年にわたる果樹栽培技術の蓄積。そして、今やラベルに原料ぶどう産地を明示するように国税庁が言い始めたこと。我が国のワイン製造情況もやっとまともになるのですから、余市・仁木にとっては絶好のマーケティング・チャンスです。

 この機をおかずして、この地にワイナリーゾーンを建設すべき時があるでしょうか。足りないのはワインの学校と原料となるワイン用ぶどう。そのどちらも作りながら、この地に目前にある発展未来図を示せば、立派な地域創生プランとなることでしょう。


10 「大きな国アメリカ、北海道に似た国アメリカ」
 アメリカ合衆国。今から二百数十年前、イギリスで迫害を受けた人々が移り住んで来て始まった国、と学校で習います。「合衆国」とは意訳も極まれりながら、名訳だと思います。United Statesの字面には、何処にも「衆」の文字や意味はありません。我が国の誰の仕業でしょうか。

 それはさておき、アメリカ合衆国(以下アメリカ)を訪れるのは今回が8度目。しかも他の色々なところへは立ち寄るものの、必ずカリフォルニア州ナパに滞在。最初に訪れたのはこの国の開基200年祭の頃ですから、例えれば現在の北海道のような時期となりましょうか。北海道は本格的に開拓されて150年経ちますが、加速される歴史のスピードを考えると、同等と考えることも出来ます。

 とにかく、アメリカは国の成り立ち、地域内の人々の結び着き、そして人と人の対話の仕方がとても面白い。もっと正確に表現すると、一般の日本人にとっては普通じゃない。日本人でも少数派の、思っていることをその都度ハッキリ述べる、私のような人間にとっては、同類的で心地良い。どうしてこうなるのでしょう。

 「衆」を民族と考える人もいます。私は、しかし「衆」を一人一人の異なった個性と考えることにしています。そのことが前提にあって、この国は成り立っているのだと。何党だ、何々主義だとかのイデオロギーではなく、まず自分自身が目の前にあることにどう対処するのか、はっきり表明して議論しを始める。どうも我が国の「衆議院」とは違った手法のように思われます。

 今から40年前の1975年、間違ってそんな国のナパという寒村に入って行き、知己を得て長逗留し、結局何度も訪れて人生最大の影響を受けました。最初彼らの夢を聞いた時、当時ドイツで勉強している最中だった私は、アメリカ的なファンタジーと感じました。見果てぬ夢と。この町を世界一のワインの町にするのだ。合衆国が真のワイン生産国になるのだ、と、当時ナパの人は言っていたのですから。

 しかし、その後気になって何度も訪ねるうちに、自分の間違いに気付きました。彼らは実によく技術や科学の進歩を計算に入れ、社会学的に人々の心理の変化を読んでいるのです。人々が何を欲しがるのか。いや自分は何がしたいのか。
 結果はどうでしょう。今や全米50州に1万6千軒のまともなワイナリーが出来ました。

40年前は全米で僅か200軒程しかなかったのに。余市・仁木は現在建設中も入れて6軒。ナパ・ソノマ・メンドチーノ3ヶ町村と余市・仁木等6ヶ町村はほぼ同等の地域力と考えて、現代のスピードを加味しますと、彼らが40年で作り上げた1000軒は無理でも、難なく200軒を15年でというのは、十分に可能です。進めましょう。


11 「ナパ紀行Ⅰ」
 大して金持ちでもなく(それどころか、どちらかという貧乏人で)、それゆえ自由時間を沢山持っているせいでしょうか、よく海外に旅をします。殆んどすべてワインが目的です。ナパはこの40年で8度目。大体4~5泊。しかも同一のホテルに連泊という形をとります。ゆったり楽しむためです。

 確かに気に入って、何度も訪れるワインの町はあります。ボーヌ、ボルドー、ランス、マドリード、ログローニョ、バルセロナ、ローマ、フィレンツェ、ウィーン、パリ、それにかつての同級生の住むドイツの町々。それらすべてに愛着を持っていて、本当に何度も何度も訪れます。

 しかしナパを訪れる真の目的、喜びは、他の町とはかなり異なります。それぞれのワイナリーの庭の中でゆったり試飲すること。それと、ここが一番大事と思っているのですが、前回とどこが変わったかを見ること。

 年々発展しているワインの町なんて他にありません。リノヴェイション(改革)発見の旅と言ってもよい程、毎度あちこちが生まれ変わり、しかも新しいワイナリーが出来ています。何故、ここの当主はここをこう変えたのか。新しいレイアウトでお客の側の受ける印象はどう変わるのか。まさに現代ワイナリー経営の学習の場なのです。

 「庭作りに力を入れよ」はここで学びました。ホスピタリティー溢れる対応も、自分の手の内を相手に全部見せようという姿勢もナパの人々から多く教えられました。

 反面、気候は特殊で殆んど参考にはなりません。とにかく一年中、夜温が低いのです。夏来ても、勿論冬泊まっても、夜は暖炉に火を入れます。この点は北海道に近いかな、というところ。植わっている品種はブルゴーニュとボルドーのものすべて。プラス、出自の定かならぬジンファンデル。今年は気候が早く廻っているので、ピノ・ノワールは7月下旬の収穫かな、とシャンペン蔵Mummの案内人が言っていました。それでいて、少し遅くにはカベルネの一族がきちんと成熟する不思議な気候帯のワイン産地です。だってひとつの町でピノ族とカベルネ族両方の逸品が楽しめるなんて、世界中そうざらにはありません。

 味の方向性も、よりタンニン質を多く、よりドライに、そしてよりビン熟成をかけてと加速しています。新樽熟成に力を注ぎ、各自「ワイン・クラブ」で顧客を組織して、ワイナリーの高級化を目指しています。全米16,000軒の頂点に立つ4~500軒をナパは自認していて、それ故価格もうなぎ昇りです。その利益が再投資に向けられているようです。何度訪ねても飽きない、常に又訪れたくなる町です。

12 「ナパ紀行Ⅱ」
 今回の訪問は丁度復活祭とぶつかったせいでしょうか、何処も人でいっぱい。14人が貸切りバスで動いたものですから、予約の店はまだしも、跳び込みで入ったレストランは席に着くのに大変でした。アルコールも満量、お腹も満杯での移動ですから、宿ではグッスリの毎日。

 アメリカ滞在4日目あたりから一行の皆さんの話題が、故国での食事のこととなります。別に馬鹿にする訳ではありませんが、とにかくアメリカの食事は大雑把。選択の幅もありません。1か月丸々滞在でもしようものなら、私でしたら確実に10㎏は肥りそうです。出会う大人達が8割方ウェスト100㎝以上で、そのくせダイエットだ、オーガニックだ、サプリメントだのと言っているので大笑いです。彼らの快活さは、しかし、そこから(その太っ腹から)来ているのかもしれません。愛すべき人々です。

 それにしても、かつて30~40年前は世界一のワイン輸入国だったハズが、今や世界一のワイン生産国になったのですから驚きです。我が日本人が1年間に飲むワインが約6億本として、そのうち自国のワイン用ぶどうから作られるワインは僅か1%以下の400万本程との計算もありますから、我が国ではこれから伸びる産業なのでしょうが、問題は耕地です。

1反2反(300~600坪)の畑ではワイン作りは出来ません。最低3町5町(9,000~15,000坪)のぶどう畑作りから始めなければいけません。アメリカ、オーストラリアに移住するか、それとも北海道でやってみるか。

 ナパにロバート・モンダヴィという偉人がいました。彼はナパ草創期(19世紀後半)の牽引者チャールズ・クルーグの縁者で、20世紀前半の「禁酒法」や「大戦」乗り越えて、1960年代に事業の基礎を作った人です。現在のナパ隆盛の父として人々から敬愛されていますが、彼のとった政策(?)が素晴らしい。

ナパを一級のワイン・ゾーンにするには数多くのワイナリーを開業させること。そのためには、自分のところの人間も率先して3年程居たら独立させる、を繰り返した人です。囲りに開業する人々はライバルというよりは、むしろファミリーだ、が彼のモットーだったとか。

 幸運にも私は彼自身に会って握手する栄誉に浴しています。ナパを初めて訪ねた1975年私の居たドイツの学校に夏季留学生として来ていた、彼の次男ティモシーの紹介です。そんな偉大な人とは露知らず、社長室でお話したことを覚えています。私が彼から受けた影響は深く大きなものです。人生60才を過ぎて、今やっと彼と似た展望を持つに至ったと実感しています。

 勿論、彼の手法に影響を受け、それを実践して立派なワイン・バレーを作った人々はオーストラリアやニュージーランド及び全米各州に沢山現れました。ですから私の場合、それらの人々からも充分に検討すべき材料、課題を与えられながらの前進です。旧世界とも呼ぶべきヨーロッパの各地帯も加えて、ワイナリー開業に際しては数多くのスタディが可能なのです。

13 「雪解け、新たなるシーズンの始まり」
 4月8日ナパより帰り来ますと、我が OcciGabi Winery - オチガビワイナリーの庭やぶどう畑の雪はすっかり融けていました。昨春が4/18でしたから、丁度10日早い雪解けです。だからといって、この秋の収穫予想が今出来る訳ではありません。いろいろ考えるより、秋の仕込みまでぶどう作り・庭作りを精一杯楽しもうと思います。
 知り合いの女性園芸家からチューリップの球根を頂きました。合計60球を降雪直前の昨年11月末に庭に植えました。新潟時代の習性で地下10㎝程に深植えしすぎた為、冬の間何度も雪が融けたら上土を少し取り去って、春芽が出易いようにしようと考えていました。ところがどうでしょう。雪解けとともに、もう芽が地上にのぞいているではありませんか。雪の下ですでに10㎝以上芽が伸びたことになります。驚きと喜びの繰り返し。土をいじる人間への天のご褒美と考えるべきでしょうか。

 ぶどう畑はこれから針金張り、枝縛り、樹皮の防除、堆肥投入と続きます。今春、新苗の植え付けは休みますので、樹木を育てることや実をとることに専念します。一方、庭作りもすることは沢山あります。70株のバラの剪定は急務です。次に草花の囲りの土起しと施肥です。芝生の世話も待っています。ぶどう畑の列の間にも芝生を植えましたので、刈る面積も相当なものです。とにもかくにも、畑も含め敷地全体をきれいにすべく管理する作業も、又とても楽しいものとなります。

 「良いワインは、良き畑より」を拡大解釈して、「美しい敷地で飲むワインは美味しい」とばかりに、せっせとぶどうや庭全体に手を尽くしていると丁度お茶を飲みたくなる頃に来客があるから不思議です。「池のほとりでコーヒーでも飲みながらお話ししましょう」と誘えば、例えお役所の方々でも断りにくいものです。そんな庭を作っています。皆さん、どんな用事でも、どんな時にでもいらしてください。


14 「ワインとはどんなものか」
 ご存知の通り私はソムリエではありませんし、ワイン評論家でもありません。更に言えば、名の知れた栽培家(Viniyard manager)でも天才醸造家(Wine Maker)でもありません。世界中物凄く沢山いる「単にワインを作り続けている」人間に過ぎません。今回はその立場で物を申しましょう。

 余りうまく説明出来ないかもしれませんが、我が国でどうしてこうも変テコリンな「ワイン作り」が横行しているのか考えてみます。ワインが単にお酒の一種と捉えられている日本に対して、ワイン発祥地ヨーロッパでは、どうも違うものとして位置付けられているように思われます。地域の風土に根ざした文化、そんな風に人々に受け容れられているのではないでしょうか。近年それを受け継いだアメリカやオーストラリアも、自分のワインを自分達の文化にまで高めようとしています。正確には「ワインを」ではなく「ワイン作りを」、そして「ワインの楽しみ方を」です。

 何度も言いますが、ワイン醸造所はワインぶどう畑の只中にあるべきです。気候と土壌を或る程度共有した多くのワイナリーが、ひとつの村、ひとつの町に多数共存すべきです。この多数居並ぶワイナリーの醸造を担当する人々は自分の畑やぶどうのことを熟知すべきです。そして、その異なる醸造担当者ゆえに、又彼等が選択する醸造機械や醸造手法の違いにより、更にはもっと重要なこととしてワインぶどうそのものの味の違いにより、同じ村でも微妙に味の異なるワインが幾つも出来上がります。

 芸術とは少し似ていましょうが、正直言ってそれ程深刻な姿勢ではワイン作りは行われていません。自分の身を削るようなことまでしなくていいのです。先日、「伝説のワイン作り人」(と私が勝手に誤解していた)、カリフォルニアはセントラル・コースト地区のジョッシュ・ジェンセン氏を目近かに見ながら彼の講演を聴きました。申し訳なくも、ただのオッサンでした。別に貶しているのではありません。

周囲(彼のワインを扱っている商社)が囃立てている程特別なことをしているのではなく、単に1970年代初めのスタート時に資金調達が余りうまく行かなかっただけのようです。畑は雑だし、醸造所も醸造施設も全くスライドに出て来ないのですから。ワインの味は、しかし、別に悪くありませんでした。それというのも、インチキはしていないからです。今日のテーマはこれです。

 一体どうして我が国のワイン作りは先の見えない迷い路に入り込んでしまったのでしょう。外国からワインそのものを輸入し自社のビンに詰めて売る。外国で濃縮したワインぶどう果汁を輸入し、国内で水で戻して発酵させて作ったものをビンに詰めて売る。以上、どちらも「国産・自社ワイン」です。日本で本当にワイン用ぶどうからワインを作ることは、とても難しい。何故といって、ワイン用ぶどうの絶対量が殆んどゼロだから。全国民の愛飲量の約1%分の量しかワイン用ぶどうはないからです。

 50年前に北海道の或る町の町長さんが、上記外国産ワインの方式を導入し、大成功しました。それを見て、国内の大手メーカーや地方の中小ワイナリーまでその手法を真似しました。極言すれば国産ワイン=外国もの、というのが我が国の実情です。

15 「光は西から」
 かつて150年前、アメリカ合衆国の軍艦が来訪(?)したことによって、明治維新に至り、更には北海道の開拓までアメリカが請け負ったのですが、その所産として余市・仁木地区がアメリカ伝来の果物栽培のメッカとなりました。光は東方から来ました。若い国アメリカが当時の日本人、分けても北海道の人々に与えた精神的影響も大きかったと思います。その後、我が国の歴史上最大の戦争をこの国相手に戦い、惨敗しながらも更に大きく旧きに層倍してこの国から影響を受けました。

そして現在、今度は貿易交渉で又難しいことになっています。特に北海道農業が甚大な影響を受けるTPP交渉に於いては、こちら側の主張が完全に通るなどと思っている日本人は皆無です。農業改革と過疎地域創生の二つを同時に推進しなければならない厳しい局面が当面続きます。

 私共はこの外圧を好機と捉え、作物転換・六次産業化・地域創生を同時に進め得る方策として「余市川ワインバレー構想」を説き歩き・実践しています。日本ワインの現状を見るにつけ、真のワイン地帯創出の可能性はこの余市・仁木が日本一、いやもしかして日本・唯一と考えて行動しています。とにもかくにも外圧に弱い日本のこと、と言うよりは外圧を巧みに利用して自己改革を成し遂げる能力に長けている国民性ゆえ、現在大いに期待していることがあります。

 今回の外圧はEUからです。西方から。TPPは農産物・農産加工品に関しては、日本とアメリカ、オーストラリアの三国交渉が主でした。現在スタート間近の(水面下では事務交渉がもう始まっている)日本とEUの二国間貿易交渉では、面白いことが起こりそうです。EUの日本への主要農産物輸出品にワインがあります。交渉ですから対象品目は同じマナ板の上、即ち同じ法律で管理されているべきです。要は日本のワイン(作り)の基準をEUに合わせよ、と。野放しで出鱈目なワイン作りの現場を監視せよ、と。

 もっともこれは私の希望的観測です。先日のメルケル・ドイツ首相の来日時に随行した事務方が我が国の当局者と「日本もきちんとしたワインの法律を作るべきですね」と話し合って行ったかも知れません。

 お分かりですか。私ならずとも、メルケル氏は単にドイツの代表だけでなく実質EUの代表格と考えるでしょう。楽しみです。もしそうなら、余市・仁木地区にとって千載一遇のチャンス。だってそうでしょう。ヨーロッパ基準でワインを作ることの出来る、言い換えればきちんとワイン用ぶどうを大量に栽培出来るところの筆頭にこの地があるのですから。


16 「濃縮果汁でワインを作る」
 ワイン作りの原材料をどこに求めるか、というところに論を発します。かつて4~50年前は出来上がったワインを200ℓの容器に詰めて、船で日本に運び込むという手法がとられました。要心して熱(パスツール)殺菌してから詰めたものを日本でビン詰めするのですが、又そこで熱殺菌されます。二度もパスツール殺菌されるのですから、泉下のルイ・パスツールもきっと驚くことでしょう。

相手国はブルガリアやスペイン。その後ワインの調達先は南米のアルゼンチンやチリに移りますが、その理由は簡単で、常に世界一強い通貨「円」で一番安く買える相手ということです。分り易い表現ですと、より経済が不安定で貧しい国となります。

 200ℓのワンウェイ使い捨て容器その物の名をとってこれらを「バルクワイン」と称します。お酒の法律が「ビン詰め作業こそが製造」という精神に即していますから、原材料がどこであれ、日本国内でビン詰めされれば「国産ワイン」ですし、どこかの会社でビン詰めされれば、「自社ワイン」なのです。

 更にこの「ワイン作り便法」は進化します。2~30年前からは彼の国より、ワインではなく濃縮果汁をバルクに入れて運び始めます。自社内で発酵ぐらいさせないと良心が傷むから、と思いますか?いえいえ理由はもっと別のところにあります。

例えば
①4~5倍濃縮果汁にしますと運賃が1/4~1/5となります。
②濃縮果汁はその濃縮度ゆえ運送中に腐敗したり、発酵する心配が全くありません。
③濃縮果汁は水で希釈してから発酵させるのですが、一説には4倍濃縮液を12倍希釈して砂糖と香料を加えて味を一定にした上で発酵させるとも言われています。毎度丸切り同じ味になるようにです。
ワインを大量流通品として捉えると、結果こんな出鱈目な発想が出て来るのでしょうね。

 私自身ワイン作りの世界に入って41年。不思議なことに、「ワイン作りをしています」とか「どこどこでワインを作っていました」という人には20人と会っていません。どうしてでしょう。業界では私の主義主張はよく知られていますから、議論を避けたいからでしょうか。「畑は何ヘクタール?」「品種は何?」「株と株の間隔は?」ならまだしも、「貴方のワインはどこから輸入しているの?」とまで私に尋かれかねません。

 情け無い、の一語に尽きます。いつになったらマトモになるのかなぁ、と考え続けて来ましたが、最近原料ぶどうの生産地を表示しようという動きが出て来ました。勿論EUの圧力でです。でも本当にチョンマゲ切って両刀も捨てての時代は来るのでしょうか。


17 「ビオ・ディナミ農法とワインⅠ」
 英名はバイオ・ダイナミック農法。20世紀初頭にドイツのシュテーゲマンが提唱し、かのルドルフ・シュタイナーの講演活動で世に知られるようになったとのこと。農業をひと時代昔に戻そうという運動、と要約出来ます。具体的に言うと化学肥料と農薬を否定し、時にはトラクターまで拒否して牛馬での耕作を良しとしたといいます。

 19世紀後半に大著「資本論」を著し、次なる20世紀の100年間、地球全体を資本主義対社会主義の激烈な争いの場に仕立て上げたカール・マルクス。その彼が自著に70年程先立つ18世紀末に書かれた、トマス・マルサスの「人口論」をどのように評価したか、私は知りません。食糧の増産は果して人口増加を支えられるのかを論じたこの古典的論文は出版当時大いに世間の耳目を集めたといいます。新生の米国が25年で倍の人口となり、同時に食糧生産も倍になった状況を踏まえ、次の25年後にも人口が倍、食糧も倍と推移し得るのか。考察の末、人口増加は等比級数的であり得るのに対し、食糧生産はせいぜい少しずつ等差級数的にしか増加させ得ず、地球全体の養うことの出来る人口の上限は10億人程度と予想したとか。

 高校の「人文・地理」の先生が授業中に教えて下さったことで(先生曰く「こういうのは大学入試には絶対出ないよ」)妙に私の頭にこびり付いています。

 ところがどうでしょう。それから200年余、彼の仮説は脆くも崩れ去り、今や地球上には70億人が暮らしています。これ程急速な科学の発達を、マルサスならずとも、かつて誰が予想し得たでしょうか。食糧生産技術の発達史に於いて、20世紀初頭の三大発明は決して見逃せません。化学肥料、農薬、そしてトラクターです。

 化学肥料の開発は大気中に無限にある窒素の固定から始まりますが、ハーバーとボッシュという二人のドイツ化学者の名前が思い出されます。合成して作られる農薬も主にドイツそしてフランスや米国の化学者の手になるもの。そして勿論トラクターの主原動力たるディーゼル・エンジンも、どこの誰が発明したかは周知の通りです。
 以上農業の革命とでもいうべき三大発明が20世紀初頭ドイツに集中したからこそ、その反動としての懐古思想であるビオ・ディナミもドイツ人によってドイツで唱えられた、という次第です。

 余談ですが、先進国でTVを一番観ない国民は誰かご存知ですか。ドイツ人です。ブラウン管を発明したのはドイツ人。そのくせ麻薬的バカ番組の出現をいち早く予想して、商業放送(民放)を禁止したのもドイツ人。そうすると皮肉なことに国営放送だけで、つまらないからTVを観ない、となる訳です。こうゆうのを理知的国民性とでもよぶのでしょうか。面白いですね。

 お陰様でドイツに沢山友人を持っています。殆んどがドイツ南西部の「旧西ドイツワイン地帯」に住んでいます。どういう人達か説明するのは簡単ではありませんが、とにかく私共日本人に較べると「重厚に」生きています。ゆっくりだけれど一歩一歩前に進んでいる、といった感じです。この生き方ですと、利口かどうかより、信念を持っているかどうかが重要です。「君の生き方は速い」と彼らによく言われます。「君」が「君等」になったり「日本人」になったりしますが、思うに、彼らの生き方の根底にはキリスト教があります。人は一人分きちんと生きればそれでよろしい、みたいな。

 彼等のように生きてみたい、と何度もトライしてみましたが、土台私は日本人。無理なく機に応じて両懸けで生きることにしています。


18 「ワイナリーの規模についてⅠ」
 先日、酒造関係の監督官庁である札幌国税局の人から尋かれました。「ワイナリー経営の適正規模について貴方はどう考えますか」と。以下はその時の私の答えです。

 いわゆる「ワイン特区免許」での2kl=2700本規模は丸きりナンセンス。何故といって、出来上がったワインを1本2000円で売ったところで総売上げは年間540万円で、粗利益は更にその1/3~1/4。ぶどう畑、醸造棟、醸造施設、試飲販売コーナー等々初期投資の総額は超ミニ・ワイナリーでも数千万するでしょうから、中長期の事業計画が立てられません。しかも雇用には全く寄与しません。将来1本2~3万円の高級ワイン作りを狙うのならば、初期投資も数億円以上に膨らみますから、更に理屈が合わなくなるのです。

 次に超大規模経営について。私は世界中のスタンダードな大きさは年産2万本~20万本だと思います。自営のぶどう畑を醸造所の隣に2~20ha持つことになります。雇用人員は平均20名位でしょうか。フランスのブルゴーニュは最少の方で、ドイツの私の友人達で個人経営のワイナリーは10ha・10万本前後。ボルドーのグラン・クリュ・クラスだと20ha・20万本が普通でしょうか。カリフォルニアもナパの大きいところは100ha・100万本が何十軒かあるものの、お隣りのソノマやナパも東山沿いのシルバラードは10ha前後が多いようです。世界最大級のワイナリーとして私が記憶しているのは、1980年代、他社への売却前のナパ・ロバート・モンダヴィの1000ha超とスペインはバレンシア郊外のトーレス社が所有していた1100haです。

 日本の超大手4~5社は年間数千万本をリリースしていますから計算上は数千haのワイン用ぶどう畑を持っていなければいけませんが、ご存知の通り南米からワインそのものか濃縮果汁を輸入しての商売ですから、アリバイ程度の畑の面積でよいでしょう。大きな流通に身を任せ、末端の消費者に低価格のワインを大量に供給することを旨としています。名刺を持ち歩いていても、決して「私はワインの仕事をしています」とは名乗れない不幸な会社の人々がここにいます。

 ワインは「土着性」を必要とします。又、同じ畑の同じぶどうから作っても、ほんの少しの気候の差異ゆえに大いに味わいの異なるワインが出来ますから、「個別性」も主張します。結果、宿命的に同じワインは少量しか作り得ませんから「希少性」も生まれます。江戸の簪(かんざし)職人や根付け職人、はたまたイタリアのクレモナに居るバイオリン製作者の世界とは似ているようでいて実は全く違います。原材料依存度が90%以上と非常に高い農産物加工品だからです。私は人生に於いて、ワインとはどのような物か説明して呉れと幾度も尋かれましたが、最近は「他に似たものが無い」という結論に達しました。

 原材料を目の前の畑で作っていますから、毎秋収穫しなければなりません。毎年コツコツ仕込みます。出来上がってビンに詰めたワインには、通常の概念で言うところの「賞味期限」がありませんから、少しずつ手許に残します。それらをチビチビやりながら、又若いワインを仕込む。お分かりですか。神経質な人間のやるべき仕事ではありません。大雑把な性格の人に適った職業といえるでしょう。そういえば北海道で私の知っている適任者として名を挙げれば三笠の山崎君、余市の曽我君。この両名とも、そして私自身も大雑把です。

 都会でのストレスの多い生活に袂別したい人、男性上位の詰まらない生活から抜け出して自立した人生を送りたい女性、功なり名を遂げて人生の残りをゆったり何かしたい人。そんな人々に適った職業なのは確かです。しかし、ここで梶をこちらの方に切ったら、簡単に元の道には戻れない職業なのも真実。そんな訳で、大雑把ながら頑固な性格の人にむいていることになりそうです。

20 「ワイナリーの規模についてⅡ」
 国内に280社程ワイナリーがあるとして、そのうちのきっと8割以上が外国産(主に南米産)の原料(ワインか濃縮果汁)に依存しています。国産の生ぶどうのみでワイン作りをしているのは50社ないでしょう。しかし、その先が問題です。国産のぶどうと言ったところで、生食用のぶどう(いわゆる「食べるぶどう」)から作ったものを果してワインと呼んで良いかどうか。

 私の考えでは、山梨県で散々言っている「甲州」もワイン用ぶどうではありません。北海道の東部で言っている山ぶどうとの交配種も違います。世界の潮流としてヨーロッパ原産のヴィニフェラ種だけでワイン作りをしているから、ということもありますが、理由はもっと違うところにあります。食べるぶどうや甲州ぶどう、そして山ぶどうの交配種のことを言う時、彼らの姿勢の中に輸入ワインや輸入濃縮果汁を大量に使っていることへのアリバイ的弁明がありますし、又食べるぶどう使用に至っては他者依存のぶどう作り(いわゆる契約栽培)やクズぶどうを使っての大量生産が根底にあるからです。前回述べた「土着性」、「個別性」、「希少性」に反するのです。

 欧州原産のワイン用ぶどうを思い切り栽培して、自分のワインを作ってみよう。例えスタートからの数年間は同じ村、町の友人からワイン用ぶどうを分けて貰って、それでワイン作りを始めたとしても、数年後には自社の周囲に植えたワイン用ぶどうを中心にワイン作りをしよう。そんな考えのワイン作り手が次から次とこの里に住み、人を雇い、次に雇われている人達も独立して行きます。

明治の開村以来140年が経ち、かつて果物生産で名を成したここ余市・仁木の里は現在危機に瀕していますが、ちょっと目先きを変えて、すべての果物をワイン用ぶどうに変える程の意気込みで新産業たるワイナリー・ゾーン化に取り組めば、素晴らしい近未来が待っている。という私の考えは、地元の人々に理解されたり、されなかったりというのが実情です。

 地域創生という運動があります。これは地域が疲弊し、人口流出・減少が続いて、近い将来消滅してしまうだろうという推論・仮説に基づいています。再生には新規の雇用創出が欠かせないし、そのためにはその地域の産業構造も変えなければならない、と続きます。

 話をワイン作りの方に戻します。国内のワイン作りの現状はワイン作りの法律がないために、来るところまで来ました。早晩、欧州諸国との貿易交渉で取り沙汰され、まともな法律は作られることでしょうが、何よりも消費者(というより真のワインファン)のニーズが高まっています。私の見るところ、現在「土着性」、「個別性」、「希少性」を強調した欧米風のワイン作りの里を現出し得るところの筆頭はここ余市・仁木です。豊富で安価な耕作放棄地と転作可能農地。果樹栽培に向いた気候と積み上げられたワイン用ぶどう栽培の技術。現にこの両町には、もう既に120haのワイン用ぶどう畑が存在し、計1000t程のワイン用ぶどうが毎年収穫されています。それなのに、その1000tのぶどうの内、5%しか地元でワイン化されていないのが実情です。国内で生産される欧州原産のワイン用ぶどうの2割以上がこの里で収穫され、それは日本一の数字なのに、ですよ。何ということでしょう。

 余市・仁木の里も「余市川ワインバレー」でのワイナリー群展開にあたっては、5haの畑、5万本のワイン~15haの畑・15万本のワインの範囲内を標準型とし、平均を10haの畑・10万本のワイン・20名の雇用としましょう。10~15年以内に2000haの畑2000万本のワイン・4000名の雇用はゆうに可能です。何故なら、真のワインの里の出現を日本中のワインファンが待っているからです。

 棚からボタ餅のマッサン・ブームの到来で地元の人の危機感が和らぎ、それが災いしてこの町の創生スタートが遅れることを危惧しています。マッサン放送も終わり、来客数がどうなったか、タクシー会社に問い合わせればすぐに分かることでしょうが。


21 「ぶどうのこと」
 この地球上で人類に一番好まれている果物は何でしょう。ぶどうだと思います。世界全体の統計数字の入手は無理でも、良い方法があります。アメリカ合衆国の果樹園を自認するカリフォルニア州の数字を追ってみるのです。バナナ、パイナップル等熱帯系のもの以外は色々な果物を産出している州ですが、量の多い順にぶどう、柑橘類、桃、りんご、あんず、プルーン、プラムと続きます。中でもぶどうは約50%と断然トップです。

 世界中の人々がそんなにぶどうを食べているかしら、と思う方もいらっしゃるでしょうが、ちょっと深くお考え下さい。ぶどうの食し方には大きく分けて3通りあります。ナマで、乾燥させて、そして液体でと。日本でですと、八百屋さんやスーパーの店先きから買ってきてそのまま食べることが一番多いように感じられますが、米国の統計数字ではレーズンでが55%、ワインでが30%、残りの15%が生食及びジュースです。

 世界の宗教圏を想像してください。イスラム教の国々では教義ゆえにワイン作りは行われていませんし、そもそも生食というのは、流通網のしっかりした地域でなければ成立しません。又、レーズンは収穫したその畑で浅い籠に入れて天日で乾かして作るものですから、砂漠性の気候下の方が、糖分摂取のためにも適した加工品です。かくしてぶどうという果実の多くがレーズン化されるのです。

 或る人がぶどうの写真を見て、レーズンを想うか、お酒(ワイン)のことを考えるか。ぶどうはナマで食べるものと思いがちな日本の人々にとってはそんなことは考えられないことかもしれません。ぶどうの木のことをヴァインとよぶ英語、ぶどう畑を見てワインガルテンとよぶドイツ人。面白いとは思いませんか。

 自分の生涯の仕事がぶどうを栽培して、そのぶどうからワインを作ること。そして時々、いやしょっちゅうそのワインを味見することなものですから、人一倍この果物に執着しています。勿論、生食もレーズンも皆とても好きです。この果物を好きになること。それがワイン作りの第一歩と確信しています。

 余談ながら、以上3つの食し方に沿って栽培も品種改良もされて来ましたので、実(じつ)はワイン用、レーズン用、生食用と、丸切り異なる特性を持った品種群となりました。世界中、兼用はしないのが普通で、専用の品種がそれぞれあるのです。


22 「ワイン・ブームの話Ⅰ」
 20代中頃に間違ってワインの世界に入りました。日本ではとてもマイナーな世界です。しかもワイン作りの世界ともなると、実に狭い。ワイン作りの業界で同世代の人とは殆んど名刺交換したことがあり、ちょっと記憶をたぐれば色々な顔が思い浮かぶ程です。でも現在67才の私と同世代と言いますと、殆んどがリタイアしていて、現役として栽培にも醸造にも関わりながら、経営もしているとなりますと、私は数少ない長老の一人ということになりそうです。しかも超ウルサ型のです。

 40年余この世界に生きて来て思うことですが、日本のワイン界は幾度かのブームに尻押しされながら、その消費量を伸ばしてきました。人為的と思われる数々のワイン・ブームの中でも、大きく記憶に残っているのものが二つあります。「ボージョレ・ヌーボー・ブーム」と「赤ワイン・ブーム」です。

 本当か嘘かは知りませんが、かつてフランスのボージョレ地方で或る年ぶどうが採れ過ぎたために、少し早目の収穫と普通よりちょっと遅めの収穫に分けて、秋に2回ワインの仕込みを行ったそうな。早い方はすぐにビンに詰めて売り、遅い方の仕込みのために大樽を空けたとか。それら早いワインを「初搾り」と言ったか「初鰹」と言ったか知りませんが、ワイン作りを少しでもしたことのある人なら分かる通り、そんなワインは矢張り戴けません。

 世界有数の女性の強い国フランスですから、「女房を質に入れて」まで競ってこの新しい赤ワイン(ヌーボー)を買いに走ったかどうかは分かりませんが、多くがデタラメに早出しするものですから、遂に公けの規制がかかって11月の第3木曜日午前0時より新ワインを出荷してよろしいとなったとのことです。勿論、その間に醸造機械も特殊なものが登場します。大きな分厚いステンレス製の横置き円筒タンクにぶどうを房ごと入れて密閉し、回転させながら発酵させるのです。中に詰められた房ごとのぶどうは自分の重みで果汁が出て来て発酵します。

発酵の時、大量に発生する炭酸ガスの圧力でぶどうは更につぶれ、その果汁が発酵する。発酵で作られるアルコール分もぶどうの果皮から赤い色素を抽出するのにひと役買います。この「圧力鍋式赤ワイン作り」をフランス語でマセラシオン・カルボニークと呼びました。

 世界中のワインの作り手は、こんなのワインじゃないと思ったらしく、冷たい眼でこの運動を見ていたフシがあります。直径が2m程、長さが2~3m、内容積が6000-10000リットルの物凄くガチっとした特殊タンクは確か2000万円程。日本でもドイツでもイタリアでも或る程度は売れたようですが、現在フランスのボージョレ地区以外では稼働していないと思います。

 ワインの飲み手の側の反応は、しかし、特に我が国では丸切り異なる様相を呈しました。日付変更線に一番近いワイン消費国。初物大好きの国民性。しかも1980年代とバブル真盛りの中、何処の国際空港でも数日前から保税倉庫にはヌーボーが沢山積まれ、11月第3木曜の深夜0時に通関して呉れます。空港税関の皆さん本当にご苦労様でした。どこぞの訳知ったレストランで午前1時頃大勢で「乾杯!」とやった経験が私にも一度だけあります。

 バブルの崩壊とともに、このブームは下降線を辿ります。私の考えでは、味も不美味かったと思います。更にこの急ぎ作りのワインはまともなビン内熟成をしないものですから、時の経過とともに段々不美味くなるという性質をもっていて、年を越すと全く売れなくなり、酒屋さんも在庫処分に困ったからでしょう。年度の初物と言うのなら、オーストラリア、ニュージーランドでは南半球ゆえに3月に収穫・醸造し、10月ごろにはきちんと飲めるのですが、彼らは決して「ヌーボー」とは名乗らないことでしょう。ワイン通にとっては「ヌーボー」とは「不美味い」の代名詞なのですから。


23 「ワインブームの話Ⅱ」

 「ボージョレ・ヌーボー・ブーム」が沈静化したと思ったら、「赤ワイン・ブーム」がやって参りました。20世紀末だったと思います。要するに赤ワインを飲むと、その含有成分のポリフェノールの働きゆえに健康で長生きするというのです。赤ワインを飲むと美人になる、みたいな論法も横行しました。その頃、私が新潟の「カーブドッチ・ワイナリー」の試飲カウンターに居ると、女性のお客様が次々と「とにかく赤ワイン下さい」といった感じでやって来ました。日本の人が、しかも女性層が好んで赤ワインを口にする日がこんなに早く来るとは思ってもいなかった私です。何故なら、香りはフルーティーじゃないし、渋味も強く、グラスもテーブルも服も汚れるし、それに一般に高級な赤ワインは非常に高価だからです。

 かつて41年前、1974年1月の或る日のこと。西ドイツ留学も迫り、自宅で母と二人で送別会を開きました。何と言っても生まれて初めての、しかも永い外遊ですから、かなり真剣にその席に臨みました。月給の1/4程度、3900円のボルドーのシャトー物を札幌三越の地下売場から買って来ました。ワイングラスが常備されている家なんて滅多にない頃の話ですから、酒屋さんがタダで呉れるビールのコップに注ぎました。「乾杯!」と双方ともひと口飲んだところで絶句。ややあって母が「お前、これ変な味だね。もしかして腐っているかもね。」

 満3年後、ドイツより帰って来ると、飲み残しのビンに栓をしてそのワインは保存してありましたものの、中身は勿論カビが生えていました。ラベルを見てそのワインがどの程度のものなのかという知識はもう備わっていた私です。一滴もワインを飲んだことのない人間が、ヨーロッパで丸3年間ワインを沢山飲み、肉料理をいっぱい食べたのですから、「あゝ本当にもったいないことをした」と思ったものです。人が成長して、初めてカベルネ・ソーヴィニョンのワインを口にしたとき、「美味しい!」と言うことはまずないでしょう。顔をしかめて正常というものです。

 それなのに、香りの良い白ワインファンが多かったハズの女性達が、しかも若い人達が気軽にタンニンの渋味の強いワインを口にします。ちょっとした高級レストランのテーブルにも、通りからのぞく「俺のフレンチ」のテーブルにも、女性同士であっても、立ち飲みであっても、自然に赤ワインのビンが立っている。結構、渋目で高価そうなものも多いのですから、これはどうなっているのでしょうか。

 一説には、ワインが生産過剰になって、世界中の、とりわけフランスのワイン蔵が満杯になった20世紀末に、本当なのかデマなのか、或る学者がワイナリー経営者救済のために考え出したのが、ポリフェノール学説とか。しかし、この全世界的・人為的ブームは今や単なるブームではなくなりつつあります。確かに美味しい。ワインの作り手の観点から申しましても、複雑で重い味わいを追求する方向に進んでいるのですから、作り甲斐のある時代になって来たように思えます。William Shakespeare : "Give me a bowl of wine, that I bury all unkindness" (「ワインを一杯おくれ、そうすりゃイヤなことみんな忘れるさ。」)


24 「英国とワイン」
When I get older losing my hair,
many years from now,
will you still be sending me a Valentine, 
birthday greetings, a bottle of wine?

 英国の有名なシンガー・ソングライター(Paul & Johnのことです)の書いた詩。間違いなくまだ英国にはワイナリーが1軒も無かった1960年代の詩です。前回のShakespeareもそうですが、どうして英国の人々は自分の国で作られない酒(ワイン)のことを書くのでしょうか。昔、英国王家の血が途絶えた時、ボルドー(当時の名でアキテーヌ)の王子様が跡目を継いだので、ボルドーは英国領と思い続けているせいでしょうか。地理的にも英国海岸とボルドーは海路それ程離れていません。ポルトガル第二の都市ポルトだってそうですが、とにかく英国の方を向いて存在しているように見えますし、平和な現在、英国人が数多く観光で訪ねるのは、これらヨーロッパ西方の海岸地帯なのです。ドイツはどこへ行ったってそんなことはありませんが、ボルドーやポルトは英語が良く通じます。

 きっと英国の人々はボルドーを自分達のワイン供給基地と考えているのでしょう。彼らはボルドータイプのワインが好きです。ワインの新世界たるアメリカ合衆国や南米、オーストラリア等でカベルネ・ソーヴィニョンがもて囃されるのは、英国の影響力の強さも多少関係していることでしょう。このカベルネ・ソーヴィニョン人気、気候さえ許せば栽培が容易ということや、フランス料理が西洋料理の最高峰に君臨していることも勿論大いに関係があります。
 ドイツのワイン学校で私の一期先輩のハンス・シュライファーという男が今から40年前、英国のどこかでワイナリー作りの起ち上げを手伝うということは聞いて知っていました。地名も確かに聞いたのですが、忘れてしまいました。その後全く続報がありませんので、この冒険的試行は失敗したのかも知れません。しかし今や全英国にワイナリーが数百軒あるとか。スウェーデンにでさえ数軒開いたように聞いています。温暖化のせいでしょうね、きっと。
 さて、冒頭の詩の結末は
Will you still need me,
will you still feed me,
when I'm sixty-four?
ですが、現在の私は
when I'm eighty-four? のfeelingで生きています。

26 「ドイツ人の考え方Ⅰ」
 今、41年前のことを書こうとしています。でも遙か昔のことでも、私の記憶の中ではつい昨日のことのようです。何故といって、そのことがその後の私の人生に多大なる影響を与えたからです。

 1974年(昭和49年)。我が国の戦後復興も本物で、簡単には瓦解しないところまで来た時代。しかもニクソン・ショック、オイル・ショックと続き、日本丸も本格的に世界の荒波に向って出航したその頃。ドイツの国の学校でワイン作りの勉強をしようと勇躍出掛けました。ドイツ語は全く知りませんでしたから、先ずは本場で言葉を覚えるところから始めよう。今考えると無謀に近い計画でした。ドイツの社会がどうなっているか。勿論何も知りませんでした。というより、敗戦からの奇跡の復興を成し遂げた東西の両雄、それが日本と西ドイツです。きっと殆んど似たような社会体制を持った国、と全く錯覚して出掛けたのです。

 それがどうでしょう。言葉や食べ物が違うことは想定内のことながら、生活習慣、社会システム、そして人々の思考方法まですべてが日本と異なるということに数日で気付きました。通りすがりの旅行者ではなく、その地に3年生活して知識、技能を身に着けようというのですから、到着初日から観察・分析に熱心だったせいでしょう。毎時毎分が新発見の連続といっても過言ではない3年間が始まりました。

 先ず人々が自分の思っていることを言葉に出して相手に遠慮なく伝える。これは思っていることを口に出すべきかどうか常に迷い、しかも場の空気に合わせて上手に加工して話す我が国の方法とは大いに異なります。6歳半の時に鹿児島から北海道に移住したせいで、他者との協調性・融合性に欠けると囲りから批判され続けてきた私にとりましては、とても嬉しいことではありましたが、、、。

誰もが自分の意見をきちんと言う社会。行って住んでみなければ分からない社会が日本の外側にあるということを実感しました。それでは毎日が殴り合いかというとそうではありません。要するに人間誰もが全く違った意見を持っているのだ、という前提で動いているのです。(日本だって本当はそうなのに!)

 目的型学校ということもあり、ひとつひとつの講義が実に新鮮で面白い。先生方はひとりひとり個性豊かな上に同級生も全寮制ゆえ深く付き合えるので、何やらドイツ社会学の勉強に来たみたいでした。和独辞書は持参せず、級友達や先生方への「こういう時はドイツ語でどう表現するのでしょう」とか「今の貴方の言ったことを、違った表現法でもう一度言って下さい。」という質問が私の常套句となった程です。基礎的なことをきちんと覚えると、あとは囲りに歩く辞書が沢山居るという発想です。現地で学ぶ外国語の利点ともいえます。

 日本の高校生時代は大学受験一偏倒の勉強、大学へ入ってからも無個性な教授の下での無目的な学習に物足りなさを感じていました。ですからドイツでの勉強は、自分にとってとても意義のあるものとなりました。

 「良いワイン作りは、良いぶどう作りから」、「ワインは9割方ぶどう作りで決まる」、「ワインの中には真実がある」いや「ワインには真実を閉じ込めなさい」。こんな言葉から講義は始まります。理想論かな、と当初は思いました。しかし、ここはぶどうの育て方を学ぶ所だと思える程栽培の講義や実習は充実していましたし、又実際その後帰り来て約40年、日本中の4つの場所で実感したことですが、ワインの本質はぶどうそのものです。戦後70年、今や地球上のあらゆる所で進められているワイン作りの中心に太く流れる思想は多少概念的でも上述の如き言葉に集約されるのです。我が日本を除いてはです。実に悲しいことです。と同時に挑戦し甲斐のある命題がこの国にはあることにもなります。

27 「ドイツ人の考え方Ⅱ」
 Ich(イッヒ)を文頭に置くと文章が締まります。「自分はこう思い、こう行動します。貴方はどうしますか。」と宣言するからです。私も67歳ですから、この人生がたった一回切りのものとは充分理解しています。次には猫にもゾウリムシにも生まれて来られないことを。だからこそ、この一生を精一杯生きてみたいと。

 自分を前面に出すことを遠慮することの多い我が国の文化では、きっと誰からも咎められず、誰にも批判されず、そして誰からも熱愛されない結果になりかねない生き方を何となく是として生きる。「うまみ」の研究が盛んな昨今、世界一食べ物は美味しい国で、その代り人生は味気なく生きてバランスを取りたいのでしょうか。とにかく我が国にはIchを主張しない友人が多い。勿論何人か例外はいて、強烈に私を魅き付けます。しかしドイツに私が持つ20数名のワイン作りをしている友人達とはその個性の固さに大分差があります。キリスト教徒ゆえでしょうか。それともワイン作りというひと筋の道で生きているせいでしょうか。

 話題を変えて、日本の人が行わない、ドイツなら必ずすることを羅列しましょう。車を駐車する時、バックして停めるということをしません。個人の車庫でも、大きな例えばスーパーの駐車場でも、どうして我が国では尻から入れるのでしょう。ドアが後ろ向きに開く以上、出にくいし、トランクの荷物は出しにくいし、後方の他の車を待たせるし、植え込みの植物に有害な排気ガスは噴き着けるし、と良いことは全くありません。すぐ前進して出られるから良い?でも乗りにくいし、買い物も収納しにくいですよ。何より今や常識となったオートマチックのシフトがPの次にRと設定してあるのは何故でしょう。そうです、きっと日本人以外の人は殆んど頭から入れるからです。

 恐ろしい程テレビを観ない国民です。良く考えてみてください。子供達がマンガばかり見ているのを批判する大人達が、マンガよりも愚劣なテレビを観ているのです。職業上、私は天気予報をよく観ます。そして失望はしているものの、政治は知っておかなければとニュースも時々観ます。しかし、それ以上は腹も立って精神衛生上よろしくないとばかりに殆んど見ません。テレビを観ない、新聞も積極的には読まないは40年前のドイツで習慣付けらました。確かに多少は有用な機能も持っています。しかしマスメディアより得る情報は私共が過信(盲信)する程大切なものではないと思います。

 学校の寮に入ってすぐにこういうことがありました。ダイムラー・ベンツの本社があるシュツットガルト市近郊のその学校は、実習のためというよりは生計を立てるためにワインを作って売ってもいました。60ha、年間50万本のワインをです。10億円以上の売り上げでしたが、教員、研究所員、職員、労働部隊、学生と総勢120人程の人間が集まる食堂にたった1台の白黒のテレビがありました。テレビ大好き国の代表よろしく、当初一所懸命テレビを観ていた私ですが、私以外誰も観ようとしない理由が程なく分りました。チャンネルは国営放送のみ2つだけ(NHKとNHK教育みたいなものでしょうか)。放送時間は午後1時半から10時くらいまで。とにかく観ていて全く詰まらない番組ばかり。

クラスメートが寄って来て、「オチ君、よくテレビ観るねぇ。そんなに面白いかい。」「いや番組が良くない。大体日本だと僕の住んでいる札幌のすぐ隣の小樽という田舎の都市でさえチャンネル数は7つある。なのに、この国は何だい。詰まらない番組だけ流す国営のが2つだけ。遅れているねぇ。札幌は知ってるよね。」と私。「冬のオリンピックが一昨年あったから知ってるよ。でもねぇ、7つチャンネルがあるからといって、一度に幾つも同時に観るの。どうせ詰まらないものなら2つでも多いくらいだよ。」彼の理屈は正しい、とそれ以来殆んど(ドイツでは全く)テレビを観なくなった次第です。


28 「ワイン表示ルールの改正」
 今、ネット上でワインの表示法変更の議論がかまびすしい。「業界の指導を守ってやって来たのに、急に180度方向転換するのはおかしい。」「いや、現行の表示ルールは欧米に比べて不誠実で、これでやっと日本のワインもまともになれる。」「急激な変更ではなく、日本が得意の軟着陸を目指すべきではないか。」等々。

 かつてドイツで学んで、帰国後40年間ずっと我が国のワインの法律は間違っていると主張してきた私にとりましては、目糞、鼻糞を笑うの議論にしか聞こえません。新ルール反対派の「業界指導」理論は勿論、論外です。ワインという産物の性質上、業界はどうでもよく、大事なのは自分のハズです。自分の不正直を他人のせいにしようとしています。又、旧ルール攻撃派にも、今迄の日常を辿れば、囲りの空気を読んで沈黙を守って来たくせに、今更何を言うかと申し上げたい。偽善者め、という心境です。

 大体、外国からのワインを自社のビンに詰めたり、輸入した濃縮果汁から作ったものをワインとして扱ったりしていることを、社会の殆んどの人々が「まさか、そんなことないでしょう」と信じようとしなかったこと自体がおかしい。多くのワインメーカーの殆んど犯罪に等しいまやかしを放置し続けた当局にも責任の一端はあるにせよ、それをこの期に及んで鬼の首でも取ったみたいに声高に叫ぶのはもっと醜い。一部始終を全部知っていたくせにですよ

ワイン通を称する方々にも申し上げたい。例えば山梨県を旅して何処に一体ワインぶどうが植えてありますか。それもシャルドネやカベルネ・ソーヴィニョンの味のするぶどうが。「国産」ワインの76%が輸入原料由来で、23%が生食ぶどう、そして僅か1%が国産の生まのワインぶどうから作られたワインである。と、お役所の発表を受けて今頃びっくりするなんて、逆に私にとっては不可思議です。

 でも楽しいですね。今迄インチキを公然とやって来た日本の大多数のワインメーカーが、次なるインチキをどうやって考え出すのか。想うだけでもゾクゾクします。しかし、よーく考えると、今回の改正は間違いなくEUからの外圧によるものです。ところが国内の消費者に向けての今迄のインチキを高度化(?)させて対外国のマジックを作り出そう。そんな風に考えたところで勝負は見えています。EUは大昔から製造業者の嘘を見抜くことに多大な精力を費やして来たのですから。さればこそ、" in vino veritas! " (ワインの中に真実を!)という警句が言い伝えられて来たのです。

ドイツの授業での先生の説明が思い出されます。「この言葉は紀元後69年のプリニウスの [博物誌] に出て来ます。ということは、そんな昔からワイン作りで悪いことをする輩が居たということです。」

 今回の改正案には他にも付加条項があって「OOワイン」と表ラベルに地名を付した場合、その地(OO)のぶどうが85%以上使われていなければいけない、というのです。そうでなければ地名を外すべしと。大体地名を冠したワインなんて世界基準では三流ワインのすることです。「○○ワイン」と書いて原料がその地ではなく、殆んどが20,000km離れた南米だというのですから、これはブラック・ジョークに近い。勿論「○○ワイン」と名乗って隣り町のぶどうを使うのもダメとなります。

 それと最高に滑稽なのは、今後「国産ワイン」という表示は使用しないとのこと。この表示がすっかり泥まみれ、嘘まみれとなってしまったからです。「日本ワイン」、これが国産ぶどう100%で作られたワインの表示になるそうです。今迄は国内でビンに詰められれば国産、自社内でビンに詰められれば自社産、そして時々「一粒一粒を丁寧に厳選して仕込みました」の添え書きまで付けて。オレオレ詐欺とそっくりですね。
 よく疑ってから国産ワインは選びましょう。製造している所に出かけて、畑を見せて貰って、当主に何でも尋くことです。(以上、新ルールの出典は日経ビジネスOn Line 4/24/2015)



29 「Hermann Hesseのこと」

 私は生来、生意気な上に、鹿児島訛りを身に着けたまま6歳の時に長駆北海道に移住したものですから、小・中学生時代は俗にいう「いじめられっ子」でした。「泣かされっ子」と表現したほうがより正確でしょうか。結果、学校の図書館の一番のお客となりました。確か昭和34年、私が小学5年生の時NHKラジオの「私は誰でしょう」というクイズ番組を父と聴いていて、「あっ、これレオナルド・ダ・ヴィンチ」と答えた私を見て父がビックリしたのを覚えています。

 中学校は1学年11クラスもある巨大校でしたが、1年生の時の担任佐々木四郎先生に大きく感化されました。とにかくヘルマン・ヘッセを読みなさいと。最初に「車輪の下」。主人公ハンス・ギーベンラートの名前は一生忘れ得ないものとなりました。続けて「デミアン」、「ペーター・カーメンチント」、「シッダールタ」と進みます。実は中学校の図書館にはヘッセの本は余り置いてなく、父が買って呉れるようになりました。安月給の父は結構無理をして小学館のいわゆる赤本「世界文学全集」も毎月購入して呉れました。

全5~60巻はあったと思いますが、重ねて「世界推理小説全集」まで連続購入し始め、誠とに恵まれた読書環境で育ったと確信しています。

 トルストイ、ドストエフスキー、スタンダール、ゾラ、セルバンテス、トマス・マン、ゲーテ、E・ブロンテ、モーム、ヘミングウェイ、ヴァン・ダイン、スタインベック、フォークナー、シェイクスピアetc,etcと、大学の友人からは「お前の読書歴には方向性が全くない」と笑われたのを覚えています。それでも熟読タイプです。読み流しはせずに反芻しながら読みます。書いた人の、時には翻訳した人の理念を考えながら読むのを楽しんでいます。音楽、特にクラシックの曲も作曲者の気持ちを考え、演奏者の解釈や表現方法に耳を傾けることに喜びを感じます。

 さて、ヘッセの話に戻ります。寡作の人ですから、分かっても分からなくても読み進むと読む本が無くなり、その後高校・大学と全く交わらず、ドイツ留学に至りました。ドイツでは全寮制のワイン学校ゆえ、ハンス・ギーベンラートを想い出しましたが、勿論私の場合は彼のように追い詰められた精神状況ではありませんでした。気軽にドイツの町の本屋さんで「メルヒェン(短編集)」を手に入れ独文で読んでいて、この作家の精神性の深さに再び引き込まれたのです。この作品は非常に短いのですが、ドイツ生活の最中に読んで、やっとその意味が分るといった風情の文章で綴られています。

 38年前に日本に帰り来て、4つのワイナリー起ち上げに関わり、常に醸造所の周囲を美化しようとしましたから、必然、彼の最晩年の書「庭づくりの楽しみ」も読んでいます。ヘッセやゲーテの小説を専門的にはAusbildungsromanen(アウスビルドゥンクスロマーネン=教養小説)といいますが、字義通りに、「人格形成小説」としたほうが分り易い。それ程、詩的で哲学的です。

30 「庭づくりの楽しみ」
 大ヘッセほどの精神遍歴は経ずとも、人生最終楽章に入りますと、自ずと庭いじりに傾倒するようになるのでしょうか。日々の人間関係も面倒になり、独り様々な植物と対話しながら過ごす時間は、無律平坦になりがちな私の精神に小さなリズムを与えてくれます。地球上にこれ程長く住んで居ながら、自分以外の生物について知らないことが非常に多いことに気付かされます。

陽の光や与える水に対する彼等の要求量が均一ではないことはすぐに知らされますし、繁く手をかけた方が良い植物群とそうではないものがあることも分かってきます。

 猫を6匹飼っていて分かることですが、決して私が彼らを養っているのではなく、彼らは私と一緒に生きています。自分と庭と植物達との関係もきっとそれに近いものです。時折感じることですが、なまじ同じ言葉を喋っているから分かり合えると錯覚している人間同士よりも、言葉を介しない囲りの動物や植物達との意思疎通の方がうまくいっているようにも思えます。その理由は最近段々と分かってきました。人間同士使っている言葉そのものは、個人個人かなり意味が違うのです。行動の伴わない言葉、実体験のない借り物の理論、約束を守ろうと尽力しない単なる口裏合わせの発言。それらを駆使する人々と話し合っても、それは猫や植物相手の言葉を用いない意識交換ほども成果はあがらないのです。空虚な言葉を駆使する人々の情報は、読み流し喋り捨てのもの。「己れ」は一体何処へ行ったのでしょう。

 かつてドイツの学友に特異な人物がいました。私はこの30年間ほど、年に一度か二度と決めてヨーロッパやアメリカのワイン地帯を訪ね歩いていますが、必ず囲りの人を10人前後誘って旅します。ドイツ南西部の町マンハイムからは50km程離れた「上(かみ)フレアスハイム村」に住むヘルムート・ミュラー君がその人ですが、この人物は奇妙に私と性格が合うためか、都合20度は10人以上を彼の所に連れて行って、いつも大歓迎してくれました。古い城壁に囲まれた100戸に充たない小さなワイン集落。彼の案内コースはもうそらんじてしまいました。城壁内の彼の住宅兼ワイン蔵でウェルカム・ドリンク。高さ5mの城壁の上を半周数百メートル散策しながら、村の歴史を説明。城壁を下りてユダヤ人墓地に案内。数えて十もない墓の前で黙祷。

二つある彼のぶどう畑に案内。あの草陰によく冷やしたリースリングとグラスが人数分あるぞと思ったらその通りで、この演出は訪問時間や季節によって多少変化あり。帰り来て城壁をくり抜いて出た所にある、自宅と地続きのガーデンで奥さん手作りのつまみを頂きながら本格飲み。いつもワンパターンながら実に胸の奥まで友情の沁み渡るもてなしに心打たれたものです。しかしそれも5年前に彼が50代半ば肝硬変で逝ってしまってからは不可能になりました。蛇足ながら、お代は1ペニッヒも払ったことがありませんでした。ワインの作り手が友人の作り手からお代を頂くという習慣はきっと地球上、どこにも存在しないことでしょう。

 彼が私の連れて行った人達の前でする小咄も大体一緒。★うちの村の或るワイン農家の男が北京に旅することになったとさ。上フレアスハイム駅で「北京まで大人一枚」。駅員が「そんな切符は置いていない。近くの分岐駅ヴォルムスまでならあるよ。ほれ。」ヴォルムス(人口数万人)駅で「北京まで」。「いや近くの本線のマンハイム(人口数十万人)駅までだな」。そんな訳でこの男はやっとマンハイム駅で北京までの切符を手に入れ、鉄路

10,000km離れた北京に辿り着いたとさ。北京で2週間ほど観光を楽しみ、帰りの切符を買いに北京駅へ。「ドイツのフレアスハイムまで大人一枚」。北京駅の駅員「それは上(かみ)フレアスハイムかね。それとも下(しも)フレアスハイムかね」。
 私の親友のヘルムート・ミュラーは自分の村で生まれ、そこで生き、そしてこの村で死にたいと常々言っていた男ですが、見事それを実践しました。もっとも亡くなったのは50km離れたマンハイムの病院のベッドの上でしたが。
 皆さん、何となくワイン作りの本質が香って来る話だとは思いませんか。

31 「自分達の住む町だから」
 若い頃からお金も余りないくせに、よく外国を旅します。殆んどはワイン作りに関係のある田舎の村で、一度訪ねて気に入ると同じ所に何度でも出掛けてしまうのも私のクセです。この村のこの角の家を廻り込むと、あっ、やっぱりこんな景色だ、等と何やら確かめに出掛けるみたいにです。

 そんな他人の町の景色なんか放っておけ、なんておっしゃらないで下さい。街角を曲がってふっと人を魅き付けるような景色というのは、よく見ると、その集落の人々の手入れや心遣いの集積なのです。自分の家の中だけ、ちょっと拡大しても自宅の塀の内側だけが自分の責任領域だと考えがちな我が国と異なり、西欧の田舎町では人々は「ここは自分達が人生を送る空間」という考え方で、皆で町中をきれいにします。決して中途半端な発想ではありません。町全体がガーデン・デザインされているといっても過言ではない程、心地良い空間がそこにあります。

 Controlled chaos(コントロールド・ケイオス)、私なりに和訳して、「仕組まれた雑然さ」。これが庭作り、街作りの重要な基本理念です。Controlled order(設計されたような整然さ)やUncontrolled chaos(単なる草ぼうぼう)は頂けません。

ホームセンターを経営なさっている方々には申し訳なくも、それらの店で扱われている草花の何と味気ないことか。イングリッシュ・ガーデンとは決して和風庭園の対極にあってゴテゴテとやかましい色合いの植物群で庭を埋め尽くすものではなく、精神性に於いては和風庭園に通じるものを多く持っています。左右非対称を旨とし、何よりもバラ以外は派手な花を嫌います。樹木は深く切り戻さず奔放な枝振りを尊重して一般に球根類は多用しません。静けさを、自然を演出しようとしていながら、それが過剰にならないよう配慮します。苔むした岩の代わりに芝生を使いますが、それでもこう書き連ねてくると、日英双方の類似点の多さに気付かされます。

 ウィンブルドンと英国南部の庭を見に、初夏の今頃多くの我が同邦人がロンドンへ飛びます。地球を科学することに長けた英国人が、同時に地球を美化する名人でもあることは研究に値する命題です。そういえば芝生が必要なスポーツは殆んど英国原産ですね。ゴルフ、サッカー、テニス、クリケット(野球)、ラグビー(アメリカン・フットボール)、ポロ、ホッケー、、、。

 勿論英国ならずとも、ワイン作りの田舎例えばフランス、イタリア、スペイン、ドイツの田舎もとてもきれいです。田舎をきれいにしても自分達は何も儲からない、等とさもしいことを言うのは止しましょう。誰の為でもない自分達の為です。きれいなところに住むのは気持ち良いものです。それに集落がきれいだと、実は儲かるのです。その話は次の機会に。


33 「6次産業って何?」
 今回はちょっと理屈っぽいことを書きます。我がOcciGabi Wineryは2013年春に農水省の推進する「6次産業化支援事業」(略称6次化ファンド)国内第一号に認定されスタートしました。国(農水省)と地元金融機関(北洋銀行本店)が私共のワイナリー事業を支援すべく両社併せて発行株式の50%を保有するというのです。

 国、地元金融機関及び私企業である私共OcciGabi Winery。以上三者のの共通の目的は疲弊した農村を活性化すべく新産業を興し、雇用を拡げるということです。かつて農政上の政策として、活性化のために種々の補助金や超低金利の融資が行われて来ましたが、地方農業凋落に歯止めがかからないため、国とその地方を代表する金融機関が連携して特殊な財政出動を画策した形です。この「6次化ファンド」の仕組みにはとても説得力があります。

 農村の基幹産業は農産物の生産ですが、それが第1次産業、しかし農産物を生産し出荷するだけでは、付加価値も低く、利益はさほど得られません。ではその農産物をより価値のあるものに加工しますと、これが第2次産業。そしてこの2次加工品を末端消費者に届けて換金するのがいわゆる第3次産業たる流通産業。以上第1次、第2次、第3次をひとつの事業者がすべて行えば、1+2+3(又は1x2x3)で6次産業となるという訳です。

今迄、農村の利益が大きく減じられたのは、この第3次の部分を都会の大手企業等に任せ切りにしていたからです。一番利のあるところを他人任せにしていたのですから、当然のことながら、農村にはぎりぎりの最少利益しか還元されません。農村の後継者たる若者が、その現状を見て、故郷を離れて生きてゆこうと考えるのを誰が止められましょうか。しかも農村には雇用してくれる企業が極端に少ないのも実情です。

 さて、農村に居て原材料農産物(例えばワインぶどう)を作る第1次産業たる農業と、それを加工する(例えばワインを作る)工場(=第2次産業)と、更にはその加工品(ワイン)を直接消費者に売るべく売店やレストラン(=第3次産業)まで経営する、完全に複合化(6次化)された産業が出来たらどうなるでしょう。加工と販売、そしてその延長にあるレストラン業、宿泊業等で厖大な雇用が生まれます。

 私自身がかつて(25年前~3年前の22年間で)新潟に作り上げたCave d’Occi Wineryはそんな形態の会社でした。年商は13億円程ながら高利益体質で160人を雇用しました。充分な畑を所有するワイナリー経営とは定義そのものが6次化を指向しているのです。お分かりですね

。どこかの県のようにワイン用ぶどうを充分に(どころか殆んど)保有してもいないのにワイン地帯を詐称してはいけないのです。日本一良質なワイン用ぶどうを栽培すべき耕地が大量にあって、そこに本格的ワイナリーを30~50軒ならず200軒作り上げるべきと、私が余市・仁木地区を強く推す根拠は、こんなところにあるのです。



34 「みかんとりんご」

 昭和23年生まれの私が昭和20年代30年代の頃の話をすると、それは立派な「おじいちゃんの昔話」となります。「小学校も中学校も1クラス60人程が教室に居たよ」とか、「バナナなんて年に2本しか食べられなかったよ。

運動会で1本、そして遠足の時に1本」なんて話すと、囲りの人間が本当かなあという顔をします。「昭和41年に東京の大学に入るまで、ハイヤー(タクシー)に乗ったことなかったよ」とか、「まさか自分が自動車を運転する時が来るなんて20才になるまで思わなかったよ」と私が言うと、確実に誇張しているようにとられます。本当のことなのに。

 考えてみると、私共団塊の世代ほど変化に富んだ人生を歩んだ人達は人類の歴史上存在しないのではないでしょうか。物質や食料、そして経済に於いて、こんなに大きな振幅を味わった世代は他に決して居ないと思います。昭和20年代30年代に誰が飽食の時代の到来を予想し得たでしょうか。糸の付いていない電話といってもよいケータイやパソコンが一人一人の手許にあるなんて、つい20年前には誰も予想しなかったに違いありません。(いや、ゲイツやジョブズみたいな人々は予想していたのかも。)

 そして、みかんやりんご、かきを殆んどの日本人が年に数個食べるか、それとも全く食べなくなる日が来るなんて。現在がそうです。よく考えてみてください、この一年間に貴方は何個食べましたか。私は小・中・高と北海道で育ちましたから、雪のある11月~3月の4ヶ月間は毎日みかんを5個にりんご1個と決めて生活していたのを覚えています。家族単位で計算すると、莫大な数字です。みかんは静岡や和歌山から、りんごは余市からというのが定着していましたから、500万人の全北海道民がひと冬にどれ程余市や仁木に送金していたことか。その頃の数字と比べると、現在が限りなくゼロに近いことが分かります。

 りんごに関しては、その産地が青森県や長野県では幾つもの町村に分布しているのに、北海道は余市と仁木に殆んど集中しているのも奇異に思われます。

 どうして北海道民は、いや日本人はりんごを食べなくなったのでしょう。他に色々な果物が出て来たから。食べるとお腹がくちくなるから。

 もうひとつの余市特産だった生食用のぶどうも現在りんごと同じ運命を辿っています。余市に住んでいて残念でなりません。

35 「再びワインの表示ルールのこと」
 6月18日のNHKニュースで遂に発表されました。政府自民党の重鎮が居並ぶ委員会で決定され、この秋から施行されるワイン表示の新法。内容は大多数の国産ワインメーカーにとって峻烈です。従来のように輸入ワインや輸入濃縮果汁を使ったワインは、表ラベルにその表示が義務付けられ、もう従前のように「国産ワイン」とは名乗れないとのこと。滑稽なことに、今迄出鱈目の象徴だった「国産ワイン」という表現を全廃したとのこと。目出たく国内産のぶどう100%で作られたものだけ「日本ワイン」と名乗ってよろしいとのこと。要するにワイン製造業界の非常に多くのメーカーが、外国産のものを国産と偽っていたということです。

 今回の新法でもう一点目を見張るところは、例えば「札幌ワイン」とする場合、札幌の工場で作られ、札幌産のぶどうが85%以上入っていないといけないということです。ワイン工場のない町でのご当地ワインや、原料ぶどうが殆んど入手出来ない町に立地するワイン工場は地名を表示出来ないという厳しいお達しです。国内ワインメーカーのマーケティング戦略が激変することになります。従来のペテンを止めて、次にどんな胡麻化しの術を編み出そうか、熟慮中の会社が沢山あると思います。それとも廃業しようか、と。

 色々な人によく質問されます。それでも自社の製品の一部だけ本物という会社もあるでしょうに、と。私の答えは、「心理学的に考察しましょう。大どころでウソをやっておいて、一部だけ本物というのは、一種のアリバイ工作で、もっともタチが悪い。きっとその本物にも外国ワインのエキスを入れたくなるのが人情ですよ。」

 それにしても国の新法発表の仕方がとても巧妙でした。日本酒と抱き合わせにしたのです。日本国内で国産米100%で作られたものだけを「日本酒」と呼びます、だからワインもそうしましょう、と。ワインの業界が束になってかかっても、こんな明解な論理はひっくり返せません。そして勿論、世論だって出鱈目なワイン業界の味方はしてくれません。玉虫色の軟着陸は一切ありません、と国が高らかに宣言したのですから、業界は圧力のかけようもありません。アッパレ一本!です。

 日本中のワイン屋さんの殆んどの内情を知っている私としますと、何を今更とアクビの出る思いですが、それでも我が町余市、そして仁木にとっては空前の強い追い風です。日本で一番ワインぶどうを産する町なのですから。

 今後食べるぶどうから作られたと称するワインにも要注意です。人間高級品を指向するとき、決して代用品を原料に用いないからです。

36 「駄ジャレ、小咄」
 言葉の才能が自分にあるとは思いませんが、他人より外国語の習得が早目なのは、人一倍ある好奇心のせいだと思います。とにかく単語も表現法も大いに興味を持って沢山覚えようとすることです。私はCDを聴きながらの学習にはそれ故興味も示さず、本や雑誌、そして対話を重要視します。

 ドイツ留学時に或る程度ドイツ語を覚えると、早速周囲の人間に日本の俳句や川柳を教えようと考えました。川柳というよりは駄ジャレに近いものですが、、、。ひとクラス30人のうち8人がハンスという名前でした。いかにも多い。ちょっと誇張して「クラスでは半数程がハンスかな。」ドイツ人に俳句の(川柳の)エッセンスを教え、ドイツ語で説明して自分なりに一句ひねって相手に分らせ、お前もやってみろと作らせる。こんな馬鹿な試みをしたって、相手は仲々理解しないから、説明が長くなる。とにかくドイツ人は喋るのが大好きだから、面白がって呉れる。ドイツの人々が何故あんなに沢山ビールを飲むのか。きっと議論していて喉が乾くからだと思います。

 かつて、ナパに日本人の仲間を10名ほど連れて旅をしました。とあるワイナリーの庭に樫の老木が5~6本。そこで一句。「少しでも多く(Oak)の木とはこれ如何に。」

 ドイツ人は小咄も大好き。メールで「今週の小咄」を毎週送って呉れる親友がいて、その最新作。

★交通事故の訴訟法廷で。加害者の弁護人が被害者に「貴方は事故の直後私の依頼人(加害者)が貴方に怪我しましたかと尋ねた時、大丈夫です、何でもありませんと答えましたね。」「はい。でも考えてもみて下さい。私は道端を馬に乗ってパカパカ歩いていました。そこに加害者の車が当たり、私も馬も草原の上に投げ出され、仰向けになって手足をバタつかせていました。そこに運転していた加害者がやって来て、持っていた銃で私の馬を射殺しました。次に私の方にやって来て、貴方も怪我していますか、と尋いたのですよ。」

 この咄は大怪我をした動物は例え愛馬でもすぐ安楽死させる、というドイツの習慣を知っていなければ分かりませんね。

37 「S.F.の面白さ」
 全方位読書を誇る(?)私ですから、SFは勿論のこと大好きです。大学生時代ブラウン、ブラッドベリ、レム、アシモフ、星新一、小松左京と何でもござれの数年を過ごしたのを覚えています。SF好きの下地は小中学生の頃に読んだヴェルヌに依ります。自由な発想で書いていて、それらのことが彼の死後ことごとく実現するのですから不思議です。

 私は余りお金持ちじゃないのと、生涯視力に恵まれている(左右1.5)せいで文庫本をよく買います。熟読して読み了ると処分しますが、近々もう一度読みそうなのは残します。現在手許にあるのがハインラインの「夏への扉」。この本は今迄同じものを計4冊買っています。毎度いとおしくて手許に残しながら、必ずや知人にプレゼントしてしまう、私にとってはメモリアルな小説だからです。元来、他人から本を贈られたり、自分が他人に本を贈ることをよしとしないハズの私なのに。この「夏への扉」だけは特別です。

 主人公の愛猫ペトロニアスが大活躍する設定そのものが、大の猫好きの私を魅了します。そして何よりも書かれたのは20世紀中葉、舞台は20世紀末から21世紀初頭にまで達するのに、登場する未来発明品の的中(実現)率が非常に高いのです。

 先ず主人公は自動製図機を発明します。これはこの小説の発表40年後にCADとして実際に世に登場します。タイムマシンはまだ発明されていませんが、「お女中さん」の名で登場するマシンは現在私の家にもあります。

 先般、妻の一番の女友達が、うちに泊りに来ました。毎朝、私が4匹の愛猫たちのトイレ掃除と床掃除に、立ち働くのを見て不憫に思ってか、帰った彼女から「お掃除お女中さん」がプレゼントされて来ました。我が家の家猫は現在6匹に増え、この「ルンバさん」の活躍せざることか。勿論この機械を発明した人物もハインラインの愛読者だったこと、疑いなしです。


38 「道産ワイン懇」という不思議な組織
 正式には「道産ワイン懇談会」というのだそうです。北海道内でワイン作りをする会社の連絡協議会のようなもので、当初(30年程前?)は名前の通り、単なる親睦団体だったようですが、近年に至っては絶大なる権力を行使するようになりました。北海道内に計26社あるワインのメーカーのうち、群れるのを嫌って加盟していないのは私共OcciGabi Winery以外には数社のみ。

 群れると必ずやボスが出現して、あたかも北海道のワインメーカー全体の代表のように振る舞いますが、この道産ワイン懇に於いては道央のA社と道東のB社がそのボス。北海道内のワイン業界や政治まで好きなように仕切って来ました。訳の分からない理屈を並べて消費者を翻弄し続けてきたのです。私の場合、相手が大きいからではなく、余りにも阿保らしいから放っておけというスタンスでやって参りましたが、今回「ワイン表示法」の制定で上記AB2社が完全に打ちのめされることとなりました。痛快至極です。

 まず輸入原料(ワインそのものや濃縮果汁)に殆んど頼っているB社は表ラベルに「輸入原料使用」と明記し、「日本ワイン」は名乗れないこととなりました。B社は公共の自治体でありながら今迄国民を偽って来た上に、そのことを自社製品の表ラベルに表記しなさいというのですから、丸で首から罪状のカードを下げた晒し者の感じです。今後一体どうするのでしょうね。ワイン愛好家の信頼回復は出来るのでしょうか。

 更にA社に於いては今迄原料がその会社の立地する所のものではないのに、○○ワインと書いて来ましたが、これが禁止されます。それと北海道中の色々な町や村の名前の入ったワインも殆んど禁止されます。原料ぶどうの大半が余市だからです。これはいわゆる「ご当地お土産ワイン」のことです。


 このA、B2社のケースは残念ながら現在国内二百数十社の殆んどすべてに当てはまります。該当しないのは多くて20社でしょうか。そしてそれらは小さい会社ばかり。日本のワインの歴史始まって以来の表示ルールの制定で、違反者(社)は製造免許取り上げという非常に厳しい国のお達しです。日本中のワイン会社が大混乱で、連日会議を繰り返しているという私の表現は決して誇張ではありません。業者の自主規制に任せる、良心を信じるという国側の姿勢は見事に裏切られ続けて来たのです。

 日本で売られているワインのうち純粋の国産ワインの比率が5~6%(生食ぶどう由来も入れて)というのですから、その比率を増やせば自ずと我が国の貿易収支改善にも繋がります。安く大量にという考えの裏に秘そむ、加工食品の世界のトリックをもう一度考えて見るべきです。国産(?)ワインの世界は輸入原料という麻薬に犯されてきたのですが、是正は何時でも遅すぎることはないのです。

 諸悪の根源が大量生産にあります。沢山作った方が良い物が出来るというのは工業製品の話です。ワインのように年ごと、畑ごと、作る人ごとに味の異なる農産加工品に於いて何十万本・何百万本作ること自体が間違いなのです。

 新しい表示法に従うと、道産ワイン懇のメンバーの中で大きいワイン会社が6社程「道産」ではなくなりますから、解散ということになるのでしょうか。もっとも筆頭のA社だけは輸入ものは入れていないので「日本ワイン」と名乗れることは申し添えます。

 以前にも書きましたが、遠くから原料を運ぶことは、新鮮原料でこそ上質ワインが出来るという観点からもおかしなことです。日本一のワインぶどう産地である余市・仁木地区にワイナリーを沢山作ろうという私の考えの根拠はここにあるのです。

 加えて私見を述べますと、大体「○○ワイン」と地名を名乗るワインは安ワインというのが世界の相場です。表ラベルにブルゴーニュ・ワインと大書してあったら、ブルゴーニュのあちこちの余りワインを集めてビンに詰めたことになるのですから。誇りあるワインは固有の名前、例えば創業者の名を名乗るのが一般です。ワインとはそれ程個性的なものなのですから。



39  「ヴィンヤードって何?」

 Vineyard。辞書を引いてみて下さい。正確な発音はヴィニヤドです。決してヴィンヤードではありませんしヴァインヤードでもありません。Vineぶどうの木+yard畑=ぶどう畑、それが転じてワイン畑とまで言い切る人もいます。

 さて岩見沢地区のワイナリーを紹介する北海道庁の発行するマップに「ヴィンヤード」が幾つか登場します。そもそもワイン作りは国の免許事業のハズです。それをぶどう畑を少し経営しているからといって、ワイナリーの振りをすることは厳密には酒税法違反となります。しかもこの法律は国税庁や国税局、税務署が所管していて、決して道庁でも空知振興局でもないハズです。

私の目には公けが他の公けの権限を侵犯しているように見えます。権限もないお役所が岩見沢地区の怪しげなぶどう農家にだけお墨付きを与えて、我が余市に居る38軒のワインぶどう農家は無視というのが現状です。即刻ワインマップの刷り直しをすべきと提言します。勿論ヴィンヤード群は削除してです。

 それにしても、これらの怪しげなヴィンヤード群の当主達は近くの小さなワイナリーで「委託醸造」していると主張しています。自分達は免許を持っていないけれど、その醸造所で自分達の手で作っているのだから、自分の作ったワインだと。この点も私の知るところ明確な酒税法違反です。しかも自分の持ち寄ったぶどうに余市産のぶどうを加えて自分の名前のラベルを貼る。

 お分かりですね。P.B.(プライベート・ラベル?/プライベート・ブランド)のワインは、ですからとても怪しいのです。気を付けましょう。

 それにしても、かつての栃木県の身障者施設が経営するワイナリーの出身者たちが、北海道に渡って来て怪しげな委託醸造をしたり、ヴィンヤードを名乗ったり、自然派ワインを名乗ったりと、面白いものです。というのも、彼等のふる里栃木県で彼等はずっと輸入ワインの詰め替えをしていたのですから。「昨日犯罪者、今日求道者」で、丸で少年Aみたいですね。

 ちょっぴり付記します。何故Vineyardをヴィニヤドと読むか。これは音声学上の法則によります。 y = i+i 。VineyardはVinei+iardと分解して考えます。royalがroi+ial(ロイヤル、決してロイアルではありません)となるのが如くにです。同じスペリングの文字をフランス語ではroi-ialでロワ・イヤルと発音します。roiは「王様」、royalは「王様の」の意です。Royalが英語とフランス語、real(レアル)がスペイン語と連なります。ドイツ語だけ大分違ってkoeniglich(ケーニックリヒ)です。


40  「坂口巧一氏のこと」
 私の人生訓に「安易に人を尊敬しないこと」というのがあります。何故といって説明は難しいのですが、尊敬する人を心の中に持ってしまうと、何やらうっとうしいのです。例え歴史上の人物でも、尊敬するのではなく敬愛するといった感情の方が自然のような気がします。同時代人というか自分の人生で出会い、お付き合いした人については特にそうです。自分の知らない一面もあるでしょうし、自分自身の中で相手の評価が簡単に定まらないということもあります。

 さて、そんな中で、パリ在住の坂口巧一氏はちょっと別格です。大学(東京外語大)の先輩ながら彼が4年生の時、私は新入生。彼はフランス語科で私は英米語科。その英米語科1年の時、彼の弟が同級なのに、その弟は優等生に対し私はビリの落第生で交流なし。といった具合で私が47才の時にパリでお会いしたのが初めてと、とても遅い交流の始まりでした。

新潟でCave d’Occi Wineryの最初のメモリアルなワイナリー棟を建てた時、当時鎌倉にいらした建築家の白鳥健二氏を連れてボルドーのワイナリー巡りをした時、ご案内して頂いたのです。パリのシャルル・ド・ゴール空港からボルドーまでの道々、「どうして日本で本格的ワイナリーなんて目指すのですか。どうせ何百年もフランスには追いつかないのだから、ワイナリー作りなんか止めて、日本での私のパートナーになりませんか。」

 彼は大学卒業後伊藤忠商事に入社。パリ支店勤務中に独立。パリに住んで日本にフランスの産品を輸出する仕事を始めたのだそうです。1980年代のバブルの頃は何でも扱ったとのことですが、私が初めてお会いした1992年はフォアグラを止めて、高級ワインに特化しようとしていた頃でした。いわゆるwine exporterで、私に日本のwine importerになれという訳です。とても魅力的な提案でしたが、既に手遅れ。新潟ではもうぶどう畑作りを始めていましたから。

 それから40年余。ワインを彼から仕入れることは全くありませんでしたが、デザインの良いビンや熟成用の小型の木樽、シャンパーニュ地方からのスパークリングワイン製造設備の輸入等、何度も手助けして頂きました。ボルドー、ブルゴーニュ、プロヴァンス、ラーングドッグ、イタリア、スペインの数多くのワイナリーの当主に引き合わせても頂きました。三ツ星のレストランは十度以上ご一緒させて頂きましたし、彼がその功によりフランス政府からレジヨン・ド・ヌール章を授与された時の記念パーティーにも招かれました。

 事業経営にも大成功し、パリ郊外に由緒正しき古城を購入。私はその広い敷地と森に魅せられて何度もお訪ねし、宮殿のような客間に泊めて頂きました。

 成功されたからというのではなく、私が彼を敬愛する最大の理由は、発言がとても誠実で正直なところです。とにかく話をしていて気持ちがすっきりします。すると、こちらも何も包み隠さず話せる。「対話法」とでも言うべきものを彼から深く学んだものと確信しています。最初にお会いした時は眼光が鋭く、ちょっぴり畏怖しました。人生の苦闘の時代を狡猾さで切り抜けた人々と、誠実さで対処した人々が居て、その違いを見分けられる年令に私もなって来ましたが、相手の眼を見ながら話すことの重要さを彼に改めて教えられたのです。

 大の愛妻家でしたが、昨年奥様が亡くなられたので私はお会いすることをためらっておりましたところ、この冬三日間ご一緒させて頂き、ゆっくり静かに話し合って頂くこととなりました。ワインのこと以上にメゾ・ソプラノ歌手だった奥様の思い出話をすることになりそうです。

41 「輸入原料でワインを作るということ」
 そもそも何故輸入原料でワインを作るのでしょうか。ズバリ価格ゆえです。ワインぶどうを自社畑で本格的に栽培すると、1本のワインに必要な1㎏のワインぶどうを得るのに最低800円~1000円かかります。フランスの特級畑のように味を追求してより少なく成らせるようにしますと、1㎏はもっともっと高価になります。ブランド力を支えようとすると元のところの原料コストが大きくなる、という当り前の経済法則が働くのです。

 ところが、現在はアルゼンチンかチリからですが、輸入原料の場合、出来上がったワインそのものか、濃縮した果汁で輸入されます。それが720mℓビン1本分が何と7円~10円で現地で調達されているとか。まさか、とお思いでしょう。いえ、本当です。

 国際ディーリング・ルームに居て、円を買った、ドルを売ったというようなことをしていなくとも、割合細かく世界各地を旅行して歩く人なら誰でも知っていることですが、通貨の価値というものにはとても大きな落差があります。日本の1円がアルゼンチンの何ドルに相当するかは当の取り引きをしている人のみが知っているといっても過言ではありません。確実に言えることは、日本の円が世界有数の強い通貨なのに対して、アルゼンチン・ドル(米ドルとは無縁)は10年程前にデフォルト(債務不履行宣言)をしたことにより殆んど無価値だということです。

商魂逞しい日本の商社マンがアルゼンチンで原料用ワインを買い付ける値段は、それ故信じられない程安いのです。そのようなワインは海路、200ℓのプラスチック・ワンウェイ容器で日本に運ばれますが、ご想像通り、船賃や中間輸入商社の口銭(マージン)の方がワインその物の価格より高くなりますから、国内ワインメーカーに手渡される時は1本分100円以上になるとか。それを自社内でビンに詰めて、コルクを打って、ラベルを貼って段ボール箱に入れて、営業の人員を使って問屋に卸して、とするのがワインメーカーの仕事。でもほんのちょっぴりぶどう畑は作ります。アリバイ(目くらまし)のためです。

42  輸入原料を使っているかどうかの見分け方
 この手法は50年前に始まりました。北海道の或る自治体の長が主にブルガリアから原料ワインそのものを輸入して、工場内でビン詰めし、おらが町のワインとして売り出しました。私は約40年前にドイツでのワイン作りの勉強を了え帰国し、いの一番にそのワイン工場を訪ねました。その工場の前にアリバイ的に植えられているぶどう畑も見せて貰いました。飲んだワインとそのぶどうが丸きり違いました。

【見分け方その①】 ぶどう畑を見せて貰うこと。ぶどうとワインが一致しているか自分の目と舌で判断すること「このワインのぶどう畑を見せて下さい。」「いやぁ、畑が遠くにあって、ちょっと、、、、。」疑念①。

【見分け方その②】 工場の建て物に無用と思われる程大きなシャッター扉が付いている時。例えば幅3m高さ4m。「この大きな開口部は何のためですか」「大きなタンクを入れるときに使います。」でもタンクは横に寝かせれば最大2mx2m程で足りるハズ。疑念②。

【見分け方その③】 「いやあ、こんなしっかりしたワインが1000円、1200円とは安いですね。原料ぶどう生産の段階で足が出ませんか。」答えなし。疑念③。

【見分け方その④】 「どうして自分の作品を入れる容器がこんなダサイ、デザインなんですか。」「いや、デザインの良い輸入ビンは高くて。」容器に意を凝らさないワインて何でしょう。疑念④。

 40年前、その自治体から隣にあるもう一つの自治体ワイン工場に行きました。工場裏に廻り込むと、何と例の200ℓワンウェイ容器が山と積んでありました。最近では皆巧妙です。暗くなってから大型パネルトラックで運び込んだ何十本もの容器は、トラックごと屋内に収容して、ポンプでタンクに移し、ワンウェイ容器はそのまま積んで、かなり離れた所で廃棄処分します。大きなシャッターの疑念②の答えがこれです。

 疑念①、③、④に関しましては、面白いもので悪いことをしているワイン醸造所では当主がお客と直かの話をしなくなりました。良心の呵責ゆえ、何度も何度も嘘が付けないということよりは、刑事コロンボ張りのお客が来て、返答に詰まることが多くなってきたから、というのが真相のようです。

 なるべく多くの顔を合わせないお客にワインを売るには、卸しを使うのがよく、そうなると卸し値も低く設定せざるを得ず、原料や容器にお金はかけられないということになります。縁日の屋台での商売と殆んど選ぶ所がありませんね。

43 高付加価値型ワインの登場
 かつて、まだワイン作りがヨーロッパを中心に行われていた頃の話。即ち20世紀中程の大戦までのこと。ぶどう作り、ワイン作りの世界は「一子相伝」の傾向が強く、後継ぎ息子は父や祖父に教えられるままに、ご先祖様とは余り変わらない方法で作っていました。

 それが平和の時代が訪れ、戦後の世代がこぞって高等教育を受けるようになってから、ワイン作りの現場は大きく様変わりします。ステンレスを素材にした新型の醸造機器の登場やフランス、イタリア、ドイツ、アメリカ合衆国、オーストラリア等にある公立のワイン教育専門機関での教育が後押しして、理論を備えて向上心のある人々が続々とワイナリーの現場に登場したのです。

 移動手段や通信手段の目覚ましい発達も無関係ではなく、更には受け手のお客様も豊富な知識を駆使してワインを論評するようになりました。結果、伝統的なワイナリー、新設のワイナリーを問わず自己の製品を高級化する大きなうねりが現れました。

 良く言われることですが、アメリカ合衆国の「大躍進期」(1980年-2010年)には、ボルドー・グランクリュ式の新樽熟成が盛んとなり、かの220~225ℓの新しい樽を積み上げての製法が一般化しました。要は、高価な機器・設備を導入し、新樽熟成という手間暇かけてのワイン作りをするのが常識化したのです。勿論同時に醸造棟の周囲に静かな庭を配置し、畑も美化しました。「良いワインは良き畑から」の言葉通りに。名付けて「ワイン革命」もしくは「ステンレス革命」の到来です。

 この「ワイン革命」の動きは、もし皆さんがご自身をその中心に居ると想定して頂ければ、納得が行くことでしょう。例えばご自身が老舗ワイナリーの第何十何代目の後継ぎ当主であったとします。又は創業の当主だとしたら、と。「自分の人生は自分でクリエイトする」という気概でワイナリーの経営に臨むのであれば、当然の帰結としてこの現代の運動がある訳です。

 私の愛読エッセイストで、ANA機内誌「翼の王国」の第19頁に連載コラムを持つイタリア人ジャコモ・モヨーリの主張が思い起されます。(確か彼はミラノ工科大でデザインを教えている先生。)2013年12月号だったと思います。曰く、ワインの高付加価値化に於いて大切なのは味そのものではなく(勿論逆説的皮肉です)、ワイナリー運営の理念や建物、ロケーションであると。至言といえましょう。



44 非常に分かり易い理屈

 1974年、当時の西ドイツ南部の大都市シュツットガルトで、私は郊外に下宿していました。全寮制のワインの学校に入る前にドイツ語をマスターすべく、毎朝郊外から市中心部の語学学校へ。路面電車(これが世界一美しい路面電車で現在も走っています)で16駅乗るのですが、電車の中で見た光景は今でも忘れ得ません。小学生も中学生も通勤者も定年老人も乗り合わせるのですが、子供達(小中学生)が必ず大人に席を譲るのです。

 昭和49年のことですから、日本では長幼の序も崩れ、道徳も風化して、子供がお年寄りに席を譲るという光景はもう絶えて見られなくなっていました。それがドイツでは、子供が老人にだけでなく年上の人には必ず席を譲る。何と素晴らしいことでしょう。

 語学学校では初日以外は英語での会話を禁じられていましたので、たどたどしいドイツ語で女性の教師に、自分の意見をやっと言えるようになったのは2か月後のこと。毎朝電車の中で見る子供達のこの行為を何と道徳的かと先生に言うと、私が何のことを言っているのか良く分からないとのこと。

自分の語学力が稚拙ゆえ意味が通じていないとばかりに、必死で手を変え品を変えの説明を試ると、やっと理解して呉れたらしく、「いえ、それは誤解です。子供が大人に席を譲るのは法律です。だって半分しか払っていない者が全額払っている人を立たせて自分が座っているのは間違っているでしょう?」唖然!!!

 この法律(Gezetzゲゼッツ)という言葉に私は絶句しました。ガリバーが小人の国や巨人の国に迷い込んだみたいで、多少大袈裟ですが、その時私の受けた文化的ショックは大変なものでした。こりゃあエライ国に来たもんだ、と正直思いました。

 教材にタブロイド判の人気新聞「ビルト(写真の意)」を時々使いました。或る時、その第一面には銀行強盗に入って即射殺された男の血だらけの顔が大写し。ピストル若しくはピストル様のものを持って銀行に入った人間は、駆け付けた警察官に有無を言わさず射殺される、とも教えられました。兎に角、「法律が生きている」を実感させられたものです。

 昨今、TV、新聞、雑誌ではギリシャが悪い、いやドイツが厳し過ぎると、両者への弁護・反撃の議論が成されていますが、以上の如く、このドイツの明確で論理的な厳しさに対応出来る国なんてザラにはありません。哲学の国ギリシャが勝つか、それとも論理の国ドイツかと思うのは私だけでしょうか。兎に角いい勝負です。

45 現代のマルコ・ポーロ
 一昨年(2013)昨年(2014)と10月から11月にかけ3週間我が家に逗留した級友がいます。Friedrich Hammel(フリードリッヒ・ハンメル)君64才。かつてのドイツ国立ワイン学校での同級生です。最優等生でした。南部ドイツでもかなり有名で巨大な「ぶどう生産者組合立ワイナリー」の醸造長を30年務め、現在は悠々自適の立派Rentner(レントナー、定年生活者)。

 前号のfacebook(私がドイツに行って文化的ショックを受けた話)とは丁度逆で、彼は2011年に一週間日本に滞在したのが縁で、日本をとても好きになり、しかも面白がり、彼曰く、「生きている限り毎年来るよ」となりました。この10月にも又来ます。

 彼にとって我が日本は超異質の国です。しかも愛すべき、と続くのは先きの第二次大戦の関わりで、日本人は律儀というベースがあってのことです。ガリバーでなければ、きっとマルコ・ポーロの気分で、この余市・仁木の人々と普通に会話して、見聞を広めています。

 ドイツ人はよく世界一散歩が好きな国民と揶揄されます。我が家が丁度余市町と仁木町の境に立地しているのを良いことに、ドイツ人の彼は両町を巡り歩き、人々と話をします。彼の日本語や英語の能力が殆んど有効ではないのを私は知っています。ではどうやって日本のこの田舎の人々と会話をするのでしょう。

 そうです。何とドイツ語でです。しかも南部の「シュヴェービッシュ」というドイツ人でさえ往々にして理解不能なドイツ語方言で。不思議とこれが良く通じるのです。勿論、多少ジェスチャーも加えてですが、人間自分の一番得意な言語で喋るのが相手を納得させ易い、という法則のようなものが働くのでしょうか。奇妙にこれがお互い通じ合う。勿論、対するこちらの余市びと、仁木びとも地言葉で喋ります。もし傍らに居ても、私は殆んど通訳などして助けないことにしています。

 我が家に帰り来て、「さっきあの人はしきりに○○と言っていたが、それはこんな意味かい」、と当たらずとも遠からずの指摘に二度ビックリ。丸ハズレも時々あるものの、それは愛嬌というものです。

 私の推測ですが、彼は故郷の書斎で「新東方見聞録」を執筆中のことでしょう。その中で、日本の家屋は屋根も畳も決して純金製ではなくとも、人々の心は非常に暖かい、と綴っているに違いありません。この秋も行くよ、と言っているくらいですから。

46 外国でワイン作りを学ぶ
 私自身もそうですが、我が国にはワイン作りについて学ぶまともな所がない以上、必然そうしたい人はフランスやイタリア、ドイツ、アメリカ、ニュージーランド、オーストラリアに出掛けることになります。国内にはしっかりと教えられる人も居ないし、教える所もないからです。

 幾人か、いや10名程そのように外国でワインの勉強をして帰って来た日本人を知っていますが、現在の日本国内の状況ではそんな人が就職口を得るのは非常に困難です。自分でぶどうを育て、ワインを作り、マーケティングにも多少関わる。そんな環境のワイナリー、ワイン会社が皆無といってよい程無いからです。じゃあ自分で創業するか。それもちょっと難しい。何故なら、そんな覚悟で外国に勉強に行った訳ではないからです。ぶどう畑も醸造所も、そして出来たらレストラン付きの売店も自分で作るとなると、3億4億円以上の資金調達を必要とします

 その時点で気が遠くなるのか、帰国後大体は他分野へ就職します。時代が早かったのでしょうか。いえ、この国のワイン作りの業界が出鱈目だ(った?)からです。この国の現状をよく踏まえていれば、そんな失望は味わわずに済んだのに、と悔やんでも後の祭りという感じの人は、この日本に少なからず存在していることでしょう。

 気の利いた人、帰国する前に我が国の事情を察知した人はそのまま海外のワイン国に残って仕事に就くことでしょう。そんな人も私は知っています。

 さて、どうすべきか。私の持論はこうです。卵が先か、鶏が先かの論法ですが、正統なワイン作り(ぶどう作りを含む)のスキルを持った人材を活用するには、そのような会社が蝟集するまともなワインランドを作らなければいけない。まともなワイン会社が次々と出来れば、そのためには、その地区に教育機関を創立し、当初は招聘した外国の教授陣に教えて貰い、10年後は生え抜きの日本人教授を内部から作り出せばよい。真剣な学校を作る以上、その卒業生が働ける所を多数作らなければならない。

 こういったワインゾーン(ワインランド)を仕掛けなければ永遠に日本の現在の状況は改善されない。
 私の思考はいつもこういう風に展開されます。とにかく始めましょう。

47 LEDのこと
 前出(No.45)の私の友人Hammel(ハンメル)君は、とても優雅な年金生活を送っています。日中は自宅から1000m程離れた1.5ha(約4500坪)のワインぶどう畑の世話。仕事をするというよりは、兎に角ワインぶどうに毎日触れていないと、生きている気がしないのだそうです。それ位この植物が大好き。勿論、それから作られたワインも大好き。

 夕方からは、若い時のように毎晩ワインかビール(特に暑い日は)という訳にも行かず、身体を労わりつつも酒量を抑えるために、とパソコン三昧なのでしょう。よくメールを寄来します。前にも書きましたが、「現代のマルコ・ポーロ」的に毎年来日するものですから、向うに在ってはお返しにホットなドイツのニュースを、当方に届けるのが使命だと考えているようです。数あるニュースの中でも、この2年間に面白いと思ったものを2つ紹介しましょう。

 ドイツ連邦共和国ではなのか、彼の住むバーデン・ビュルテンベルク州ではなのかは定かではありませんが、家庭での照明にはLEDの使用が義務付けられたとのこと。私自身LEDの大ファンで、我が家といわずワイナリー内部全体といわずLEDだらけです。価格は安い白熱球に較べると10数倍しますが、謳い文句によると寿命は長く消費電力も1/10以下とのこと。正直に言って、新しい物好き、合理性ゆえに選んでいますから、他の人に強要しようなんて考えもしませんでした。

 ところがどうでしょう。彼ら(ドイツ)の論法では、電気エネルギーを原発に依存するのを止めたのだから、出来るところから節約しなければいけない、となるのです。元々電気と水道、そしてガス(家庭では殆んど使用していませんが)は極限まで節約する国民ですから、、、。

かつて41年前の留学時、アパートで夜を徹して勉強したり読書していると、近くの人がインターホンをピンポーン。ドアから顔を出すと、「電気が勿体ないから消しなさい。朝早く起きて続けなさい」と丸きりの他人から言われる始末。お節介好きというか、自分に理があると確信している、というか。

 LEDの活用も、ですから一種の国民運動だと理解すればよい、ということになります。メールで、「日本はまだ法律化されていないのか?」私の返事は、「うちらの国ではきっと法制化されないと思うよ。」相手から又返事のメールで、「でもおかしいね。LEDを発明したのは3人の日本人じゃなかった?」ここまでお節介だと、何やらそうしなくては、と思い始める私でした。

48 地飼い鶏のこと
 ドイツの友人からのニュース、2つ目。鶏のケージ飼いが法律で禁止されたのだそうです。前回のLED法はいざ知らず、この法律だけは「緑の党」提出のものだろうと私は思います。

 戦争が終ってすぐ生まれた私共団塊の世代(いわゆるベビー・ブーマー)は、大概卵とバナナが大好き。少年期には高価で何時でも食べられるものではなかったからです。この二つの食品は長い間、価格が変動していないことでもよく知られています。

 遠い昔の仇討ちか、現在でも私はこの二つが大好きで、特に玉子(卵)」はよく食べます。私の観察するところ、ドイツ人も玉子は大好きで、毎朝半熟の「ゆで玉子」を一人一個食べるといっても過言ではありません。

 自分達が動物性蛋白質を摂取するための、一番重要な食品である玉子を産んで呉れる鶏さんをもっと大事にしよう。地飼いにしてストレスから解放したほうが、より良い玉子を産んで呉れるに違いない。

 結果、鶏卵の価格が何十年振りに急激に上昇。養鶏業者には朗報ですが、国民全体がよく理解して、何でも安いほうがよい、と言わないところが凄いと思います。

 蛇足ながら、動物園を廃止しようという動きもドイツではかなり強いと聞きます。私は同意します。ちょっとヘソ曲がりながら、私は小さい時から動物園が嫌いでした。現在でも「○山動物園」の飼育係りの人がテレビに出ていると、偽善者かノータリンに見えます。この人、相手の動物の気持ち分かっているのかなあ、と。

何で次から次と来る観客の前で芸をしたりポーズを取らなければいけないのか。イルカのショーなんかは係の人が猿回しの悪親父に見えてしまいます。偏見でしょうか。でも普遍的な思考の末も全く同じ結論に至ります。猫や犬と対等に会話する人には、私の考え方をよく理解して頂けるものと確信しています。

49 倶知安酒場
 「鄙(ひな)にもまれな」と言う形容がピッタリのスパニッシュ・バールが倶知安駅前にあります。その名も「倶知安酒場」。シェフの作る気の利いたスペイン風のつまみも美味至極、ワインも行けてサービスも良い。というのが決して褒め過ぎではない証拠に、偶然雑誌で知ってから通い詰めの私です。35㎞も離れているのにです。

 遠い遠い昔のドイツでの学生時代から、スペインには繁く通っていて、長く滞在しても、2~3日立ち寄っても、よく思い起こすと毎深夜バールを訪れていたことに気付きます。喰いしん坊の私ならずとも、スペインでの生活の華は「バール通い」と知ることでしょう。スペインの人々は人生の時間の大部分はバールに居るか、バールに行って何を食べようか何を飲もうかと考えているのではないかとさえ思える程です。

一日の締めくくりの友人達との歓談の場、いえもしかしたら一日の始まりかもしれません。深夜を過ぎて1時2時まで飲み喰いしている人がそれ程多いからです。それにしてもスペインでは新型TVは余り売れないだろうなあ、と思います。大好きなサッカーの中継は、バールで飲みながらTVを立って観るのが標準のようですから。都会でも田舎でもです。

同様の光景はイングランドでも見掛けます。いわゆるpubです。都会では半径数百メートルに住む男達が集まって来る。田舎ですと村中の男達が毎晩そこで議論をしている。えっ、じゃあ議会は不要かって?アルコールが入っています。本音が出ます。矢張り議会とは違いますね。

 それにしても、男中心で男尊女卑かというと、私の考察の結果はそうではありません。やかましい連中を一カ所に集めておいた方が管理上、又集団の精神衛生上よろしいし、よく働く家畜にはご褒美をあげるべき、と女性達が考えているフシがあります。結局働き蜂は早く死ぬ訳だし、動物界では一般に女性は長生きするのですから。

我が町余市には竹鶴政孝翁のご利益(りやく)か、ニッカ工場の向い筋に70余件の昔懐かしい「スナック・バー」が健在で、夜な夜な人々は集い、グラスを重ねます。女性も男性も同じ程混じっていますので、我が町は男女同権。諸要件を考え合わせると、このスナック街はニッカ工場と共に世界遺産に登録すべき。と、酒が入った時に考えたりします。ところが、近い将来、この余市・仁木にワイナリーがいっぱい出来て、滞在型の観光客が増えた時のために、このスナック街はこの雰囲気のまま保存、継承すべき、と考える時私は逆に本当にシラフです。

50 ワインツーリズム
 多人数がバスに乗って数あるワイナリーを訪ね歩く。そんな意味でしょうか。それにしても、誰が考え出したのでしょう。客観的には、まだ軒並み訪ね歩く程、完成度の高いワイナリーが集まっている地方は皆無です。ましてや、今回の「表示法」に照らすと、怪し気なワイナリーが数多くあるのですから、ウソとホントを取り混ぜて次々と訪ね歩くことになりかねません。

 粗製乱造と申しましょうか。ワイン特区だとか何だとか唱えて、完成度の低い、ワイナリーともよべないような製造所を数だけ揃えて、悦に入る。それらをひっくるめて何時間かで全部訪ね歩こう。

 私の知る限り、世界中にそんな「ワイン・ツーリズム」なんて存在しません。元来は1970年代にNapaで幾つかのワイナリーが使用した字句に端を発するものかも知れません。“Winery tour” とか ”Winery visiting tour” とあると、その1軒のワイナリーの畑と蔵の中をずっと案内して呉れるという意味で、決して複数のワイナリーを巡るという意味ではなかったハズですし、現在も、その意で使用されています。

勿論その案内(tour)の最後は、徹底的にそのワイナリーのワインを味わう wine tasting となりますから、かなりの時間を要します。その日のうちに次のワイナリーを訪ねるとしても、よく考えて何処に行こうかと決めるのは自分(達)のハズ。当然のことながら、クラスも同等以上のものとなります。お仕着せのごちゃ混ぜツアーとは決してならない道理です。

 現在、北海道を真のワイン地帯にしたいのなら、以上のような考察をすべきです。まともで将来性のある、そしてここが一番大事なことですが、ワインの好きな人が、その雰囲気に満足し得るワイナリーをひとつずつきちんと作る。悪貨は良貨を駆逐しますから、いい加減なワイナリー作りが出来ないようにすべき責任は行政にあるのではないでしょうか。そのようにして僅か3~40年という短時日にNapaが出来上ったのですから。

 元祖ヨーロッパにはブルゴーニュ、ボルドー、リオハ、トスカーナ等々、古めかしくて時計が止まったような雰囲気のワイン地帯がいくらでもあります。しかしこんな千年以上昔からあるワイナリーを真似て、「汚らしさ」と「伝統ある」を混同させようというトリックは、本当にワインの好きな人には通用しません。先ずスタートはきちんと投資して、清潔で心地良い空間を作ること。これもNapaのすべてのワイナリーが教えて呉れることです。

 ワインやチーズを新しい北海道観光の礎石にしよう、と考えるならば、数合わせではなく、まともなものをひとつひとつ、の方式しかありません。この北海道を真のワインランドにして、観光の力強い一助にしようという発想をお持ちなら、まずは先進地をつぶさに視察・研究しましょう。百遍でも申しますが、とにかく一度Napaを見てみましょう。そして二度三度と。通信情報が過多気味で、しかもマユツバが横行する現代だからこそ、百聞よりは一見を実践すべきなのです。

 私共はOcciGabi Wineryにいらした方々が、現代ワイナリーの出発点とはこのようなものか、と納得して頂けるようなワイナリー作りをしております。国内でしたら是非一度私共をお訪ねください。国内の他のワイナリーとは丸切り違いますので。

51 推敲
 昔、高校一年生の時「漢文」の授業で習いました。唐の詩人・賈島が詩作中に、「僧は推(お)す月下の門」にすべきか、「僧は敲(たた)く月下の門」とすべきか悩み、韓愈に相談して敲くに決したという故事。

 本を読むのと文を書くのが大好きな私ですから、そして才能はそれ程ではありませんから、結局は練り過ぎて毎度駄文となるのですが、よく考えると要はこの推敲作業が楽しくて、文を書いているのかも知れません。そして私の場合推敲で一番重きを置くのは字句よりもリズムです。

 今から丁度4年前、2011年放送のNHK・FMでのこと。ブラームスのピアノ協奏曲第一番・ニ短調の演奏が了った後の解説で、著名な音楽評論家が披露したエピソードが秀逸でした。彼も又聞きでしょうから、私も皆さんに教えることにします。

 ブラームスは20年以上も後にもうひとつピアノ協奏曲第2番・変ロ長調を書きますが、どちらが良いかは純粋に好みの問題で、殆んどのブラームス・ファンはどちらも好きなことでしょう。又、ブラームスは数年後輩のドヴォルザークを可愛がり、彼を世に出したことでも知られていますが、とにかく後進達の面倒を良く見たようです。

 さて、或る日作曲家志望の青年がブラームスを訪れ、厚顔にも「先生、僕もピアノ協奏曲を2曲書いてみました。そのうちのどちらを世に問うべきか迷っていますので、ご助言頂けますか。」ブラームス「そこのピアノで弾いてごらん。」青年は「では第一番から弾きます。」青年が目を輝かして弾き始めて、ものの1分もしないうちに、ブラームス曰く、「分かった、もういいよ。発表するのは第2番にしなさい。」

 ヨハネス・ブラームスは彼の尊敬するべーとーヴェンの死の数年後に生まれますが、ブラームスと同時代(19世紀後半)を生きた人々の中には、ロマン派等の幾多の作曲家(ドヴォルザークもその一人)に加えて、異色の天才が居ます。誰あろうThomas Alva Edisonです。希代の発明家兼実業家のエジソンは、実はヨーロッパでブラームスと一緒に仕事をしたことがあるのです。ブラームスが自演する「ハンガリー舞曲」をエジソンが自前の蠟管蓄音器で録音して、人類の偉大な記録を残すとともに、自分の商売にも利用したようです。GEという巨大な会社を興したエジソンのことですから、これ位の離れ技はやるでしょうね。

この事実は今から丁度30年前、アルバイトでHBC(北海道放送)のスタッフに混じって「ピウスツキー蠟管」を追跡していた時に知りました。そうです。アイヌ語を録音して北海道大学に保管されているあの蠟管のことです。開学まだ浅い頃の北海道大学(もしかして札幌農学校の頃でしょうか)にポーランドの言語学者ピウスツキーがやって来て、文字を持たないアイヌの人々の言語をエジソンの発明した蠟管に写し取ったとのこと。人が動くと文化も伝わる、まさにその好例で、感動します。エジソンが興した会社GE(General Electric)が原発原子炉を作り、そして・・・とこの話は延々と続きそうですから、今回はここまで。

 我が妻Gabiが時折「推すか敲くか?」という表情の時、それは”beer or wine?” であったり”more wine?”であったりします。ビールはいざ知らず、ワインなら我が家に何万本でもあるのですから、きっと身体のことを考えているのでしょう。今回は賈島→ブラームス→エジソン→ピウスツキーと流れましたが、ところでAimez-vous Brahms?

52 ジャガイモ・タンゴのこと
 1972年(昭和47年)冬のこと。猛烈な吹雪に見舞われ、羊蹄山麓・真狩の知り合いの家に泊めて貰ったことがあります。そのままカローラで走り続けたら、きっと立往生して翌朝には凍死体で発見となりそう、と考えたからです。泊めて頂く程の仲ではない単なる知り合いながら、真夜中にも拘らず、夜食まで用意して呉れました。

真狩名産のジャガイモを卸し金で卸し、ぎゅっと握って水気を少し切り、具の入った正油汁の中に離すと、不思議や不思議このイモの「変造物」が鍋の中でコリッと固まります。ちょっと煮込んでアツアツを頂きましたが、状況も良かったのでしょう。私の人生で最高の料理を味わったことになります。正確にはイモ・スイトンと呼ぶのでしょうが。

 丁度その3年後のこと。場所はドイツの学校の食堂。或る日の昼食にこのジャガイモ・ダンゴが出ました。当時ドイツでもこの料理は忘れられたレシピに入りかけていたらしく、同席のクラスメートが、これは何だろうねと言いました。答えを知っていた私が誇らしく「ジャガイモだよ」。すると隣のテーブルの一学年下の生徒が、「へぇー、日本じゃジャガイモからこんなもの作れるんだって。凄いねぇ。」と、完全に私を馬鹿にした言い方。結局、何だかんだ言い合って、最後は取っ組み合いとなりました。

 二人して校長室に呼ばれ、校長の事情聴取を受けました。「原因は何かね?」二人ともあった通りを述べると、校長が食堂の料理長を呼び説明させます。ウローゼヴィチ夫人といってユーゴスラヴィア系の人でしたが、味はともかく、いつもたっぷり食事を作って呉れる人ですから生徒の人気もある人です。

彼女の説明を聞いてドイツ人の下級生も納得し、校長の前で彼が謝罪し、二人が握手して一件落着。下級生が校長室を退出し私と二人切りになると、校長が「落君、君の意見は正しかった。しかし彼は君よりうんと年下です。理を尽くして説明すべきだった。ドイツは暴力より言論で決する国です。決して暴力はいけません。」

 相手の名前はミヒャエル。苗字は忘れたものの、この時scherzen(シェアツェン、からかう・馬鹿にする)という動詞を覚えました。そして事件は学校中の知るところとなり、そのすぐ後のクリスマスに校長夫人からディナーの招待まで受けました。ドイツ人でさえ忘れかけたジャガイモ・ダンゴのレシピのことでケンカした子に会ってみたい、と。
 先日、北海道庁OBのH氏から、例え正論でも高位の人々を刺激するような直接的言動はどんなものか、と言われました。自分の好きなH氏ゆえ、その後深く考えている時にふとこの話を思い出しました。とにかく、囲りは殆んど皆、私より年下なのですから、そして私も彼らも北海道の観光発展を願っていることに於いては同じなのですから、今後は少し軟らかく意見を述べましょう。



53 フェルディナントとモニカ

 40年前・西ドイツに行って、ワインの学校の始まる前、まだドイツ語の勉強をしていた頃。近くに住む陽気で外交的な若夫婦と知り合いになりました。フェルディナント・シルメラー氏とその御夫人のモニカ。

 或る好天の日曜の朝。二人が私のところにやって来て、シュツットガルト市郊外にある動物園Wilhelma(ヴィルヘルマ。どうも王様の名をとって付けた名らしい。)へ行こうと強く誘います。動物園は好きじゃないと私が言っても、「このヴィルヘルマは霊長類の研究で世界的に有名なんだ。見ておかないと損をする」とまで言われて、彼らと我がご先祖様の研究に出掛けました。

 屋外駐車場は満杯で、一番遠くに停めて、数百台の車の間を一緒に歩いていると、急にフェルディナントが立ち停まり、一台の車のタイヤをひざまづいて見始めました。続けて、ポケットからメモ紙を取り出し車のナンバーを控えるのです。まだ携帯のない時代で、駐車場の端にある公衆電話まで行って、何やら話しています。帰って来た彼に私は、「一体どうしたの」。「いやあ、車のタイヤのトレッドがすり減っていたので警察に電話で報告したんだよ。」「どうして?」「だってそうだろう。あの車の運転手がスリップして事故を起こせば、他の人も怪我をするだろう。これは市民の義務なんだ。」

 彼の言うことはごもっともでも、何やら「密告」という言葉が思い起こされて、暗い気持ちになりました。ナチス時代のユダヤ人摘発もこうだったのかなあ、と。とにかく、抜け駆けを許さない風潮が色濃く在るのがドイツです。
 でもこのフェルディナント君、ホロッとさせられるところもある人でした。

或る日夕食に招ばれてその席で、「オチ君、僕達はこれから4週間カナダ旅行に行って来るから。」「えっ?どうして」「妻のモニカがカナダ大使館に勤めているのは、以前言ったよね。だからバカンスを続けて4週間取って、2人で2度目の新婚旅行だ。カナダという国をじっくり研究してくる。」「奥さんは分った。でも君は違う会社で働いていて、休みをそんなに長く取れるの?」「一年分をまとめて取ったんだ。」

 確かに先進国では、日本とアメリカを除いて年休の制度がしっかりしていて、しかも長いのです。それでも実情としては、一度にまとめて4週間も平気で申請するような男は決して出世しません。あの愛妻家のフェルディナント君、今頃どうしているのでしょう。



54 9回目のNapa滞在

 この9月8日~13日とカリフォルニアのナパに行って来ました。今回の目的はワイナリー開設に当たってのヴィジョン作りのため。近々開業する予定の人々が3グループ参加しました。

 9月上旬のナパは1975年以来40年振りのこと。その40年前には現在ナパに植わっているカベルネ・ソーヴィニョンは殆んどなく、その代りに、何と生食用で超大房、しかも種無しのグリーンのぶどうであるトンプソン・シードレスが大量に潰され、搾られていました。当時西ドイツの学校できちんとしたヴィニフェラ種(ワイン専用品種)からのワイン作りに専念していた私としては、大いにガッカリしたのを覚えています。

 時は移り、今や世界の銘醸地となったナパでは、もうそんなことはありません。収穫の早い順に、ピノ・ノワール、ピノ・ムニエ、ピノ・ブラン、ピノ・シャルドネ、ピノ・グリと7月末から8月中旬にかけて採り、8月中下旬にはカベルネ・フラン、プチ・ヴェルド―、メルロー、カベルネ・ソーヴィニョンと収穫するのだそうです。

そのような訳で9月10日頃畑に残っているのは殆んど遅摘み用のカベルネ・ソーヴィニョンだけ。日中の最高気温が36℃~8℃で、酸味が落ち過ぎて余り良いワインにはならないように感じられました。熱波のナパで夜のホテルの部屋では冷房が必要でしたから、畑のぶどうにとっても過酷な条件の年となったようです。

 カベルネ族(ソーヴィニョン、フラン、メルロー、プチ・ヴェルド―、マルベックのことを私は勝手にこう呼んでます)の故郷ボルドー。この十年程行ってませんが、巷では「30年後にはボルドーも三流ワインの地になる」と噂されています。我が北海道だけでなく、世界のどの産地でも温暖化が進んでいるようです。スウェーデンにもワイナリーが数軒出現したとのことですから、将来シロクマさんがワインボトルを抱いているデザインのラヴェルが出て来るかも、ですね。



55 fume blancのこと。

 今回のNapa行で、最後に隣地SonomaのChateau St.Jeanに立ち寄りました。Tasting Listに久し振りにfume blancの文字を発見して、案内の人に尋ねました。「以前1975年にこの地を初めて訪ねた時、Robert Mondavi Wineryでこの表示を見ました。」「へぇー、古い話だね。

ところで貴方はいくつ?」「67歳。」「若く見えるね。私なんか貴方より5つも歳下だよ。」と老人然としたアメリカ人。私は「モンダヴィ氏の次男ティムが友人で、モンダヴィ翁と握手までしたんだ。」「うわぁ。そりゃ凄い。実はヒュメ・ブランの命名者はロバート・モンダヴィその人なんだよ。」

 話が弾みました。確か品種はセミヨン(ボルドー地方の白い品種)だったと記憶しています。周囲がまだ食用ぶどうを用いてワイン作りをしていた当時のNapaで、このcreaterであるモンダヴィ翁はセミヨンの白ワインを新樽に入れてヒュメ(燻香を付けることを)していたのだそうです。新しいワイン地帯をcreate(創出)する時に高級化も決して忘れていなかった、真に偉大な人がここに居たことになります。瞑黙。



56 CIAのこと

 Central Intelligence Agency(アメリカ中央情報局)ではありません。NapaにあるThe Culinary Institute of America(アメリカ料理学校)のことです。業務内容は勿論大きく異なりますが、何やら混同されるのを楽しんでの名付けのようです。

 フィロキセラというぶどうの根に付く害虫被害で経営不振に陥ったナパの老舗「クリスチャン・ブラザーズ ワイナリー」をNew Yorkに本校のあるCIAが1億円で買収。それを50億円かけてリニューアルし、世にも珍しい料理学校・レストラン・ワイナリーの複合体に仕上げたのだそうです。

 試飲は付かないものの、わずか10ドル支払っての一時間近い見学コースに参加しました。辻調理師専門学校とワイナリーやレストランを併設した感じで、優れたシステムと感じたのは、料理やパティシエの生徒さん達にぶどう栽培とワイン醸造の実習も課していたことです。2年制で700人すべての生徒がナパの学寮か民間に寄宿したりしているそうです。この発想は仲々だと思いました。即、地方創成に繋がるなと。

 思うに北海道は食材の宝庫でありながら、田園滞在型宿泊や西洋料理系の飲食店は非常に少ないのが実情です。以前から画索していたワイン栽培・醸造学校を実績のある料理学校とのコラボレーションで行えば面白いなと考え始めています。

 それにしても、見学ツアーでは50代の母親と20才そこそこの息子さんが一緒でした。勿論アメリカ人です。見学後に学校の人と何やら話し込んでいましたから、息子さんはきっと入学を検討しているのでしょう。

 私共OcciGabi Wineryにもおおよそ週に一組の割合でワイナリー開設希望の方々が見えて、弊社醸造空間の案内を所望されます。人生を賭ける気のない人、資金計画の弱い人、育児に専念しなければいけない人には当方も翻意を促します。残念なことに、実はそういう人が多いのですが、、、。

57 アルゼンチンのこと
 11月25日深夜の経済ニュースに、新しく就任するアルゼンチンの大統領が出ていました。知的で誠実な雰囲気の人でしたが、「私はこの国を(経済的に)強い国にする」と語っていました。

 思えば私が東京の大学に入ったその年(1966年)に、口蹄疫という牛独特の病気ゆえに、アルゼンチンから日本への食肉の輸入が禁止され、今日に至っています。牛肉はこの国の重要な輸出産品でしたから、自国の経済に与えた影響は甚大だったことでしょう。おもしろいことに、きっとこの事件以前に輸入された肉から作られていたであろうプレスハムが、日本ではその日から捨て値で売られ始めました。ヘソ曲がりを自認する私のことですから、何日も何日もスーパーでプレスハムを買い続け、信じられない程沢山食べたのを覚えています。

 そして2001年、この国はデフォルト(国際債務不履行宣言)をしてしまいます。ここから先が、今日の主題です。
 デフォルトをかけるとその国の通貨は対外的に紙屑化します。食肉事件以後、1970年代80年代と徐々に力をつけて、外貨稼ぎの主力選手となっていたワインの価格が大暴落するのです。喜んだのは先進諸国のグレイ・ワイン・マーケットです。

ヨーロッパの或るワイン大国は、アルゼンチンものをビンに詰めないで輸入し、自国でビンに詰めラベルも自国のものを貼って第3国に輸出したと聞きます。勿論、まともな表示法(原産地呼称制度)のない我が日本では、堂々とそんなワインが「国産」「自社製」として国内で流通するに至ったのです。マンマ・ミーア!

 日本の「国産ワイン」の7~8割がアルゼンチン産だと言われる所以です。悲しくなりませんか、皆さん。かつて2~3年前にNHKラジオの「地球ラジオ」という番組で、或る人が「私は20年以上アルゼンチンに住んでいる日本人です。先日20年振りに日本に帰りましたら、店頭には、アルゼンチン・ワインが殆んど見当たりませんでした。

皆さん、こんなにおいしいアルゼンチン・ワインをもっと飲みましょう」と発言していました。私は大いに苦笑しました。だって、日本人の飲んでいるワインの30%がアルゼンチンのものなのですから。(日本国内での全消費量の60%が「純正の」輸入ワイン。残り40%のうち7~8割がアルゼンチンものだとすると、計算上総量の約30%ということになります。)

 新しい大統領はとても能力のある人のように見えました。本当に申し訳ない。今度は自国でビンに詰めて、堂々と高い価格で日本に輸出して儲けて下さい。本当に美味しいのですから。



58 余市こそ真のワイン地帯となる

 先日(11/30)余市町でワインに関する講演会がありました。東京から来た2人の講師が色々な観点から持論を展開しました。会場に3時間居続けて聴きながら、自分の胸に去来した思いを幾つか述べてみます。

 <余市には30数年来ケルナーというドイツ由来の白ワイン品種があるのだから、余市にしか出せない独特のケルナーを出し続けて欲しい>。或る講師がこの点を強調しました。しかしこれは完全な間違い。今から38年前の1977年、ドイツ留学の帰途私自身が持ち帰り、北海道中央農試の尽力もあって大いに広まった品種とはいえ、いまだにこの品種に固執する理由が私には全く理解出来ない。

かつてワイン事始めの時期ならいざ知らず、唯、単に栽培が易しくて、収穫量が安定して多いというだけで作り続けられているのが実情。本国ドイツではとうに忘れられた品種となりつつあるのは、その強すぎる果実香のため。新樽熟成には不適で、ワインも食中酒というよりはデザートワイン的。上陸地北海道で続けて少量作られることに多少意味はあっても、主力は素直にシャルドネにすべきと考えています。現に1998年以降の温暖化により、この地では平常にピノ族(ノワール、ブラン、グリ、ムニエ、シャルドネ等)の栽培が出来るのですから。栽培者から誰一人醸造者が出現しなかったことに由来する奇異な現象かも知れません。もっとも私自身は、シャルドネに重心は置きつつも、ゲヴュルツ・トラミーナやムスカテラー、ピノ・グリ等々この地での新品種も少量ずつ栽培して行くつもりです。

 <これから日本ワインを牽引していくのは信州と北海道>。

もう一人の講演者のこの意見にも私は異論を唱えます。ちょうど一年前の2014年12月、長野県東御市に玉村豊男氏を訪ね、会談してみて分ったことですが、先ずは得られる畑の面積が長野では極端に小さいのです。ここ余市では手に入る農地が5~10ha単位なのに、彼の地では0.3~0.5haで1/10~1/20の広さなのです。

更に単位面積当たりの農地の価格が、当余市は200円~300円/㎡なのに対して彼の地は優にその10倍~20倍。要するに同じ額のお金で、長野に比べて余市では10倍~20倍の面積がしかも“必ず”、“まとまって”買えるということです。

一般に標高100mの上昇につき平均気温が1℃下がりますから、余市の10~100mの地の方が長野の800mの地より温暖であること。更に余市は周囲が低い丘ですから日照時間が長野より長いということ。私もかつて3年間(1988-1991)長野の標高750mの地でワインぶどう作りをしましたから、このことはハッキリ分かります。

 余市では厳寒期の1月2月に1m前後の積雪があり、ぶどうの木は雪の下で休むため、雪の余りない長野の高標高地のように「眠り病」(凍結による冬芽の障害)がまったく起こらないこと。雪の下に枝(ツル)を寝かせる栽培方法も、この地では確立されています。

 来たれ余市に、真に自分のワイナリーを開きたい人は。

59 北海道ルネッサンス・プロジェクト①
  明治維新は今から148年前のこと。維新政府の督励もあり、この大地を開拓すべく日本中から多くの人々がやって参りました。一番古くて概ね6代裔(すえ)でしょうか。私などは昭和29年(1954年)のことですから最後発の部類に入ります

  信じられない程の人々のエネルギー投入の結果として、現在の北海道があります。色々なことがありました。しかし今、北海道の経済はやっぱり本州に比べて脆弱だ、と頭を垂れるのは早計ではないでしょうか。例え話にあるように、ビンの半分に減ったワインを見て、「ああ半分しかない」と嘆く人と、「いや、まだ半分残っている」と自らを励ます人。私の場合、「作ればもっともっとある」のタイプです。

  故ないことではありません。北海道の場合、

☆100年以上前に比べ、インフラ(特に交通網)は格段に整備されていること。そして金融も。

☆断腸の念はあっても、施行される以上は、TPPを逆手に取って、農産物の 
高付加価値化で乗り切ろうという動きが確実にあること。

☆本州一円の温暖化により、北海道を日本のスイスとすべき時機到来と目す
るべきで、それが外国資本により既にニセコで進行中であること。

  先般、新得町共働学舎の代表宮嶋夫妻と歓談した折のこと。彼曰く、「現在北海道でチーズ作りをしている人達のうち、かなりの人が私のところで研修しました。よし、2~3年かけてじっくり教えよう、と思っていると、僅か2~3ヵ月でもう学び了えましたとばかりに独立して行ってしまう。失礼ながら、中途半端な知識と経験で初めても、結果余り良いことはない。」

  同様のことが私のワイン作りの分野でも起きています。この8月、私の出たドイツの国立ワイン学校の37期後輩がやって参りました。坂田千枝という32才の女性です。現在彼女はドイツのワイン蔵で活躍していますが、彼女曰く「ネットを通じて色々な日本の若い醸造家と知り合いになり、今回一軒一軒訪ねて歩きました。とても失望しました。何故日本では全くぶどう栽培・ワイン醸造の本格教育を受けていない人達がワインを作ろうとするのでしょう。」

  このOcciGabi Wineryでぶどう栽培とワイン醸造を後進に教えている身として申します。決してウルサ型爺のたわ言と片付けてはいけません。これから、この北海道を日本最高の第一次産業立脚型観光ゾーンにする時、良きチーズと良きワインが欠かせないのは周知の通りですが、問題なのはその質です。ワインの世界ではNapaの隆盛がそのレベルの高さゆえというのは、つとに知られていることです。

チーズ作りをしてらっしゃる方々で、知らない人が多いかもということをひとつ。高級ワイン作りに於いては小さな新樽に入れて熟成させますが、そういったワインは新樽に入れる前に、チーズ同様乳酸発酵をさせるのです。専門用語でMLF(Malo-Lactic Fermentationリンゴ酸・乳酸発酵)といいます。

要はワインの中のリンゴ酸分を乳酸に変えることにより、酸分を減じてワインの口当たりを良くする工程です。ワイン作りには、ですから第一の発酵たるアルコール発酵と、この第二の発酵がからむことになります。単にチーズとワイン両者は発酵食品というだけでなく、ワインも乳酸菌の力を借りているのです。チーズとワインがとても近い関係にあるのが分かりますね。

  かつて140年前、ホーレス・ケプロンが明治政府に献策して、北海道を東洋のデンマークにせよと述べたことは記録に残っています。大通公園の西の端で彼の像を見上げる時、私は「いよいよ、貴方達(クラークも含めて)の考え通りになりそうですね」と心の中で呟きます。時代は早過ぎ、彼の北海道チーズランド計画は成りませんでしたが、その横に彼を深く理解、後援した初代知事(開拓使長官)の像があるのを見て、ちょっぴり宿命みたいなものを感じます。黒田長官と自分が同県人であることは、何か意味があるのかも、と。

60 北海道ルネッサンス・プロジェクト②
 国が平成26年11月に公布・施行した「まち・ひと・しごと創生法」。その法律に基き、全国1700程ある市町村の中から(2市町村以上の連携を条件に)50のモデル地区がこの10月末決定されました。何と、栄えあるこの50の「地方創生先行型の優良施策」として、我が地元の「余市・仁木ワインツーリズム・プロジェクト」が選ばれたのです。両町の役場や関係機関の方々の熱意の賜物と思われます。

 日に日に疲弊して行く地方を何とか蘇えらせようという目的を持った施策。分かり易くいえば、地方で地域に根差した産業を興し、雇用を創出して人口減少を食い止め、自然環境・経済環境ともに魅力ある空間を再創出しようというのです。

 どうせ何をやっても駄目さと悲観する人々も巻き込んで、我が住む町を輝く町にしよう。人間は本来希望を持ち続けながら生きるよう宿命付けられている動物、と考える私の様な人間にとっては持って来いの運動です。しかもテーマがワインの里作りそのものなのですから。

 余市・仁木両町の境界に我がワイナリーを建てて活動している立場ゆえに、自然と両町のプロジェクトの進め方の差異が見え、聴こえて来ます。余市町が現状調査やワインぶどう農家・ワイン醸造者への補助金交付の動きを見せているのに対し、仁木町は先進地視察に力点を置いていて、早速15名~20名でカリフォルニアのナパへの視察を企画していると聞きます。

この2つの町が今後5年から10年相携えて、この地域をワイナリーだらけのゾーンに作り変えようというのですから、見ものです。決して誇張ではなしに、日本全国が固唾を呑んで見守ることになる、大いなる実験が今まさに始まろうとしているのです



61 北海道とアメリカ合衆国

 1966年(昭和41年)東京外語大・英米科に入学した時、担任の先生より“The American History”という大部の本を与えられました。正式には駐日アメリカ大使館より各生徒に貸与されたものですが、これがすこぶる面白い教科書でした。

何といっても、現代の世界を大きく動かしているこの国の歴史は、驚くなかれ200年にも満たず(現時点でも僅か240年)、歴史的事象の因果が我が国の歴史と較べると非常に分かり易いのです。もっとも、かの国の歴史が分かり易いのは、単に時間が短いだけではなく彼らの性格にも依るのですが。

 幕末・維新よりこの方の日本史は、日本人たる私達にとって何よりも興味深いものですが、その歴史をアメリカ合衆国の側から見ながら読み進めると、意外なことがいくつも発見出来ます。有用なことも、又無用に見える小さなことどもも。

 幕末にペリーが蒸汽船で浦賀に来航しと私達は習いますが、では彼らは一体何処からやって来たのでしょう。1853年(嘉永6年)のことです。そうです。アメリカ海軍はまだ西海岸にきちんとした基地を持っていませんから、東海岸のヴァージニア州ノーフォークからフィルモア大統領の親書を携えて出航しました。

大西洋を横断し、ケープタウン、シンガポール、上海、琉球(沖縄)等を経て江戸の入り江に辿り着いたのです。地球を東回りで半周して来たのですから、ご苦労なことです。途中、長崎を経由しなかったのはオランダ海軍を警戒してのことでしょうか。

 どちらにしても、サスケハナ(Susquehanna)号率いるもう一隻の蒸汽船ミシシッピ(Mississippi)号プラス二隻の帆船、計4隻が浦賀に姿を現したことから近代日本史が始まるのですから、アメリカが日本の運命を大きく変えたのは確かです。そしてこの瞬間以降、逆に日本はアメリカにとって、常に気になる東洋の不思議な国となったのです。

 時を置かず明治維新となり、維新政府の急務として北海道開発が大きくクローズアップされます。但し、維新前夜に勝海舟は太平洋経由で西海岸に達していますから、初代知事(開拓使長官)の黒田清隆は同じ経路(太平洋+大陸横断鉄道)を辿って、ホーレス・ケプロンと出会っているハズ。どういう運命の巡り合わせか、清隆はこの博学の士ケプロンに初対面で心酔したようで、北海道開拓使お抱えの外国人としての来日を要請したといわれます。

ケプロンはその後すぐ来日し、4年滞在して清隆の期待に充分すぎる程応え、北海道開拓の多くの領域で大活躍しました。ケプロンなかりせば札幌農学校(北海道大学)もクラークもなく、現在の北海道もなかったものと思われます。

 札幌市大通りの西端に並び立つ清隆とケプロンの像、そしてそこから程近く円山にあるアメリカ合衆国総領事館。昨年春総領事館を訪ねカリフォルニア出身の女性の総領事とお話しした時も、今や世界のワイン地帯のモデルにまでなったNapaのことで話に花が咲きました。

どういう因果でか、Napaこそ余市・仁木ワイナリーゾーンを作り上げる上で最重要な先験地と考える私が、特に農業分野で多くの功績を残したケプロンのことを何時も念頭に置いて話をするのは、きっと彼の気高き理想主義に魅入られてのことでしょう。

62 サンフランシスコと小樽
 最近数十年のうちに世界でも名立たるワイン名産地となったカリフォルニアのナパ。この小さな町を訪れるには、100km程離れたサンフランシスコを経由してというのがスタンダードです。

 では、もし余市、更には南に延びて共和、倶知安、ニセコ、羊蹄山麓にまでワインぶどうが沢山植えられ、後志(しりべし)地区一帯が日本有数のワイナリー集積地になったとしましょう。その時このサンフランシスコの役割はどの町が果たすのでしょうか。フェリー等海路ならば小樽、空路なら千歳・札幌、10年後の新幹線利用ならば倶知安・ニセコも候補でしょうか。

 その成り立ちや発展の仕方に強い興味を抱いて、この40年間に9度も1週間程のナパ滞在を繰り返してきた身で考えますと、サンフランシスコと小樽の類似性に気付かされます。アメリカ合衆国が非常に若い国であることを考えれば当たり前のことでありながら、世界一の偉容を誇る国の西側の大きな玄関口ゆえに、サンフランシスコはそれなりに古い歴史を持つかのように錯覚されがちです。

しかし実際は1849年のいはゆるゴールドラッシュゆえに、港の基礎が固まった、それ以前は人口200人に満たない漁村であったと市史にもあります。プロフットボールチームのサンフランシスコ・フォーティナイナーズの命名そのものが、その事実を物語っています。

 さて、私自身がかつて都合10年程住んだことがある小樽は、維新直前の1865年開基の町です。年齢がほぼ同じなのです。もっともこちらはゴールドならぬ、近隣で採れる黄色いダイヤ(カズノコ)やら黒いダイヤ(石炭)の積み出し港として、はたまた内陸路の整備されていない頃の首都札幌への中継地として大きく栄えたのでしょう。

 北海道経済の中心的役割は、開基100年を祝った1965年(昭和40年)頃迄は札幌に負けず劣らず担っていた小樽。しかしその後、人・物の輸送がJR札幌、千歳空港、苫小牧港のゾーンに移るにつれ、急速に衰退します。近い昔(100年程前のこと)のレトロ建造物と、坂が多くて何処からでも海面が見え、彼方には大洋が望める景観を利しての観光。この感じもサンフランシスコにとてもよく似ています。

 小樽--余市--ニセコと各々異なった趣きの地域を繋ぐ観光ゾーンをイメージするのは、それが専門の経産省や国交省等の高級官僚の方々に任せておけばよいという人もいましょうが、現にこの地に住んでいる人々の中にも少しずつそのように大局的に考える風潮が出て来ているものを実感します。

 それにしても、小樽市のなか程に面白い地名があります。小樽築港(ちっこう)がそれです。以前、大手建設会社の分所がこの地にあって、そこで防波堤等の改修用にケーソンを作っていました。船コンテナ大の巨大な中空の鉄筋コンクリートボックス(この物体をケーソンとよびます)を波打ち際で作り、それを海面に滑り落として曳航し、港内の基礎建設ポイントに来たら、この浮いた箱の栓を抜いて水を中に流し込んで沈めるというやり方で、この水深のある小樽港の海底海中工事をダイナミックに進めていました。

この分所の現場監督が高校の同級生だったことをよいことに、私はこの地上建設基地を何度か訪れているうちに、門前の小僧よろしくこの工法に魅せられてしまったのです。たった一回の人生なのだから、有用なことは何にでも興味を持ったほうがよい、という考えです。

 耳から入って来る語感として、オタルチッコーとサンフランシスコ、ちょっぴり似ていますね。

63 「ローマ人の物語」とワインの里作り
 塩野七生さんが好きで、特に「ローマ人の物語」IV、V、VIのユリウス・カエサルやアウグスツウスの活躍するあたりは大好きです。現在何回目かを読み進めていて、カエサルの或る言葉に感慨を新たにしています。曰く、「人間はすべてを見ようとせず、自分の見たいものだけしか見ない。」言葉を替えて云うならば、理想やヴィジョンを持たすに行動する人々の何と多いことか、となります。

 勿論古代ローマ帝国を作り上げ経営することと、我が余市の将来を展望しつつ日々行動することは、規模の異なることゆえ比較すること自体意味なし、と云われそうです。しかも自分は一切政治に関わっていないのですから。しかしカエサルの行動理念を少しでも学べば、こんなことはしないのになあ、と思わされることしきりです。

 「小我を捨て、大義に就く」とまでは云わずとも、せめて「こんなことばかりしていたら、3年後、5年後にはどうなるのだろう」と思いを巡らせば、現在やるべきことが見えて来ます。

 「余市川のほとりにキラッと光るワイナリーを幾つも作る」のは決して易しいことではないと分かっているのですから、矢張りひとつづつ作って行きましょう。面白いもので、新潟より余市に移り住んで3年半。毎年3~5月に、この地でワイナリーを開きたいという人々がよく私を訪ねて来ます。そのような人達に、今迄は資金とか技術のことを中心に説いて来ましたが、それよりもっと必要なのはカエサル的マインドかな、と考えたりもしています。

64 冬の南ドイツ
 1月下旬に4日間ほどドイツに行って来ました。プファルツ、バーデン、ヴュルテンベルク、フランケンといった南部ワイン地帯のちょうど中心に、自分が40年前、ワインぶどう栽培とワイン醸造を学んだ国立の学校があります。

かつての同級生や全体で1000人程現役で活躍している同窓生もこの地帯には多く、彼等を訪ね歩いたり、新しい醸造機器を見たりするのが目的です。

 ドイツでは一般に自分の頭の中にあることを言葉に換えて、大きな声で喋ります。相手の意見も十二分に尋き出そうとしますから、兎に角会話は尽きません。同行の日本人が二人居ましたが、きっと彼らは私と話し合うドイツの友人達、もしくは初対面の人々をも、何とやかましい連中だろうと思ったことでしょう。

 でも、私自身このドイツ式の会話スタイルが大好きです。分からないことはとことん尋いて来ますから、会話が了ると何やらひとっ走りしたような感覚となります。実際呼吸量も音量も日本語の会話とはケタ違いです。仕様がそうであれば、文字通り腹の底から物を言う感じで、ウソを付いたり、自己を飾ったりしない極くピュアな話し方となり、奥歯にもののはさまった感じではないのです。時々無性にドイツに行きたくなるのは、アオトバーンで車を飛ばせることや、この喋り方恋しさゆえのことなのでしょう。

 或る旧(級)友の話が面白いものでした。どういう訳か、ワインぶどうならず、クルミとヘーゼルナッツの国際的権威になってしまった男ですが、南米のチリにドイツ政府の国際援助でこの2種類のナッツを植えるべくよく出掛けているそうです。現地で現在輸出ワインのスキャンダルが持ち上がっているとのこと。チリ産カベルネ・ソーヴィニョンには大量に食用ぶどうの果汁が混入されていることが特殊な成分分析法で判明したそうな。

考えてみると、本当に面白いそして信憑性の高い話ですね。だってそうでしょう。海の向こうの彼の国(例えば日本)に行ったら、どうせ胡麻化しワインや超安ワインで売られるのだったら、輸出元のチリの業者が真面目にワインを作るのアホらしくなりますから。何やらどこかの国の偽装牛かつ事件みたいですね。
 それにしても、メイド・イン・フランスらしいのですが、その原料ワインぶどうが何なのかを調べる分析機、一度見てみたいものです。


65 「日本ワイン」①混迷の時代の始まり
 昨年10月に施行された新ワイン表示法。泰平の眠りを覚ます何とやら・・・でしょうか、今まさに我国ではワインの新時代が始まろうとしています。勿論維新前夜の幕末期の如く、庶民はと言っては失礼ですが、一般のワインファンの多くはこの事態の到来を殆んど知らず、それどころか肝心要のワイン製造業界内でさえ、自分に都合良く解釈している人の多いのが現状です。

曰く、きっと政府は悪いようにはしないし抜け道も用意して呉れるさ。曰く、こんな厳しい法律なんて業界が一丸となって骨抜きに出来るさ。と同時にこんな声も聞こえて来そうです。「本当にこのまま猶予期間の2年半が過ぎたら、うちの会社はどうなってしますのだろう。」「元々ワイン用ぶどう栽培になんか興味は無いのだから、転業しようかな。」「何でも北海道の余市地区に手頃で広大な耕地があるらしい。会社ごと引っ越そうか。」

 上述はすべて私の想像です。実際は、現在奇妙な程ワイン業界が沈黙しています。口を閉ざして左右をキョロキョロといった案配なのです。そしていわゆるワイン評論家の人々もこの表示法の件には触れようとしません。業界のバッシングを受けたくないから、というのは私の単なる邪推でしょうか。昨年5月から10月迄のあの喧騒とも言える程の議論は一体何処に行ってしまったのでしょう。無気味です。

 とはいえ、国内に十軒前後しかないワイン用ぶどうの苗木業者が悲鳴をあげているのも事実。実際に現場の意見を聞くべく、この一ヶ月間に甲府と山形県長井市に各々2日間行って来ました。構造斜陽業界であった苗木製造の世界。業者の人達は、口を揃えて何年も先までの注文で一杯だと証言しました。丸で枯れ木に急に花が咲いた状態だと。

 そうです。今回の新しい表示法が昨年10月の施行時のまま、しかもEU側の要求するように完全施行されるならば、(実際政府の姿勢ではそんな感じです)日本中でワイン用ぶどう苗木を植える運動が盛んになるのは必然なのです。何故なら、正しいワインは新鮮なワイン用ぶどうからしか作れないし、そのぶどうが現在国内にはほんの僅かしか植えられていないのですから。

 39年前ドイツ留学より帰国した私は、「今浦島」よろしく自分がドイツで学んできた事と我が国の実態とのギャップに悩み、あきれ、諦めかけていましたので、今回の新法施行は丸で夢のようです。正直、今だに現実感が全然湧いてきません。

 面白いことに、最近小さなワイナリーほど本物という現象が起きている感じですが、厳密にはそれもちょっと違うと思います。大きくてかなり怪しいワイナリーのアンチテーゼとして極く小さくて、完全無農薬という謳い文句のワイナリーがあります。ところが、今回の法律完全施行で怪しいワイナリーが今後消えたとします。そうすると極小・無農薬系は今迄とは異なった厳しい眼に晒されることになります。言っていることは本当なのか。農薬・化学肥料・酸化防止剤は一切使用せず、天然酵母のみで作るワイン。

私の試算では物凄く手間と時間のかかる、しかも雑菌が多くて酸化臭の強い超高価なワインとなりそうですが、実際はそうでもない。微妙に相手側の留意点をずらす手法で、変な例えかも知れませんが最近流行の東大大学院終了の経歴と似ています。4年制の東大を出た後その中の更に優秀な人々が東大大学院に進んでいるように偽装している(と言っては身も蓋もないので「錯覚させている」かな)のと同様に、

無農薬・有機肥料のみ使用で、しかも醸造過程では酸化防止剤を用いない、そんな崇高なるワインは当然清潔で酸化も極力防止出来る最新の密閉型のステンレスタンクで作られているのかと思いきやそれが違う。要するに労力も投資もきちんと出来ないからそう言っているだけで、実は不潔なしかもお粗末な容器、機械でワイン作りをしているのが現実、といった具合にです。別の論理を持ち込んで本質をぼかす例の手法です。
 新たな混迷の時代の始まり、と私が申しますのは、今度はそんな選り分けがこれから始まる、という意味なのです。


66 「差し木苗について」
 現在はいざ知らず、今から55年程前の昭和30年代には中学校に「技術・家庭」という科目がありました。今風に言うと日曜大工、模型組立て、園芸、料理、家事一般等々すべてを含んだ学科で「美術」「音楽」と並んで、将来の大学受験には一切関係なさそうで、生徒達にとっては肩から力を抜いて楽しめる学科だったと思います。

 その中で木本(もくほん)植物の増殖には「差し木」「接ぎ木(継ぎ木)」、「取り木」の三方法があると教えられました。他の人よりは十二分に、より異なる物に興味を持つ性癖の私ゆえ大いにのめり込み、父は田舎の営林署勤めで大きな庭付きの官舎住まいでしたから、この三方法を色々と試したのを覚えています。中学生の私の力ではどの方法もどんな植物でも成功しなかったことまで、よく覚えていますが・・・。

 長じて、その世界にどっぷりと浸かった生活をしております。庭の樹木やワインぶどうの苗木作りのことです。上記三方法に加えて育種試験場レベルでは成長点培養や遺伝子組み替え等も行われているのかも知れませんが、ワインぶどう栽培の実務面に於いて行われているのは殆んど「接ぎ木」のみです。理由はいくつかありますが、歴史的な時間の軸に沿って説明を試みます。

 古い古い昔の話、といっても紀元前数千年頃のワインぶどう苗の移動は、実生(みしょう)でおこなわれていたと言います。ぶどうの種子を持って行って播くところから始めたのです。例えばキプロス島でその頃の基準で美味しいワインになるぶどう種子を得て、遠く離れたイタリア半島に播いても、発生学的に決して同じぶどうの木は育ち上がって来ません

。しかしその当時のことで、何となく似た味になれば誰も文句を言いません。世紀は移って紀元後になっても、ナイル下流域のぶどう種子がフランスはローヌ河中流域に播かれ育ってピノ・ノワールになったり、つい千年程前もボルドー下流域の赤ワイン用品種の種子が南下してピレネー山脈を越えたスペインのリオハに播かれてテンプラニーリョになったり、ということが起きたと言われています。

結果、種子で育てる「実生(みしょう)増殖」は同じものが発現しないということで用いられなくなり、中世以降は、三方法のうち一番手軽な「差し木」での増殖が主流となります。(理屈っぽさついでに申しますと「実生増殖」は生殖を仲立ちとしていますので「生殖型増殖」と言えますし、それに反し「差し木」「接ぎ木」「取り木」は「非生殖型増殖」といえます。

要するに「差し木」「接ぎ木」「取り木」は、全く同じ植物体を作り出すクローン増殖そのものなのです。とにかく「差し木」は丸切り同じものが簡単にいくらでも殆んどタダで作れる。メデタシ、メデタシですが、しかしそういう時代はそれ程永く続きません。「差し木」には大きな欠点があったのです。

フィロキセラという悪魔の出現です。ブドウノコブムシとかブドウジラミという異名もあるようですが、とにかく19世紀後半、この体長1cmにも満たない蛾の幼虫が船に乗ってアメリカ合衆国から欧州に渡来し大暴れします。ぶどうの根の芯に入って組織を食い荒らし、或る日ぶどうの木そのものを「突然死」させるのですが、

驚くべきはその繁殖力。昆虫でありながら完全変態も不完全変態もしながら、ひとシーズンに何度も交番し大増殖します。しかも成虫は蛾で飛んで大きく移動しますから手に負えず、まさに瞬時に欧州を席捲する勢いとなったのです。

余談ながら、日本の維新直後1870年代に、明治政府は脱亜入欧よろしくワイン用ぶどう苗を大量に輸入し、各県庁所在地にあった農業試験場で成育試験をしますが、暖かく湿った気候もさることながら、どうもこのフィロキセラ汚染苗が入って来たのが理由の一つで、これらのぶどう苗は全滅したようです。札幌市の中央部に苗穂という地名がありますが、きっとここが育種試験場だったのかも知れません。とにかく、先日入手した北海道庁の資料では明治初頭に札幌でフィロキセラが確認されたとあります。

ワインの本場欧州はこの未増有の危機をどう乗り切ったのでしょうか。この害虫がヴィニフェラというワイン専用のぶどう品種群にしか寄生しないことに気が付き、品種の改良が行われます。この害虫の最初の侵入口と考えられたマルセーユの近郊にモンペリエという町がありますが、そこの研究所でこの害虫の絶対寄生しない系統のぶどうと在来の欧州系ワイン用ぶどうの交配が色々試みられます。

20世紀も初頭になって、その研究所のDr,セーベルの交配したシリーズ(専門的にはフレンチ・ハイブリッドと呼びます)が、味もそれ程まずくないし、害虫フィロキセラにも侵されないということで脚光を浴び、さてデビューという段になって異変が起きます。欧州中のワインぶどう全滅が予想された際の新品種発明ですから、人々はこのセーベル氏を賞讃しましたが、それも束の間の栄光にすぎず、同時進行していたもうひとつの「発明」が成されたのです。
その発明こそ「高能率接ぎ木法」です。地上部分を従来の欧州系ワイン用ぶどう品種、そして地下に入る部分を害虫フィロキセラの嫌う、かなりイヤな臭いを発する非ワイン用ぶどう。この両者をつないで苗にする方法が確立されたのです。しかも効率良く大量に生産する方法が。

Dr.セーベルの発明は捨て去られました。やはり純正品種もののワインと較べると格段にまずい味と気が付いたからです。人間とは勝手なものです。一瞬の英雄だったDr.セーベルの胸中や何如に。しかし人生とは良くしたもので、彼の無念を想ってか、そして例え一時期でも人類のワインに対する夢をつないで呉れた人と崇拝の念を抱いてか、モンペリエの駅前の広場に彼の銅像を建てました。だってそうでしょう。もう人類はまともなワインが飲めなくなると、19世紀末に欧州をあげて大騒ぎしたのも事実なのですから。

又々余談ながら、このセーベル・シリーズには続きがあります。世界中がその味ゆえに捨て去ったDr.セーベルの発明品を日本に持ち込んだ人々がいます。フィロキセラに強いことと併せて、強い耐寒性を有していることに着目し、北海道東部の純粋欧州系ワイン用ぶどうが成育しない地帯に売り込んだのです。S(セーベル)-13053、S-5279、S-10087、S-9110という4つの品種です。ワインは全くいけません。どんなに改良をしても無理というのが私の考えです。我が町余市町や隣りの仁木町にもほんのちょっぴりその名残りがあります。

さて、このDr.セーベルでもお分かりのように、発明者は必ずといってよい程、その発明に際して複数の目的を追求します。Dr.セーベルの場合、耐フィロキセラ性と耐寒性です。ですから同様に「接ぎ木」の世界でも地中に入る台木に色々な特性を持たせるべく研究が進みます。

耐フィロキセラ性に加えて、成長安定性、土壌適応性等々も考えて台木の品種も選ばれますから、もう現代の苗木は過去のそれと大違い。いくら北海道では明治初頭以来約100年以上発生例が無いからといって欧州系ぶどうを「差し木」で増やすのには難があります。

上述しましたように、根に入る害虫ですから、隣の「差し木」の畑が全滅しても、こちらの「接ぎ木」のぶどう畑は殆んど無事です。多少成虫である蛾の大量発生の害はあるかもしれません。しかし、かつて1980年代にカリフォルニアのナパ郡であった例を申しますと、タカをくくって差し木にしていた畑が全滅し、何軒かのワイナリーが倒産したのです。風評被害もあってこのワインゾーンは一時低迷しましたが、倒産したワイナリーは、もしもの危険を無視した、いわゆる公序良俗に反した人々ゆえ、その後まともな経営者に買収されてより良いワインゾーンが出現したことにもなります。

昨年末の表示法改正ゆえに、輸入ワイン・輸入果汁に頼らないワイン作りを目指して、ワイン用ぶどうを植える動きが急に強まり、日本中接ぎ木苗が殆んどありません。私をはじめ何人かの人々が、急いで差し木するなかれと警鐘を鳴らしても、仲々言うことを聞いて貰えないのが、我が町余市町の実情です。理由のひとつはかつて生食用ぶどうを栽培した経験があるからではないでしょうか。

生食用ぶどうは、いわゆる耐フィロキセラ系で差し木でも根に害虫が入りません。そういえばナパでも生食用のぶどうを扱ってワイン作りをしていた時代が1970年代まであり、その流れで差し木の畑を作った人々がいたという歴史があります。聞くところによると、山梨県、長野県はワイン用ぶどうの差し木を行政が禁じているそうです。北海道も是非そのようにして下されば、と考えます。己れの為なのですから。



67 本のこと

 男もすなる日記というものを・・・と気取りながら、作家志望で書き始めることも出来ないまま何十年も経ちました。なんて考えている日本人の中老年は非常に多いと推察されますが、逆にそういった層が自分は書けない分、面白く書かれた他人のものを読もうとするのですから、本当にこの世は面白いと思います。料理もそうです。

私はいい齢の男としては異常なほど料理好きで、毎度一生懸命作るのですが、家人を喜ばす前に自分で先ず食べて、あっ又60点以下、となるからこそ、より美味しいものを求めて外に出て、やっぱりプロにはかなわないなと納得するのです。

 読み方の作法に於いては、量は読むし時間も相応にかけます。読書の対象もかなり広く、本屋での立ち読みも脚が痛くなるまで書棚を巡り読み歩くのです。札幌駅横の紀伊國屋なぞ出来たら健常者でも専用の車椅子持ち込みを許して欲しい程です。勿論、立ち読みの心得はきちんと果たしています。必ず2冊買って帰ること、です。

先日、私共のワイナリーに面白い人が訪ねて来ました。実名を明かして申し訳ないのですが、良い話なので書きます。Shoshanah Kaufman(ショシャーナ・カウフマン)、20代のとても美しい女性でした。札幌でマイクロ・ブルワリーをお父さんと経営しているとかで、かつて私も新潟のワイナリー経営時代に小さなビール工場を持っていたと、

これも東京から来ていた彼女(略称ショーナ)のフィアンセ氏と3人で楽しく語らいました。初対面の女性にはとても恥ずかしくて言えませんでしたが、彼女の名前から私はとっさに「足長が小父さん」のジルーシャ・アボットを連想しました。「お父さんの名前は?」「フレッド。」「FREDですか?」「いや、ちょっと格好付けてPHREDよ。」ここから先は私の胸の中。

フレッド→フレドリカ、これは私の大好きなハインラインの「夏への扉」の女主人公の名。ショーナはポーランド系の(名前はドイツ系の)アメリカ人とのことですが、ジルーシャとフレドリカの二人の女性主人公の名前が交錯して、とても心楽しくなりました。でもこのオジさん意外と少女趣味なんだね、イヤラしい。と思われるのが嫌でこの胸中は二人の若いカップルの前では述べず仕舞いでした。

50年前大学の英米科の授業では或る教授が「ジェーン・エア」と「嵐が丘」を教え、もう一人の教授はアラン・シリトーやアップダイクを教え、第2外国語のフランス語講師はカミュを取りあげてといった具合いで、それらすべてが自分にとっては面白い小説でしたので、無理なく男性主人公と等分に女性主人公の世界にも浸ること出来ました。勿論、「若草物語」も「アンナ・カレーニナ」「第二の性」「女の一生」も翻訳ながら愛読しました。直近では湊かなえの短編集にもちょっぴり酔い痴れました。

「週刊文春」最新号(3/10号)の福岡ハカセのエッセーには本の束(つか)のことが書かれていて、成る程と思いました。紙の本には電子書籍には無い束(つか)というものがあって、これは本の厚みのことだけれど、読んでいて指や手の感覚で今、全体のどの辺に居るのかが分り、この感覚は得難いものという話。常日頃、自分で理由がよく分らないまま電子書籍を敬遠していたのが、やっと納得出来た次第です。

68 パン職人のコンクール
 妻と一緒に札幌の専門学校で開かれたパン職人コンクールに行って来ました。午前10時から夕方6時半まで、美味しそうな香りの中、最終の決勝に残った6人の技術をこの目で見ながら、合い間合い間には色々なパンや料理を頂き、とまことに楽しい一日を過ごすことが出来ました。

 かつて新潟でワイナリーを経営していた時も、かなり大きなパン部門を持っていました。ワインに適った、しかも敷地内でさえ5店舗あるレストラン群の需要を充たすため、ハード系のパンを主体に大量にパンを作っていた時のことをちょっぴり想い出しました。職長を二度もドイツのパン屋さんに研修で連れて行ったりしたものですから、門前の小僧よろしくパン作りについては少々ウルサイつもりで出掛けました。かなり本物のコンクールで、日本中から50名弱の腕に覚えのある職人さんが参加したとのこと。

 コンクールですから、最後の1時間は表彰式で、勝ち残った6人の職人さんには色々な賞が贈られたましたものの、私としては審査委員長で私と似た年令の、きっと国内の製パン業界ではとても有名な人物の後評が一番印象に残る話でした。

 私の大好きな喋り方をする人で、開口一番「予選から(きっと前々日から)付き合わされていて、喰うに耐えないパンも幾つかあったが・・」と、おお仲々言うなといった感じ。「でも少し長くなりますが、今日お集まりの皆さんには是非とも伝えたいエピソードがあります。」この話がとても面白かったので紹介しましょう。

 昭和29年秋、フランスから一人の大学教授(私の聞き取りではガルポ氏。でもきっと間違い)が日本に見えて、まだ国内航空路未発達の頃ゆえ、陸路札幌を皮切りに全国20ヶ所を巡りながら、フランス・パンの製造技術を教え歩いた。この年の二百十日の日に例の台風15号による洞爺丸の事故が発生するのですが、ほんのちょっとした差で教授は遭難を免れたとのこと。

教授は神の加護を強く感じパン技術の「布教」をより熱心に行い、今日の我が国でのフランス・パン作り隆生の基礎が作られた。付けて加えて、日本に最初に「布教」に来た人が天才的なパン職人ではなく、理論から教える教授だったことが、後々の日本のパン作りに幸いした。もしあれが天才職人だったら、単なるショーに終わったかも知れない。と、こんな話でした。

要するにこのコンクールもショーではなく、基礎教育の輪を拡げる、その一助にするのが眼目ということです。ワインの世界に翻案するなら、米国デービス校の教授を招くならばショーにせず、きちんとした施設で、しかもきれいな畑の近くで、有意の人々を教える。後の継続教育例えば米国デービス校への進学も幹錠する位の意気込みで行うべきであろうと、新聞の記事を読みながら思いました。

 パン職人のコンクールは2年毎に開かれ、今回のテーマは北海道産小麦を使用してとのことで、私の敬愛する江別製粉の安孫子社長も感想を述べられました。後援の北海道庁からも農政部の偉い方がいらして祝辞を述べられ、ああここでも北海道地域創成の大きな歯車が廻っているなと感じました。

 この専門学校は小路をはさんで東京ドームホテルの向かいにあり、次回のコンクールはどうやってもっと盛り上げられるだろうか、と頼まれもしないのに私は考えました。ホテルとタイアップして大きなフロアーを借り、プレゼンテーションを行う。超人気の1階のホテルレストランとも連繋して、その日は(3日間位は)パン食べ放題の特別メニューを用意する。専門学校の生徒さん達はこの日に備えてホテルスタッフにトレーニングを受けて、一緒にたち働く。お客さんは、学校とホテルを行ったり来たり。如何でしょうか。

そもそも今回パン職人のコンクールに出掛けたのは、私共もいよいよパン工房兼プチ・レストランを計画しているからです。かつて(といっても僅か3年半前ですが)日本一美しいワイナリーを作るといってスタートした私共のワイナリー。手前味噌でも何でもなく、現実にとてもきれいな空間に仕上がり、その中に実用と修景を兼ねたパン工房を作りたいと考えているのです。以前の新潟でもそうでしたが、結局パン作りは人間で決まる、という思いを新たにした次第です。

 余りにもパンを食べ過ぎた反動でしょうか、帰路とても汁物が欲しくなり、大好きな小樽の「まほろラーメン」に立ち寄ることとなりました。



69 「日本ワイン」②ワイン作り、これからの方向性。

 先日雑誌で読んだことですが、将棋の羽生善治名人曰く、「十何手先を読むとか言いますが、私の場合それはない。最高で三手先くらいか。」この天才にしてこの言葉ありです。

でもよくそこまで言えるなあ、というのが私の感想。余程奥義を極めたからこそ言えるのでしょうか。否な、俺はそんじょそこらのタレントじゃないよ、とも聞こえて非常に心地よい。手品師ではないのだから、最高位の人とはいえ、いや最高位なればこそ、自己の理念と勘を信じて行動するのでしょう。それにしても簡明な言葉の裏に何やら深い思想がありそうで、しばし(私の場合、何日も)考えさせられました。

 話をワイン作りの方に移しますと、私がワインを作る時、そのワインとの対戦は毎度一手先しか見えていないようにも思われます。とにかく毎回同じ品種群のぶどうで作っていて、相手(ワイン)の考えていることが全く分らないことが多いのです。よって、相手の出方を見て対処法を考える、となります。何を馬鹿な、とどうぞお考えください。私は決して羽生名人のように深い思索を巡したような(彼にはその資格があり、そんな世界だと思いますが)眼な指しで答える訳ではありません。本当に、そんな物凄い世界ではないのですから。

 皆様はご存知かどうか分かりませんが、ことワイン作りの世界では、日本酒のように毎度毎度似たように作る、もしくは同じ味に近付けるという努力を一切しないのです。毎秋与えられる原料ぶどうの性質が余りにも異なるものですから、丸切り違ったワインが出来て当然、というところからスタートします。そんなの責任放棄だ、腕の悪い人間の言い逃れだ。どうぞどうぞお好きなようにおっしゃって下さい。

 わたしの持論では、原材料がこれ程毎回異質で、しかも原材料依存度のこれ程高い農産物加工品も珍しい。飲み手はいざ知らず、作り手の側の人々がこのワインというものに魅せられるのは、きっとそんな理由からでしょう。或る文献では、現在地球上には60万軒弱のワイナリーが存在するとのこと。基本的にはワインは作られた近辺で殆んど消費される「地酒流通性」の高いお酒です。ですから飲み手の側も、そのぶどうが穫れた年の気候はよく覚えているし、そのラベルに書いてあるぶどう収穫地のことも土壌から日当たり、水はけまで何でもよく知っている。

作っている人間のクセまで知り尽くしている飲み手もいることでしょう。考えてもみて下さい。そのような状況下で「私が魂を込めて作りました」だの「一粒一粒心を込めて育てたぶどうから作りました」だの言ってみても、底が抜けていて笑われるのが、関の山といったところ。何度でも申し上げますが、この道に名人も天才も存在しません。江戸時代の味噌作りのように、勤勉に誠実に、そして丁寧に作れば、地元の人々は大いに愛でて呉れるのです。そうです、ワインは良き原料ぶどうと、現代に於いては良き設備と、お客様に嘘を言わない真のホスピタリティー(お客様至上主義)があれば、かなりのものとなるハズです。

背伸びをしないこと、自分に正直であること、そして出来れば自分の人生と自分のワイン作りというものを無理なく重ね合わせてみること。そんなことどもに尽きる、まことに居心地の良い、適当に苦難もある楽しい世界、だと私は思っています。真のワイン時代を目指す日本のワイン作り現場のこれからがそうでありますように、と願うばかりです。

 とここまで書いて急に思い当たりました。考えてみれば羽生名人の対戦相手も相当の手練れのハズ。羽生名人が先方の手を読む時は必ずや相手の全人格を択えて推察するのでしょうから、そんな無茶苦茶複雑なことまで考えなくてもよろしいのでしょう。名人と名人の読みあい。

だからせいぜい三手先なのでしょう。第何手目に相手が猫じゃらし(相撲の手)のような手をからめて、と考えたらキリがありませんから。剣豪同士の立ち会いが一瞬で決まる、アレですきっと。こちらの勘が相手の勘を択える。なあんて、私も分かったようなことを言ってますね。



70 「秋保(あきう)ワイナリー」のこと。

 2月下旬、山形の苗木屋さん訪問の際に帰路仙台市のお湯どころにあるAKIU WINERYを訪ねてみました。ビル型の温泉ホテルが十数件林立する峡谷の只中に目標のワイナリーはありました。周囲に1.5ha程のぶどう畑を配し、中央のワイナリー棟はコンパクトでモダンな作りのもの。

オーナーは一体どんな人物だろうと思う間もなく、相手が私を見知っていたらしく現れ、一時間程歓談しました。ここも新しい表示法を意識してのコンセプトで、無理なく合計4.5ha(3haは跳び地)の良い畑を仕掛けたばかりのようです。40代前半で御当主の毛利親房氏が、初対面ながら非常に好感の持てる人だったのも幸いして、とても実りある話し合いとなりました。年間200万人が訪れる温泉峡谷をより高級化する手立てとして、洋食に適うワインを自前で作ってしまおうというのです。

ぶどうの品種選定ひとつをとってみても、かなり訴求力のある高級ワインのラインアップで、これはうまく行くな、と勝手に判断した私です。相手が尋ね、私は答えながらも更に相手に尋ね、と数度のプロセスを繰り返しただけで、相手の正直度、誠実さが伝わってきます。雇用しているスタッフもすべて紹介頂き、この陣容で、この設備規模で、何を作って、いくらで売ってと話し合っていて、私の頭の中を駆け巡る数字と相手の口から出る数字が悉く一致する。

こういう話し合いがとても好きです。相手の口から出る数字に誇張があったり、こちらの尋ねることに対する相手の答え方に迷いがあったりすると、北朝鮮との話し合いみたいで空しくなり、会話を打ち切りたくなるのですが、それが一切無く、とても快く一回目の会談を終えました。近い将来、年産4~5万本を目指すとのことですが、高級ワイン指向で仲々のワイナリーになるものとお見受けしました。きっと今後あちらでも私共のワイナリーを余市にお訪ねになるでしょうが、私も彼のワイナリーを何度も訪ねることになりそうです。

71 人類最初のワイン作り ①遠来のお客様
 地中海の一番奥、というと皆さんはどんな地名を想い浮かべますか。ギリシャ?レスボス島?トロイの遺蹟?イスタンブール?それとも狭い海峡を分け入って黒海に入り、クリミア半島、ウクライナ、セバストポーリ、オデッサとまで辿り着く人は、きっとかつての無声映画「戦艦ポチョムキン」を観た人かも知れません。

 しかし、その先黒海東岸に位置するジョージア(旧名グルジア)という国のことを語る人は決して多くないと思います。それ程我が日本には縁遠い国なのですが、この国こそ正真正銘地中海最深部と呼ぶべき地で、しかも人類の「ワイン作り発祥の地」なのです。

 TVの林先生ほどではありませんが、私自身もこの国のことは多少断片的に知っていました。1960年代の高校の授業では、ソヴィエト連邦共和国(ソ連という変テコリンな略称でも呼ばれていました)というのは、中心のロシア共和国が西や南にある周辺共和国群を面白い方法で統治していると教えました。それぞれの周辺国がロシアから離叛独立しないように、意識的に片寄った経済構造の国にしたというのです。重工業は勿論のこと、重要な部門のすべてをロシアだけに置いた上でです。

 私が1975年アメリカ合衆国に旅した際、ペンシルベニア州ペンシティーにある州立大学のDr.ピーターセン教授にお会いした時のこと。「日本のお若い人、西側の人が誰も見たことがない景色をスライドでお見せしましょう。これらは私がソヴィエト政府の特別の承認を得て、最近グルジア共和国で撮影して来たものです。」20枚程度の静止画像はすべてぶどう畑のもの。そして教授が私に説きたかったのは、いかにその一枚繋がりのワインぶどう畑が広いかということでした。

「君、見ての通り、ひとつの畑が2000ヘクタール以上あって、しかもそれは共同の農業組織『コルホーズ』で経営しているのです。そしてそのような畑がこのグルジア共和国中いたる所にあるのです。」「Dr.ペーターセン教授(とドイツ風に呼ばれるのを好む人でした)、そんなに沢山ワインを作ってどうするんですか」と私。「全ソヴィエト連邦内に配るのさ。」「じゃあグルジア共和国はワインばかり作っているのですか?」「どうもそうらしい。」「そりゃあ大変だ。」

 この40年余、欧州には数限りなく飛びましたが、まだエコノミークラス制度が整備される前は、よくアエロフロート・ソヴィエト航空の細長いジェット機「イリューシン」に乗ったものです。その機内で出て来るのも、いつもグルジアワイン。正直、とても美味しかった記憶があります。

 運命のいたずらと言うべきでしょうか、そのジョージア(グルジア)共和国のワイン作りやワイン流通を支える人々が9名私のところにひょっりやって来たのです。本当にびっくり。訪ね来た人々や通訳の人はニッコリ。目的は日本のワイン市場調査、そしてワイン作りの実態調査とのこと。私共のワイナリーに4時間程滞在して帰り際に、「私達は今から8000年前、人類最初のワイン作りをした人々の子孫です。貴方も是非私共の国にいらして下さい、歓迎致します。」私のことですから、「近々必ず伺います。」と答えた次第です。


72 人類最初のワイン作り ②アンフォーラのこと
 かつて20年以上新潟に暮らした時、大好きなイタリアンレストランがありました。その名も「アンフォーラ」。世界中、大昔の沈没船を引き揚げて財宝を手に入れようという輩が居て、特に地中海には多いそうです。そんな時、船の中には無数の素焼きの甕(かめ)が発見され、多くは空っぽなのですが、その形状がとても面白いのです。

底が尖っていて、床に置くのには適しておらず、我が縄文・弥生土器とは利用法が大いに異なります。時には地面に突き刺して、又或る時は地面に首まで埋めて利用するための形状で、ワイン作りを知っている人ならすぐに辿り着く発想でしょうが、要は地面の冷たい温度を取り込むためのものです。一種の冷蔵保存法で、ですから中に入れる物はワインとは限りません。小麦やハチミツも入れますし、金貨だって冷やした方が良いのかも知れません・
 さて、このアンフォーラという素焼きの先尖り甕、地中海地方を旅すると、超ミニサイズのものは土産物店によく並んでいます。しかし文献を当たると、ワイン用は70~数百リットルらしいのですが、勿論現代ではもう使用されていません。と思っていたら、先月来訪した人類ワイン作りの始祖ジョージアのワイン製造現場ではいまだに使われているのだそうです。彼らが記念にと私にプレゼントとして呉れた220頁の写真集(英文)を開いていて、しばし心地よき思いをしました。こうなったら味はもうどうでもよろしい。タイムトラベルをしましょうという想いで写真集に見入りました。

 更に偶然は続きます。ジョージアの人々来訪3ヶ月後の先月、伊藤忠商事関連の食品会社の人が我がOcciGabi Wineryに訪ねていらっしゃいました。この人はかつてモスクワに駐在していてジョージアワインの現場にも詳しく、「落さん、その写真集をよおく読んで下さい。彼らは貴方に現在もこんな方法でつくっていますと言いましたね。」「ええ。」「それは嘘じゃない。でもそれは国が指定した幾つかの歴史的製造法のワイナリーだけのことで、実際は、99%は近代的な貴方のセラーと同様の設備で作られているのですよ。」

 実は、私もそのように想像していました。だってスマホやPCで情報が飛び交っている現在です。「始祖」が古代人のまま居る訳がないのは当然で、それどころか、かつてシュワルナゼ大統領(ゴルバチョフ氏の盟友で外相だった人物)が策した如く、ジョージアが今や再び真のワイン大国にならんと欲しているのは明白なのですから。



74 品種交配について①

 ヨーロッパの人々にとって、ワインは手近な飲み物であり、しかも目の前のぶどうから作られる以上、もっとこんな味のぶどうにとか、あのぶどうとこのぶどうの味を併せ持ったものをといった具合に、個人の品種交配の動きは古くからあったものと思われます。

 しかし、近世になってこの運動は国家の管理下に置かれるようになりました。理由は明白で、個人個人が勝手に新しい品種を作り出すのはよいが、訳の分からない品種が次々と作り出され、しかも中途でその新品種に欠陥があった時、回収出来なくなる恐れがあるからです。良きワイン地帯の良き評判のワイン群を作り出すには、公けのコントロールが必要だと考えたのです。

 目的はより良いワインを作り出すことにあるのならば、当然のことながら、単に新しい品種の栽培適性を試験することも重要ですが、それ以上に、その新しいぶどうからどのようなワインが作り出されるかの試験はもっと重要です。

 現代の我が国では、ですから、国の管理下にないところで、個人や一私企業が、新品種を作ったりして、結果、取るに足らない出来のワインがあちらでもこちらでも出来ています。しかも味直しと称して、そのようなワインに大量の輸入ワインを混ぜて「国産」を名乗っていたのです。この動きが新法では出来なくなります。

 非常に分かり易く言うと、おいしいまともなワインが作りたければ、先ず本場の純正品種を栽培し、それからワインを作るという原点回帰が必要です。そこから始めましょう。


75 Cavée Cabernet(キュベ・カベルネ)について
 世界史の年表を見ても分かる通り、ヨーロッパ大陸は2千年以上いつもどこかで戦争をしていました。それ故、今から70年前の第二次大戦後直後から、全欧州を一つにという運動がなされて来ました。しかし、そうなったらドイツの赤ワインは生き残れるだろうか、と考えた人々がドイツにいました。

ピノ・ノワールそのものはシュぺート・ブルグンダーという名で栽培されている。しかし、赤ワインのもう一方の旗頭であるカベルネ・ソーヴィニョン、これはドイツの気候では無理です。そこで、国を挙げての研究が始まりました。「ドイツの気候でも育つカベルネ・ソーヴィニョン」がモットーです。

 30年余の新品種交配研究の成果が、1999年発表の一群のいわゆるジャーマン・カベルネ・シリーズです。Dr.シュライプが種子を播き、Dr.ヒルが育て上げた品種とも言え、全部で6品種あります。列記しますと、カベルネ・クービン、カベルネ・ドルサ、カベルネ・ミトス、カベルネ・ドーリオ、アコロン、そしてパラスです。6品種とも本家カベルネ・ソーヴィニョンよりは早熟で、しかも例の独自の渋みを有したぶどうです。ワインを作る時も本家ボルドーに慣らって、少なくとも3品種以上を混合(キュベ)して、新樽熟成させた後ビン詰めします。

 ドイツが国費をかけて作り上げた品種ながら、この余市の気候にもピッタリ適います。先発ウィーン由来のツヴァイゲルトレーベとは全く違った赤ワインの世界がここにあります。開発元のドイツでも最近栽培が拡大しておりますが、きっと我が国でも有力な赤ワイン品種群となることでしょう。面白いのは、その出自ゆえ北海道が栽培中心地となるべく運命付けられている点です。本州での栽培はきっと暑すぎて無理でしょう。

76 品種交配について②
 前述、ジャーマン・カベルネ系品種群の開発(交配)はドイツ政府の機関が行い、私もその動きにはちょっぴり関与させて頂きました。カベルネ・クービンという品種(レンベルガ―×カベルネ・ソーヴィニョン)の名付け親に指名されるという栄誉に浴したのです。1999年11月のことです。私も国営テレビの特別番組で記念講演をしましたが、その際、この6つの品種群の開発過程が政府機関から細かく公表されたのです。

 交配のドイツ側の親は、レンベルガーとトロリンガー(仏名グルナーシュ)で、これらはどちらもドイツではポピュラーな品種。そしてもう一方の親はボルドーのカベルネ・ソーヴィニョンです。両者を受粉交配し、種子を大量に得ます。何千の優良な種子を一粒ずつ発芽させ成長させぶどうを数房成らせますが、この時、自家受粉させます。

メンデルの遺伝の法則に従い、新しい形質を固定するためです。ここまでの行程が3年。この時点で新しい種子が手に入り、又同じことを3年行いますが、その間成長が順調な木(それぞれ、たった一本)を幾つかに刻んで適切な台木に接ぎ木します。成長が不順なものはこの時点で脱落します。

試験番号を与えて、(例えばA-2345とか)、各試験品種3本の接ぎ木苗を確保し、翌年、本栽培第一段階に持ち込みます。ここまでトータルで7年が経ちました。この後試験圃場でそれぞれの試験番号品種3本ずつを育てるのです。3本というのは3年後に10kgのぶどうを得るための苗木本数です。当初掛け合わせた総数から、ここまで200試験品種に絞り込みます。レンベルガー×カベルネ・ソーヴィニョンとトロリンガー×カベルネ・ソーヴィニョンそれぞれ200試験品種ですから合計400品種1200本です。

 さて、このあたりからワイン作りの本筋たる醸造がからんで来るのですが、3~5年の幼木に成った毎年10kgのぶどうから作ったワインの色・味・香りをよく見て、この各200品種を20品種程度に絞り込みます。残りは廃棄。これで合計15年経過。選別された20品種を接ぎ木で増殖して各70本の苗とし、更に大きな試験圃場に植え育て、成らせます。各200~300kgのぶどうを収穫するためです。ここまで又5年。毎年気候の違う中で収穫し、ワイン作りを繰り返します。ここで更に5年。スタートから25年が経過しました。

 最終的には1組の両親の子を2~3品種だけ選び残します。この後大面積栽培試験(約2ha)と大容量醸造試験、そしてワインの長期熟成試験が待っています。この行程に最低7~8年で以上合計32~33年。大面積栽培試験は信頼出来る一般農家の畑で行われますが、すべての試験が完了するまで、これら新品種は一切公開されません。これだけ厳しいプロセスを経ても最終段階で諸々の理由から廃棄の可能性もあるそうです。

 ひとつの新しい品種開発に約10億円もかかるとはこういうことなのです。食べるブドウと異なり、ワイン用ぶどうの場合、下手に未完成品が世間に流布すると、とんでもないことが起き、しかも回収が出来ない。植えた人は簡単に抜かない。といった具合で、収拾が付かなくなり、その一帯が安っぽいワインの巣窟になるからです。
 お分かりですが、単なる功名心で山ぶどうと何かを交配したり、はたまた醸造の段階で輸入ワインを大量に混入させたりなんてことは絶対に許されないのです。

 蛇足ながら、私自身がこの栄誉ある6品種のひとつの名付け親となったのは、この国立教育・試験機関の数多い同窓生のうち、地球上で一番遠い処でワイン作りをしているから、という理由によるものです。それ程この新品種を世界に拡めたいのでしょう。粋な計らいと感じています。

77 Dornfelder(ドルンフェルダー)という品種
 ドイツ・シュツットガルト市北郊のワインズベルクに在る国立ワイン学校の前身は、18世紀中頃に作られたヴュルテンベルク公国の王立ワイン学校です。時の王様に強く進言してワイン学校を創設させた功労者が王の侍臣であったドルンフェルダーという人だったことに起因し、この学校はこの人物を創設者として崇めています。

 この学校は、創設来、常に教育部門と研究所部門を併せ持っていますが、研究所には多くの交配者が名を残しました。中でも20世紀前半に活躍した上席研究員のヘロルド氏の功績は大きく、彼の残したより赤く、より重い赤ワインの代表品種がこれです。1955年作出のこの品種には、ポルトゥギーザ―、レンベルガー、フリュー・ブルグンダー、トロリンガー(グルナーシュ)以上4種の血が等分(1/4ずつ)に入っています。

 1977年にトルンフェルダーは私自身の手により日本に持ち込まれ、北海道中央農業試験場の余市分場での試験栽培を経て、余市の農家何軒かに手渡されたものの、現在では私の知るところ2~3軒の農家の畑に細々と(1ha未満)栽培されているのみです。

栽培面積が極端に減少した理由は、きっとこのぶどうの木の育て方の難しさでしょう。木が巨大化し易い性格で畑管理の仕事量が多くなるのです。ぶどうは大房で、赤黒い色素量も申し分なく、長期熟成型の赤ワイン作りに向いています。

 この品種も前出ジャーマン・カベルネ・シリーズ同様に、この余市では増殖奨励品種とすべきと私は考えています。
 しかし、この品種は別のエピソードで多くの人にその名を知られることとなりました。前述「品種交配について②」で書き忘れましたが、1976年当時の西ドイツには厳しい法律があり(現在もあると思います)、ある人が研究開発段階のこのドルンフェルダーの木を国が一般農家・醸造家に認定開放する前に、こっそり勝手に先行して栽培したのだそうです。この抜け駆け行為は摘発起訴され、確か懲役2年の判決が下りたのを新聞が大きく報じました。

 ちょっと恐ろしいような、杓子定規のような感じで、日本人なら納得の行かない話かも知れませんが、ドイツって割合そんな国で、私自身はドイツのそんなところが大好きです。

78 愉快なフランス人の来訪①
5月末の或る日、日本の代理店の人に伴われて、一人のフランス人青年が来訪しました。私共への新樽売り込みのためです。この青年が都合3時間程居て、自社製の樽を私共に強く勧めるとともに、とても面白い話を幾つかしていったのです。

  フランスの樽塾成用新樽(業界ではバリークと称びます)メーカー大手「タランソー社」のアジア・太平洋(オーストラリア・ニュージーランド)支社代表と名乗り、学歴もボルドー大学の醸造科卒だそうです。「へえ~、ボルドー大学を出て、何で樽売って歩いているの」と私。「良い働き口が無くて。でも樽屋も結構楽しい仕事です。」

「うちには可愛い娘がいて、現在ドイツでワインの勉強している最中だけど、婿にならないか」と私の得意な奇襲戦法。しかし、この青年もさる者で、「でもフランスにもスペインにもドイツにも彼女がいっぱい居て、先ずは一人ずつ断ってからでなくちゃあ」とドン・ジョヴァンニも顔負けのユーモラスな返答。本当に面白い青年で、私は大いに気に入りました。(きっと、ドイツの娘は怒るでしょうね。)

  220~230リットルの樫で出来た新しい樽に作りたてのワインを入れて塾成させる手法は、近年高級ワイン作りの現場ではよく用いられます。ワインは樽の中に半年、一年、二年と入っているうちに、己れが持つアルコールの抽出力の助けも借りて、樫の渋みや香りを吸い込みます。そしてその成分はビン詰めされた後の「ビン内塾成」で順化し、よりマチュアなワインとなって行くのです。

この行程は文章では表現し難いもので、しかも定型というか、必ずこうしなければという法則はありません。恐らくこれはワイン作り一般に言えることですが、およそ完全なる定型というものは存在しない、と私は考えています。敢えて申せば、「とにかく清潔に作る」べきですが、それ以外の諸方法は各人各様の作り方となる、そんな世界です。

  原料である新鮮なワイン用ぶどうの品質に大きく依存するお酒作りゆえ、作っている側と味わう側(お客様)との意思疎通が不可能とも言える程難しい、と私は思っています。作り手側が自画自賛を慎まなければならないのは当然のことながら、飲み手側(お客様)も、決して作る側を過度に美化しないことが肝要、と私は考えています。

ですから間に入る酒屋さんやソムリエの方々が、中途半端な情報や作られたストーリーに乗って踊らされている姿を見るにつけ、哀しさを通り越して滑稽とさえ感じられます。要するに、ワインは嗜好品なのですから、皆が皆もっと主体性を持つべきです。

79 愉快なフランス人の来訪②
  きっと世界中の色々なワイナリーを訪ね歩いていることでしょうから、この訪ね来たフランス人の樽屋さんも私と似たような「ワイン作り哲学」を持っているものと思われます。

他の誰とも異なる原料の新鮮なぶどうを、他の誰とも異なるワインに作り上げる。ワイン作りはこの一言に尽きます。

  とても面白いのは、地球上に何十万軒ワイナリーがあろうが、その最初のセクションである「ぶどう受け入れ機構」のシステムでさえすべてのワイナリーで違うのです。醸造を担当する当主(若しくは雇われた醸造責任者)の主義主張が微妙にそれぞれ違うこともありましょうし、彼等が建物の設計にも大いに口を挟むことに由来するのでしょう。収穫・搬入されたワインぶどうを選果したり、ヘタを取り除いて粒を潰したり、その潰したものを搾(しぼ)ったりする時、それぞれの機械の選定や配置、

そして仕事の手順まで、大げさではなく、一軒一軒全く違います。そして次の行程のステンレスタンク群の形状も違えば、小さな熟成用新樽の配置も異なりますから、ワイナリーを訪ねる人々は、そのワイナリーの大小に関係なく、当主の案内でワイナリー内を細かく見学したがるものです。

  色々な疑問を持ち、鋭い質問を発する被案内者(つまりお客様)を、醸造所を取り囲む庭園、更にその外側の大きなぶどう畑、そして醸造空間(セラー)の順にご案内して、最後に試飲カウンターまで導くことこそ、ワイナリーの経営者にとっては最高の歓びです。ですから、極く自然に自己のワイン作りを誇張なくお話することとなり、尋かれたことは隠し事せず何でも喋ってしまうのです。
 
  さて、そんな塩梅で、かのフランス人をビン熟成庫まで案内して来た時のことです。私共のビン熟成庫には2013年もの2種類、2014年もの4種類、2015年もの9種類が500本収容の金カゴで保存されているのですが、ラベルはそれぞれ当座の分(各200本程度)しか貼ってありません。

フランスの人がそれを見咎めて、「どうして全部ラベルを貼らないのですか。」「余り早く貼っておくとラベルが汚れたり、破れたりするからです」と私。そこで、こちらの予想通りの彼の意見。「何と勿体無い。痛んだラベル程美味しいワインと感じられるのに。」わざとホコリ晒しにして、ワインの古さを前面に出す彼の国と、いつもきれいなラベルをよしとする我が国の違いでしょうか。でも本当にワイン作りをする人が日本でも多くなった暁には、ちょっと古いビンこそ珍重される日が来るのでしょうか。

80 庭作りの楽しみ、バラの季節到来
  半世紀以上前に高校で知り合った、しかも同じサッカー部の友人の手ほどきを受けて、すっかり庭いじりオジさんと化しました。友人の名前は近君といって、JR千歳駅から真っ直ぐ支笏湖方面に向かって3km程進んだ処に、世にも素晴らしい庭園(カフェ・レストラン付き)を経営しています。MEON(ミオン)という名で、一度行ってみる価値はあります。

  Controlled Chaos(コントロールド・ケイオス=よく手入れされた混沌)を体現した希有なるガーデナーであると、友人ながら一目も二目も置かざるを得ず、よく訪ねてはその居心地の良さに時を忘れ、逆に彼が私を訪ね来ては、庭園学を私に伝授、そんなことを永く繰り返して来ました。

もっとも純粋なる求道者の彼ほど私の方は気高くなく、多分に世俗的です。要するに主業であるワイン作り、そのベースたるワイン醸造・レストラン棟を美しく飾りたいのです。

  Bitch’s brew(ビッチェズ・ブリュー=あばずれ女の妙薬、いや魔酒とでも訳しましょうか)。我が敬愛するジャズの巨人Miles Davisの名曲です。1980年頃、札幌の厚生年金ホールでライブを聴きました。その音は現在でも私の脳に丁寧に保存されていて、時折取り出しては聴いています。云わゆる電子音楽とジャズの融合(フュージョン)曲で、彼の、そして全ジャズ界の不朽の名作と私は信じています。

  何を言いたいのかと申しますと、そうです、魔性の液体たるワイン作りをしていますので、ちょっぴり秘密めかして、その館は花で飾りたいのです。ヒントを与えてくれたのはカリフォルニアのナパです。どのワイナリーも庭が、花が、芝生がとても素晴らしい。現在私は5名の内弟子を抱えていますが、彼等にこの理念は伝わるでしょうか。

庭作り、ぶどう畑の管理、ワイン作り、お客様との会話、猫達との対話、これらがすべて融合して一直線上にあります。もしそうでなければ、そんなワイン作りは詰まらない。正直そんな気持ちです。

  先日、私が庭で、ひざまづいてバラの世話をしていると、家人(Gabi)が寄って来て、曰く「長生きしてね。こんな棘だらけの植物の世話簡単じゃないもの。」きっと一種の愛情表現なのでしょう。限りなくシェイクスピア的ではありますが。

  とまれ我がガーデンは今が見頃。おみやげ用のサクランボも20本赤い実をつけて待っていますので、是非お出掛け下さい。

81 ウィンブルドンとガーデン巡り
  どうしてイギリス発祥のスポーツは芝生の上で行うものが多いのでしょう。答え①イギリス人は芝生が大好きだから。答え②芝生の上だと炭酸同化作用で発生する大量の酸素の中でプレー出来るから。答え③元来貴族の趣味から発しているから。答え④きっとイギリスは何処も芝生だらけだから。・・・と興味は尽きません。思いつくままに私が勝手に並べただけですから、正解は保証出来ませんが…。

  それにしても多いですね。ゴルフ、サッカー、ラグビー、クリケット(野球の前身)、ポロ、テニス・・・。すべて芝生の上で球体を転がすものばかり。よく考えれば、ゴルフ場の代名詞になってしまったカントリークラブだって、その名からして上述のスポーツすべてを丸抱えの施設がルーツではないのでしょうか。

  つまらない例えですが、皆さんはウィンブルドンとガーデン巡りがビールと枝豆の関係にあることをご存知ですか。どちらがビールでどちらがつまみの枝豆かは別として、ウィンブルドン・テニスとイングランド南部、例えばコッツウォルズやロンドン南東部諸州のバラの時季が一緒で、両者を組み合わせてわざわざイギリスを訪ねる人々が多いのです。私自身最初は前述の庭作りの師匠たる親友に連れられて、オクスフォード近郊のコッツウォルズ丘陵地帯の星の数程あるガーデンを訪れ、そのうち病み付きになって他の人々を連れてこの地を巡り歩くうちにこのことに気付いたのです。

  B&B(ベッド アンド ブレックファスト)。単に朝食付きの宿と思うことなかれ。きっと100年200年、いえもっと経った田舎家の構造をいぢらずに小ぎれいに手入れした宿屋。ドアもきちんと閉まらなかったり、床は平気で少し傾いたりしています。ベッドの装寝具や室内の小物は亭主の品位を表すものとばかりに手は行き届いていますし、家を取り囲む小庭も主人の心意気の見せどころ。何よりも朝食は亭主夫妻が目の前で手作りといったところが多いようです。

  同じ宿で、そして訪ねる庭園で我が同邦人と出会うことは多く、会話を重ねると、意外にテニスとガーデニングの掛け持ち組が結構いるではありませんか。しかも老若共、圧倒的に女性が多いのです。思うに、きっとテニススクールのお姉様・オバ様達のグループ旅行なのでしょう。テニス見物がメインで庭巡りは付録の構図。というのも広大なうねる丘陵地帯の随所にある庭を歩き廻って、自然を満喫するのがメインで、そのついでにウィンブルドンの人工的な客席という逆の構図はどうしても在り得ないからです。

  イギリスは他の大陸側欧州諸国に較べ、季節がずれていることもあってバラの時季に観光客を集め易いのでしょう。かつて新潟に居ました時は、5月下旬~6月下旬がバラの旬で、庭仕事も一段落して英国庭巡りに出掛けましたが、今やイギリスと丁度季節の重なり、7月8月迄庭のバラの世話で追われる北海道余市にあっては、ウィンブルドンの時季にイギリスを訪れるのは不可能となりました。自分の庭が花盛りで、長期に外出するヒマが無いからです。もっとも、EU離脱混乱期の英国視察と秋の庭巡りという組み合わせも魅力的な企画でしょうが・・・。

82 ドゥルリー・レーン氏の異能
確か古き良きミステリー界の巨匠エラリー・クィーンの初期作品には、ドゥルリー・レーンという探偵が登場します。数々の場面で自分が観察したこと、相手の言ったこと、人々の表情・反応を克明に記憶してその情報を整理し、自己の推論を組み立てて行きます。この仮説的推理を傍証で固めて、最後に誰が犯人かの結論を出す主人公探偵の行動を、逐一主人公に感情移入しながら読み進む行為こそ至福、そんな世界です。

  作者エラリー・クィーンは、しかし、このレーン氏に特別な才能を与えました。遠く(といっても数mから10m程離れた処)に居る人の会話を読み取る力、読唇術です。かつてシェイクスピア劇等の舞台俳優をしていた人物ながら、事故で聴力を失った為、読唇術をマスターして探偵に転じたという出来過ぎたしかもとても面白い設定です。

離れたところに居るレーン氏には聴こえるはずがないと喋っている2人のひそひそ話が、こちらには丸聴こえというのですから痛快です。愛読していた高校生の頃の私は、真剣に読唇術訓練の真似事をしたくらいです。それじゃなくとも受験期で時間が無いのにです。いえ、それ故に変テコリンな訓練が続けられなくて幸いだったと言うべきでしょうか。

  この読唇術能力に加えて、いえ当然の結果として、もう一つの特殊な能力が彼には与えられています。どの様なシチュエーションでも瞬間的に沈思黙考のモードに没入出来るのです。そうです、彼の場合、単に眼を閉じればよいのです。会話の最中、又は雑踏・騒音の中、急に耳を塞ぐ行為は常人の場合はとても難しいものです。口と眼は閉じても、耳まで覆い塞ぐと、会話や会議の席では相手に失礼でもありますし・・・。

  レーン探偵の第一の才能である読唇術は叶わずとも、第二の才能たる「瞬時に沈思黙考の世界へ」の能力を得ることに、最近私もやっと辿りつきました。かつて40代50代に新潟で創始した「カーブ・ドッチ・ワイナリー」。物凄く広い庭を作り、大部分を芝生で覆ったせいで毎週6~8時間は大型芝刈り機に乗っていましたが、騒音を放置していたせいか、聴力が著しく低下し、老化も加わって、現在ではデンマーク製の高価な補聴器の世話になっています。

  ピーナッツ程の大きさの内臓型補聴器を、左右2ヶこっそり外して眼を閉じると、会議中であれ、数人での談笑中であれ、しばし静寂の中に身を置くことができます。レーン探偵ならずとも、あっ、この情報は今のうちにまとめておかなければ、と思うことも意外と多いものです。その都度まとめて、きちんと頭の中の抽き出しに入れる。この行為に聴力は邪魔なものなのかも知れません。
  きっと私と同じ行動を楽しんでいる人は日本中に何百万人も居て、頭の中を整理しながら人生を楽しんでらっしゃることでしょう。現在は北海道の余市に移って又々きれいな庭の芝刈りに精を出していますが、今や機械を動かす時はそうです、補聴器を外して最後の極く小さな自前の聴力を保護するようにしています。



83 訪ね来る首都圏の人々

  今日は2016年7月6日。丁度10日続けて東京からの来客がありました。私自身の案内で庭を、畑を、そして地下の合理的に配置されたワインセラーを見学なさりたい方々はお食事のご予約の際に案内希望とお伝えになります。ご予約のケータイ番号では何処からいらっしゃるのか分かりませんから、ご案内での私の第一声は「どちらからいらっしゃいましたか」です。

  別に誇張でもなんでもなく、首都圏のお客様が非常に多く、失礼ながらどこかの市長室よりは多彩な来客層となっています。しかもほとんどが人伝てで、言わゆる「くちコミ」ということになります。それも2人5人3人で10人といった具合の案内で、しかもそれが日に2度あったりすると、合計で1年間に2000人以上の見学希望の人々を案内していることになります。

  レストラン自体の来客数は年間約1万名様ですが、その中で一番多いのは札幌市の人々です。食事をなさった後にどうしても案内をとおっしゃる方々の中に、札幌の方々に次いで東京・神奈川等首都圏のお客様が多いという不思議な現象が起きています。

  私はご案内中説明もしますが、お客様にこちらから質問もします。「どうして、ここをお知りになりましたか」とか、「他のワイナリーと比べてどう思われますか」と。第一の私の質問には、「友達に聞いたから」がとても多く、第二の質問へは「これほどきちんと説明して呉れるところは初めて」というご意見をよくいただきます。

  かつて22年間経営した新潟市のカーブドッチ・ワイナリーでは22年の間に合計10万人以上のお客様をご案内し、その殆どの方々と対話しました。究極の「くちコミ」を目指したのです。相手の眼を見て話します。相手はこちらの眼を見ながら質問します。当方は自分の作るワインのことはすべて正直に話しますから、相手も納得します。この繰り返しです。「よくわかりません」はイケませんし、「私は責任者じゃないので・・・」はもっとイケません。説明・ご案内は責任者本人がすべきです。東京には、元検察官の弁護士に説明させて、逆に不信感を募らせた御人も居ることですし・・・。

  ともあれ、御案内中、余市町に於けるワイン作り・ワイナリー作りの可能性についてきちんと正確に伝えようと常々考えています。私達でさえこの程度の国内屈指の素晴らしいワイナリーが作れるのですから、貴方でしたらご自分にとってもっと意味のあるワイナリーが作れるかも知れませんよ。いつもこれが私の案内の結びの言葉です。



84 Columbian Exchange

  日刊の新聞を読まずとも、週刊新潮や週刊文春は時々読みます。両誌とも良質の連載小説を幾つか載せてはいますが、それに嵌ると毎週買わされることとなりますから、要注意とばかりにそれは読まないようにします。結果、エッセーや書評欄に眼が行くこととなります。
  
2ヶ月程前、文春のリレー書評「私の読書日記」に鹿島茂氏が「1493」のことを取り上げていました。原稿用紙4枚程の彼の書評に強く感じ入り、我が家の書籍購入担当大臣(我が妻)に相談したところ、即却下。怪しげな題の上、3600円もする大部の本はきっと読み切らないだろう、どうせ同居する6匹の猫の爪磨きにされるだろう、というのが彼女の見立て。

  さて我が妻Gabi(本名は雅美[まさみ])は4年前まで米国系の大手企業に20年勤めていたせいで、この余市町のワイナリー付き・大庭園付き我が家には、かつての同性の同僚達がよく泊まり掛けで遊びに来るのですが、この時も2泊していた仲良しが我が夫婦のやり取りを見ていました。そして彼女の帰京後、時を経ずして、礼状に添えてこの「1493」が贈られて来たのです。

  想像していた通り800頁にも及ぶ大著で、内容もすこぶる面白い。というよりは、意外なことの連続です。そもそも我が国では1492年コロンブスのアメリカ(カリブ海の島々)発見から、アメリカ独立戦争までの280年間の北アメリカ史の教育・研究が空虚で、きっと国内では最も専門的にアメリカ史を教える所と思われる東京外国語大学英米科(私自身そこに在籍しました)でさえ、この部分は殆ど空白です。それは合衆国内でも同様らしく、我が国の「白村江の戦い」よろしく、現代の国家にとっては多少不都合なこともあるのでしょう。兎に角模糊としていました。

  合衆国の始祖達が何をし、原住民達がどうして失せたのかを克明になぞる行為など現代アメリカ人にとって愉快な仕事であるハズはありません。そして大きな謎が残されたままだったことも事実です。あの豊穣の地に当初(即ち15、16世紀)原住民はそれ程多く住んでいなかったのか。そして残虐なスペイン系のコンキスタドール(征服者)達は、どうして征服・開発の貴重な労働力となるべき原住民を皆殺しにした(と学校では習います)のか。コロンブスの発見から騎兵隊がインディアンと戦う時期の間に大きな空白と数々の疑問があったのです。

Columbian Exchange、「コロンブス交換」と和訳します。要は欧州人が1493年以降新大陸に持ち込んだ微生物(伝染性病原菌)やら極小動物群にその答を求めようとするのが本書の試みです。読んでいて刺激的ながら、にわかには信じられない論調ゆえ、ゆっくりゆっくり読み進めていて、800頁のうち、やっと200頁まで辿り着きました。それじゃなくとも、この春はぶどうの新苗植え付け作業が山程あって夜更かしはいけないのに、とても罪作りな本です。勿論、本心は「智子さん(贈り主)本当にありがとう」です。おかげ様で、この小さな頭のモヤモヤが取り除けそうです。

85 国産ワインの原料は8割が外国産
  かつて「週刊新潮」2008年10月3日号に載った、ノンフィクション・ライター河合香織氏のレポートが手許にあります。氏は2005年の国税庁公表のデータをベースに論評を進めていますが、何と「国産ワイン」の名の下に売られているワインの80%弱がアルゼンチンやブルガリアから輸入されたワインそのものか、又は同国から濃縮果汁で輸入された液体を日本国内において水で希釈して発酵させたワインである、と。

  読んだ私は、その当時全く驚きませんでした。ワイン製造の現場ではすべての人が知っている「常識」だったからです。それ故丁度その頃、新潟でカーブドッチというワイナリーを建ち上げていたのですから。国内では画期的なことながら、「すべて生の国内産ヴィニフェラで作る、日本唯一のワイナリー」を標榜していたのです。

Vitis viniferaといって、ワインを作るためだけに存在するヨーロッパ原産のぶどうのグループのことで、これには、甲州ぶどうも、マスカット・ベイリーAも、セイベル系フレンチ・ハイブリットもヤマ・ソーヴィニョンもアルモ・ノワールも入りません。作ってみれば分かります。きちんとした味のワインを作るには純粋ヴィニフェラもしくはヴィニフェラ×ヴィニフェラの交配品種しか使えないからです。

  飲んでみれば分かります。昨年末までの「甲州ぶどうからのワイン」にはシャルドネを混入出来ましたので、まだ飲めましたが、もし今後「新ワイン法」ゆえ甲州ブドウ100%で作ったら、どうなることでしょう。要するに作り手の側に心の葛藤があったのでしょう。純粋に甲州ぶどうだけで作ると味がとても薄いから、何とか濃くしたい。シャルドネを大量に混ぜれば、味は濃くなるし、コストも(輸入品で信じられない程安いから)低く抑えられる。よくテレビの映像で甲州ぶどうをイジメにイジメて濃い味わいにしているという女性が出てきますが、私の当然の疑問として、「どうして、じゃあ、シャルドネそのものを栽培しないのだろう」、となります。

  要するに残りの20%が国内産ぶどうから作られているとはいえ、食べるぶどう等ワイン作りに適していないぶどうから作られているのが現状です。結果ワイン専用のヴィニエラからのワインは1%弱という計算になります。ぶどうを作る気もない人々がワインを作りたがる、このおかしな風潮は、しかし、日本の伝統的なお酒である日本酒作りにルーツがあります。国内の日本酒メーカーで、米作りに精を出しているのは僅か数社というのが実態なのですから。
39年前にドイツでワイン作り教育を受けて帰国し、ずっと「先ずはきちんとヴィニフェラを栽培しましょう」と主張し続けてきた私です。先日、有意の青年が私を訪ねて来た席で、丁度私もヒマでしたから、これらの話を彼にしますと、彼曰く、「よく、国内のこの業界がイヤになりませんでしたねえ。」
  国(国税庁)も新法を施行したからには、大変な責務を負うこととなったようです。決して抜け駆け(要するに新手のインチキ製法)を許さないための監査が必要で、皮肉なことに、その監査・監督の方法もフランスやドイツから学ぶこととなりそうです。非常に少ないとはいえ、インチキの手法に於いても彼の地が先進国だからです。痛快至極と言うべきでしょうか。


86 「1493」読書経過
  副題Columbian Exchange、コロンブス交換。1492年のコロンブスによるアメリカ発見から、18世紀後半の近代アメリカ成立(独立)までの歴史的空白を埋めるべく、更には、船による通商を通じて一体化した地球が、環境学的に大きく変革する様を述べた本書を、ゆっくりゆっくり読んでいましたら、又々面白い記述に出くわしました。

  1693年から1700年にかけての「スコットランド小氷期」のことです。主作物の大麦が大凶作で、人々はスコットランド領パナマ(ニュー・エジンバラ)の開設を目論み、国の全資本の1/4から1/2を投じたのだそうです。

  3000人近い移民と大きな資本投入もマラリアゆえに殆ど全滅・消失しましたが、その事態を受け、イングランドが消失資本の埋め合わせを条件にスコットランドをようやく合併したのだそうです。「パナマの熱病に助けられて、グレート・ブリテン王国が誕生した」のは1707年のことです。

  17世紀末から19世紀にかけては、徳川政権下の我が国でも天変地異による大飢饉が頻発しますが、その結果起きた政変の規模が英国と日本ではこうも違うものか、と感慨を新たにしました。国際(というより世界)国家と鎖国々家の違いでしょうか。

上述イングランドの下りを読んで私も連想しました。後世の史家は今日の世界情勢をどう記述するでしょうか。きっと、こうです。欧州統一に辣腕をふるった女帝メルケルに、不快感を抱いたイングランドが(自分の国だって女王様の国なのに)EUを離脱し、その煽りで経済が低迷したイングランドを300年前に併合されたスコットランドが見限ろうとした。救いの奇手として、イングランドは、かつてのサッチャー女史顔負けのとてもきかないメイ女史を首相に選んだ。

時同じくして、アメリカ合衆国も初の女性大統領ヒラリー・クリントン氏を選び、何時の間にか、サミットG7は実質たった一人の男性(安倍首相)とヒラリー、メルケル、メイの3女傑の話合いの場となった。(フランスのオランドさん、カナダのトルドーさん、そしてイタリアの首相さんごめんなさい勘定に入れなくて)。
  そうです。主要国指導者の女性化が顕著になった年として、2016年は記憶されそうです。それにしても、我が国にはまだ女性首相は現れそうになくて残念です。

87 ワイン維新
  今から150年前に我が国の社会制度が180度変わりました。明治維新です。日本人なら誰でもよく知っている事件とはいえ、よく考えると、その変革が余りにも完璧過ぎて、現代に住む私達には全く実感が湧いて来ないのも事実です。

70年前の昭和の大戦争の前と後もそうですが、近世以降に於いては様変わりの仕方がきちんとした折り目のように起きています。もし自分が明治維新を経験したとしたら、きっとそれを題材に文章を延々と書き綴ったことでしょう。

その時、私が一般町民だったとして、急に自分が苗字を名乗るようになったり、刀を差した偉そうな人々がこの世から居なくなったり、誰もが髪型を簡素なものにしたり、近くの大きな町に行けば青い眼で金髪の人に出逢うし、つい先頃までは一度も見たことがなかった洋服や靴を見てとてもビックリしたことでしょう。

東京、川崎、横浜や小樽、札幌、岩見沢の辺りに住んでいた人々は、いち早く蒸気機関車を見たり、乗せて貰ったりしたことでしょう。レイ・ブラッドベリ描くSF小説では、火を吐き汽笛を鳴らして走るこのロコモティブを遠くから見た原住民が、それを龍だと錯覚する下りがありますが、とにかく、当時の日本の人々も目の廻るような10年20年をすごしたハズです。

  以上諸々の変革に比して内容的には、そして結果のもたらす重大さに於いては、決して優るとも劣らない大変革が今まさに日本のワインの世界で起きています。私はそれをワイン維新と名付けようと思います。

  目の前にあるビンの中。そのワインは一体何処で栽培された何というぶどうから作られているのか。こんな簡単なことが、我が国では今迄一切表示されていませんでした。正直に表示する義務が無かったとも言えます。欧米先進国では決して有り得ない話ですが、我が国日本では今迄ずっとそうだったのです。

  ああそう。じゃあ、これから日本でも欧米並みに色々表示するのね。良かったわね。いえいえ、物事はそう単純ではありません。何はと言って、もし日本中のワインメーカー(ワイナリー?)が新しい法律に従ったとしたら、とんでもない事態に陥るからです。

  皆さんは「国産ワイン」の定義をご存知ですか。きっと国産のぶどうで作られたワインだとお思いでしょう。さにあらず。実は「国産ワイン」の殆んどすべてが、外国で作られたワインそのものか、もしくは外国で濃縮果汁にされたものを輸入して、それに水や砂糖・香料を加えて日本でワイン化されたものだったのです。

要は日本国内でビン詰めされればそれでよしの世界。今回の表示法でこの手垢にまみれた「国産ワイン」という呼称そのものが消えました。これからは「日本ワイン」で行きましょう、ということになったのです。一応、食べるぶどうでも何でもよいから国内産のぶどうからから作られたものだけが「日本ワイン」となります。国内市場での日本ワインの顔振れは全く変わることとなるのです。

88 これからの日本ワインは
  ワイン作りの現場で40年以上生きて来た、私のような立場の人間が考えることですが、果たして純粋に食べるぶどうだけから作られたワインは現代の消費者(ワイン愛好家)に受け入れられるでしょうか。

  結論から言うと、それは無理です。田舎の町の食べるぶどうの選果残りから作られていると称したワインにも、外国産の果汁・ワインが混入されていたからです。それ程純粋な食べるぶどう100%のワインはマズイのです。
生き残る道は地道にワイン用ぶどうの畑を作ることから始めなければならなくなったという次第です。

しかし、更に考えると面白い論理に行き着きます。今迄ワイン用ぶどうを作っていなかったワイナリーの経営者達に、きちんと最初から十分な大きさの畑を作ろうという意志が湧くでしょうか。今迄の販売実績を1/10~1/20まで落として畑作りというのなら分りますが、それは会社という組織の継続性を考えると不可能です。何よりも原料ぶどうのことをこれ程軽視していた人々が、急にぶどう栽培家になれるでしょうか。

  輸入原料ワインや濃縮果汁は例えば麻薬のようなものです。手軽にハイな心持ちとなり、いかにもその世界(ワイナリーの経営というバラ色の世界)の住人となれます。しかしその結末が恐ろしく、仲々元の世界(きちんとワイン用ぶどうを栽培する道)には戻れない。しかも、ここが一番重要ですが、「麻薬性」を持ちながら合法で、価格も信じられない程に安いのです。この2点が本物の麻薬とは違います。

この手法を広めたのは北海道の或る町の町長さんと東京の輸入商社だということは業界ではよく知られています。しかもその町がかつての「地方創成」運動であった「村おこしブーム」の仕掛け人とまで騒がれたものですから、この外国ワインを自分のビンに入れて知らんぷりの麻薬的ワイン作りは、全国津々浦々に広がって今日に至りました。恐るべきかな。そして祭のあとは見ての通り、という次第です。

  笑えない話ですが、今回の新法施行を知らずに、輸入ワイン系のワイナリーを着々と計画していた連中は大慌てです。(街の真ん中にワイナリーを開いている人々がそうです。)

  それでも、このような大変革を推し進める人々も大変だと感じ入ります。矢張り、国は徐々に、そして段階的にこの大業を成し遂げようとしています。先ずは最上流のメーカー(ワイナリー?)側の指導と法整備、次に流通その中でも大卸しの酒問屋さん達への説明会。市中の酒の小売屋さんや一般消費者への説明・周知は、まだ殆んどなされていないと言っても過言ではありません。その任に当たるべきマスコミがこの新しい法律の本質を理解していないからです。いえ、例え理解していても、広告主たる怪し気なメーカーに遠慮して、真実を書けないからです。困ったものです。



89 何故、今ワイン新法かⅠ

  私の場合、本業の忙しい時期になるとパタッと筆が止まる性癖がり、年令も年令ですから(もうすぐ69才です)、入院でもしたのかなと思われがちですが、どうぞご心配なく。これで我ながらペース配分はしっかりしているつもりです。それと、この雑文集の最終着地点もきちんと見据えて書いておりますので。

  かつて私の会社に出資している或る人から、40年前のことや何百年前のことなぞ書くな。書くのなら、自分の会社のワインがよく売れるような文章にすべきだ、とまで言われました。何と詰まらないことを言うのでしょうか、というのが私の正直な感想です。今すぐ自分の作りたてのワインをどんどん売って儲けなさい、と言われたようで不快でさえありました。だってそうでしょう。現在の日本のワイン業界が始末に負えない程汚れてしまった原因は、そのような近視眼的思考にあったのですから。

  ここから、やっと前回の続きとなります。確かに今回のワイン新法施行に当たっては、世界の一流通商国たる日本の今迄の姿勢が余りにもアンフェアであったため、諸外国、特にEUから強い要請(抗議)があってのことと推察されます。「国産」と明記されていながら、南米産のものをビンに詰めて売るという偽装が堂々と行われているのは如何なものか、と

欧州のみならず北米やオーストラリア、ニュージーランドも言い続けたハズです。
  しかし、大改革を行うにしても、今回「軟着陸型」の変革とはなりませんでした。どうしてでしょう。EU女帝のメルケル氏の要求がそれ程強かったのか。それとも、他に理由があったのでしょうか。

90 何故、今ワイン新法かⅡ
  何事も徐々に、そして段階的にが好きな我が国民性ゆえ、今回のワイン新法施行は余りにも急速・過激で、直言居士を自認する私にさえ不可解なものでした。しかし最近になってやっと全容が見えて来ました。要は我が日本政府もその運動を指向していたのです。外部(外国)からとやかく言われなくとも、です。

  私は現在、日本中でも知名度では最上位近くに位置する余市町に住んで、この一帯をワイナリーだらけにする運動を一生懸命、そして楽しく進めています。ところが、今この町は信じられない程のスピードで衰退しています。人口減と老齢化に歯止めがかからず、地域GDPは下降の一途を辿っています。

新しい就職口は殆ど見つからず若い人々は成人になる前に町から離れていきます。当然、結婚して子供を産む人も激減していますから、現在2万弱の人口とはいえ、街を歩いても、出会う人は殆どが私を含めて老人ばかりという状態です。少しでも将来を推論する人は、10年後20年後の我が町の有り様を考えて暗然とすることでしょう。

それとも、自分はその頃は生きていないのだから考えるのは止そう、と思い切っているのかも知れません。イヤ、そんな枯れススキ論には根拠が無い、余市はもっともっと生き残る、と言う人にもたまには出会いますが、そんな人に限って更に厭世的で、非行動的です。
  
  山奥の村や絶海の孤島が無人化した話は幾つか聞きました。しかし現在進行中の我が余市町、そして日本中の多くの町村の急速な衰退現象は未曽有のことです。我が国の歴史始まって以来のことでしょう。

  昔1950年代60年代に我が国の劇場(映画館)やTVで放映されたアメリカの西部劇。Tumbleweed(タンブルウィード)という直径50cmほどの枯れ草の球が、強い風に吹かれ転がって行きます。そんな誰も住んでいない街のあちらとこちらからガンマンがゆっくり歩み出て決闘、というシーンがよくありました。

こんな誰も住んでいない街での決闘で、生き残った方は何処で空き腹を満たすのだろう、と余計な心配をしながら観ていた私です。(勿論マクドナルドなんて未だない時代です。)

  Ghost townというのが、そのような町に付けられた名前。何処もかしこも人口増加で、沸き立つような日本で観ていましたから、丸切り実感のない空間設定でした。しかも20mも離れていて、抜き撃ちの一発で相手を仕留めるのですから、とても嘘くさい話です。

  そのようなことはさて置き、このGhost townという語が何やら最近、私の中では実像を結びつつ感じられます。Ghost townはどうして生まれるのか。現代風に言うと、その地域の経済が成り立たなくなって、人々が、皆他の所へ移るから、となるのでしょうか。
  念ずれば問題は片付く訳もなく、例え自分はキリスト教徒ではなくとも、「神は(天は)自ら助くる者を助く」を信じて生きています。何もしない町はどんどん衰退しますし、逆に自分達でどうにかしようという町でしたら、国はそれを強く援助しようと考えるハズです。

  今回の私の結論はこうです。「地方創生」なり「六次産業化支援」なりを国が推進して行く上で、障害になっているのは、既存の偽装(インチキ)的産業です。地方で高付加価値型の真実性の高い産業が生まれれば、それは雇用につながります。それに反し、外国からのものを日本で詰め替える産業に於いては、高付加価値も良き雇用も生み出せないのです。

地方の真実性の高い高付加価値型産業を援護するには、偽装性を法律で排除すべきだ、と国は考え、象徴的にワイン作りの世界でまず実行となったのでしょう。その証拠に、最近中央から弊社宛に来た文章には、ワインの新しい(そして厳しい)表示法の考え方を他の加工食品にまで及ぼす、と書いてありました。他の世界のことはよく知りませんが、ワインに於いては完全施行が2018年10月と明記されています。

91 又々、ジョージアの人々来たる
  Georgia on my mindというジャズの名曲がありましたが、その合衆国東岸にある英国王名に由来する州ではなく、ユーラシア大陸の真ん中、黒海とカスピ海の間に横たわる国のことです。旧ソヴィエト連邦の一員だったことを恥辱として、自ら国名の呼び方をロシア風のグルジアからジョージアに変えてしまった国です。小麦や蜂蜜以外にも特産物は色々ありましょうが、中でも古来からのワイン作りは国を支え得る産業とのことです。そしてこの国は、人類ワイン作り発祥の地として欧米ではつとに有名です。今から8000年のことだそうです。

  さて、ジョージアの人々は昨年も年末に(ということはワインの仕込みを終えて)我がOcciGabi Wineryを来訪しましたが、今年も又々やって参りました。JICAの人が私共の処を選んで、この「ワイン作りの始祖」達9名をお連れしたのは何故でしょう。ジョージアのワインの作りと流通(マーケティング)の人々の目的はただひとつ。今や世界有数のワイン理解国たる日本へのジョージアワインの売り込みです。そのためには日本のワイン作り・流通の現状を見ておく必要があるとばかりに、北海道では私共のワイナリーとお隣りの今や最盛期のニセコ・リゾートを見学コースに入れたとか。人類最古のワイン地帯の人々だからこそ、ぶどう畑に囲まれた、小さいながらも本物性の高いワイナリーを見ておくべし、と誰かが推奨したのでしょう。前回の来訪メンバーとは一人だけが同じでしたが、今回は私の方から彼らに次のことを積極的に提案しました。

① 私の認識では、今から20年前ゴルバチョフ書記長とシュワルナゼ外相によるロシア共産政権の解体が、現在の世界の平和や経済の繁栄に少なからず貢献した。

② その後シュワルナゼ外相は帰郷し、故国ジョージアの初代大統領となって祖国経済の立て直しを計り、その中にワイン産業の近代化があった。

③ 彼の播いた種子が結実して高級化されたワインが今皆さんの手にあり、それを一等のワイン消費国日本にプロモートするには色々な方策が必要である。

④ 先ず、ジョージアがかの白髪の好漢シュワルナゼ氏の故郷であることを日本では強調すべきである。ゴルバチョフ→エリツィン→プーチンと中央モスクワは変遷を続けている中で、ジョージアのシュワルナゼ氏への日本国民の信頼はいまだ厚い。

⑤ 東京にジョージア大使館があるのなら、その隣りかもしくは、いっそのこと大使館の一角をワインプロモーション・センターにして「人類ワイン作り発祥の地」をアピールした方が良い。
⑥ 成田発トビリシ行きのチャーター機を用意し、「ワイン作り発祥の地巡りの旅」を企画するのはどうか。この企画は日本のワインファンに大いに受けると思う。

⑦ かつて(1970~90年代)私自身もモスクワ経由ヨーロッパ行きのイリュ―シン機の中で、数多く味わった「ジョージアの赤」の美味しさは知っている。他の何処にもない「新しく素晴らしい赤」として、日本のワインファンには喜ばれるハズである。等々私の唱えるジョージア賛歌に皆さん目を丸くして聞き入って下さいました。ただ単にワインの世界に生きる人間の極く自然な感情の表出なのですが…。

  他人の国のワイン・プロモーションに身をやつして、自分の会社OcciGabi Wineryのことはどうしたんだ、と又々外野席から声が掛かりそう。でも創業8000年と3年余とではねえ、というのが正直な気持ち。8000年後は遥か彼方ですが、10年後15年後はすぐそこなのですから、着実に一年一年を積み重ねるばかりです。見ていて下さい、という気持ちです。

92 Chardonnet et Chardonnay
  その昔(といっても極く最近の1880年頃)フランスにシャルドネ(Chardonnet)という名の化学者がいて、面白い物を発明しました。ニトロセルロースをアルコールエーテル液に溶かし、別の酸性溶液の中に注射器で射出して、絹状の繊維を得ました。その輝きがあたかも光線(仏語でrayon=レーヨン)のようだったので、名付けてシャルドネ・レーヨン。人造絹糸の登場です。その後次々と銅アンモニアレーヨン、ビスコースレーヨン、ナイロン、テトロン、アセテート等々様々な合成繊維が生まれますが、まさにシャルドネこそ基本技術の創案者なのです。高校時代はサッカー部に居ながら化学部の部長も兼任していて、シャルドネの実験をなぞって喜んでいた私ですが、その名は深く私の胸に刻み込まれました。

  それがどうでしょう。シャルドネの暮したブザンソンからほど近いブルゴーニュが原産の、その名もピノ・シャルドネ(Pinot Chardonnay)という白いワイン用ぶどうと20代に知り合い、その後ずっと40年以上もお付き合いする身になろうとは。

  品種学上は、ブルゴーニュの代表品種ピノ・ノワールの白子(アルビノ=色素欠落種)である、ピノ・ブランのさらなる突然変異種ということになっていますが、ピノ・ブランとは栽培学上(すなわちぶどうそのもの)もワイン醸造学上(ワインの味)も異なった特性を持っています。

  私の西ドイツ留学時代である1970年代は原産地ブルゴーニュとその近辺以外では殆んど栽培されておらず、400km程東のライン河上流域のドイツ・バーデン地方に於いてはピノ・ブランは奨励品種なのに、ピノ・シャルドネは栽培禁止品種になっていたのですから驚きです。温暖化の影響もあって、現在ではドイツ最南部のバーデン地方では、良き白ワイン用品種と認められつつあります。

大戦後の70年間の後半である1980年代以降は、地球上の新しいワイン地帯に沢山植えられました。北米、南米、オーストラリア、ニュージーランドといった具合にです。結果、現在地球上で一番隆盛の(栽培本数の多い)白ワイン用品種となりました。それは同時に世界の栽培家(醸造家)にとって最重要な白ワイン品種になったことを意味します。モンラッシェ、ムルソーが鼻高々でいられるのもあと僅かの気配が感じられる程、新世界のシャルドネに優秀なものが多く出て来ました。栽培醸造家にとって人気の理由は、ワインを辛口に仕上げた時その真価を発揮しやすいぶどうであり(個性的な香りとコクのある引き締まったワイン)、世界中が辛口嗜好で食事向きのワインを求めているという最近の流れに叶っている点があげられます。栽培が割合楽なことも重要なファクターだと思います。

  通常はオークの内壁を中程度にローストした新樽で熟成させた後、ビン詰めし、多少黄金色になった頃に飲む中期熟成タイプのワインです。シャンペーン作りのベースワインにも使われます。私共OcciGabi Wineryでは2013年に合計4000本の苗木を植え、2015年からワイン作りをしています。現在はワインにして年産6000本ペース、近い将来12000本程が毎年リリースされる予定です。正直申しまして、若い木ゆえ、まだコクのある深い香りのシャルドネを作るには至っておりませんが、2年間のビン内熟成期間を経て、2017年頃には一丁前のシャルドネに近付くかなとちょっぴり期待しています。

落希一郎  2016年12月31日 

93 Cuvée Cabernet
カリフォルニア・ナパバレーの西隣りにあるソノマバレー。ナパに較べると面積的にもワイナリーの軒数的にもマイナーながら、地形が私共のOcciGabi Wineryの谷間に似ていて、親近感を覚えます。その丁度中程にあるChâteau St.Jean(シャトー・セント・ジーン)は取り分け好きで毎度立ち寄りますが、お目当ては”cinq cépages”(サンク・セパージュ=5つの品種)というワイン。
  
  本場ボルドーで栽培されている5つの黒ぶどう品種。カベルネ・ソーヴィニョン、メルロー、カベルネ・フラン、プチ・ヴェルド―そしてマルベック、これらを総称して、私は勝手に「カベルネ族」と呼んでいます。ボルドーでもカリフォルニアでも、はたまた南米でもオーストラリアでも主軸となるカベルネ・ソーヴィニョンは70%以上としているようですが、他の4品種の混率はまちまちです。そして時に全部で4品種に抑えたり、メルローとだけの2品種のみで作ったりというのまでありますが、どちらにしても70%以上はカベルネ・ソーヴィニョンなのです。

  確か1994年95年頃新潟のCave d’Occiで止むに止まれずカベルネ・ソーヴィニョンだけと言ってもよい程カベルネ・ソーヴィニョン混率の高い(90%以上)ワインを作りました。私の人生で初めて作ったボルドータイプのワインでしたが、これがどうも頂けない。味が乗らない原因は、きっと他にもあったのでしょうが、それに懲りて以後マルベックを除く4品種で作るようになりました。

  アッサンブラージュ(混合)と言ったり、キュベ(ブレンド)と言ったりしながら、ぶどうの段階で混ぜ合わせて皮発酵させたり、別々の品種で作ったワインをビンに詰める前のある段階でブレンドしたりと、複数のぶどう品種を合わせて作るには数多くの方法がありますが、正解は仲々分かりませんし、又実際正解というのは全く無いような気さえします。しかもそのワインをビンに詰めて5年後10年後の味わいを予想するのは、正直言って愚かな行為かも知れません。神のみぞ知るの領域の話なのです。

  さて、ここからが北緯42°の余市で作っている私共OcciGabi WineryのCuvée Cabernetの話です。かつて1977年西ドイツ・オーストリア留学より帰国後、空知郡浦臼町という雪深いところでピノ・シャルドネとカベルネ・ソーヴィニョンの苗木を各々2本ずつ手に入れて植えてみました。結果、その当時の気候ゆえどちらも未熟のまま冬を迎え大失敗しました。それから36年を経た2013年に余市に植えたピノ・シャルドネは、糖度も18°以上となり栽培は成功しましたものの、さすがにカベルネ・ソーヴィニョンはまだまだ早いと考え、ドイツ系の血の入ったカベルネ族(これも私の勝手な命名)を5つ植えました。カベルネ・クービン、カベルネ・ドルサ、カベルネ・ミトス、パラス、アコロン。

これらを自分の”cing cépages”とばかりに混ぜ合わせようとしたものの、アコロンだけは単独で作ることにしました。余りにも熟期が早く、しかも味の特徴が丸過ぎるからです。結果上述最初の4品種のキュベ・ワインの誕生となりました。作り手の自分としては大いに気に入っています。

  どちらにしても、現在地球上で一番多く植わっている品種がカベルネ・ソーヴィニョンです。私の推測では、ここ余市周辺に限って言えば、赤ワインの主力はきっとこのカベルネ族が担うことになるでしょう。ついでながら、この広い北海道にあって、自分達の町・村が良いワインを作り得るなら、表示を「北海道」などという広域に拡げる行為は自殺行為となります。「皆で渡れば恐くない、そして皆で渡るのはアホばかり」の例え通りにです。


94  妻Gabiの小言Ⅰ

  奥さんのことをよく家人といいますが、我が家人Gabiの場合、生まれも育ちも、そして今迄生きて来た人生までもが、私とは丸きり異なります。一方私と似て、物事をかなりハッキリ言う方なので、この数年彼女の指摘によって自分の実像をより知るようになってきました。 
 
  身に着ける物には全くといってよい程頓着しない私です。私なりにその理由・原因は解明済みで、要は幼い時からディオゲネス的なのです。例のボロをまとって樽ひとつの中で暮らした古代ギリシャの哲人のことです。それは生涯温帯と亜寒帯だけに暮らした身ですので、私は半裸の生活はしませんでしたが、それでもエンゲル係数(これは今の日本では死語かな)の高い、食費以外に余りお金のかけられない貧しい家庭(かつてはこれが一般的でした)で育ちました。

  更に中学校では柔道、高校からはつい最近までサッカー一筋の人生でした。物資不足で練習着もユニフォームも何年か着古しでプレーするのをよしとする時代でしたから、逆に外見だけの華美さを極端に軽蔑するようになりました。そして人生の職業として選んだのがぶどう作りとワイン作りですから、別にわざとではなく、いつもplain living(生活と身なりは質素)だったのです。我ながら精神衛生上、類まれな良き環境で生きて来たことになります。
  そんな人間ですから、シャツも靴も靴下も決して捨てようとはしない。ローテーションを組んで同じものを洗濯しながら何十年も身に着けようとします。昔、1974年に西ドイツの学校で買ったゴム長靴など、物も良かったのでしょうが、2013年に靴底が完全に剥がれるまで40年も履いていました。

  妻のGabiが当初(2、3年前)よく小言を言った対象は親指の先に穴の空いた靴下のこと。5本指型木綿製(中国製)が大好きな私の靴下は、必ず2ヶ月程で右の親指の下に穴が空くのですが、平気でそんなのを履いていて、よく叱られました。「他人様の家に上がる時みっともない」と。

でも実は、私自身にとって穴が空いてからが勝負なのです。親指の下に穴が空くのは、きっと柔道やサッカー由来のピボット(軸回転)のせいなのでしょうが、穴が空いていると余計親指の下腹が靴底に密着して、接地性が良くなります。

  こんな屁理屈を言っても快く同意してくれない妻に、Donovanの歌を教えました。 
I love my shoes,
I love my shoes.
My shoes are so comfortably lovely
.
と続くあの句です。古ければ古い程愛着が湧く、というこの歌は確か私が大学1年生の時(The Beatles全盛の頃)イギリスで流行りました。

 親指の先に穴が空き易い。それは意外と中国メーカーの策略だったりして。そしてその策略は私にとって逆効果だったりして。兎に角、妻のGabiは私を理解してか、諦めてか、私がちょっぴり痛んだ物を長く大事に使うのを許してくれるようになりました。靴下、靴、シャツ(特にTシャツ)…と何番までありましたっけ、Donovanの歌の如くにです。


95 妻Gabiの小言Ⅱ
  「貴方とレストランに行っても選ぶ楽しみがないわね。」これも当初妻によく言われました。行く店自体は彼女がPCなどで捜し出すのですが、その店に入ってからは私の出番。周りのお客が食べている時は、おいしそうに見える料理をチラッチラッと見回します。

そしてオーダーを取りに来た人に向かって、「このお店の一番人気メニューは何ですか?」と尋ねるのです。勿論テーブルにメニュー帳がある時は10秒20秒目を通しておきます。

  実はこの時の店の人の答え方がピリッとしているかどうかも判断材料になります。テキパキと答えられないようでは、”ああ、この人は自分の店の料理をきちんと食べたことがないんだな、”と私に判断されかねません。

  妻のGabiとは当初大いに議論しました。彼女はメニュー帳を見てゆっくり選びたい。いや私は、知らない店では、先ず相手の奨める料理を食べてみるべきだ。メニュー帳は食事の後にゆっくりと、相手方の誇張も吟味しながら研究すればよい、と私。加えて、注文が遅いと他の客に先を越されてしまう、というのもあり、要はせっかちなのです。

ヨーロッパでは入口にロウ細工のサンプルも置いてないし、写真入りのメニューもないのですから、自分のやり方の方が理に叶っている。と言ってGabiに相当嫌われたフシがありますが、理由はもう一つあって、彼女と一緒に食べ歩く時、殆んどが私は運転手。彼女がワインなりビールを口にしながらメニューをゆっくり読むのに付き合いたくないだけなのかも知れません。その証拠に双方が一緒に酒を飲みながらメニューを眺められる時には、私もそれ程急ぎません。
  
  ワイン地帯を彼女と経巡る時、ワイナリーだけを次々と訪ねることに集中して、すぐ傍にある景勝地や世界遺産を訪ねようとはしない、と非難されたこともあります。これも彼女になるべく早く私の後継ぎというかmaîtresse(メトレス=女主人)として、このワイナリーを仕切ってほしいからなのです。世界中、参考にすべきワイナリーは星の数程あるのですから。

  まあ総じてGabiはかなり面倒くさい男を伴侶として選んだことになります。



96 「新婚さんいらっしゃい」出演

  60代後半になってから「新婚さん」もないものですが、一応再婚ながらも私は有資格者。(妻の雅美は初婚です。) 友人からの奨めもあり応募してみました。一枚の簡単な申し込み書を大阪朝日放送(ABC)宛てに送ってから、何と1年4ヶ月して返事がありました。札幌で北海道地区予選を行うので出席されたしと。 

  45年も続く超人気番組ゆえの難関だから、気軽に他の出演者のトークを楽しもうとばかりに、全くの物見遊山気分で出掛けました。ところがどうでしょう。予選も通り、第二次選考会も通って、大阪での収録に出ることになったのです。 

  妻も私も常々「人生は1回切り、思い切り生きよう」を旨としていますので、邪悪な事柄以外は何でも経験しておくに越したことはない、とばかりに喜んで出掛けました。リーガ・ロイヤルというホテルの高級な部屋と飛行機の往復チケットも先方持ちです。収録もつつが無く終了しました。

  放映は2017年1月29日(日)12:50とのことですから、皆さんに内容はその時観て頂くこととして、折角の大阪ゆえ、ついでに「タコ焼きとワイン(シャンペン)とのマリアージュ」を看板の店も訪ねて「冬の大阪ライフ」を満喫して来ました。

  それにしても、私にとってはこれが人生で三度目の大阪訪問。18才大学1年生の時(1966年)に「東京・大阪外語大サッカー対抗戦」で訪れたのが最初。この時生まれて初めて東海道新幹線に乗りました。対抗戦などとは言っても二流チーム同志の試合ですから、内容は全く忘れてしまいましたが、その直後から東京中の多くの大学がストに入るいわゆる学園紛争の時代となり、対抗戦の大阪行きはこの1回きりしか経験出来ませんでした。

  第2回目が1970年。小樽の叔父とYS-11という戦後国産第1号のプロペラ機で伊丹に降り立ちました。大阪・伊藤忠商事の偉い人に私の欧州ワイン留学の段取りをして頂くためにです。緒方譲二という営業本部長は風采も堂々とした方で、私に色々質問します。一時間程の面談を終えた後に、彼が述べたことは今でも私の記憶に鮮明です。彼が叔父に向かって、「甥っ子さんは、フランスではなく西ドイツに留学させましょう。

彼の性格だとフランスでは帰って来ないおそれがある。早速、その準備を始めましょう。」そうです。彼のこのひと言が私の留学先をフランスからドイツに変えたのです。しかし今になって思うに、ドイツで良かった。フランスのブルゴーニュになんか行っていたら、チャラチャラした日本人の友人が多く出来たでしょうし、又それがボルドーなら、帰り来て初めからカベルネ・ソーヴィニョンのワインを無理をしてでも作ろうと考えたことでしょう。  
  ドイツは実直な国民性ゆえ、ワイン作りやぶどう作りも理論からきちんと積み上げて教えますし、何よりも早飲みタイプの白ワインづくりのイロハから入りますので、帰り来ては極く忠実にそして自然にリースリング系早生品種の栽培・醸造を行うこととなりました。
  更にドイツ留学の利点を述べますと、世に言う「ステンレス革命」の震源地(発祥地)とも言うべき西ドイツのシュツットガルト市近郊に学校があったため、ステンレス設備群の早い信奉者となり得たのです。
  話がそれましたが、昨年の12月が第3回目の大阪訪問。空港から街の中心に向かうタクシー運転手さんに尋ねて、890万人(大阪府)の巨大都市と知らされますが、「それにしても、知らずにイメージしていたのとは違い、とてもきれいな街ですね」と私。運転手さんが答えて曰く、「空港からホテルまでの道筋だけみればそうですけどねぇ。」 私が粘って、「でも着陸時に上空から見たら、うねる河の両岸に街が張り付いていて、丸でパリみたいでしたよ。あのセーヌ河みたいなのが淀川ですか。」 「お客さん褒め方がうまいねぇ。川の名前は新淀川ですよ。」
  今回番組収録に出掛ける際に友人に話したところ、「『カンブリア宮殿』と『新婚さん、いらっしゃい』の両方に出た人間は、日本ではきっとお前だけだよ」とあきれられたのも事実です。

97 文枝師匠とまみさん
   7匹の猫に囲まれて生活するのも心地良きことながら、人生、他の人とはちょっぴり変わった経験を重ねながら生きるのは楽しいものです。先日の「新婚さん、いらっしゃい」出演がそのひとつで、とても楽しい思いをしました。何はと言って、もう放映後ですから話せるのですが、まさかスタジオでワイン談義になろうとは考えてもいませんでした。
   それはワイン作りが自分達の職業であっても文枝師匠に「ご職業は?」と尋かれたら、「ワイン作ってます」でサラッと通り抜けるつもりだったのです。他人様の番組でスポンサーでもないのに自分達で会社の宣伝を無料でするみたいで、極く用心してインタビューを受けたのです。が、師匠とまみさんが俄然乗って来たのでビックリ。そんなの直前の下打合せには全然なかったものですから。
   でも本心はとても嬉しかった。まさか落語界の重鎮と可愛娘ちゃんキャラクターの人が、そんなに凄いワイン通だとは思いもしませんでした。玄人顔負けの鋭い質問が矢の如く降り注ぎ、私にとってはとても楽しい談義となりました。自分の生きている限り、この人達には毎年ワインをプレゼントしようと考え、その通りに伝えました。私共の、毎年ワインが一本ずつプレゼントされる制度のことも言ったところ、文枝師匠が「じゃワシも一口そのクラブに入ろうかな。」まみさんの切り返しが絶妙で「今、落さんはこれからずっと毎年ワインをプレゼントして呉れるって言ったもの、私入らないわ。」会場内爆笑。
   それにしても偶然とは面白いもので、妻の雅美が「婚前は外資系の石油会社に永く勤めていました。」というと文枝師匠が両手を持ち上げ大きな輪を作って(帆立て貝を描いて)、「こんなマークの会社?」丁々発止というべきか、妻が答えて「まみさんが以前コマーシャルに出ていらした会社です。」 まみさん「あら、モービル?」 とてもリズム感溢れるやり取りでした。
   少し時間を置いて考えついたことがひとつ。絶妙の司会者たる師匠とまみさんは、きっと出演者のことを前もって克明に調べているのではないでしょうか。もし「僕がワイナリーを作った理由(ダイヤモンド社刊)」という私の本を読んでいたのなら、彼等の質問の鋭さも肯けます。それとももしそうじゃないとしたら、かえって恐ろしい感じです。誇張ではなしに、あれ程ワイン(特にワイン作り)に詳しい人に、私は今迄日本で出会ったことがないからです。
   と、ここまで書いて私はまだ本放映を観ていません。どこをカットして、どこを残して繋いだのか丸切り分りませんので、これからゆっくり楽しんで観ましょう。

98  文章を書くということ
  かつて25年前、新潟でCave d’ Occi(カーブドッチ)というワイナリーを興した時、現在同様会員制の組織を作りました。そしてその会報誌の巻頭に毎度原稿用紙4枚程の雑感を書いたのが、私の物書きの始まりです。
  新潟で80回程、余市に来てのOcciGabiWineryでは「from the good Earth(よいちより)」と名付けた会報に18回、ぶどうやワインのことを軸に書いております。さらには自分の健康年令をあと10~15年と想い定めて、一昨年春からfacebookにも週に一度の割合で書くようになりました。エッセイなんてシャレたものでは決してなく、雑文の類をです。
  妻のGabiとは二人きり(といっても同居猫が8匹居ますが)の生活ですから、よく話し合います。その時、対話していて十分相手の気持ちを考えながら喋っているつもりなのに、結果としては相手を怒らせてしまうことの多い私です。よく考えると、こちらの心の中に在るものをより多く相手に伝えようとするあまり、余計なことを2つ3つ(時には4つも5つも) 付け加えるからなのでしょう。ハンガリー出身の数学者ピーター・フランクル氏が炯眼にも、「日本人を見ていて気が付いたのは、相手を傷つけると向うが感情的になり、論理的に完璧な意見でも拒否してしまう」と看破した通りです。
  我がGabiは(本名雅美で生粋の日本人です)、男女問わず私の今迄知り合ったどんな日本人にも負けず理知的で論理的なのにこんな案配でして、結果私は自分を対話上手だとは思わなくなりました。来訪者があった時に妻が同席して、そのお客の帰った後、よく彼女に言われます。「あなたは、自分の尋ねたいことを、遠慮せずに必ず尋ねる人ね」と。会話とは情報交換の場と考えているせいでしょうか。
 そんな訳で文章を書くことに逃げ道をと思った訳ではありませんが、それでも最近では自分の性格に適った表現方法だと考えるようになりました。先日大きな銀行のお偉いさんから、「落さんの文章は情け容赦が無さ過ぎる」とまで言われてしまいましたが、話し方ならまだしも、書いた文章までもが本心を隠してとなると、自分のアイデンティティーはどうなるのでしょう、という思いです。
  最近、飛行機に乗る時に買った村上春樹の「雑文集」という本で、彼の経歴や考え方を詳しく知るにつけ、何故彼の文章が殊のほか上手な文章でもないのに、人を魅き付けるのかがよく理解出来ました。そして何故妻のGabiは彼の本を多く読むのに、私はいつも中途で飽きてしまうのかも。不遜な言い方ながら、彼は私に似ているのです。勿論、能力には大きな差があって、彼の1/10も私は表現し切れない。別に小説家になる気もなく、文章を書いて生業(なりわい)を立てている訳でもないので、そんなことはどうでもよいのだけれど、何となく自分自身と妻のために書き残しておきたいことを少しずつ書いていることになります。

99 ワインの目利き
  昨年末に「一流芸能人と〇○○」とかいうTV番組で、今は縁深き人となった山瀬まみさんが赤ワインの目隠しテストを受けていました。1本100万円のシャトー・オ・ブリヨンと1本5,000円のワインを違えず当てる、というもの。彼女が当てたか外したかは、丁度その時、外から長い電話が掛かって来て結果は見逃したものの、その後彼女宛てに「新婚さん、いらっしゃい」の礼状を書いたので、その中に自分の感想を述べました。そんなことは詰まらない、と。
  大体1本5,000円もすれば、それはそれなりに一丁前のワインで、決して並みワインとはあなどれない。その上は例え2万円だろうが30万円だろうが、はたまた100万円だろうが、どれを美味しいと判断するかは、個人の好みの領域の話となりそうです。 
  Rose is a rose is a roseと述べたガートルード・スタインではないけれど、Wine is a wine is a wineというのが私の考え方です。「ワインってどんなものかしら」と尋ねられたら、「貴方の手にしているワイン、それがワインです。ワインというものは、何時もそんなものです。」というのが答、という次第です。簡明だけれど意味深長、そして複雑なようでいて理屈っぽくない、とでも申しましょうか。長くぶどう作り・ワイン作りをしていて、気候に恵まれ良く熟したぶどうからは自然に美味しいワインが出来ますし、不順な気候ゆえ余り良く熟さなかったぶどうからは、どんなに頑張っても上質のワインは作り得ません。世の作り手の最重要な仕事が、そのように恵まれない気候の年のぶどうから、一応ワインとして肯ける味にまで持って行くことなのは、知る人ぞ知ることなのです。
  ところが、ワインぶどうをきちんと栽培して、その実からワインを作るという伝統(というか歴史)が殆ど無かったのが我が日本でしたから、決して大袈裟ではなく、今度の「新ワイン法」が本当の日本ワインの歴史に於けるスタートラインとなるのです。
  「ワイン界のシャーロック・ホームズ」の異名をとる偽造ワイン専門家モーリーン・ダウニーに依れば、昨今高級ヴィンテージ物のワイン・オークションでは信じられない事態が起きているとのこと。ドメーヌ・ド・ラ・ロマネコンティにも上記シャトー・オ・ブリヨンにも偽物が大量に出回っているとか。想像するに、そのような偽造ワインが合成して作られる訳もないことでしょうから、二格、三格下の中・高級ワインの詰め替えということになります。
  どうですか。100万円と5000円が入れ替わっていてもおかしくない世界が現実にありそうですし、その時は、我が田崎日本ソムリエ協会会長だって正確に当てられるでしょうか。どうか教えてください。(ゴメンナサイ。答えは期待していません。)

100 我がワイン業界は明日どうなるか
  先日、北海道庁の北海道産食品をプロモートするセクションの人々を訪ねて歓談して参りました。北海道の経済の現状を憂う気持ちと、近い将来の躍進を願う気持ちをお持ちで、私としては多少勇気付けられて帰って来ました。唯、ワインという産品についての専門性については、ちょっと情報不足かなあ、とも感じました。
  考えてみれば、この国にはワインのことを学ぶべき大学は全く存在しません。と言うより、教えるべき教授が誰一人居ません。しかるべきワイン国でワインのことを教えるための教育を受けた人が居ないのですから当然のことです。ですから、専門知識を欲するならば外国で学ばなければなりません。簡便法としては、きちんとぶどう作りとワイン作りをしている会社で長年修行する方法がありそうですが、それもきちんとしたワイン法が存在しなかったことのツケで、そんな会社が日本には殆ど存在しません。
  そんな状況ですから、老婆心ならぬ老爺の繰り言かも知れぬ私の助言ですが、これからの北海道を引っ張っていく気概のある方々(北海道庁の中堅の人々)は、積極的にヨーロッパを、アメリカを、ニュージーランドを見て歩きなさい、と申し上げたい。常に上空を見上げて、天空が地に落ちて来るのではないか、といった類の心配ではなく、確実にここ1年で北海道のワイン産業は、180度どころか異次元の変貌を迫られるのですから。
  先ず道産ワインの約半分を占めている、輸入ワインそのものか輸入濃縮果汁由来ワインが姿を消します。それらは今後、いくら国内、道内でビン詰めしても、従前のように「国産ワイン」と表示出来ず、それどころか「輸入原料使用」と明記しなければいけないのです。しかも輸入ワインと明記してあるコンビニのワインが1本300-400円ですから、もう今まで通り1本1,200-3,000円で売ろうとしても売れません。
  「○○ワイン」と市町村名を表ラベルに表示する場合には、原料ぶどうの85%以上がこの○○市町村産でなければいけない、という面倒臭い条項も「新ワイン法」に加わりました。何やかにやで道産ワインの売上は半減する、というのが私の見立てです。北海道の眼前の経済を考えるなら、私の推論は外れた方が幸いでしょうが、中長期的に北海道経済を考えるなら、半減も止むなし、原点に立ち帰ってスタートすべしです。有名大学を出て、北海道の経済を牽引すべく運命付けられている皆さん、よろしくお願いします。それじゃなくとも、きちんとしたワインの知識は西欧では淑女紳士のたしなみとまで言われているのですから。

101 ブルゴーニュの老舗、北海道に進出?
  2017/1/17付、ワインジャーナリスト山本昭彦氏配信のワインニュースで知りました。ピュリニー・モンラッシェを所有するエチエンヌ・ド・モンティーユ氏が函館市近郊に10~15haのピノ・ノワール畑とワイナリーを計画しているとのこと。とてもびっくりしました。何故と言って、本州に一番近い渡島半島一帯は、ワインぶどう栽培に於いて或る歴史を持っているからです。
  確か1980年だったと思いますが、私は函館市七飯町にある函館ワインの部長氏に請われて、77年に西ドイツより私が持ち帰ったワインぶどうの枝(専門的には穂木[ほぎ]と言います)をおすそ分けしました。氏はそれから作った苗を余市町に植えるというのです。結果80年代~90年代と函館ワインは、余市町に7軒の委託栽培農家を組織して総計4~50haのワインぶどう畑を経営することとなりました。どうして自分の会社の近くである函館地区に植えないのか尋ねたところ、実の成りが悪いということで、それ故わざわざ200kmも北の余市地区に大きな畑を展開したのだそうです。初夏の開花時に発生する霧と、冬場の少雪ゆえの凍害が大きな原因だと聞きました。
  時代は下がって1990年代半ばに、当時新潟に居た私は、乙部ワイン(半島の丁度真ん中)の飯田氏と交流するようになりました。彼は山ぶどうそのものを栽培して、ワイン作りをしようとした人です。池田町の丸谷町長の書いた「ワイン町長奮戦記」に刺激されてのことです。山ぶどうからこそ最上のワインが出来ると。丸谷氏が悪い訳ではなく、きっと飯田氏の誤読・誤解だと思います。何故と言って野生のぶどうから良いワインなど出来るハズもなく、栽培だって至難のワザです。山ぶどうは酸味が非常に強く、糖度も低く、収穫量も極く極く僅かだからです。私は彼に相談を受けて、すぐ欧州系の普通の品種に切り変えるように勧めました。それでもその後の彼の場合も、函館ワインと同様の理由(霧と凍害)で畑はうまく行かなかったと聞いています。
  更に私自身の経験も。小樽のワイン会社の栽培責任者として、島牧と虻田(あぶた、現洞爺町)にワインぶどうを植えてみました。半島の付け根、東西の2点です。ここも霧ゆえの、受精不良の傾向が見られました。もっとも、虻田町でのワインぶどうの栽培を諦めたのは、有珠山の噴火が主因でしたが。
  私自身の結論ですが、北海道というエイの形をした大きな島の尻尾に当たる渡島(おしま)半島はワインぶどうの栽培には不適なのではないでしょうか。果たして専門的なデータが北海道庁にあるかないかは分りませんが、以上私が述べた諸条件をきちんと検証した上で外国の人には土地を勧めなければ、後々由々しき事態を招かないとも限りません。転ばぬ先の杖と申しましょうか。

102  ワインぶどう、品種の変遷
This land is my land,
this land is your land.
From California
to the New York island.
この歌を合衆国の人々が皆で歌う日は又来るのでしょうか。それは兎も角、”from Portugal to the Republic of Georgia”とでもいうべき「ワイン旧大陸ヨーロッパ」で勉強した私は、次のように教えられました。ワイン専用ぶどうの種類は各国各地帯に特有の品種があるものの、頭脳にとどめて置くべきは200種類位である、と。
  舌から入った人より頭脳からワインの世界に入った人の方が多い国ニッポン、認定されたソムリエさんの数が世界一の国ニッポンですから、私より沢山ぶどうの名前を知っている人も多いと思われます。ブルゴーニュ地方ならピノ・ノワール、ピノ・シャルドネ、ピノ・ブラン。ボルドー地方ならカベルネ・ソーヴィニョン、カベルネ・フラン、メルロー、プチ・ヴェルドー、マルベック、セミヨン、ソーヴィニョン・ブラン。アルザス地方ならピノ・グリ、ゲヴュルツトラミネール、リースリング。シャンパーニュ地方なら、ロアール地方なら、ラーングドック地方ならetc、etc。
  国を変えてポルトガル、スペイン、イタリア、ドイツ、オーストリアと延々と続けるより、ちょっと面白い、もしかして当たらないかも知れない予想をしてみましょう。ワインの地方名とぶどう品種名は現在上記の如く対応していますが、それが果たして30年後も同様かと。
  例えばブルゴーニュ地方で以前(4~50年前)結構優勢だったピノ・ブランは現在余り見掛けなくなりました。イタリアのトスカーナ地方はサン・ジョヴェーゼの牙城かと思いきや、ソーヴィニョン・ネッロ(カベルネ・ソーヴィニョン)がどんどん攻めて来ています。私のよく行き来する南独のバーデン地方だって、かつてのシュペート・ブルグンダー(ピノ・ノワール)やヴァイス・ブルグンダー(ピノ・ブラン)ばかりではありませんし、シュツットガルト市を中心とするヴュルテンベルク地方もかつてのレンベルガー、ミュラー・トゥルガウ、ケルナーが大きな顔はして居られません。すべて気温が上がったことが原因で、他の品種への移行が進んでいます。
  ここでグンと話は小さくなりますが、我が余市も40年前に導入したケルナー、バッカス、ツヴァイゲルトレーベの「御三家」から脱却すべき時に来ています。ピノ族はすべてOKですし、ゲヴュルツトラミネールも成熟します。本筋のカベルネ族はまだ無理でも、南独レンベルガーとカベルネ・ソーヴィニョンの交配品種で、味わいは限りなくカベルネ・ソーヴィニョンに近く、熟期が9月下旬~10月中旬という、いわゆるジャーマン・カベルネ族も栽培可能です。
  心躍る想いでこれら新品種に取り組んでいます。これらこそ近い将来北海道を代表する高級ワインになる、と。

103  無調と不調法
  好きな音楽は?と尋ねられたら平気でクラシックとジャズ、オルディーズ・ロックにフォーク、そしてシャンソンと答える程、色々なジャンルのものが好きです。レコードやCDで聴くよりはliveが良いに決まっていますが、余程お金とヒマに恵まれなければ、本人の演奏を直かに聴くことは出来ません。大学生活を東京で4年送った時以外は、殆んど田舎での暮らしということもあり、空間移動の観点からも無理だったと思います。それでも想い詰めればグールドのピアノやディランのガラガラ声、アズナヴールの歌は人生の記念に聴いておくべきでした。
  とはいえ40代、50代を丸々新潟市郊外で暮らしていた20年程の間に、クラシック界の色々な人と出会った(もしくは直かに演奏を聴いた)のですから、ちょっぴり驚いています。信じられないことながら、ザバリッシュやゲルギエフと握手して話までしています。両者ともドイツ語が通じるからということもありましょうが、自分の物怖じしない性格ゆえのことでしょう。相手が丁度その時ヒマだったこともあるのでしょうが。
  フルート演奏で言えば、ベイカーやランパルはCD頼りなのに、パユとニコレの演奏はかなり近い距離で聴いています。新潟で私の経営していたワイナリーから僅か15kmの岩室温泉には粋な女将が居て、彼女の温泉旅館の中庭竹林でニコレがデムスのピアノと協演したのを楽しみました。パユの場合はもっと偶然で、私が自分の音楽ホールのためのピアノを捜していた時に間違って聴いてしまったのです。自分のワイナリーが10周年を迎えるのを記念して、ベルリン・フィル・メンバーによる弦楽四重奏とピアノ五重奏コンサートを企画したからです。スタンウェイにすべきかベーゼンドルファーにすべきか、はたまたベヒシュタインにしようか、と記念に購入すべきピアノ選定に迷っていました。前2者はあちこちにあるピアノですが、後者はそんじゃそこらにない、と思っていたら、何と80km離れた小出町(現魚沼市?)のホールにあるというので、その調べを確かめる目的でコンサートに出掛けました。要するに演目は何でもよく、また非常に失礼なことながら誰が演奏しようと、それもどうでも良い感じでした。ところがどうでしょう。エマニュエル・パユが出て来てプーランクのソナタをサラリと演奏しました。その結果、ピアノの音色調べのことをすっかり忘れてしまいました。
  元来が非常に音程の不安定な楽器フルートで、あの転調に転調を重ねる曲を吹くのですから、完全にその幻想・幽玄の世界に引き込まれてしまい、その日以来パユの大ファンになった次第です。
  自分のワイナリー・ホールのピアノは結局ベーゼンドルファー”猫足バージョン”にしました。6500円の記念コンサートのチケットはすぐに売り切れ、翌日新潟市内の520人収容のホールで2回目のコンサートを開かなくてはならない程でした。
  この時の第一ヴァイオリンがトーマス・ティムという好青年。更にそのお父さんがライプツィヒ・ゲヴァントハウスの首席チェロのユルンヤーコプ・ティムで、その2年後(2004年)にはソロで我がホールに来演し、彼がお礼にと自分が出ているバイロイト音楽祭に私を招いてくれて…と続きました。その後は更なる山奥に私が引越したものですから、現在は音信が途絶えていますが。
  破調(これは俳句用語?)とか無調とか言われる曲が好きで、ワグナーのタンホイザー序曲もそのひとつ。自分は音痴と隣くらいの立ち位置かと自問するくらい他人の無音程にはこだわらないのも事実です。最近気付いたのですが、世に言う「音痴」というのは決して無調法ということではなく、ちょっと高尚に「無調」と呼びかえるべきではないでしょうか。何故なら音痴の人ほどよく歌をうたうのですから、もしかして私も含めて。パパゲーノの心境じゃありませんが、
stets lustig, heissa, hopsassa!
シュテーツ ルースティック、ハーイサ、ホプサッサ!
(いつも陽気さ、そうさ、そうなのさ!)
                     -「魔笛」より


104  ショーン・Kは今いずこ
TVの画面であの青々としたそり跡の人物を見掛けなくなってから早や半歳。日本中の自称インテリの人達は、「あの程度のコメントなら俺(私)でも出来るなあ」と思っていたことでしょう。でもまさかたった1時間の聴講で、ハーヴァードだかコロンビアといった合衆国の名門大卒を吹聴していたなんて、誰が考えたでしょう。
  個人情報保護法が負に作用したのでしょうか。それとも文科省が大学に金稼ぎを強く促すべく、国立大学の独立法人化を推し進めたからでしょうか。最近やたらと東京大学を筆頭に、「〇〇大学大学院終了」の経歴を目にします。ひと昔前なら、有名大学の大学院はその大学の4年を卒業するか、又は同程度の難関大学を優秀な成績で卒業した人が学ぶ処と思われていました。ところが今や大学院はeverybody is welcomeとのこと。別に学歴偏重者ではなくとも、昨今の学歴無分別(むぶんべつ)の風潮には、首を傾けざるを得ないのではないでしょうか。
  先日、或るきちんとした機関の発行している情報誌に、「ワインの世界の宝」の文字を発見して、つい読み進めると、ボルドーの醸造コンクールで優勝したり、フランス農学部門最難関の学校を卒業したり、その他色々な資格を取ったり、世界中多くの国で栽培と醸造をコンサルティングしたり、と忙しい人が出ていました。フランス人やイタリア人が彼を師と仰いで集まって来るそうな。
  気になるので、その文章を書いた人にTelしてみました。「貴方はその本人に取材したのですか。」「いえ、資料の受け売りです。」「よく調べてみることをお勧めします。だって、栽培家・醸造家としてこんなきらびやかな経歴なのに本業はソムリエだとありますよ。」
  ここで断っておきますが、私は栽培・醸造家がソムリエよりすぐれていると言っているのではないのです。感性ならきっとソムリエの方が上でしょう。人当たりも良いし、社交性に於いても作る方の人はソムリエにはかなわないことでしょう。それでもやっぱり、ワインを作ることと、ソムリエ業は両立しないと強く信じています。どちらかひとつです、極めるべきは。勿論、文章を書いた人に余計なひと言も付け加えました。本人の日本国内での最終学歴を調べて御覧なさい、と。フランス語がどれ程上手になれるかどうかは、それで分る、と。
  ディヴィスで勉強したと主張する人を2人知っています。カリフォルニア州立大学ディヴィス校の栽培・醸造学科のことです。恐らく現時点で一番実用的で理論的なワインの大学だと思います。きっと1~2時間聴講の口でしょう。何故と言って、2人ともまともなワイン作りをしていないからです。お分かりですね、教育の成果は現在に現れるのです。

105  ワイン評論家の思い違い
  先日、在京の或る大学の先生が2人お見えになり私と6時間近く話して行かれました。何やら色々と尋き取り調査の積りでいらしたのでしょうが、話題はワイン全般に及びました。新しいワイン表示法の話もしました。
  ところが話も中頃を過ぎた頃、どうも先方とこちらのトーンというか基本認識というか、それが合わないことに気付きました。話はこうです。
  先方、「良い法律が出来て、日本のワインは益々良くなりますね。」私が答えて、「益々と言ったって、今迄が全く出鱈目だったのだから、殆んどが全部やり直しですよ。」「えっ、本物の日本ワインってそんなに少ないんですか。」と相手。「ええ、よくて20軒あるかな。しかもヴィニフェラ(欧州系ワイン専用品種)だけから作っているところとなるとたった4軒かな。何なら貴方がたの知っているワイナリーを掲げてごらんなさい。」と私。相手が〇〇ワイナリー、△△ワイナリーと掲げる毎に、私は「あっそこは輸入原料が殆んど。そこは食べるぶどう主体。」と散々の批評。相手側も疲れて来ました。
  最後の方ではゲンナリした顔で若い方の先生が、「でも輸入原料依存のワインが駆逐されれば美味しくて高いワインばかりが残りますね。」「いえいえ、それは全くの誤解です。日本中、輸入原料を扱っているワイナリーに於いては、地物のぶどうで作ったワインが安物で高額な方のワインが外国物ということになるのです。アルゼンチンやチリから輸入されるワインは決してマズくはないのですよ。」と説明している私まで何やらゲンナリして来ました。論理的に思考すれば簡単に得られる答なのに、賢い先生方こそ、この落とし穴にはまるのですから不思議です。世の評論家諸氏がはまり易い、対象への「好意的性善説」とでも申しましょうか。
  以前、どこかで書いた私の文にありますが、ワインの輸入原料(ワインそのものか濃縮果汁)は麻薬のようなものです。一度それに手を染めると縁を切るのは容易ではありません。違法の麻薬と異なるのは、一応合法で価格が安いことです。似ている点は常習性と仕入れの割りに末端価格が高いことです。と、ここまで書くと日本ワイナリー協会から破門されそう。なあんて、そんな組織には勿論加盟していませんが・・・。

106  古いワインほど美味しい?
  一本のビンの中に閉じ込められている液体。一体ワインとはどんな物質の集合体なのでしょうか。間違いなく80%以上は水そのものでしょう。次に多いのはご存知アルコール。とは言ってもC2H5OHの分子式ゆえに(冒頭のCの価が2であることから)2価のアルコールと呼ばれるエチルアルコール以外にも、ワインの中には何十種類ものアルコールが含まれています。更には原料ぶどう由来の酒石酸、リンゴ酸、コハク酸等々これも何十種類もの天然の酸を含んでいます。実は他のお酒には無くワインというお酒だけの一大特徴は、この含まれている酸の多様性なのです。その他加えて原料ぶどうの生育の関係上、土壌や天候(テロワール)の違いから、色々な物質がビンに封入され、横に寝かせてのビン熟成が始まるのです。
  さて、ビン熟成中に「内部エステル化」という現象が非常にゆっくり進行します。これは上記2大グループのアルコール族と酸族が個別にクロス結合して新しい分子群を作る行程でもあります。数十と数十の掛け合わせですから理論的には数百の新しい分子が誕生することになります。出来上がるものを「エステル族」と呼びますが、総じて芳香性の物質ながら、大量に製成されるとワインの味を損なうことになります。この点、香水とよく似ていなくもありません。超スロウなビン熟成のために年中温度の安定している地下蔵が重用されるのはそのためです。夏暑過ぎたり、冬寒過ぎたりではいけないのです。
  とはいえ結果、何十億円もする精密分析機ならざる人間の鼻や口に届き得るワインの中の物質(分子)の数はというと200~250程というのが定説です。味覚はいざ知らず、嗅覚は人間の2000倍とかいう賢い犬にワイン・ティスティングをさせると意外にすべて産地を当てるかも知れません。トリュフ捜しの世界では犬や豚が活躍しているのですから、決して与太話ではないと思いますが。
  こんな具合ですから結論として古いワインほど複雑で芳香を帯びた味わいになるハズです。もっとも、原料ぶどうの酸がしっかりしていて、「内部エステル化」というビン内熟成が静かに進行したワインに限りますが。地域の温暖化が進み、結果、秋口の「酸落ち」が著しくて、以前のようなワインが作れなくなったという現象はあちこちで起きています。植え付け品種の組み替えが必要となりそうです。
  10年ほど前にパリ在住の坂口氏の引き合わせでボーヌのルモワスネの当主にお会いした時のこと。約束の時間に彼の館を訪ねると、柔道着に黒帯の出で立ちで迎えられました。当方が「わざわざ日本の国技のコスチュームでお迎え下さり、ありがとうございます」と言うと、このフランスのお爺ちゃん、「何を言われる。柔道は今やフランスのスポーツです、競技人口も日本の3倍居るのですから。次は剣道も導入してフランス国内で盛んにするつもりです。」恐るべしフランス。柔道を単なる武技として受け入れているだけでないのは、彼のカクシャクとした振る舞いからも分りました。
  入り口はボーヌ旧市街のド真ん中なのに、当主に連れられ丸で蟻の巣の如き深い地下道をあちこち歩き廻りましたので、きっと旧市街の中の他人の敷地や道路の下を経巡っていたのでしょう。自慢げに彼曰く「ナチスが来た時もこの地下蔵は見付からなかった。」最深最奥部の空間にワインのビンが床に素積みで200本程置いてあり、そのホコリだらけの山から赤茶けた紙片がのぞいていました。鉛筆書きの1948の文字。私も適当に茶目っ気がありますので、そこで長く立ち止まりこの紙片に見入ります。当主曰く、「貴方の生まれた年か。」そこだけは通訳不要で「oui」と私。当主は気軽に2本のビンをつまみ揚げ「上に行って飲んでみよう。」
  「このワインは私の祖父が作ったものだが、作ったときはブルジョワクラス(並みワイン)だった。それでも60年ビンに入れておくとこんな味になった。」淡々と話す彼の声を聞きながら、私は呆けたような面持ちで飲んでいたと思います。確かに私の生まれた年の産ということもあり、美味至極。お気付きの如く、2本目のビンは私へのお土産用でした。粋きを絵に描いたような振る舞いにウットリして辞去しましたが、あのヤワラちゃんのお爺ちゃんに似たご主人、まだお元気でしょうか。

107  モンタルチーノとモンテ・プルチアーノ
  パリ在住の高級ワイン輸出商である坂口功一氏。
かつてこの御夫妻に連れられてトスカーナ地方を旅行したことがあります。
地図で見ると、長靴の形をしたイタリアの丁度中程にトスカーナという地域があります。塩野七生(ななみ)さんの「ローマ人の物語」によると、今から二千二百年程前は共和政下のローマが地中海対岸の現在のチュニジアにあったライバル都市国家・カルタゴと都合120年にも及ぶ長い戦争をしていたそうです。仲々決着の付かなかった例の「ポエニ戦役」です。
敵の勇将ハンニバルが象の軍団でイタリア半島を蹂躙したり、当方にはスキピオという英雄が出現したりで、古代ローマ史が好きな人にとっては何度読み返しても決して飽きない箇処です。
  さて、紀元前146年に最終的にローマが勝ち、相手の国をすべて破壊してしまいます。結果、地中海全域の覇権をローマが握りますが、その前の紀元前241年には間に横たわるシチリア島がカルタゴ領からローマ領となります。塩野さんはそこでサラッと数行書き加えます。小麦の生産量が豊富なシチリア島がローマに帰属したため、それ迄ローマへの小麦供給基地だったトスカーナ(ローマの奥座敷的地区でその頃の名はエトルリア)が耕作物の転換を余儀なくされたそうです。現在のイタリア・ワイン銘醸地の誕生という訳です。
  ローマ・フィレンツェ間の国道を走ると、右に左に孤立した小高い丘が幾つもあり、天頂部は城壁で囲まれています。城壁の外はぶどう畑で覆われている、程良く小振りな城塞都市をふたつ訪れました。モンテ・プルチアーノとモンタルチーノ。どちらもワイン作りで名の知れた町です。城壁の中は石畳で道路も狭いため、城外に駐車して街中はゆっくり歩きます。丸でタイム・スリップした感じで、どれでも良いからと、レストランに入ると、城壁ギリギリの崖っぷちに席があったりして最高の気分に浸れます。勿論ワインも美味至極。
  余人は知らずとも、ワイン作りの世界で人生の殆んどを費やして来た立場から申しますと、このように古代の趣きとワインの香り漂う空間を終いの棲み家としてみたいという誘惑には仲々勝てません。ヒマを見て何度も訪れることになりそうです。

108  ディエゴ・モリナーリのこと。
  トスカーナ地方モンタルチーノ町の特級ワイナリーはそのワインをブルネロ・ディ・モンタルチーノと名付け、価格も特級です。その十何軒だかしかないブルネロを作るワイナリー当主の一人と親しく話しました。ディエゴ・モリナーリ氏、60数歳(その時私は55歳程でした)。この小さいながら名だたるワイナリーを買い取ったのは数年前で、それ迄はアリタリア航空のパイロットをしていたそう。きっと誇張も多分にはあるのでしょうが、その買収の動機が面白いのです。「いつも飛行機を操縦していて下界を眺めていたら、この小さなワイナリー(の建物と囲りのぶどう畑)がとても輝いて見えて気になっていた。定年と同時にここに住み着いて、今はいつも上空を飛んでいく飛行機を眺めるのが楽しみなんだ。」上空を通るかつての後輩が分り易いようにと、ちょっと大き目のプール兼池を作ってしまった彼。とても茶目っ気のある人でした。
  ワインを美味しく頂き、近くにとても良いレストランがあるからと案内されました。二つ星のそのレストランの名は「ポッジオ・アンティーコ」、イタリア語で古代の丘という意味だそうです。かのユリウス・カエサルが「賽は投げられた」とルビコン川を渡り、首都ローマに進軍した古街道の近くにあって、荘厳な心持ちで席に付きましたが、出て来た料理がこれ又とても美味。それもそのハズ、食事も終わる頃スーシェフが挨拶に見えたのですが、何と日本人。隠し味にチョッピリ正油等日本の調味料もあったかな、と後で思い知った次第です。
  帰り際に再びモリナーリ氏の処でコーヒーを頂いていたら、猫談義となりました。私もその当時は新潟のワイナリーで30匹程の猫を可愛がっていましたから、その話をしますとモリナーリ夫人が「ちょっと、いらっしゃい」と私を中庭に招きます。中央に高さ10メートルを超す長い下がり枝の松の木があります。松ポックリが20cm程のとても緑で房々した枝振りの樹。ところが良く見るとビックリ。何とその樹に猫が十数匹鈴なりになって、というよりは上手に密生した枝葉の上で日なたぼっこしているのです。夫人の掛け声で彼等が一斉に枝を滑り降りて寄って来る様は実に見ものでした。
  辞去する際にほんの儀礼のつもりで尋ねました。「奥様は何という名前ですか。」「ノラよ。」車に乗り込んで少し走ってから、こらえ切れずに笑いこけました。生きているうちにもう一度会いたい、誠とに愛すべき御夫婦です。

109  新大陸でのワイン・マーケティング
  1970-1990年代に新たにワイン作りをしたい人々が地球上を大きく移動しました。ヨーロッパから新大陸へ。大きな理由のひとつに、旧大陸ヨーロッパのワイン先進国が製造量規制を始め、新規に新しいワイナリーを開く、というよりも新しくワインぶどう畑を作ることが出来なくなったためです。南北アメリカ大陸かオーストラリア、ニュージーランド。さて何処へ移住しようか。この選択が彼等のその後の人生の明暗を大きく分けました。マーケティング戦略ゆえにです。
  新大陸でのワイナリー起業は一応いずこも完成、定着しますが、次にどう売るかという当り前の課題と向き合わなければいけませんでした。 日本やアメリカ合衆国、はたまたヨーロッパにまで主に原料ワインとして供給するようになった南米のチリやアルゼンチンはいざ知らず、オーストラリアやニュージーランドの一段落したワイナリーは、本当に困ったことでしょう。確かに或る品質のワインが大量に製造できるようになったけれど、それを何処で消費させるべきか。何しろ人口の少ない両国のことですから、全国民がワイン性アルコール中毒になったとしても消費量はタカが知れています。ワインというお酒は、矢張りその地を訪れてこそ愛着も湧きますので、世界で一番交通の便が悪くて訪問しにくい国のワインはファンが出来にくい。さてどうしよう。
  一昨年の夏場(ということは南半球の冬場)、面白い人物が我が余市のOcci Gabi Wineryを訪れました。朝方、私が庭の噴水池のほとりでバラの世話をしていると、我がワイナリーの本屋(ほんおく)の中を素通りして私の傍らまでやって来て、「やっぱり、ワイナリーはこうでなくちゃなあ!」と話し掛けます。丁度ひと仕事片付いた私は、このように直接話し掛けるお客が大好きゆえ、庭のテーブルでコーヒー・ブレイクに誘いました。「どちらからおいでですか?」「ニュージーランドから。いや日本では滋賀県に住んでおります。」二時間ばかりの彼との会話でニュージーランドのワイン・マーケティングの大変さを教えて貰いました。
  なんでもこの人物は東海道線の大きな駅前でお土産店を経営しているとか。何年か前にニュージーランドでのワイン作りを思いつき、或る大きさのワイナリーで或る面積のぶどう畑を借りて世話をしているそうな。実ったぶどうはそのワイナリーの醸造所で自分もお手伝いしながらワイン化し、めでたく自分の名前のラベルを貼ったビンが数千本完成。それを日本の自分の店で売ればワイナリー・オーナー気分もちょっぴり味わえるなと思っていたら、思わぬ付録が付いていたとのこと。そのワイナリーのオリジナルワインも一定量(といっても可成りの量)日本で売るのが条件なのだそうです。販売義務化されたワインが多すぎるので私にワインを売りに来たのだそうな。ご自分でワイナリーを経営してみようと思った動機の軽さもさることながら、手余ししたワインを日本のワイナリーに売ろうという考えの柔軟さに驚きはしましたものの、とても正直な人の身の上話を聞く思いで、私も色々質問してみました。
「ニュージーランドに貴方のような日本人は何人居るのですか。」全ニュージーランドを知っていると豪語するその人物の言によると、10名程同様の日本人が居て、例の有名なK氏もその一人だそうな。土地は持たず、厳密には畑も自己所有ではなく、醸造設備は勿論そのワイナリーの所有で、日本に帰ったらニュージーランドでワイナリーを経営している、と吹聴している人々のことです。
  カスタム・クラッシュ(間借り醸造)とカスタム・グローイング(間借り栽培)がセットになっていて、何やら背中を冷たい風が吹き抜ける思いです。売上ノルマを課せられた銀座のチーママみたいな感じです。
  先日、有名航空会社の会報誌にオーストラリアはハンターヴァレーにも同様の日本人が居るニュースが載っていました。そんな鵜飼の鵜みたいなことしてないで、北海道に来ればいいのに、と思うことしきりです。
  前述、「やっぱりワイナリーとはこうでなくちゃあ!」の続きは、「敷地も広々していて庭もきれいで、大きなぶどう畑に取り囲まれて、とこうでなければワインは売れないよね」です。どうせ誰も向こうまで確かめに来ないのだからと、東海道線の駅前でニュージーランドの自前ワインといって売ってもお客が納得しないということでしょう、きっと。

110  ヘミングウェイ①
  村上春樹がスコット・フィッツジェラルドを持ち上げ、返す刀でヘミングウェイのことを馬の骨の如く言うのを、痛快なる思いで読みました。私も青年期にヘミングウェイを読んで面白いなと思いながら、何やら物足りなさを感じたのは、ああこんな訳だったのかと納得した次第です。
  入った大学に小野喬一という英米文学の教授がいらして、ロスト・ジェネレーション等の解説をなさる。ジョージ・オーウェルやアーネスト・ヘミングウェイは通り過ぎて、アラン・シリトーやらウィリアム・サローヤン、ジョン・アップダイクと進む。本来は英文で読むべきところを、先回りして良き翻訳書の方を読んでしまう劣等生の自分ながら、この教授のことは現在でもフルネームで覚えているくらい好きでした。何をと言って、英文学者である前に人間としてとても誠実な語り口、振る舞いの人だったから。風貌がその時期に亡くなった自分の父に似ていたことも多少関係しているかも知れません。
  さて、それはさて置き、ヘミングウェイにまつわる話を二題。ワイン地帯を見に行ったり、絵画を見に行ったりした時にスペインのマドリ(と現地の人は言う、正確にはマドリード?)にはよく立ち寄るのですが、現地の案内書で見て中心地にある有名レストランに行ってみました。1976年のことで、店の名前は“El Botin”。創業は1600年代とのこと。サザエの殻の中をラセン階段で下りて行くような作りの空間で、名物料理の「豚の胎児の丸ごと炙り焼き」と「イカスミのパエリヤもどき」を注文しました。まあ味は悪くなかった。この店の謳い文句が「世界で最初のレストラン」というのと、「ヘミングウェイがよく訪れた店」。前者はいざ知らず、後者は彼がスペイン内乱の頃やその後「誰がために鐘は鳴る」等執筆のためによくこの街を訪れていたのは知る人ぞ知るですから、「ほう、そうか!」と思ったものです。ところが満腹となり店を出て振り返ると、この店の向かって左隣りにもうひとつ似た感じのレストランがありました。その看板には大きく、”Since1960.Hemmingway has never visited our restaurant.“ こういう諧謔が死ぬほど好きな私です。きっとこの店主のこと、ヘミングウェイを偽善者と罵った口でしょうか。
  それにしても10代後半20代と松本清張を読破したと思っていたところ、丁度頃良くその批判書が出されました。曰く、社会派推理小説を気取るのは結構だが、筋書きが予定調和的で余りにも旨く出来上がり過ぎていて、あり得ないとバッサリ。そういう視点で見ると、アラ本当だとなってしまい、それ以来彼の作品は評価出来なくなったから不思議です。

112  マルチリンガルのミル
  ドイツのワイン学校時代の一期上にカミーユ・シュラームという仲々の美青年が居て、入学早々友達となりました。ファーストネームが典型的なフランス名で姓がドイツ風。そうです、彼の家はルクセンブルグにありました。フランス語がとても上手でした。(当り前です、母語ですから。)
  失礼な言い方かも知れませんが、ヨーロッパ大陸で何処といって一番ごちゃごちゃしている地域に、周りをベルギー、フランス、ドイツに取り囲まれた形で一都市一国家のようにこの国があります。国際経済・金融都市(国)ながら、郊外には農地も広くあります。そしてきっと合計10軒はないと思われるワイナリーの一軒が彼の家。決して小さくはありません。
  二十歳をちょっと過ぎたばかりの良家のボンボンと私。私は決して良家の出身然とはしていないものの、端から見れば、どちらも頼りなさそうなお兄ちゃんが二人で、しかも彼の運転する“deux chevaux(ドゥーシュヴォー=2馬力)”の異名を持つシトロエンの軽乗用車で出掛けたのですから、思い出すだにニンマリしてしまいます。私の住んでいた学校の町とルクセンブルグは、しかし意外と近く300km弱。玄関で出迎えた御両親の風貌や風格も貴族的で、ちょっとたじろぎはしたものの、生れ付き気遅れとは無縁な私ゆえ、きちんと御挨拶しました。気遅れしないコツ、それは自己を卑下せず自分の能力に自信を持つこと。(幸いドイツ語の会話能力にはかなり自信を持っていましたし、シュラーム家は全員マルチリンガルでした。)
  ここでちょっと横道に外れて、風貌、外観のこと。両親の顔立ちとは大きくかけ離れた器量の娘さん息子さんに会うことが時々ありますが、そのような時、頭を横切る考えは次のようなもの。このお母さん整形美人かしら、それとも本当の父親は違う人なのかしら。いや両親は突然変異で器量が良く、子供達には先々代の形質が復帰したのかな、とか。きっと理由はきちんとあるハズです。人生も最終楽章を生きる身としては、なんでもひとつひとつ結論付けながら自分の頭の中を整理しておきたい。そんな感じですので、こんな考え方をするのでしょうか。
  さて、ルクセンブルクの大きなワイン醸造所とぶどう畑を持って、ちょっとした邸宅に住むシュラーム家の御当主夫妻。学友のカミーユ君(ニックネームはミル)の話では姉が二人居るとのことなので、さぞや清楚な美人が、と胸をときめかせました。台所で特別な夕食の仕度をしていた20代半ばの下のお姉さんも、夕食事に帰宅した上のお姉さんも映画雑誌「スクリーン」から抜け出して来たような超美女だったのには驚きましたが、どちらもフィアンセ同伴でしたので、こちらの胸のときめきはそこまで。下のお姉さんがこしらえた肉料理に手製のコロッケと、生ニンニク汁をたっぷりとかけた青葉サラダの味は、いまだに記憶に残っている程の美味しさでした。
  この家に3泊していた或る夜、年末の大パーティーが大樽の居並ぶワイン蔵で開かれました。2m以上の高さの大樽の上部の口から細長いゴムチューブが固定して垂らしてあり、地上1m位のチューブの端はクリップではさんであります。200名近い招待客は各々左手にワイングラスを持ち、クリップをつまみながらグラスに好きなワインを注ぐのですが、何しろ相手が数千リットルの樽ですから、しかも何十もの樽の6つ8つにはそのゴムチューブが下がっているのですから、豪快です。いくら飲んでも決して無くなりません。料理もふんだんに用意されていて、全員夜通し飲み明かそうという雰囲気で、実際翌朝まで殆どの人々が居残り楽しみました。
  ドイツのワイン地帯では5月下旬に三日三晩飲み食べ続ける催しがありますし、ミュンヘンのビール祭であるオクトーバーフェストでは2週間丸々あの大テントの中に居続ける豪の者も居ると聞きますが、シュラーム家の年一回のこのパーティーも人々に伝えるべきもの、と時々思い出します。現在ではこのミル君が当主と聞きますから、近いうちに訪ねてみようかと思っています。きっと喜んでくれると確信しています。
  お前の所でもそれをやれ、と言われても日本の法律(酒税法)上、製造途中のワインの飲み放題のパーティーは御法度です。ちょっぴり残念ですね。ディオニュソス神話にある乱痴気パーティーみたいで宣伝には打って付けなのですが…。

113  北海道でのワインぶどう栽培
  6月30日。空知地区のぶどう畑を見て歩きました。
別に公(おおやけ)から依頼された訳ではありませんが、多雪地帯の空知がこの冬の超少雪や5月・6月の記録的多雨・寒さをどう乗り切っているかを観察するためにです。
  一般に多雪地帯では、1月2月の極寒期、ぶどうの芽は自然に深く雪の下に埋もれ保温されるため、凍結して組織が壊れるということはありません。ところがどうでしょう。この冬空知地方、特に岩見沢地区は異常なほど雪が少なく、ぶどうの樹の最上部が雪外に露出してしまいました。俗に「眠り病」と呼ばれる冬眠芽の凍害が出たのでしょう。6月末にも芽を出さない樹が多々ありました。もっとも根本近くは凍害に逢っていませんので、そのあたりから新芽がたくさん出て、来年、再来年と復活する可能性もあります。それが、「眠り病」の名の由来です。丸2年間もしくは永久に収穫量が見込めなくなるのです。
  余人はいざ知らず、果樹を栽培している人々は毎日天気図と、天気予報をよく観ています。5月・6月・7月上旬と晴れた日よりは雨日が多く、梅雨の様相を呈しています。別にイジワルおじさんでも何でもなく、興味があるからこそ気象異変の結果を見て歩く私ですが、案の定、何処でも一生懸命農薬散布をしていました。丁度開花期前後にきちんとケアしないと秋は収穫を見込めないからです。無農薬・天然酵母派(自然農法派)の完全なる敗北です。農薬使用が顕在化した以上、彼らは方針転換をするのでしょうか。それにしてもこの多雪地帯が今後も少雪となるのであれば、確実に栽培方法を変えなければいけないことにもなります。大変ですが、興味深く見守りたいと思います。

114  アロイス君のこと①
  かつて西ドイツでぶどう栽培とワイン作りを学んでいたころの級友にオーストリア人の青年がいました。アロイス・シェアツァー君、17才。その時私は26才ですから、可愛い弟のような存在でした。いまだに親交が続いていますが、微笑ましい思い出を沢山作って呉れた真の友人です。
  大の日本ファンで、入学式の日にカローラの新車で乗り込んで来ました。又、私は学校の在る町のスポーツ・クラブでサッカーのレギュラー選手となりましたが、彼は近くの町の道場で柔道の稽古に汗を流します。日本人の師範が時々来るというので一緒に出掛けると、そこは知る人ぞ知るベルツ博士ゆかりの柔術場。明治初期、我が国で医学を教授したあの高名なドクターの出身地が、学校のある町から15分程のところだったのです。そのすぐ近くに大詩人フリードリヒ・フォン・シラーの生家があり、更にそのすぐそばにダイムラーとベンツが創業したかの有名な自動車会社があったりと、何やら近代ドイツ史をなぞるような地域でした。本当に今でも殆んど信じがたいような話です。
  生まれて初めてのパリ旅行も彼と一緒にカローラで。耳学問ながら、私のほうが彼よりもパリ情報には通じていましたので、ルーブル美術館へ行ったり、ラーメンを食べたり、学生街へ出掛けたり。夕闇迫る頃は、例の丘の上のサクレ・クール寺院のとても大きな階段に腰掛けて、色々話し合いました。彼曰く、「僕はゲルマン系だから、正直言ってフランス人は嫌いだ。でもそれだからこそ隣りの国のパリは一度見てみたかった。でも君はこんなフランスにどうして興味を持つの?」私が答えて、「この国がなかったら、現代の民主主義も自由主義も無いと思う。ちょっぴりいい加減だけれど必要な国なのさ。」「ところで、さっきからこの大階段に座っている人達は大声でフランス語の歌を歌っているけれど、これ好き?」と彼。シャンソンであったり、ラ・マルセイエーズであったりと、本当は好きな曲が多かったけれど、そこは少し相手の気持ちを忖度して、「ううん、僕はいつも君もほめて呉れるように、ベートーヴェンやモーツアルトの方が好きさ。」得意の口笛でアイネ・クライネ・ナハトムジークの一節を吹いたものです。
  「僕の家から40kmの処で生まれたウォルフガングの曲を、どうして10000kmも離れた処の君の方が僕よりよく知っているのか不思議だ」が彼の口ぐせでした。

115  アロイス君のこと②
  西ドイツとの国境近く、モーツアルトのザルツブルクとヒトラーの生地ブラウナウの間近くにある、小さな小さなウーツェナイヒという寒村に暮らすアロイス君。私はドイツのワイン学校在学中に十数回彼の家を訪れました。物凄く大きな農家です。先祖伝来の畑が100ha程あるところに、隣地のもっと大きな農地を持つ家の長女を嫁さんに貰ったものですから(その家にはあと妹が2人きりだったものですから)、それも相続して200ha以上の個人農家。制度上、日本には滅多に存在しない豪農です。農地の殆どは小麦畑ながら、10ha程はりんご畑、2ha程はイチゴやサクランボ、プルーンの畑。醸造所も所有しています。気温がワインぶどう栽培には適していないため、リンゴの酒(シードルのことでドイツ語ではモスト)、そしてそれを蒸留して作るシュナップスという40度前後の強いアルコールも作っています。
  最近では観光にも目覚め、夏の涼を求めて訪れるイタリア人達に提供すべく、十数室の中長期滞在型ホテルも経営しています。畑も小ぎれいですが、建物群を取り囲む庭の素晴らしいことといったら。一見の価値ありの情景を四方に巡らしています。  
  かつて彼も私も若かったころの真冬の話。彼の家に長逗留しながら、彼の弟達や妹達(計5人)と楽しく時を過ごしました。アロイス君の「オチはウォルフガング・モーツアルトの曲を幾つも知っているよ」に、弟・妹たちが、「じゃあ、この曲知っている?」、「こっちの本の曲は?」と次々と唱歌集(小・中学校の音楽の教科書でGesangbuchゲザングブーフといいます)を取り出して来ます。小中学校は合唱部に所属していた私ですから、彼らと一緒に歌いますが、次から次と知っているメロディーの多いことと言ったら。かつての文部省が選んだ日本の唱歌のかなりは原曲がドイツ語なのが判った次第です。「蝶々」しかり、「夜汽車」しかり、「仔狐こんこん」しかり、「遠足」しかりです。かの滝廉太郎の歌曲もドイツのメロディーの影響を確実に受けています。
  一番賢そうな妹が、「じゃオチこの曲は?」と歌ったのは、これも日本では誰でも知っている「清しこの夜」。彼女曰く、「この曲はね、あの丘の向こうにあるチャペルの神父さんが作ったのよ。」私が、「えっ。その人グルーバーって名前?」「えっ。オチ知り合いなの?」。とてもびっくりしました。「ベアテ(妹の名前)、この曲は地球上のとても多くの人が知っているよ。君の家族はこの曲がこの家から数km以内で作られたことをとても誇りにしていいと思うよ。」
  こんな案配で、私は今でもこの家族が大好きです。
Stille Nacht, heilige Nacht. (シュテーレ ナーハト ハーイリゲ ナーハト)
静かなる夜、聖なる夜。
Alles shlaeft,einsam wach.(アーレス シュレーフト アーインザム ヴァーッハ)
皆は眠り、独りは目覚め。

116 EPAについて
  EUと我が国の経済連携協定、分かり易く言えば、貿易協定のことです。かのトランプ氏がストップをかけたままのTPP(環太平洋パートナーシップ協定)は日本と南北アメリカ諸国、オーストラリア、東南アジア諸国等々の間の貿易協定でしたが、今回のEPAは相手がEU(ヨーロッパ連合)。日本車がEUに入って行くときにかけられているEU側輸入関税を現行10%から0%にしよう、逆にEUから日本に入って来る農産加工品にかかっている日本側輸入関税も撤廃しよう、というような内容です。現行チーズは30%、ワインは15%程だそうです。
  先頃(7月初旬)全国紙の記者が取材に来ました。ワインの本場ヨーロッパ発のワインが軒並み安く入って来ると国内のワイン業界は困るのではないか。(現在115の価格が100に下がるのですから100割る115で約13%値下がりすることなります。)国内のメーカーのワインも値下げに動くのか、という質問です。
  私の分析はこうです。日本のワイン市場は、かなり特殊で、完全に二極化した価格帯が存在しています。一本250円以上800円前後までの低廉ワインと、1200円以上の中級ワイン。余り味にこだわらず沢山飲みたい人は前者を、ちょっとこだわったり、贈り物にしたい人は後者を選びます。ところが、ヨーロッパからの輸入ワインは国内メーカーのワインとは異なり、低廉、中級、上級、特級、超特級と5つに分類すべきです。上級は5,000円以上、特級は10,000円以上、超特級は20,000以上と仮に設定したとしても、この価格ゾーンに国内産の対抗馬は殆ど存在しません。何故でしょう。答えは簡単で、高付加価値型のワイン作りをしようという人が殆ど居ないからです。何故高いワインを作らないのか、いや作れないのか。現在までの殆どの国産ワインが食べるぶどうか、外国(特に南米)から輸入した液体だったからです。運賃・手数料込みで一本分百数十円で手に入れたものをビンに詰めて、胡麻化して売れるのはせいぜい2~3,000円まで。それ以上の価格で売ったら天罰が下りますし、良心も痛みましょう。
  EPAと同時並行して、日本国内のワイン法が大転換します。外国産のものをビン詰めして、知らん振りして「国産ワイン」と名乗って売ることが禁じられるのです。(2018年10月より)。どうですか。輸入関税撤廃以前の問題があることにお気付きですね。迎え撃つ方の武器が実は空砲なのです。
  ついでに面白い話をもう一つ。現在スーパーやコンビニで250~500円で売られているスペイン・ワイン。これは確実に南米アルゼンチンやチリから旧宗主国スペインに運ばれてビン詰めされた、「南米産・スペイン内ビン詰め」ワインなのです。「アルゼンチン・チリ産ワイン」はそのまま正真正銘アルゼンチンやチリで生産・ビン詰めされています。日本の円に比べ、アルゼンチンやチリの通貨ペセタが殆どゼロに近い価値だからこうなるのです。
  最後に、国内で上級・特級ゾーンのワイン作りは可能なのか、という問題です。答えはyes。良いぶどうを作ればよいのです。そして良い設備で醸造・熟成し、良きお客様を自ずから組織すればよいのです。決して無農薬とか、天然酵母とかマジック・ショーの目呟ましをしないでです。

117  ガウアー君の思い出
  フルネームはジェームズ・ロス・ガウアーで西ドイツのワイン学校時代の級友です。出身地は南アフリカ連邦共和国のケープタウン。マンデラ大統領出現以前のかの悪名高きアパルトヘイト時代のことですから、余りそのことに触れずにお付き合いしていました。支配階級側の白人で、どう見ても金持ちのボンボン然としていて、乗っている車もアルファロメオのコンバーチブル「スパイダー」。今はケープタウンに住んでいても、御先祖様はドイツ系イギリス人だったそうで、英独両方の言葉を話し、現に西ドイツにも遠く繋がる家系が幾つかあるとか。
  或る日彼に誘われて彼の遠縁の家に連れて行って貰いました。学校より西に100kmほど離れたプファルツ地方に住むモッツェンベッヒャー家。いまだ広い敷地(領地)を持つ貴族で、勿論ワイナリーも経営していますが、50才代の当主が夕食を御馳走して呉れるということになりその席に臨みました。肝の座った私でも唖然とするような造りの部屋に通されて、例のNHK深夜放送番組もどきの貴族の正餐(ディナー)を体験する仕儀となりました。30畳程の豪華な部屋には長径10m余×短径2m50程の楕円形テーブルが置かれ、当主と私は10m離れて対峙し友人ガウアー君と当家令嬢は2m50で向かい合います。一応ネクタイに背広で出掛けたものの、その雰囲気の荘厳さといったら。私の人生で一番高級感のある夕食の席でした。ワインは確かに美味しかったものの、お蔭様で料理のことは丸切り覚えていません。何を話したかもおぼろですが、ひとつ記憶していることは、とても大きな声で会話したことです。そうしないとお互い聞こえないからです。もっともドイツ語はひそひそ話し合うのには元々向いていない言語ですが・・・。
  他日、学生寮内で彼が私の部屋をノックした時のこと。ロック、ビートルズ、ジャズ、シャンソンと何でも好き人間だった私は渡独を機縁にクラシック音楽にのめり込んでいましたから、部屋ではソニーのステレオ・キットを据え、手あたり次第街でLPを求めて聴いていました。彼が部屋に入って来たその時に聴いていたのが、ベルリン・フィルを相手にカール・ライスターがクラリネットを吹く、モーツァルトのクラリネット協奏曲。レコードのジャケットには大きくヘルベルト・フォン・カラヤンの写真があります。
  音痴のガウアー君曰く、「あっ、この男ね、僕の遠い親戚。今度彼の別荘でのパーティーに招ばれているんだ。君も一緒に行くかい?」もうその頃は私もカラヤンという人物がどの程度の大人物か知っていましたし、前回モッツェンベッヒャー公爵だか伯爵だかの処でちょっぴり冷や汗をかいた記憶も残っていて、そして確か当日はサッカーのリーグ戦の大事な試合があることもあって断りました。
  人生、あの時断っておいて良かったという事柄は多いものの、このカラヤン氏に会いに行かなかった件だけは、今も「ちょっぴり残念のファイル」に入れてあります。
  こんな愉快な友人ガウアー君も日本のワールドカップ出場が決まって、2002年6月にケープタウン(ドイツ語ではカープ・シュタット)に訪ねて行く約束をしたのに、その数カ月前に亡くなって再会は叶いませんでした。(享年52才)残念です。

118  欧米人の姓名考 
  家への帰属意識が強い日本では他人同士の場合、姓で呼び合うことが多く、反面、家というよりは個体として主張したがる性癖の強い個人主義の欧米では、少し仲良くなるとすぐ名前(ファースト・ネーム)で呼ぼうということになりがちです。その際面倒なのは彼らが少なからずもうひとつの名前(ミドル・ネーム)を持っていることで、しかも本人がそれを所望する時。前出南アフリカ連邦共和国出身の級友ジェームズ・ロス・ガウアー君は本人の希望ではロス。その意に反して級友達はジェームズと呼び、私は彼が由緒ある家柄の人間なのを知っていたので、終始、ガウアー君で通しました。本人はきっと笑っていたことでしょう。僕には3つ名前がある、と。
  欧米人のミドル・ネームには、しかしもうひとつ効用があります。家長(父親)が同名(同じファースト・ネーム)の場合です。これは是非2番目の名前(ミドル・ネーム)か独自のニックネームで呼び合わないと、家庭の中でさえ混乱してしまいます。実際ドイツの同級生のうち2人はその家の規則として長子が父親と同じ名乗り(ファースト・ネーム)でした。固定電話の時代でしたから、ガールフレンドからの電話に父親が出ることになりかねません。
  ニックネームについては、こんな経験をしました。前出のガウアー君は真白い肌で小肥りのいかにも豚にちなんだニックネームが付きそうな体付きの人間でしたが、彼は先手を打って自分に次ぐ小肥り系の級友に「ポーキー」と名付けて、自身に豚系のニックネームが付くのを防ぎました。
  私は町のサッカー代表としてプレーしていましたが、足が速い左ウィングの私に対して、中央で点を決めて呉れるセンターフォワード氏のニックネームはKartofel(カートーフェル)。日本語でジャガイモですからダサイあか抜けしない男かといえばさにあらず。ドイツ人にとっては大好物の主食ゆえ、そんなマイナーなイメージではなく、唯、頭の形がいつも坊主刈りでジャガイモに似ていたから。とても頼りになるポイントゲッターで私も他の皆も彼を好いていました。
  西部劇によく出て来る酒場(サールーン)のガラクタ・ピアノのラグタイム風メロディーに合わせて歌うポール・マッカトニー作“Rocky Raccoon”の一節が好きです。
Her name was Magill, 
and she called herself Lil,
but everyone knew her as Nancy.
彼女の名はマギルで、
彼女は自分のことをリルと呼ぶ、
でも皆にはナンシーの通り名で知られていた


119 温暖化のスピード
  完全に自暴自棄の国と化した北朝鮮の動きに心を騒がせ、その反面隣接国の事なのに不思議と冷静な韓国の対応に、何やら例え難い不信感を募らせている日本の私です。しかし冷静に地球規模で観察しますと、当のアメリカ合衆国やら、遠い彼方のヨーロッパ諸国の人々にとっては、残念ながら我が日本のことは割合どうでよいことのようです。それはあたかも2年程前ギリシャ問題を抱えていたEUに対して我が国がとった態度の裏返しのようでもあります。自分の国にとっては火急の事ではない、と。
  この図式を下敷きに考えると、EUと我が国の温暖化に対する危機感のレベルの違いが丸切り異なることに気付かされます。つい先日EUの中でも最後発の感じで、英国とフランスが2040年以後のガソリン・ディーゼル車の販売を禁止する法律を成立させました。先立ってドイツは2035年とのことです。すべてそれ以降はEV車(電気自動車)系に置き換るというのです。(因みに近くて遠い国の中国では2019年よりEV車促進法が施行されます。)
  要は、目に見える温暖化現象、そしてその現象がそこに住む人々に与えるインパクトが完全に次元の違うものなのです。思うにかつて3年前ロシアのソチ・オリンピックの時に、欧州大陸でスイスアルプス等万年雪地帯以外が無雪に近い状態になったのを見て人々は怪しみ始めました。そして、その後冬の終り頃とでもいうべき3月にドイツでも平気で日中20℃以上を記録する年が続き、歴史始まって以来の気象異変となりました。  
  この春アメリカの非常にアホな大統領がパリ条約離脱を表明した時、日本の人々はいざ知らず、欧州諸国の人々はアメリカに愛想を尽かしたと思います。私自身は他の諸々の理由からアメリカを大きく評価はしていますものの、歴史的に見てこの国は何十年に一遍の割合で、他の人類が信じられないことを平気でやって世界を唖然とさせます。人気投票的な大統領制、そしてその唯一の人物が大きな権力を有するところに問題の起点があるのはよく知られているところです。
  僅か20年前まで欧州のワインぶどう栽培の北限がフランスのベルギー国境近くにあるシャンパーニュだったのが、現在では中部イングランドやスウェーデン南部にまで北上したのは知る人ぞ知る大きなニュースです。
  日本のワインの法律が大きく様変わりして、今迄通りアルゼンチン等のワイン最安値国からこっそり輸入しての「国内ビン詰め替え」の如き手品が使えなくなった時、じゃあ仕方なく原点に却ってワインぶどう畑を作ろうということになりました。その時、単に広いひとかたまりの土地が手に入るからと、北海道中西部が人気を博した訳では決してなく、この20年我が国でも静かに進行していた温暖化を考えた上での北海道選択だったことは、不肖私の新潟から余市への転戦でも、現在証明されようとしています。
  我が余市のOcciGabi Wineryでは、醸造所の周りをきれいな大きな庭園で囲み、その外側60,000㎡の畑をすべてフランス系ワインぶどうにしました。もうこの40年間のように早熟・早や飲みのドイツ系ぶどう一辺倒の時代は終わったとばかりにです。植え付けから3~4年経って、そのぶどうがたわわに実っています。どの様な縁でか、この7月30日以来我が家の一員となった老甲斐犬「カイ」と共に、この12品種のぶどう畑を散歩しながら、もう8割方成熟したぶどうの粒を味見して歩く時の気持ちの高まりは、私のワイン作り
45年の中でも最高のものです。
  真のワイン作りというものが、そして我が国で最高のワイン作りがこの地北海道から発せられる、今年はその始まりなのだという想いしきりです。

121  日本食文化の伝導者フランス
  現代に暮らす私共がつい忘れがちなこと、それは現代を創り出すもととなった近世の歴史です。特に現代に於いては、自由に発想し、自由に自分の意見を述べられることが当たり前となっているため、ほんの少し前の時代にそのような行為が殆ど不可能だったことを全く忘れてしまっているようです。
  今から僅か240年前のフランス革命。もし、この価値観の大転換とでもいうべき革命が起きず、続いてナポレオンが出現して欧州中の封建制(王制)を潰して歩くことをしていなかったら。歴史にifは無いと言いながら、私はこんなことを考えるのが好きです。あの時あの革命が無ければ、今の自分はどういう暮らしをしていただろう…と。
  民主主義、自由主義の台頭が豊かな発想を育み、諸々の有益な発明を喚起したことは確かで、そしてそのことは又、歴史の逆回りたる封建主義の再興を強く妨げたハズです。
  たまたま私の人生が現在田舎にあってぶどう栽培を業としているため、これが徳川時代ならば、と思うことがあります。栽培作物の自由選択は勿論許されず、自分の労働や努力は決して正当に評価されず、いつも領主様の御意向の通り頭の中をカラにして働き、病いを得れば人生はそこで終り。精神の自由性や人生の満足度に於いて、あの時代と現代の違いは歴然としています。
  欧州の一隅に住むフランスの人々が近世の歴史に於いて、何故人類の民主化・自由化の梃子となる役割を果たさなければならなかったのかは謎ですが、その後もこの国民は、次々と人類にとってユニークなアシストをし続けています。空間芸術たる美術に於けるフランスの大いなる貢献に異を唱える人は居ないでしょうし、又自由音楽たるジャズの有意性を発見し世に拡めたのも彼ら。そして今、食の文化に於いても又々面白いことを画策しています。
  東洋の中華料理と西洋のフランス料理。東西の双璧の如く持て囃される二つの料理ですが、近年この二巨頭の間に我が日本料理が割り込んで来ているのを皆さんご存知ですか。しかも日本の普通の家庭料理がです。
  パリでは寿司ならぬ幕の内弁当がブームと聞きますし、daciや oumami(うまみ)というフランス語まで現れたとのこと。先進諸国の中でも長寿の国・日本。特に女性は特別に長寿で、ITを通じて視覚的に接することが容易になった現在、何故日本の女性だけが中年以後も肌がきれいで、多少老齢化してもいつまでも小可愛いのか。その答えは日常食にありとばかりに、幕の内弁当が研究されているフシがあります。少しの御飯に7つ8つのお菜。それぞれ形や味で細かい工夫がされていて、とても美味しく至ってヘルシー。よし、じゃあ私も日本人の日常食とでも言うべき幕の内弁当を一度食べてみよう。そして一度食べたら、「えっ。日本の人ってこんな素晴らしいものを毎食のように食べているの?」となります。
  それもそのハズ、よおく考えてみてください。欧米の食事は超高級なフルコースでない限り、基本は一食一菜プラスサラダくらいが普通です。ところが我が国日本の食事は違います。都会のサラリーマンは昼食を西洋風に摂る人も多いでしょうが、夕食は一般に多彩な料理を楽しみます。
  海外渡航歴の多い私が胸に手を当てて深く考えますに、きっと日本の食事は色々な意味で世界一だと思います。その証拠にフランス人が、自国に鰹節工場を作ったり、椎茸の栽培をし始めました。文化の伝導者を自認する彼らのことですから、自分の国で拡め、次は世界中の国々に拡めようとすることでしょう。お蔭様で8月末のニュースで伝えられていましたが、「にんべん」のカツオブシが十数パーセント、「はごろもフーズ」のシーチキン(中身は鰹で、現在その原料の魚が日本国内で不足気味)が三割近く値上がりしているとか。恐るべし、でも本心はちょっぴり嬉しいですね。

122  Kazuo Ishiguroのノーベル文学賞
  確か10年以上前のこと。週刊誌か新聞の書評欄で“純粋の日本人が書いてブッカー賞を受賞した作品”の記事に接し、興味を持って新潟市内の書店へ。書棚には勿論並んでおらず、取り寄せで手に入れた翻訳本が「日の名残り(The Remains of the Day)」と「私を離さないで(Never Let Me Go)」の二冊でした。両親は生粋の日本人で長崎で生まれながら、幼少期にイギリスに渡り、そのまま英国で大学院教育まで受けて、英文の小説家として生き、29才で英国に帰化したそうです。英語で小説を書いて、しかも芥川賞クラスの賞を取るのだから、物凄く頭の良い人なのだろうなぁと思いながら頁を繰りました。
  考えてみれば不思議な話です。日本人の私が、自分から見て英語力で遠く及ばない帰化日系英国人の評判作品を、日本語訳で読もう(楽しもう)としたのです。シェイクスピアに劣らぬ名文だったかもしれないのに、原文では読もうとしないのですから、韻律も語調も、文章の趣きも何もかも中途半端な物語を読んでしまったのかも知れません。翻訳者への他意は決してありませんが、所詮翻訳そのものに限界があるのですから仕方ありません。The Remainsのストーリーは、多少胸にジーンと来るものではあったものの、へぇ~この程度でブッカー賞かという思いでしたので、きっと原書は名文だったのだろうと想像します。Never の方はしかし、読んでいて辛く悲しくなる本でした。その頃私のドイツの友人達が「最近スラヴ系の人間が我が国に自由に出入りするようになって、少年少女の行方不明者が増えた。きっと移植する臓器用に誘拐しているに違いない」と、しきりに噂していた時期だったせいもあるのでしょう。臓器移植目的型人間飼育がテーマですから、喉が詰まりそうになり、三冊目の購入に走らなかった記憶があります。
  それにしても、今回の受賞者発表は滑稽でした。私の如きヘソ曲がりではなくとも、思い至った人は多いことでしょう。ノーベル賞選考委員会からのいわゆる「ハルキスト」達に対する、ちょっとしたイヤガラセの感じがします。「どうか日本の皆さん、私達に圧力をかけないで下さい」と。ちょっぴりはハルキ・ファンで、内心カズオよりはハルキの方が上だなと思っている私としては、陰でハルキスト達を煽っている某出版社こそがハルキのチャンスを潰したと思ってしまいます。自分の会社の利益のために。地球上に国も言語も二百三百あり、様々の文学があるのに、それに優劣を付ける。殆ど不可能なことをしている訳で、それ故一度日本人が受賞したら(受賞者は出生国で分類登録されるそうです)次は何十年も廻って来ない。ハルキにはあげたかったけれど、外野席がうるさ過ぎるから、カズオにしてチャラとしよう、みたいな雰囲気です。TVでも当のIshiguro氏が「僕よりもっと違う人が居たのではないか。例えばムラカミ氏のような」と言っていたくらいですから。
  昨年のBob Dylannには馬鹿にされ、今年はちょっぴりIshiguroに皮肉られて散々のノーベル財団です。アウン・サン・スーチー(平和賞)の誤選例もあることですから、選考基準を考え直すとか、いっそのこと止めてしまうとかのところまで来ているような気さえします。

123 取りやめる勇気
  かつて私が新潟市の南郊でワイナリーを営んでいた時のこと。初秋の或る日曜日には、近くを通る海岸沿いの風光明媚な国道を昼頃3時間余にわたって封鎖し、トライアスロン・レースを開催していました。主催は合併される前の巻町という自治体で、町役場の職員やら町内会の人々が運営に当たります。
  海峡を挟んで40km向うの佐渡では、その少し前後の時期に世界的に有名なトライアスロン・レースが行われ、世界中から有力な選手とその支援者達が島を訪れて埋め尽くし、まさに沸騰した数日間となります。「佐渡に2大イベントあり、それは鼓童(こどう)の演奏とトライアスロン」と言われ、知っている方も多いと思われます。
  しかし、それを横目で見ながら手軽に真似して始めた対岸の我が町側のトライアスロンは、遊び半分の家族レースムードが祟ってか、年を追う毎に参加者数は枯れて来ました。すると怪しげな人物が出て来て、身障者トライアスロンに切り替えようと言う始末。これを機に代替え道路のない国道を閉鎖して行うことへは沿線事業者達からの反対論も出て来ました。運営側でも、町役場の職員は出勤扱いで有給なのに、町内会の人々は完全無給のボランティア扱いで互いに揉め始めます。結果、丸切り違った理由から中止となりました。その時そのコース延長上の海岸線に原発を予定していた東北電力が、我が国で初の住民投票による否決を受けて、賞品・飲み物等々諸々の支援スポンサーを降りてしまったからです。
  その地域で世にも珍しいワイナリーCaved’occiを経営していて、常に一風変わったコメントをする私の処に早速新聞社が取材に来ました。「どう思いますか?」と。私の答は明解です。「世に第〇回と回を重ねること自体に目的を置いているようなイベントは、物事を深く考えない人々の所産です。取りやめる勇気こそ必要です。」
  子供もまばらなのに、軽四輪トラックに御輿を載せてはしゃいでいる大人達の顔を見ていると、集めた寄付で飲み食いする会のことばかり考えているように見えます。又、我が余市で2月に行われる余り行儀の良くない「ワイン飲み放題祭り」も、ワイン作りに関わっている私としてはやめて欲しい。「ワイン地帯余市の品位を下げる会」みたいですので。それにしても、ワイン新法施行年の2018年も行うのでしょうか。出品協賛会社の大半が新しい法律に触れているのですが…。

124 「新ワイン法」考察Ⅰ
  いよいよです。国(国税庁)のHPにも明記されていますが、来年(2018年)からワイン製造の法律がガラリと変わります。ポイントは2つあって、先ず外国由来の原料(ワインそのものや濃縮果汁)で作られたワインは従来のように「国産ワイン」を名乗れなくなります。そしてもうひとつ。例え国産のぶどうで作っても、そのぶどうがそのワイナリーのある市町村産でなければ「〇〇ワイン」と地名を冠することが不可となります。試行準備期間のこの2年半の間、私自身多くの同業他社の人々と話をしましたし、いわゆるワイン・ジャーナリズムの取材も沢山受けました。その結果分かったことが幾つかあります。
  ワイン・ジャーナリズム及び一般紙経済部の人々の認識は完全に間違っていました。現存する270軒のワイナリーの極く一部だけが影響を受けると勘違いしている人達ばかりだからです。現実は9割以上が上記2項目に抵触しているのにです。実際、同業の人々の顔は一様に真っ青なのですから。ITの発達ゆえにジャーナリストの知識が一元化・一様化され、深い考察がなされなくなった弊害が如実に顕れてしまった感じです。揚げ句は、「例えそうでも、新法ゆえに日本中が正常化されるのだから良いのではないか」と切り返す始末。そうではないのです。小中学生のレベルまでハードルを下げて、論理的に順を追って解説してみましょう。
  すぐ量産に入りたがる我が国の国民性にも一因があります。今から53年前、北海道の或る自治体の長が決意して、東欧圏ブルガリアから大量に輸入したワインを町内でビン詰めして「〇〇町ワイン」として世に出したら、当時の「一村一品運動」との相乗効果で空前のブームになりました。日本とブルガリアの貿易に際し、国際流通通貨を持たないブルガリアのワインは信じられない程の安値で手に入ります。それをブームに乗じて高値で売りさばくのですから笑いが止まりません。こんなことはいつかバレるに決まっている、と町政にかかわる人々は考えたに違いありません。その証拠に後付けながら、その町在来の山ぶどうとヨーロッパ品種の交配も始めます。しかし本格的な学術研究には莫大な費用と長い時間がかかりますから、やっつけで数年後には新品種を発表します。気候条件が純粋ヨーロッパ系品種に適していない極寒の地ですから土台無理な話なのですが、一般論で言っても偽装の上塗りは矢張り失敗します。新品種で純粋に作った振りをしながら、実際は中身が輸入ワインのシリーズが出て来ただけの話となります。
  問題はその先です。このあたりで国が手を打っておけば大災害にならなかったのにと悔まれますが、依然野放しのままでした。結果、この上記自治体のマネをして大手も中小も日本中の殆どが「国産偽装・輸入ワイン」の手法を踏襲していったのです。ワイナリー改革には大手術が必要となりました。

125 「新ワイン法」考察Ⅱ
  面倒臭いことにはすぐ手を着けないという我が国の行政慣行下、偽装国産ワインの運動は行き着くところまで行った観さえあります。輸入相手国は主に東欧から南米のアルゼンチン・チリへと移行はしますものの、一度始めたらやめられない魔力を持っていたのが、この運動でした。兎に角ぶどうなど作らなくても簡単に儲かる。持ち歩く名刺もOOワイナリーの経営者で格好がよろしい。でもバレたらどうしよう、とは全く考えなかったようです。何と言っても国が黙認という形で応援して呉れているのですから。結果、日本中見渡してもワインにして数百万本分のワインぶどうしか植わっていないのに、年産2億本以上の「国産ワイン」が出廻る事態となりました。味も原産国を映してカベルネ・ソーヴィニョンとシャルドネの味わいのものが大多数です。
  私は何も愚痴を言っているのではありません。別に酒の監督官庁である国税庁を恐れて持ち上げる訳ではありませんが、私も日本人です、今回我が国の官僚機構は健全であると実感し、喜んでいます。これで日本のワイン作りは立ち直れる…と。
  小中学生レベルの議論に戻りますと、今後自治体系のワイナリーは輸入原料を一切使えないことでしょう。自分達の町の住民と日本全国のファンを今迄散々裏切って来たのですから。更に困ったことに、自分達で交配したとする怪し気な新品種も少しずつ姿を消すことでしょう。その品種単独で作ったワインは不味くて飲めないからです。今まで輸入のもの90%、自前のもの10%位で混合してビン詰めしていた訳ですが、皮肉なことにアルゼンチンやチリ由来のワインは、本格的なワインぶどうが原料ですからとても美味しいのです。同様に甲州100%もマスカット・ベリーA100%も頂けません。甲州には輸入シャルドネ、マスカット・ベリーAには輸入カベルネ・ソーヴィニョンを大量に混入して味直しするのが定法でした。ワイナリーの評判もワインの味も良くなって、原価は信じられない程安い。そんなウマい話は矢張り永久に続くハズもなかったのです。魔法の妙薬(輸入原料のこと)よさらば、という次第です。「ワイン作りはぶどう作りから」。まともな時代の到来です。

126  カイ君のこと
  かつて23年間経営した新潟市のCave d’Occi(カーブ・ドッチ)時代は、合計417匹の捨て猫の世話をしました。こちら余市に来てから5年余、猫は相変わらず20匹以上世話をしています。新潟から連れて来た2匹も元気です。
  さてこの7月下旬の或る朝、ワイナリーに隣接した自宅のインターフォンが鳴りました。玄関に出てみると、知らない人が折り入って話があるとのこと。その初老の男の人が、「スミマセン、犬を貰って下さい」。私の場合、この手の前置き無しの会話は割合好きです。相手が急き込みながらも、「実は余市のクロネコヤマトに務める〇〇です。集荷センター裏の人が飼っていた甲斐犬、飼い主が急に本州に引っ越しするのに置いていくこととなり、持ち主を探しています。是非オチさん飼い主になって下さい。」 必死の形相で迫ります。
  4年前のワイナリー開業時には出荷するワインも少なくて、こちらが集荷センターに持ち込み、何度か集荷センターの裏のあまり餌も与えられていないと思われるその犬に、ドッグ・ジャーキーを10本程ずつ与えた記憶があります。又、集荷センターの人に、「あの飼い方は良くない」と批判めいた意見を言ったこともあります。それを覚えていた人が居たのです。
  すぐ、家の中に戻り妻のGabiに相談しました。彼女も覚えていて、「えっあのカイ君?飼いましょう。」兎に角常に判断が早い人です。甲斐犬だからカイ君。ジャーキーを与える時に勝手にこちらが付けていた名前です。
  さあ、それからが大変。ぶどう畑と駐車場の間の良く芝が生えているゾーンに、高さ2mの丈夫な支柱を2本立てて20mのワイヤーを張り、獣医に見せて狂犬病の予防注射を打ち、大きな新築の家も作ってあげました。旧飼い主とは一瞬会いましたが、周囲の人々の話ではひどい飼い方で、予防注射も打たず、小屋も作らず雪に埋もれたままの外飼い。更にはよく放し飼いにしてカイ君は近所を乞食して歩いていたとか。保健所の発行した出生証明書だけは保存されていて、何と満11歳の高齢犬。何という運命でしょうか。そんなとても賢い犬が我が家に(我が社に)やって来たのです。
  物の本によると、甲斐犬は主人にだけ従順な性癖の猟犬で他人にはなつきにくいとありますが、以心伝心、私共の思いが通じてか丸で大昔からの仲の如き付き合いが初日から始まりました。22kgもあって勇者の観のある立派なカイ君。毎朝夕に散歩するのが日課です。2万坪弱ある我がぶどう畑の周囲を、カイ君はグイグイと老犬とは思えぬ力で強く引きながら歩きます。
  視覚・聴覚は衰えたとはいえ嗅覚は鋭く、糖度計で計るよりも正確にぶどうの熟度を教えて呉れます。もう食べ頃だから僕にも一房頂戴とばかりにです。膝を傷めてサッカーを諦めていた私の健康ウォーキングパートナー出現に、私もGabiも心から喜んでいます。今迄不遇だった分を取り戻すべく、カイ君はあと何年も健康で居られるような気がします。生まれたばかりのパンダも可愛いとは思いますが、我がカイ君の愛嬌も仲々のものです。

127 毎年味が違ってこそワイン
  「そこの黒い髪に黒い眼の『日の出ずる国』から来た青年(以上が教室で付けられた私自身の長~いニックネーム)、よく聴きなさい。現在(1974年当時)きみの国では或る品質のものを均一に大量に作ることが良いことだとなっていますね。しかしワイン作りは違います。作るワインは毎年味が異って当然だし、味が違わないものはワインではないのです。」ドイツの国立ワイン学校でのこと。或る教授に言われ私は何と大胆な言葉かと思ったり、ちょっとヒネくれて、随分と格好の良いタテマエ論だなあと考えたりしました。
  時は流れて40年後の現在。やっとその教授の言った真意に辿り着きました。確かにワインは原材料であるぶどうの品質に強く依存する特異なお酒です。ソムリエと呼ばれる味利きの評論家諸氏は気候や異常気象、土壌等の諸条件を併せて「テロワール」と名付け、それ故にワインは毎年味が微妙に異なると論じますが、ワインを作る側で長く暮らしますと、いやでも或ることに気付かされます。ワインの味が毎年違うのはテロワールの相違もさることながら、作り手が毎度作り方を少し変えているからなのです。
  ちょっと乱暴な比較ですが、例えば日本酒の原料である米に比べてワインぶどうは驚く程歳々の原料の状態が違います。割合安定している品質の米を手に取って、よし今年も最高のあんな酒を作ってみよう、という想念がワイン作りの場合全然湧かないのです。自分が畑で手塩に掛けたぶどうを自ら収穫して何とか美味しいワインにしてみよう、という気概は確かにあります。しかし、どんな味を目標にと、それが無いのです。兎に角、去年とも一昨年とも、甘みも酸味も香りの多寡までもが丸切り異なる原料ぶどうと対峙する時、今年一年の畑でのぶどう作りのことが色々想い出されます。どう作ったら、どんな味のワインになるだろうか。何度も何度も考えながら、今年の作り方をプランします。なまじ原料作りまでしているものですから、そうなるのでしょうね。唐突な比喩ながら、女性が自分で産んだ赤ん坊を、自分や父親の性質を考えながらどうやって一人前の人間に育て上げようか、というのと似ていなくもありません。
  原料を自分で熱心に育てる気のない人はワイナリー経営をしているとは言わないでください。そんな声が聞こえて来そうな「新ワイン法」です。以上の如き経緯から申しまして、当然のことですが、ぶどうの育て方もワインの作り方も先ずは技術をきちんと学ぶところから出発しなければいけません。付け焼き刃の知識・技術で、「自然農法」・「天然酵母」等々脇道に逃げ、貧弱な設備で何はともあれワインを作りたい。一番いけないワイン作りがそこにあると私は思います。

128 アントニオ・ガウディのこと
  スペインには何度も繰り返し訪れた都市が3つあります。マドリード、ログローニョ、そしてバルセローナ。料理も口に適うしワイン作りの大国でもあって各々マドリード、リオハ、カタルーニャの州都なのですから、私ならずとも好きな街に数えることでしょう。
  中でも地中海に面した港町のバルセローナは大好きなサッカーチームの本拠ですし、二人のパブロ(ピカソとカザルス)の美術館・博物館があります。そして何といってもかのガウディが活躍した街。もう100年以上も前のことだそうです。御領主のグエル伯爵をパトロンとして彼の自由な発想は余すことなく表現され得たことでしょう。
  40年程前、最初にかのサグラーダ・ファミーリヤを見た時はとても驚きました。欧州各都市の建築を見て歩くのが趣味の私としましては、建物を見る度にこの建築は何世紀の○○様式のもので誰々の設計になるもの、と説明書と引き較べながら歴史のタイムトンネルくぐりを暫時楽しみます。ところがどうでしょう。この巨大な造りかけの建て物は、きっと地球上にはこれしかないという強烈な独自性を主張していました。
  その後数年に一度の割合で訪れ、遅々として進まぬ建て物を見上げるうち、建築学は素人で鈍感な私にでさえ、その驚きと奇異なる印象の理由が段々と分かって来ました。この世の大建築に必ずある、きれいに定規で引いたような水平線と鉛直(垂直)線が見当たらないのです。丸で太い鉛筆を手にフリーハンドで描いたスケッチの如きフィギュア。
  「シュルツのスヌーピー」やら「宮崎駿のナウシカ」の世界に通じるとでも申しましょうか。実際に長く見詰めていると、ガウディの建築物も何やら心がゆっくり温まってきます。
  近年、完成を急ぐ手段として、中心部の構造柱を鉄筋コンクリート化しているようですが、100年前の初期建築の石造り彫刻部分が都市型酸性雨で崩れ始めていることを考えると、仕方のないことでしょうか。しかし以上のような述懐は私の勝手な思い込みかもしれません。設計時にガウディ自身が試作したとされる、小さな砂袋を数多く逆さ吊りにした「構造の重力計算模型」は地下の資料館で見ることが出来ます。実際その前で名画鑑賞よろしく時間を潰すのも一興です。
 柵で囲まれた敷地内に見学料を支払って入ると、日本人の観光客が多いことに気が付きます。でも心なしか余りミーハー的な人は居ないようにもみえますので、インテリっぽい若い人々に私は次々と質問を発します。「大学生ですか。」「どんな勉強をしているのですか。」そうです、建築を学んでいる人が圧倒的に多く、彼等にとっては一度必ず訪れるべき聖地なのかも知れません。きっとお金は無茶苦茶かかるでしょうが、我が国にもガウディ的な発想の建て物があれば面白いなと時折思ったりします。

129 「新ワイン法」考察Ⅲ
  先日お役所の人と話をしていた時のこと。私が次のように質問しました。「今回の法改正はとても大きな改正なのに、『表記法の一部改正』とほんの少しの変更のように表現したり、対象のワイン・メーカーには物凄い量の文書を送って指導しているのに、中間の卸し業者には周知させる説明会を1回開いているだけでのようです。ですから肝心の末端小売酒店の殆どがほんの軽い改正だと誤解しています。更には、私共の手元に届けられる多くの文書の中に『消費者の商品選択に資する観点から』と何度も書かれているのに、一番重要なその消費者への周知・広報活動が、正確には殆どなされていないのはどうしてでしょう。」と。
  彼の答え方は慎重ながら、とても説得力のあるものでした。曰く、「完全改正施行は今年の10月末日からです。国は3年間の猶予・移行準備期間を設けて物流の上流のほうから直しているのです。もし(末端の)小売屋さん、消費者に前もって詳しく伝えると、その日が施行日の如くとなり、(市井で)混乱が起きてしまいます。」ナルホド!我が国の国民性を忖度してのことだったのか、と納得した次第です。
  千歳空港で北海道産ワインとチーズを沢山並べて売っている店での話。「最近○○ワインという地名ワインのアイテム数が随分減りましたねぇ」との私の問いに、相手の店の人が、「ええ、注文しても何やら品切れ中とか言ってますので・・・」と答えます。まさか「実は今までウソの表示でしたから」とは言わないのですね、メーカーでは。ウソの「国産ワイン」と表示されたワインが店先に並んでいて、消費者がそれを発見、そのシーン(現場情景)を無くすための猶予期間なのです。メーカー側は出来るだけ上手に店頭からウソ国産ワインを回収・撤去しなさい、10月末までに、と。
  それにしても今回のワイン法改正は「消費者の商品選択に資する観点から」という大義名分の下に行われているのですから、こんな難解な表現ではなく、もっと分かり易く「メーカーが消費者を胡麻化さないように」とハッキリ言えばよいのに、と私は思います。それ程「国産ワイン」の現況は到底信じられない程ヒドいものなのですから。

130 「新ワイン法」考察Ⅳ
  酒屋さんの店先に旧法律下の「国産ワイン」がまだ並んでいて、この10月末日以降買い物に来たワケを知る消費者が発見したとしましょう。暴動は大袈裟でしょうが、ちょとしたパニックにはなることでしょう。しかし、店先のウソ国産ワインがその日までに上手に完全に撤収されていて、「未知との遭遇」ならざる「国産ワイン・旧知との邂逅」とでもいうべき消費者とウソ国産ワインのバッティングが何とか避けられたとしても、人々の記憶がそれ程早く薄れるものでしょうか。特にワインファンの人々の。
  悲しい予想ながら、ワインファンの人々の多くは新しい「日本ワイン」にも懐疑的になると思います。不買運動とまでは行かずとも確実に「日本ワイン」の声望は地に墜ちます。今まで国が何も決めずとも、「大昔(といっても40年前)から本当の国産ワイン(というより世界基準のワイン)だけを作っていた貴方のワインはブレイクするかもね」と妻のGabiは言います。さあ、どうでしょうか。レジェンド・ワインを気取った新手の連載マンガ的フェイク・ワインが現れないという保証は何処にもありません。確かに嘘つきが活躍しやすい環境がワイン作りの世界にはあるのです。さればこそ本場のワイン国では法律がとても厳しいのです。
  近未来予想学者でも何でもない私ですが、ワイン製造業界には非常に詳しい人間ゆえに、今後起こりうべき事柄をあれこれと考えます。今回の法律はワイン製造業者(ワイナリー)だけに適用される法律です。ワイン製造業者は国の免許事業ですから、もし法律を破ったら1,2回は警告、それ以上は免許取り消しの強い処置に出ると明言しています。柔道の試合みたいですね。私がかつて学んだドイツではInspektor(インスペクトア:検査官)というそれは恐ろしいお役人が居て、抜き打ちで検査して歩きます。違反は個人の懲役刑にまで発展することもあるというのです。罰の軽重を言っているのではありません。ワインの本場でも残念ながら命を賭けてでもインチキをする人間が居るということを言いたいのです。
  日本の場合、現況が信じられない程デタラメで、それを完成度の高い欧州式の新法で縛ろうとするのですから、インスペクション(検査・検閲)は最も重要です。さもなくば、抜け駆け、胡麻化し、知らん振りのオンパレードとなりかねません。
  現在のところ、国はこの検査官の養成を行ってはいないようです。性善説に立って、日本人は悪いことをしないということなのでしょうか。しかし、余りにも多くの適用除外例(違反)が発生しそうな今回の場合、用心したほうが良いと強く思います。「日本ワイン」と「非日本ワイン」の双方を製造する両刀遣いを廃止(禁止)して「日本ワイン」ラベルの使用権を会社単位にすることで(要するに「日本ワイン」を1本でも作りたい会社は「非日本ワイン」を全く作ってはいけないというall or nothingの原則を導入することによって)国の検査の仕事は大幅に軽減出来ますし、国民(消費者)の信頼も層倍に厚くなります。そうすべきです。

131  「新ワイン法」考察Ⅴ
  とにかくメーカー(ワイナリー)側を中心に、新しい法律に向けての準備は着々と進んでいます。そして10月末日がやって来ます。酒屋さんの店先はどう変化するのでしょうか。
  まさか堂々と「輸入ワイン使用」やら「輸入原料使用」と表ラベルに書いて売る会社は居なくなるでしょう。 か? いやきっと大手のワイン会社は○○社アルゼンチン工場製として売り募るかも知れません。中小のワイン会社に於いて財政的にそれは無理でしょうが、東京の原料ワイン輸入商社が本業を失って次なる商売を模索するかも知れません。仲介して、現地(アルゼンチン・チリ・ブルガリア等)のメーカーと日本の中小ワイン会社を見せかけの合弁会社として縁組みさせ、大手方式をマネするかも知れません。自分がそれら今迄散々輸入原料でやって来た会社の経営者だったらどうするだろうか、と発想して得た私のアイデアですから、現実化するかどうかは分かりませんが。
  すべてを知ってしまったワイン・ファンの人々の逆襲は決してあなどれません。哀れなる無辜(むこ)の民が転じて復讐を誓う王様(消費者は王様です)となりそうです。巷間ワインの真贋を問う論争が沸騰して、魔女裁判の如き様相を呈するかも知れません。自然派だ、エコだ、無農薬だ、天然酵母だとやっている小悪党供も一掃されること必定です。というのもその現場はかなりいい加減なものですから。「いえ、ぶどうは他の町から買っています。」   これも容認されなくなるでしょう。「生食用ぶどうのハネ品から作っていますだって?何言ってるのよアンタ」ともなりそうです。日本酒にも飛び火するかもしれません。「地酒」と言っておきながら原料米を中国地方の県に大きく依存しているのが実態なのですから。
  喧噪過ぎて静寂。昨年、一昨年と店先にあった「国産ワイン」の数が100として、「日本ワイン」はその1/10~1/100とならざるを得ません。EU諸国やオーストラリア・ニュージーランドにとっては間違いなく吉と出そうです。堂々と自国のラベルを貼って日本の市場を賑わすことでしょう。
  とここまで書いて、さっきお役所から来た文書を見てビックリ。決して「日本ワイン」とは名乗れませんが、在来の「輸入濃縮果汁を日本国内で水で割って戻した液体を発酵させて作るワイン」は「国内製造ワイン」と表現法を変えて、又々市場を闊歩することになるかも知れません。言葉遊びはもういい加減にしては如何でしょうか。どうして日本の皆さんは、ワイン作りとはぶどう作りが一体の特殊な地域起こし産業だと理解して呉れないのでしょう。今度こそはソムリエさん、皆さんの出番です。風見鶏的ワイン評論家さん達だって今が改心のチャンスなのですから、しっかりと物を申しましょう。
  日本にはぶどうをほんのちょっとしか栽培していないのに、売っているワインの本数がその数千倍の4~8千万本という「超大手」(笑えないことながら、きっと世界の超大手と言い換えてもいいでしょう)が4社、次にビン詰め本数が20万本以上1千万本以内の「大手」が10社程、そして残り260社程の製造本数20万本以下のいわゆる中小ワインメーカーが存在します。(ワイン特区制度のせいで、設備も持たない年間3千本以下製造のガレージワイナリー20軒ほども中小に含めます。)上述「国内製造ワイン」表示の錯覚恩恵を受けるのは超大手と100万本以上の大手数社だけの話です。大手スーパーで小売値を千円以下に設定しているワイン群です。要は今回の「日本ワイン」の称号をどうしても欲しがるのは、中小メーカーが主体なのです。ですから私共のような、まともなワイナリーにとっては、元々どうでもいいことなのかも知れません。最後に審判を下すのは消費者の皆さんなのですから。

132  怪しげなワインおじさん
  現代のベートーヴェンともいうべき盲目の天才作曲家サムラゴーチ氏のこと、まだ覚えていらっしゃいますか。あのスキャンダルは確か4年前のことでした。何かと話題豊富な現代に暮らしていると、人々は、そして仕掛ける方もちょっと前のことをすぐ忘れるのでしょうか。又々とても似たストーリーのドキュメンタリー風映像が流れていました。この2月上旬、放送したのはこれも再び天下のNHK。
  ストーリーは要約するとこうです。日本の飲食業界で働いていた青年が、両親の離婚やら父親の背負った返済不能な8000万円の連帯保証支払金に嫌気がさして、フランスはブルゴーニュにやってきてワイン作りをする決心をしたそうな。映像で見る限り、面積的には0.2ha~0.3ha(600-900坪)のとても小さい畑を手に入れた(借りた)ようですが、植え付けたのが100年以上も前のことで、あちこちが枯れて抜け落ちた形のいわゆる耕作放棄寸前畑。ぶどうがアリゴテという白の多産系・現代人非認知型の古い品種。地面を這いつくばって畑の草をむしり、欠けた株のところは隣の木から「取り木」すべく青芽の枝を地面に突き刺して行きます。ストーリー制作上、この辺りで有為の青年に天の試練が待ち受けているかなと思ったら、案の定、大粒の雹(ひょう)が降って来てぶどうの青い果粒はあちこちに大きな裂傷を負います。より自然にを標榜している以上、農薬は使えないとばかりに、赤ん坊のオムツかぶれに使うタルカム・パウダーを水に溶いてぶどうに噴霧します。その時出て来る機械が大変立派な大型の農薬スプレーヤー。背負いの噴霧器ではないところに大いなる違和感があります。さて、収穫の秋。傷んだ実は回復したものの(ホントかな、あり得ない)、色着きが悪く(えっ白のアリゴテが何でここで何の断りもなく黒ぶどうに変わってしまったの)いつ収穫するか迷っています。日本人ではない東洋人(韓国の人?)の奥様が「早く収穫しなさい、腐るわよ」と仏語でせっつき、彼がまだだといって悩む構図はこのストーリーの最大の見せどころ。結局「これはロゼにしよう」といって収穫し、小さな木樽とゴム・チューブだけの非近代的な設備でおいしいロゼが出来上がりかかるところで終わります。(主人公の青年がこの10何年間、どこのワイナリーでぶどう栽培とワイン作りを教えて貰ったのかの放映や説明は一切ありませんでした。不思議です。)
  現在のフランス・ブルゴーニュに外国の青年が出掛けて行って、ぶどう作りとワイン作りをすることが許されているのかどうか私はよく知りません。又、「取り木」という方法での増植(増殖)は、フィロキセラという害虫予防のため確か国法で禁止されていると思います。更に、ブルゴーニュの華たるピノ・ノワール、ピノ・ブラン、シャルドネならいざ知らず、いくら老木とはいえ、アリゴテの如き品種で良いワインを作ろうと発想する人がいるでしょうか。そして何といっても、追いかけていたぶどうが何の説明もなく、いつの間にか白ぶどうから黒ぶどうに変わるというのはどうしたものでしょうか。その黒ぶどうの品種名も出て来ません。それとも、このドキュメンタリー・タッチのフィルムは上手に書かれたシナリオを下敷きにしたフィクションでしょうか。最初にそう断って呉れれば、綾瀬はるかの「精霊の守り人」でも観るつもりで楽しく観られたのに。
  きっとかなりの確率で、実情を知っている我が国のワインファンやフランス大使館から私の数十倍のクレームが届いていることでしょう。「我が国のワイン作りを安物ショーにしないでくれ。品格が落ちる」と。
以前(10年以上前)「プロジェクトX」で北海道の或る自治体のニセ・ワイン作りを大々的に歴史的偉業として放映したのを観て私は大笑いしたものです。又、確か1年程前にも、北海道の或る女性醸造家が出て来て、発酵時初期の香りを鼻でかぐだけで、そのワインのすべてが解るとバカをやっていましたが、兎に角我らがNHKはどうしてワインのことを知っている人なら決して陥らないワナにはまるのでしょうか。安っぽい演出に趣向を凝らすことばかりしないで、もっと勉強したほうがよいでしょう。民放のようにお笑いタレントを使って笑いとばすということが出来ない分、自縄自縛に陥って三流マンガ的ストーリーに堕すのでしょうか。In vino veritas(ワインには真実を)というくらいですから、報道と同様に真実ひと筋でやって頂きたいと思います

133  私の札幌大通公園改造論
  日本ハム・ファイターズのボールパーク誘致で、札幌市も渋々と手を挙げました。他意無くも、市長さんは非常に利口な人だなと思いました。一定数の推進論者は居る、そして反対の人々も無視出来ないほど存在する。両論併記での提案ですから、日本ハム社にとっては熱意薄しと映ることでしょう。どちらにしても結論はあと一週間で出ることですが、余市町民の私としましても、直接運動には参加できないものの、矢張り北広島になった方がいいという考えです。それよりも今回、札幌市民の中に周辺の緑を大切に思う人々の多いことを知り得たことは、私にとって大きな収穫でした。何故といって、私の胸の中に以前から去来する次の一事があるからです。
  この秋、直通の高速道路が開通しますと、我が町余市と札幌(西インターや北インターまで)は約30分の近か間となりますが、そうすると現在でも結構出掛ける街・札幌が意識の上でもっと身近なものとなります。別に誇る訳ではありませんが、私と妻は大の旅行好きで、世界各地の都市を訪ね歩いておりますが、その二人で議論します。果たしてこの世の50万・100万人以上の都市で一番美しい都市は何処だろうか、と。きっとそれは札幌だろうというのが二人の結論です。ススキノに飲みに行ったり、中心部でのショッピングが目的ではなく、ただ歩いているだけで(特に雪のない季節は)快適なのがこの街です。
  理由は幾つもあります。第一に都市計画がとてもしっかりしていること。これは近世になってから、真っ白な紙に絵を描くように、ゼロから取り組めたこともありましょうが、何よりも北の新大地の首都とすべく、理想を持ってこの街造りを考え、推進した人々が居たからでしょう。道路は広く整然としていて、周囲に大きな森や田園風景、そして山や海まであります。何となく自然にそうなったのではないと私は思います。必ずや人間の意志があってのことでしょう。第二は美術館、コンサートホール等々の文化施設がとても充実していて、地方都市とは思えない程レベルの高いオーケストラまで抱えている点です。そして街の中央に100メートル×1000メートル程の大きな緑地帯があるのも、この街の魅力です。
  さて、しかしこの緑地帯(大通公園)はこのままでよいのでしょうか。私の考えでは、今こそinnovationの時だと思います。ロンドンやニューヨーク、バンクーバーやコペンハーゲンにある都市型ガーデンの手法を取り入れるべきです。緑濃い、多少の起伏と幾つかの小さな水面も持った、完成度の高い本当の「札幌中央公園(セントラルパーク)」が出来ると、この都市は更に数段グレードアップされたものとなるのですから。
  失礼ながら、現在の貧相な四角い地面が十枚程並んだままの形は、雪まつり等々のイベント広場としての活用を考えているからでしょう。想像してもみて下さい。道庁斜め裏の北大植物園は私のように樹木の好きな人々の心を強く惹きつけます。赤レンガ庁舎前の空間も他の都市と較べて特級のものです。これらに加えて、上述外国の都市群にあるような中央公園(ハイドパーク、セントラルパーク、キューケンホーフ・ガーデンetc.)が出現すると、札幌市中央部の景観は一変します。しかも、現在既に四周は大樹に囲まれていますから、割合簡単にとても素晴らしいものが出来そうです。工事も3区画ずつ区切って4年程で完成という方式では如何でしょうか。
  勿論、雪まつりや○○フェストのファン層からは反対意見も出ることでしょう。しかし、それは別の会場での開催が可能です。(例えば雪まつりは豊平川の河川敷とか。真冬は水位も上がりませんし、雪の後処理もとても楽です。)世界的ガーデン・デザイナー達をコンペで競わせ、その完成予想図を市民に提示して投票で決める。要は政治生命をこの中央公園改造に賭ける市長さんや市幹部が出現すれば可能なことです。新幹線の札幌延伸時に合わせての記念事業とするのも妙案です。ついでながら、現北大の農場部分も北大農学部(もしくは工学部・都市工学科)に西洋園芸マスターコースを新設して、その実習場兼UNI-PARKとすれば、ここにも札幌の新名所的緑地が誕生します。
  ローマと違って歴史的な建造物が余り無いからこそ、札幌的緑化推進の方向性を模索すべきだと思います。開拓150年の時です。今後の100年200年を見据えた‘札幌市innovation‘を考えてみませんか。とにかく、かかる費用がとても少なくて済むのが、これらのプランの最大の長所です。
  私がワイナリー経営という世にも恵まれた職業の人間ゆえ、日々周囲の緑化と景観の美化ばかり考える余り、余計なことを提案しているのでしょうか。

134  怪しげなる評論家が次々と
  先日、我が余市町でワイン用ぶどうを栽培している人々を対象に、本州から講師を招いての特別講演会が開かれました。演題は「海外におけるワインぶどう栽培の取り組み」。6haものワイン用ブドウを栽培している私も、勿論出席して最前列で聴講しました。
  非常に細かい英文・仏文で書かれた資料を約80枚次々とプロジェクターで写し出し、物凄い早さで喋ります。講師のK女史とは10数年来何度か会って話もしています。彼女が国内の高名な大学卒で大手食品会社に勤務した後、食品評論家として活動し、6~7年前からは自然派ワイン作りをする青年達の守護神として活躍しているのは知っていました。彼女の話の主な内容は、
◎日本の湿潤な気候は合衆国東部内陸部のヴァージニア州と似ているから、そこが進めているフレンチ・ハイブリッドの品種を鋭意研究すべきである。
◎フランスは全国規模で自然派ワイン作りが台頭しており、我が国も考えるべき。
◎今後、収穫量をより少なく、ぶどうの糖度もより低くを目標にし、出来上がるワインもアルコール分を旧来の12~3%から10%前後に下げる運動が始まっている。
何と何と、単なる評論家が口にすべきことを見事に逸脱した学術的大命題の提示となりました。
質疑応答の時に私は手を挙げて尋きました。「貴女は非常に専門的な見地から大胆な説を展開されましたが、一体ご自分でワインぶどう栽培とワイン醸造の経験はおありですか。」彼女が答えて、「そういう話は後程ネットでやり取りしましょう。」「いえ、ここで今答えて下さい。今日ここに居る約50名の聴衆の過半は、余市町でこの30年程ワインぶどうを大規模に栽培してきた人々です。貴方の説を信じて、もし結果が出なかった時の責任を貴女は負いますか。さあ答えて下さい。」「私は栽培も醸造も一切経験がありません。」「そんな実践の素人がこんな重大なことを言うべきではありません。」会場に拍手が起こったり大きなため息が聞こえたように感じたのは、単に私の空耳でしょうか。
ワイン作りの世界に生きている私には、嫌いな評論家が世界に3人居ます。ヒュー・ジョンソン、ロバート・パーカー、ジャンシス・ロビンソンです。みんなアングロ・サクソン系の人なのが面白いところです。自分の国ではまだそれ程のワインを作ってもいないのに、一丁前の評論で他国のワインをなで切りにします。(R.パーカーの活躍した1980~2000年代はまだ合衆国のワインの地位は確立されていませんでした。)パーカー氏に至っては100点法で他人のワインに次々と点数をつけて歩いて、自尊心の低い醸造家達を虜にし、一大オカルト教祖様を気取りましたものの、自分独りで手が廻らず、外注よろしく子分達に味見させているのが判明し、人気は凋落してしまいした。荒稼ぎの祟りでドラエモンの如く肥満したのはご愛嬌でしょう。
さて、ロビンソン女史です。この御人は丁寧なことに、先ず先輩のR.パーカー批判から始めました。アンタが持て囃すものだから世界中の赤ワインがより渋く、より濃く、より重くなってしまったと。人々は現在それにアキアキして、より軽いワインを求めている、と続きます。私自身のFacebook No.17・18にも書きました「ビオ・ディナミ理論」に基くワインづくりを彼女は是とします。新しい教祖の出現です。先日の日経新聞で彼女はぶどう畑を馬で耕している作り手を絶賛していました。どうしてこうも極端から極端へと振り子は振れるのでしょうか。世はITの時代ですから目立つことが第一なのでしょう、きっと。
彼女が推奨する、ぶどうを未熟な糖度も低い実の状態で収穫して、酸は強めでアルコール度数も10%以下にしたワイン作り。その作り方が世界をリードするなんて、トンデモオバサンの説をこれから10年程あちこちで見掛けなければならないのかと思うとゲンナリします。冒頭の日本のK女史の説は、そういえばこのロビンソン女史説の丸々のパクリかしら、と思ったりもします。
ワイン作りが隆盛の国たる仏・伊・西・独あたりに「知ったか振り評論家」が殆ど出て来ないのは、誇り高いワインの作り手がその辺にウヨウヨ居るからでしょう。原料であるぶどうの栽培、ワインの醸造、そしてホスピタリティー溢れる個別販売と、独りですべてをやり繰りする、非常に実践的な分野であるワイン作りの世界では、興味本位に素人評論家が手を出すとヤケドをするのです。
私の予想ですが、今後ロビンソン女史を持ち上げて騒ぐのは、これも怪し気な「自然派」を名乗る日本国内の小さなワイナリーの当主とその取り巻きの人々でしょう。「完全無農薬」、果皮に付着している「天然酵母使用」、醸造時に使用する「酸化防止剤無添加」(これは最近では「最少限度使用」に変更)と言いながら、実は何でもやっている輩です。濁ったワイン作りをしている人々と言った方が分かり易いかも知れません。きっと数年以内に日本でも馬で耕すお兄さんが出現しそうな気もします。とにかく、乗りの軽いのが新運動の信者の特徴です。外国産濃縮果汁や外国産ワインに依存した変な「国産ワイン」作りが新法で駆逐されたと思ったら、今度は古代ワイン製法ですか。消費者は振り廻されるのでしょうか、我が国税庁や保健所は厳しく取り締まることでしょう。

135 地名に於ける面白い符合
  我が日本のことがとても好きです。食べる物はきっと世界一美味しいし、基本的に人々は皆心優しくて、気候はやわらかく、何処にでも山や川、海があります。お陰様で私も薩摩川内、東京、小樽、新潟、余市と、人生の過半は海のある処に住みました。港のある町では、よく住吉神社、入船町、山下町等々と、あれっ前の町にもあったなという地名に出会いますが、そんな時何やら気持ちがとても和むから妙な感じです。
  さて、ところが迂闊にも今頃になってやっと気付いた地名の不思議が一つあります。朝日町、旭町のことです。私が現在住んでいる余市町、そして至近の仁木町、赤井川村に同様の名の地区があって気付いたのです。地形的に考えて、日本中の殆どの町は真っ平でない限り、お盆の形かお盆を半分に割ったような形をしているのですが、その時「朝日町」なり「旭町」は、一般にその町の西端の丘陵部に位置することが多いようです。この町で一番早く朝日を拝める処ということでしょうか。お盆の底にある市街地から見て、朝日が昇る方向、即ち東方にある丘の上とはならないことが多いのは不思議です。とにかく初物好きで、初日の出を見るために富士山に登る人々の多い国です。何やら早く旭日に当たると、健康にも幸運にも恵まれると信じているのでしょうか。町の東端は、その町で一番遅く朝日(旭日)が当たる計算です。たとえそれが数十秒遅れででもです。
  ここからが本題です。ワイン用ぶどうも含め果樹栽培では、朝日の当たる斜面よりは、午後の陽や夕陽の当たる斜面の方が重用(ちょうよう)されます。地温上昇率が高いからです。南西が一番、次に真南、そして西といった具合に農地がランク付けされるのです。そうすると朝日町や旭町は物成りの悪い処となります。農業をしている人ならば結構よく知っているこの真理を、我が余市町では違った言い方で表現します。「あの斜面は雪融けが遅いから、あそこの果物は余り美味しくないよ」と。
  生まれは鹿児島ながら、少年期、壮年期、現在の老年期と都合30年程住んだ北海道。かつて幕末にこの地を踏査した松浦武四郎が名付けて「北海道」としたそうですが、さてその命名が良かったのかどうか。彼は単に西海道・東海道の流れで名付けたのでしょう。しかも確かに日本の北の端には在ります。それでも風評被害とでもいうべきでしょうか、とても寒くて、物成りも悪く、冬は雪で閉ざされてといったマイナス・イメージの一因がこの名付けにあるのも事実です。
  ところが、現在余市町でフランス系のワインぶどう12品種を育てている私の立場で言いますと、緯度が高い(北緯43度)分だけ5~8月の日照時間は格段に長く、又梅雨や台風に無縁の土地なので晴天日が多いため、果樹の受けるエネルギー量では決して本州に負けません。じゃあ、何という名前が良いのでしょうか。例えば北海道地名群の中の優秀作でもある「空知」と「帯広」をくっ着けて「空広」なんてどうでしょう。例のロケット事業家のイーロン・マスクなら、きっとそうします。
  又、このおっさん変なこと言っているなとは言わずに、皆さんもどうぞあれこれ提案してみて下さい。

136  北海道での赤ワイン作り
  世界中にワインの醸造所が60万軒あって、日々ぶどう栽培とワイン醸造を熱意を持って進めている人々が2~300万人居るとしましょう。私が思うに、その中の殆んどすべてに近い人々が、赤ワイン作りにこそ大きな情熱を感じていることでしょう。理由は幾つかあります。
◎先ずは、ぶどう栽培に於いて、薄緑色の白ワイン用品種に比べて、黒青色の赤ワイン用品種は、色調や渋味がきちんと乗って酸味も程良く残った、果実そのものを作り出すことが技術的にとても難しいからです。違った表現をすれば、とても手が掛かるのです。
◎第二に、そのようなぶどうから色・味・酸味・渋味ともバランスの取れた良い赤ワインを作り上げることが、白ワインを作ることよりも数段難しいこと。要するに、ここでも手間ヒマがとても掛かります。
◎そして、ワイン作りの華ともいうべき新樽寝かせ、ビン内寝かせにも手間と時間が掛かります。これらは良き赤ワイン作りには欠かせない手法です。
◎わざわざワイナリーを訪ねていらっしゃる、ワインファンの方々に味わって頂くシチュエーション作りも、赤ワインの場合簡単ではありません。お客様の目の前で大き目のグラスに赤ワインを注ぎ、良くstir(スター、揺り動かし)するとともに、より長い空気接触時間を稼ぎ出すべく、ワイントークにも工夫を凝らします。
  どうですか、いかにも手の掛かる我が子といった風情となります。手の掛かる子供程可愛いの道理通り、大概のワインの作り手の心は赤ワインの方に向いてしまうのです。
  想い起こしますと、ドイツ留学から帰国後、1978年に札幌の真北70kmの地・浦臼(うらうす)に2.9haのツヴァイゲルトレーベを植えました。これが北海道での真正赤ワイン作り第一号です。それ以前にはセイベル13053というフレンチ・ハイブリッド系の品種が北海道では試されていました。19世紀末に南フランスを中心に大流行した害虫・フィロキセラ対策として、南仏アヴィニョン近郊のモンペリエの国立育種研究所で交配作出された救世主的品種ゆえ、フレンチ・ハイブリッド(フランス交雑種)と呼ばれます。しかし、このぶどうは栽培してみればよく分かりますが(実際私も5ha程作ってみました)、とても作り易い。病気には無茶苦茶強いし、寒さには強い、そして実成りも早熟で超多産性です。楽なことこの上なし。ところがワインにしてみてビックリしました。何と表現すべきでしょう。何やらプラスチックを焦がしたような変テコリンな味に仕上がったのです。そのまま下水に流したい気持ちを抑え、多少のビン熟成を期待しましたものの、矢張りダメでした。記録では沢登という人物によって1960年代の中頃にその耐寒性ゆえ北海道東部に導入されたものの、それから60年以上たって、このぶどうから話題にのぼるワインはまだ作られたことがありません。
  さて、ツヴァイゲルトレーベです。自分自身が原木保存地のウィーンに出向いて北海道に持ち帰った品種ゆえ、愛着もひとしおながら、現在の北海道でのワイン製法は多少問題があります。私は1988~2012年の足かけ25年間北海道を留守にして、長野、新潟でワイン作り・ワイナリー作りをしました。そして今から6年前に再び北海道に帰り来て唖然としたのは、この品種でのワイン作りに於いて工夫や進化が何もなされていないことです。いずこも色薄く、味やわらかく、ライトボディーな作り方で、「導入者」の私としてはいささかガッカリしました。現在私共OcciGabi Wineryののツヴァイゲルトレーベが、他に比べかなり重いのは、私なりの工夫があってのことです。
  ここ20年来の温暖化を考えて、私共OcciGabi Wineryの畑には、更に重くて濃い赤ワインを作るべく面白い赤ワイン用品種群が植わっていて、次々とちょっぴり長が寝かせ型の赤ワインもリリースしております。本州から訪れる同業の(ということは今まで輸入原料で作っていた)人々が試飲カウンターで味見をして、「いくら何でも、これは輸入原料(濃縮果汁かワインそのもの)でしょう。そこの畑のぶどうであるハズがない」とまで言い切ります。私は内心快哉を叫びます。「そうだよねぇ。輸入原料で『国産ワイン』を作り続けて来た君達には分からないよね」と。
  それにしても不気味なことがひとつ。前回ソチで冬季五輪が行われた2014年の3月、すなわち五輪閉幕直後。南ドイツ(といっても北緯49度)に住む友人からメールが来ました。「まだ3月、冬だというのに日中の気温が20℃を超えた。急に夏になるのだろうか」と。
  その続きの2~3ヵ月の記憶も鮮明です。欧州の中・北部ではすぐに又寒くなったり、暑くなったりと振幅の大きな気候を繰り返して、葉物野菜には被害は出たものの、確か秋のぶどうの収穫は大豊作でした。反面2015年、2016年春~初夏は雹害(ひょうがい)に苦しむというツケも廻って来ましたが・・・。
  比較気象学なんてものはないのかも知れませんし、2014年3月の欧州と2018年3月の日本を比べても詮ないことながら、もしかして今年の日本も、という思いが頭を横切ります。

137  ちょっと違ったワイン
  我がOcciGabi Wineryの試飲カウンターからは、幅10mのガラス窓越しにとても良い景色が臨めます。眼の前の前景としては、芝生の中に噴水の上る池とバラや宿根草の花々。その西洋ガーデンの向うに広がるのは整然と植えられたワイン用のぶどう畑で、これが中景。その畑越しには遠景としての小樽や札幌の山々と大きな空が広がります。
  ヘルマン・ヘッセの「庭作りの愉しみ」に出て来る著者自ずからが作った庭よろしく、遥か遠くの山々の一点をfocal point(造園上の焦点・消失点)にして作り上げた庭ゆえ、試飲カウンターのお客様には肝心のワインよりは、この眺めをこそ味わって欲しいと常々考えている私です。
  そんな自画自賛的な気分に浸っていると、試飲をしているお客様からよくこう言われます。「お宅のワインはとてもぶどうの香りがしますね。」私のみならず、我が社の誰が試飲のお相手(注ぎ役)をしていても、良く言われるそうです。スタッフやお客様への私の説明は次のようになります。
  1974年以来の私自身の学びや経験に照らして申しますと、1980年代以降、ワイン醸造の現場に大量のステンレス製機材が導入されました。特に圧搾機(プレス機)やステンレス密閉型発酵タンクの効果は素晴らしく、それらの機器導入以前に作られたワインとそれ以降、即ち完全密閉で酸化をシャットアウトし、しかもよく冷やすことの出来るステンレス製タンクで作られたワインは丸きり違った味わいのワインとなったのです。要するに空気接触による酸化や発酵熱をそのままにしたために生ずる熱による味や香りの壊変を抑え込むことが出来るようになったのです。以前は酸化や熱ゆえに原料ぶどう本来の味がすべて変質していたのに、味や香りがそのまま残ることとなりました。原料ぶどう由来の香りはアロマと言い、ワインの熟成の過程で産出される香りはブーケーと言って区別しますが、現代ワイン作りでは両者一体となっての香りが求められるようになって来たのです。ステンレスタンク機器導入の最大の成果というべきでしょうか。とにかく、この”Stainless innovation”(ステンレス革命)の影響はとても大きなものです。機器の導入は静かにしかも速やかに世界中のワイナリーで進行して今日に至りました。
  ところが何という皮肉でしょうか。我が国ではこのStainless innovationの時期と輸入濃縮果汁使用全盛の時期が丁度一致してしまったのです。濃縮果汁は海の向こうで強い熱を使って濃縮されますので、その工程で味も香りも大きく損傷を受けてしまいます。失われた本来のぶどうの味・香りは二度と戻って来ません。せっかく優れ者の機器が出現しても、その恩恵に浴することが出来ず、原料作りを殆んどしなかったツケはこんなところにも現れたのです。結果、果物本来の味・香りとワイン化した後に出来る味・香りを併せ持った現代的上級ワインは、我が国では殆んど存在しないということになりました。滑稽ですね。そして涙が出そうな程悲しい話ですね。

138  我が庭礼賛
  新潟でも23年、ここ余市で6年と、私の人生での第3号、第4号のワイナリー作りは、庭作りにも少なからぬ力点を置いています。奇妙な縁で、今から55年前の岩見沢東高校のサッカー部で同僚だった友人が、私の庭作りの終生の師匠です。彼自身が英国へ繁く出掛けたり、あちこちの本を沢山読んだりして身に着けた、いはゆる独学の技ながら、そのセンスの良さと動植物に対する愛情の細やかさゆえに、かなりの高みに到達した知見であると私は考えています。
  現在地球上にあるといわれる60万軒のワイナリーが、すべて庭とぶどう畑を融合させてワイナリーの醸造棟を包み込む、といった手法を取っている訳ではありません。ぶどう畑の中に埋まったような形のワイナリーの方が圧倒的に多いと思います。庭など丸切り無いか、それとも僅か十坪程しかないワイナリーの方が一般的なのです。
  40年程前にドイツでワインの勉強をしている時に、次男が同じ学校に来ていた縁で、合衆国カリフォルニアはナパのモンダヴィ・ワイナリーの当主ロバートと知り合い、話をしたのが起点です。彼曰く、「これからは今迄男性の飲み物だった酒、特にワインやビールの飲み手は確実に女性に移る。女性客を歓迎するなら、敷地をきれいにしなければね。」 
結果、彼の影響力が絶大だったナパはガーデン・ワイナリーだらけになり、品の良いお客様を世界中から集める特異なワイン地帯となりました。彼の信条は次の一句に現れています。
Stay with us , and listen to the grapes grow !(ここに居て、ぶどうの伸びる音に耳を傾けて下さい!)そうです、ワイナリーとは「滞在する処」なのです。
  現在、我がワイナリーの庭にはバラが70本植わっています。この植物は毎年微妙に姿・形を変えて美しく咲きます。庭園の女王です。女王様であればこそ、周囲には「お付きの者」よろしく小花系の宿根草花や山野草を配することとなります。樹木や水辺、そして大きな芝生も欠かせません。免許皆伝はまだでも、師の教えから逸脱しないよう一生懸命庭作りをしております。時々、自分の作ったワインを褒められるより、お客様が楽しそうに庭を歩いているのを見る方が嬉しくなるのはその為です。しかしこの感慨は、今をときめくかのミラノ工科大学のジャコモ・モヨーリ教授の思想にも添うものです。彼曰く、「これからのワイナリーは訪ね来る人が試飲カウンターから眺められる景色で決まる。庭、ぶどう畑そして遠景には森を配して雰囲気を作りましょう。」更に加えて、「その時ワインの味は二の次である。」と、これは御愛嬌で彼一流のジョークなのでしょうが。とにもかくにも、ワイナリー・ランドスケープ学という学問が生まれようとしています。

139  ワイン法改正余話Ⅰ
  そもそもワイン製造業というのが日本全国で280軒程の小さな業界であるとともに、インターネットの進歩ゆえ、瞬時にして業界全体を俯瞰することも出来るのでよく分かるのですが、今回の10月本施行の新しいワイン法関連の大混乱は見ていてとても滑稽です。
  当初は、国が今まで長く野放しにして来たのだから、急に業界の大部分が困るような法律は施行されるハズもない、という楽観論が支配的だったようです。作っても必ずや骨抜きのザル法に決まってる、と。ところが所管は泣く子も黙る国税庁。上意下達よろしく、あれよあれよという間に僅か満3年で完全施行の運びとなりました。
  兎に角意志決定の遅いのが、我が国の中小企業です。殆んど「何もしないうち」にではなく、「何も出来ないうちに」その日が来たという表現が適当かも知れません。課題がそれ程重いのです。何がと言って、今迄外国産原料であっても国内でビン詰めさえすれば、「国産ワイン」(イコール自社産ワイン)と銘打って売ることが出来たのに、新法ではすべて不可となるのですから。つき詰めて行くと、新法下の「日本ワイン」として自社ワインを市場に出すには、自社の周りもしくはすぐ近くに大きな面積のワイン用欧州ぶどう畑を経営しなければいけないことになります。日本以外の地球上のすべてのワイナリーが極く普通にやっていることを、何と日本の90%以上のワイナリーがやっていなかったのです。
  結果、空前のワイン用ぶどう苗不足となりました。もっとも従前が殆んど需要のなかった苗木で年に数十万本の市場規模でした。それが年間2~3百万本必要となって注文がどっと創出されたのは良いとしても、日本全国で十数軒しか居ないぶどう苗木製造業者は、その注文に応じる能力がありません。本場ヨーロッパの場合、例えば一つの村の全面積1000haのうち100haを植え替えるとしたら、50万本の苗木が必要となります。欧州の苗木業者は1軒で何百万~何千万本を作る能力を持っているのです。ですから今回の我が国の苗木争奪戦が何やら水溜りの中でのアメンボ騒動の如く見えて来ます。それ程、今迄も現在も我が国での苗木需要量は極少なのです。
  今冬2月1日に札幌国税局が依頼して、日本一の苗木業者たる植原氏が講演した時のこと。聴き手は北海道のワイン製造業者達。彼の講演の締めくくりは痛快でした。「確かに苗木の注文が俄(にわ)かに増えたのは嬉しい。でもねえ、今迄ろくに栽培もしていなかった人が急に植えて育て上げられる程、ぶどう栽培は簡単じゃありませんよ。」直言居士たるこのぶどう栽培の名人が私はとても好きです。
  余談ながら先般合意したEPA(日・EU貿易協定)やら、TPP(環太平洋パートナーシップ)が今回のワイン法大改正の引き金となりました。要するに黒船の圧力(他力本願)によるもので、自浄作用ではなかったのです。

140  ワイン新法余話Ⅱ
  先日お酒作りの監督官庁の高位の人が我がワイナリーを訪ねて来ました。その時の話。「オチさんは特区免許で少量のワイン作りをしているそこいらの人々を悪く言いますが、私は色々なタイプのワイナリーがあった方が多様性があって良いと思います。」私が答えて曰く、「多様性を言うのでしたら、先ずは或るレベルより上と規定すべきです。設備投資もまともにしない、ぶどうの育て方も殆ど素人の人達までひっくるめて多様性を云々するのは間違っていると思います。悪貨は良貨を駆逐するの例え通り、それらを放置すると、逆にその地区全体のブランド力が著しく低下することになります。」加えて、「彼らは雇用を殆んどしません。現代経済では雇用を喚起しないものは産業とは言えません。テレビでよくやっている村おこし運動が半歳一年で挫折するのはそのためです。」
  更に北海道内最古参のプレミアム・ヴァージョン・ワインを手土産としてお持ちになりました。有名な知る人ぞ知る輸入・偽装ワインなのを私は知っていましたので、「私はこの手のワインは飲まない主義です。」とまで言いました。相手側が「えっ?」という顔をしているのを見て、やっと私も得心しました。ああそうか、監督官庁の人々はその会社が輸入原料を大量に購入していることは知っていても、その輸入原料がその会社のどのワインに入っているのかまでは調べようがないのだ、ということです。きっと彼らは善意に解釈して、安物に輸入ワイン、超高級ワインに山ぶどうと交配したと称する地場産ぶどう由来のワインが入っていると勘違いしているのでしょう。実はまったくその逆なのですが。
  ここが長らく現場で栽培と醸造を行ってきた人間しか仲々理解出来ないことですが、アルゼンチン、ブルガリアの輸入ワインは結構美味なのです。そして何度でも強調しますが、山ぶどうは本来ワイン作りには全く適していません。糖度の圧倒的不足、不快感のある異臭と強すぎる酸味等々が原因です。
  ああ、それにしても今回国が定めた法に従わない際の罰則は製造免許の取り消しです。しかし肝心の国の方のチェック態勢が不充分のままの船出ですから、決してしたくはない想像ですが、輸入品を詰めて「日本ワイン」、同時に国内食用ぶどうから作った分が「輸入ワイン」の二刀流表示が大胆に行われるかもしれません。要するに法を犯しても分からないだろうと思う輩が出そうな感じなのです。要注意です。抜本的な解決方法は何度考えてもひとつしかありません。輸入原料をいじっている会社には「日本ワイン」表記を1本も許さないことです。


141  時代が変わる
  まさに天の配剤とでも申すべきでしょうか。我が町余市で真に革命的なことが起きそうです。この週末の選挙でこの町始まって以来の町長が誕生しそうなのです。
  年齢は36才、経歴を見る限り充分に知的で行動力溢れる人物です。選挙期間中、度々出掛けて行って彼の演説を聴きましたが、この町が見事に沈滞化している現在だからこそ、天はこのような人物を遣(つか)わしたと思われるような数々の政策を並べ立てました。
  それは自民党が推選して霞が関のエリートを立てて来たのですから、実に煌(きら)びやかな応援演説者達を次から次へと送り込んで来ます。日本一若い衆議院議員という振れ込みの鈴木貴子氏(32才だそうですが、演説はとても上手でした)、かの町村一族のホープ和田義明氏や橋本聖子氏等々若手の人気議員が顔を揃えるのは理解出来るとしても、何と内閣官房長官の菅義偉(よしひで)氏まで来町するに及んでは、あれ、これは国政(国会議院)選挙かしらと錯覚する程です。きっと国の中枢は本気でこの余市からの本格的な地方創生を考えているのでしょう。
  それにしても56才の対立候補者は、何度も企画された公開演説会をすべて断って出席せずに、新聞取材等々の文書での公約提示に徹しています。結果的には、相手候補(36才)と殆ど同じことを述べ立てた、いはゆる「後出しジャンケン」となりました。全く姑息としか言いようがなく、残念です。
  唯一56歳氏独自の主張といえば、「よそ者に任せるよりは町役場で経験を積んだ私に!」ですって。びっくりです。私に言わせれば「君だってこの余市町出身じゃないだろう。」
  それでは、70歳ながらしかもよそ者で健闘中の私から貴方に次の言葉をお贈りしましょう。Bob Dylannの詩の一節です。
 Your old road is rapidly agin’
So get out of the new one
If you can’t lend your hand
For the times they are a-changin’
 君らの作った古い道は急速に崩れてゆく
 だから新しい道作りに手を貸せないのなら出て行って呉れ
 だって時代は今変わろうとしているのだから
   「The times they’re a-changin’」


142  ロワールよりのお客様
  無理なく極くまともなワイン作りをしていると、まことに面白いお客様が次々と我がワイナリーを訪ねていらっしゃいます。最近、フランスはロアール河中流域シノンのワイナリーを経営するカップルがやって参りました。夫君は50歳のフランス人、その伴侶は36歳の日本女性という取り合わせです。何でもこのフランス男性は弟夫婦と一緒に30haものぶどう畑プラスワイン醸造蔵を経営しているとか。殆んどすべてがカベルネ・フランからの赤ワインで、一番安価な並みワインが5.50ユーロ(約700円)、中級を適当に徹りばめ、上級ワインは13.50ユーロ(約1700円)とのこと。平均年産20万本だそうで、年商は2億円前後かなと推察しました。
  ワイン作りを稼業とするお客が訪ね来た時、その人には自分のワインを御馳走するのがこの世界の慣わしですから、私も当OcciGabi Winery人気のワインを幾つもグラスに注ぎました。勿論相手の言葉にお世辞は多少混じっていても、その飲みっ振りやらお替りを要求する仕草から、本当に気に入って貰っているのを実感しました。「ところで、このAcolonという貴方のワインは一本いくらですか」との彼の問いに、さり気なく私が「約65.00ユーロ(8640円)です。」そこで相手は絶句。
  洋の東西を問わず、1本5~6000円以上のワインは「超高級」に属するからです。それにしてもこのフランス人のロアール地方のワイン蔵は1930年創業とのことですから、彼できっと4代目でしょうか。すぐ南部にある世界に名立たる銘醸地ボルドーを意識して、カベルネ・ソーヴィニョン、メルロー、プチ・ヴェルドー、マルベックそしてカベルネ・フランと5品種の混合を行わず、カベルネ・フラン単品種でブランドを確立して来た地帯の当主にしてみますと、名も知らぬ「アコロン」のようなワインに価格で水を空けられるのは不本意なのでしょう。その後もずっとこのアコロンの味利きをしていました。
  実はこのアコロン、20世紀最晩年にドイツが満を持して発表した新品種なのです。しかも彼が口にして美味に感じたこのワインはヴィンテージが何と2017。仕込んでからまだ10ヵ月の若いワインだったのですから。
  ワインを作っている者同志が虚心坦懐に向き合うと、時々こんなことが起きるのですから痛快です。


143  山のあなたの空遠く
  わがOcciGabi Winery Gardenの池のほとり。植えて4年経ち、枝を大きく拡げたカナダ楓(かえで)の木陰に座り、ぶどう畑越しに東方を眺めると、とても美しい山並みが3層に重なって遠望されます。一番手前が余市町登地区の丘陵のうねり、その上に小樽市や赤井川村の山々、そして約30km彼方の最上層は、札幌市南区と余市郡の境界を成す遥かなる連山。
  この連山の主峰は6月中旬まで雪を残す余市岳(標高1,488m)で、その余市岳の手前のふもとはキロロ・スキー場、裏側の山麓には札幌国際スキー場や定山渓が在ります。そうです、意外や意外、我が余市郡は札幌市と背中合わせなのです。
  以上のことを、訪ね来る人々に指さして説明しますと、「へぇ~、余市から札幌が見えるの。それにあれが余市岳?初めて見た、きれいですねぇ!」
  地形の不思議とでも申しましょうか。唯一ではないと思いますが、私共の庭がこの雄大な景色を臨む、余市町内でもあまり無いViewing Point(観測地点)なのです。そして同時に、眼の前に大きく拡がる我がGardenのFocal Point(造園上の収斂点)でもあります。町内、他の何処に行っても、この展望が得られないのですから風水学的に見ても仲々得難い地勢です。
  かつて6年余り前、この余市町で、私共は国内でも一番素晴らしいワイナリーを作ろうという理念を持って、あちこち候補地を見て歩きました。その時、担当の農業委員会の方々が私共に勧めて下さった3ヶ所のうちのひとつがこの地でした。しかも彼らが一番推さなかった地。最終決断をしたのは妻のGabi。人里離れた「ひっそり感」もさることながら、彼女に言わせると、「ビニールハウスが一つも見えないので気に入ったのよ」とのこと。訪ね来る都会の生活者であるお客様にとって、この観点も見逃せない重要なことです。
  アメリカ合衆国史の裏話としてよく知られている一節を思い出します。本国イギリスとの独立戦争を終え、その直後に初代大統領となるジョージ・ワシントンと更にその遺志を継ぎ国を大きく発展させるトマス・ジェファーソン第3代大統領(この人は独立宣言文の起草者でもあります)。自分達の理想に燃えて建国するアメリカの首都を何処にすべきか。二人は馬を駆って東部13州を見て歩いたそうです。最終的にポトマック川のほとりの現在地を二人は選びました。雄大なランドスケープに魅せられてのことだったのは、言うまでもありません。
  かの徳川家康公が遥か富士を望む大きな湿地帯の江戸を選んだのも同様の経緯によります。
  何を大袈裟なと思われる方は、是非一度私共のWineryをお訪ね下さい。きっとご理解頂けます。
山の彼方(あなた)の空遠く
幸(さいわい)住むと人のいふ。
ああ、われひとと尋(と)めゆきて、
涙さしぐみ、かへりきぬ。
山の彼方(あなた)のなほ遠く
幸(さいわい)住むと人のいふ。
  私の年代なら誰でも知っている、かのドイツの詩人カール・ブッセの作。上田敏の名訳により今も多くの人々の心に残っていると思います。
  とても嬉しくなりますね。我が「山の彼方(あなた)」には、世界有数の美しい北海道・首都の札幌市があり、そして、そこはきっと幸(さいわい)住むところなのですから。


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≪情報や本舗≫≪OcciGabi=オチガビ≫≪HBC・ほっかいどう経済NEO≫≪ワインリゾートづくりに参加を!≫

あなたも日本一のワイナリーづくりに参加しませんか?≪ワインの木・オーナー制度≫http://www.occigabi.net/wanted-owner

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「オチ!1チャンネルで、やっているよ~・・・」と寝込みを襲われた?うちのカミさんが、大声で叫ぶ・・・「オチって?」と聞き返した、「落さん!よ・・・」直ぐに部屋のTVをONにする

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寝ぼけ眼(まなこ)で観ると、落くんが出ている、HBC放送の「NEO・・・今どきほっかいどう経済」という6:30の番組⇒≪HBCテレビ番組「ほっかいどう経済NEO≫http://www.hbc.co.jp/tv/neo/index.html

番組では、北海道はワインメーカーとの契約栽培でのワイン産地であって、決して自社栽培のワイナリーが多くあるわけではない。ワイン用ブドウの栽培面積が全道一で昨年11月に、ワイン特区に余市町は認定された


地元の中井観光農園・北海道ワイン【落くんの居た所】・空知の鶴沼ワインの紹介があって、特区による個性的なワイナリーが今後増えていくことに期待すると!ココで落希一郎が登場して【余市の自宅であろう】そう簡単ではない!と
・・・・【改正⇒自宅ではなく、余市町港町にある燻香廊(けむかろう)だそうだ】
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新潟で”ワインリゾート”を成功させた男が本音で語る言葉だ!そこには真実があるのであろう・・・ハードルを下げたからといって、そんなに簡単なことではないと警鐘している!

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ワインの生産量&出荷量を減じたからといって、おそらく食べていくことが、難しいのではと、初めから一本⇒2万円とか3万円のワインを販売するのなら可能だろうが≪最初からロマネコンティのような!ワイナリーを目指すなら?≫

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余市町のある山林【山田町】に重機ブルドーザーが土を掘り起こしている(日当たりを良くするため)映像が写り、「落くん」が、余市を北海道のワインづくりの中心地に、ワインの基地に、北海道観光の起爆剤に!

・・・余市の老舗酒店の店主が「・・・落さんが、地元に戻ったことは運命と言うか!必然性と言うか!期待が大きいのでは!とコメント

≪レストランの設計図・ワイナリー全体のマップなど映像を映し出して・・・≫

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落希一郎は「ブドウ畑の見えるレストランに2.000坪のガーデンを併設する新しいワイナリーを作りそこで3年間は2万本から3万本のワインを!4年目からは10万本を造ることを目標として安定させていきたい」と

ドイツから落君が持ち帰ったドイツ品種のブドウは40種類だったそうだ、すべて「好い地=余市」に植えた!今は5つか6つになった、それを今後増やしていきたいと・・・・生食用のブドウではなくワイン用のぶどうのことである

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【番組内での落の薀蓄】⇒酒税法にもとづき年間6キロリットル・・・50ミリリットルで8000本のワインが⇒特区では2キロリットルで可能になるそうじゃ



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≪情報や本舗≫≪落希一郎の新たなる挑戦≫≪余市でブドウ作り≫≪ワイナリー・OcciGabi≫

Photo【2015年最新情報!】  ↓ ↓ ↓http://blog.livedoor.jp/sapporolabrique/archives/7946430.html

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Photo_2【NHKニュース】2014年9月27日 おはよう北海道「ぶらり、みてある記」で、今余市のワイナリー”オチガビ”の創業者の一人「落希一郎」を特集!


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来週から始まる朝の連ドラの主人公でもある竹鶴政孝!本物志向のモルト作りから、ニッカウヰスキーのマッサンと呼ばれる、竹鶴政孝は酒は酒でもウイスキーですが,


本物のワイン造りをと、長年手がけ続けてきた”ワイン界の申し子【過言ではないよ・・・tenboss mori】”「落希一郎」は、ワイン業界のいわば“マッサン”ですと

おはよう北海道「ぶらり みてある記」の放映の詳細は⇒【http://bit.ly/1AJoLSQ】⇒バックナンバーで≪2014年9月27日≫

オチガビを訪れる,ドイツワイン学校当時のクラス仲間は、落希一郎のことを「オッチー」と呼ぶ、いつかアメリカ〟ナパバレー”のような日本版ワイナリーバレーが【落の夢でもある】出来たときには余市ワインの”オッチー”と叫ばれているかも?


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9月2日!日本経済新聞ほか各紙に掲載された、テレビニュースでも放映されていた 

【Facebook】に公開しました!現在の【OcciGabi・オチガビ】の近況!【tenboss mori】

好い地”余市”に11月にオープンのワイナリー「オチガビ」に6月に植えたぶどうの木に新芽が出始め、花が咲き、ついに醸造棟が完成した≪この上に土をかけて、さらに上にレストランの建設が始まるようだ!≫ (写真3枚)
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【Home Page】写真提供:オチガビの”フォトグラファー雅美”

「落希一郎」の重大なる決心!とは、新潟での事業【ワイナリー・カーブドッチ】は一応の完成をみたことから、一区切りと、落自身の人生の残されたおよそ20年ほどを、集大成として新たなる挑戦を始めようという決意だ!

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すでに北海道余市の丘陵地に8.400坪の土地を取得、今月(9月)からワイナリー醸造棟&レストラン建設に着工・・・・完成してのオープン予定は2013年9月!

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ワイナリーの名前も「OcciGabi=オッチドガビ」とついた。ぶどう畑作り、ここで庭作り、そしてワイン作り!すべてにお付き合いくださいと・・・・・・・!


新潟に彼がオープンさせたカーブドッチ同様に、ワイナリー作りの夢の共有と【OcciGabi Wine Club】を設立「ワインの木・オーナー制度を開始した

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オチガビ・ワイン・クラブ(OcciGabi Wine Club)の入会申し込みを済ませました!来年9月のレストランのオープン&ワイナリーのオープンと待ち遠しいですね・・・

     【会報誌(第一号)と↓メンバーズ・カードが届いた】P1080261


ここで、落くんのメッセージを紹介しておこう⇒『私のワイン作り人生は、20代半ばの西ドイツやオーストリアでの留学&研修から始まります。

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29歳で帰国し、北海道で10年、長野で3年、そして新潟で22年と経歴を重ね、そして今、人生の集大成として余市町で「日本一魅力のあるワイナリー」を作ろうと決心しました』

                         【落 希一郎】

Photo【(株)OcciGabi(オチガビ)開設準備室】


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語呂合わせではないがココ「余市」は・・・⇒「好い地」と幸先の好い場所である(余市町山田町635)、むかしむかし、旧約聖書にもあるモーゼが、「好い地=カナン」をもとめての出エジプトが、頭を過ぎってしまった

Aapre

余市の町というイーゼルに白いキャンバスを載せ、絵筆を持って「落希一郎の新たなる挑戦!」が描きこまれようとしている

120902_15460001共同経営者の「佐沢雅美」さん【左】

大事なことが、それは今回の余市でのワイナリープロジェクトには共同経営者がいました「佐沢雅美」さん!ここ「OcciGabi=オチガビ」の「ガビ」!その名前の由来にある・・・⇒落(Occi)と雅美(Gabi)からきているそうだ


_news333【最新情報】≪オチガビ=OcciGabi≫≪6次産業化応援ファンドの第一号投資物件に!≫≪7600万円の出資≫

Images

2013年5月・・・ワイン用ぶどう苗の植え付け

2013年9月・・・ワイナリーレストラン「OcciGabi」オープン  
          余市産ぶどうを使用したワイン醸造の開始

2014年3月・・・ワインの木・オーナーへのワインプレゼントの開始

2014年9月・・・自家ワイナリー産ぶどうでの初醸造

2015年3月・・・完全自家醸造ワイン第一号完成

≪順次に長熟ワイン&スパークリングワイン等々をリリース≫

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≪情報や本舗≫≪カンブリア宮殿≫【村上龍】≪カーブドッチ≫【落希一郎】≪洗練された陰影があるワイン≫

Logo≪OcciGabi・オチガビ≫のHome Page(ホームページ)が公開された!オーナー募集中・・・

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            ■≪落希一郎の新たなる挑戦≫■
_news"ワインの木のオーナー」募集開始!・・・・


一冊の月刊誌が届いた、送ってきたのは,高校の同期の友人だった。”ゲーテ”というメンズ雑誌である、掲載記事に「落希一郎」がカンブリア宮殿に出演した際の後日談として、ホスト役の芥川賞作家「村上龍」氏が番組で飲まれたワインを絶賛している

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「落希一郎」がカンブリア宮殿に登場したことで、ある銀行の研究会が研修目的で「落希一郎」を招聘したのである。主催者の役員と懇意の同期がいて「落さんも同級生がいた方が好いでしょう!」と

数十人で参加することになって、赴いたホテル「ロイトン」の会場で久しぶりに会った友人が「落くんのワインを村上龍氏が試飲した感想を雑誌「ゲーテ」にコメントしているので送るよと・・・

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村上龍氏が「ボルドーとも違うし、ナパとも違う、しかも洗練された陰影があるワイン・・・」と評したのを番組のディレクターが収録後に「陰翳とか、分かりづらい表現でなく素直に『おいしい!』と言ってくれれば・・・」と言ったそうだが

≪個人的には、このディレクターに?マークを呈する≫「味を複雑に混ぜ合わせることで、複雑にしたワイン・・・」とそれを受けて、初めて試飲した村上氏の率直で、また最上級の賛辞だったわけで!

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村上龍氏は「陰影があり洗練されている」何か深い意味でもあるのであろう?と”陰影”を調べてみた⇒陰影に富む=深みのあることと言う意味で言われたのでは?

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もしくは”陰影”検索で「谷崎潤一郎」氏の随筆に「陰翳(影)礼讃」がある「村上龍氏」が、この2ページ目にある「あれっ?今のはなんだったんだ?と言う喪失感に似た思い・・・」 ≪ひょっとしてココから来たものか?≫

懇親会場で突如指名され、落くんの応援演説?でのショートスピーチで「神の奇跡」と評される”ロマネ・コンティ”を一度だけ口にした体験からカーブ・ド・オッチのワインの方がうまい おいしい といったのは真実で、私の舌が抜かれることはない


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落希一郎の膨大な夢!新潟のナパになる可能性もあると村上龍氏がコメントしているのは嬉しい限りであろう

≪;我々友人にとって50年近くの月日を超えても、共有の喜びでもあるでしょう!≫

もう一つ喜びごとがあり、お祝いの賛辞と村上龍氏が試飲した08年のカベルネ・ソーヴィニョン【赤】の名前?とその値段はハウマッチ?で、彼に携帯した・・・

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「内で最高級の赤ワインで名前は「"bijou"ビシュー」・・フランス語で宝石のこと値段は@5.000!」とのこと、ゲーテの掲載はもちろん知っていた

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いずれにしても素晴らしきワインには影の名が?・・・ロマネコンティなら「神が与えたもう奇跡」とも言われる。ならさしずめカーブドッチの”ビシュー”は「洗練された陰翳」か「陰翳礼讃」であろうか


「今年オリンピックの年!同期会来ないか?」と誘ってみる「そうだな行って見るかな・・・」「そりゃ、愉しみだな!」と携帯をOFFモードに







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≪情報や本舗≫≪カーブドッチ≫≪星野知子≫≪ワインと温泉≫≪掛川千恵子≫≪ヴィネスパ≫

_news"ワインの木のオーナー」募集開始!・・・・

            ■≪落希一郎の新たなる挑戦≫■

119asea_b8≪OcciGabi・オチガビ≫のHome Page(ホームページ)が公開された!オーナー募集中・・・
http://www.occigabi.net/wanted-owner

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テレビ東京系列人気番組「カンブリア宮殿」で新潟のワイナリー「カーブドッチ」が放映されオーナーの「落希一郎」が番組ホストの芥川賞受賞作家「村上龍」氏とのスタジオトークでワインの薀蓄に花さかせていた
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カーブドッチのヴィーノクラブ会員になると、年に数回「落希一郎」が執筆の"ワインのひとり言”というエッセイであろう?が送られてくる!エッセイといえば女優でエッセイストそして新潟育ちの「星野知子」≪NHKの朝ドラ「ナッチャンや民放のサザエさん≫さんが、2009年讀賣新聞 の日曜版「酒ひと話」でカーブドッチのことを書いている

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東高校の同期の友人の1人が「落のワイナリー”カーブドッチ”の”ことだと思う、ワインのつくり手Oさんが・・は「落希一郎」のことだろう?」⇒

と新聞の切抜きをファックスしてきた!下記にキーボードにペンならぬ、指を走らせた?

News2■讀賣新聞で連載エッセイ「酒ひと話」の記事


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     ■タイトルは「ワインと温泉、いいじゃない」■                  ≪星野 知子(女優)≫ 著述

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次のうち、どちらの旅が好きですか? ひとつはワイナリーのホテルに泊まってワインざんまい三昧。もうひとつは、かけ流しの温泉宿で地酒に浸る。迷いますよね。ワインも温泉も大好きな私。両方楽しみたいと思っていたら、なんと身近なところにありました。

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私の故郷新潟でワインを作っていると知ったのは、15年以上前だった。野菜畑だった土地に欧州種のブドウを植えることから始まって、レストランや工房など次々に広げていき、とうとう温泉を掘ったという。それは行かねばならないというものだ。


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久しぶりに訪れたワイナリー。古民家を再生した建物が点在する中に、新しい温泉施設ができていた。部屋の窓を開けると、目の前に緑のブドウ畑が広がっていて、まずは感動だ。食事はフレンチか和食。すぐそばに日本海が広がっているから、海の幸の新鮮なこと。まだい真鯛やサザエ、それに新潟牛も美味だ。

そんな地元の食材をひきたてるワインは自家醸造100%。ワインの作り手Oさんが「今年の出来は素晴らしいんですよ」と熱く語ってくれれば、ワインも料理も一層味わい深くなる。

≪飛び入り情報⇒・・・ワインの作り手Oさん・・・は「カーブドッチ」の開墾者でオーナーの「落希一郎」である≫

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ちょっと食べすぎたかなと、ほろ酔い気分で露天風呂に入った。夜空に上る白い湯けむり。なめらかなお湯は肌にやさしい。「うーん、ワインと温泉の相性はなかなかよい」、などとひとりごとを言い、ふらふら部屋に戻ってベッドへもぐりこむ。翌朝、目覚めてブドウ畑を散歩してから、また温泉へ。いやあ、極楽でした。

しかし、米どころ酒どころの故郷に、本格的なワイナリーが出現し、おまけに温泉とは。私もびっくりだが、地元の人もさぞ驚いているだろう。

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私が初めてワインを知ったのは子どもの頃。ワインといえば赤玉ポートワインのことだった。ちょっぴりな舐めたらべとっと甘くて苦みがあって。グラスの中の赤い液体に、遠い異国の夢を見てときめいた。

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それから十数年た経って、日本にもワインが定着し、今や私の暮らしにもワインは欠かせない。新潟のワイナリーが居心地がいいのは、本物でありながらま ね真似ごとでないこと。ワインが日本の土壌で独特の香りを醸し出してきたように、その土地らしい日本人に合ったワインとのひとときを過ごすことができる。


ワインと温泉、いいじゃない。ワイン文化が日本で熟成してきたということだ。やっとそういう時代になった。

                     (平成21年)12月27日(日)

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【あとがき】と言っても情報や本舗である⇒この温泉の「ヴィネスパ」の共同経営者掛川千恵子さんの交友のひとりが星野知子さんであろう・・・・インターネットサイトによく登場する【あのひと検索 SPYSEE [スパイシー]】に「掛川千恵子」さんと、入れると写真は「落くん」なのだが?                ⇒http://bit.ly/tkajAR

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≪情報や本舗≫≪カーブドッチ≫≪落希一郎≫≪新潟ワイナリー≫≪僕がワイナリーをつくった理由=単行本≫

_news"ワインの木のオーナー」募集開始!・・・・

            ■≪落希一郎の新たなる挑戦≫■

≪OcciGabi・オチガビ≫のHome Page(ホームページ)が公開された!
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オーナー募集中⇒http://www.occigabi.net/wanted-owner


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広大なブドウ畑と、地下倉庫に眠るたくさんのワイン、そして一流のレストラン、古民家を移築して変身させたドイツレストラン、石窯で焼くこだわりのパンなど数々のこだわり、このことが本になった!

昨年!落希一郎が「僕がワイナリーをつくった理由」という単行本を出版した。彼がつくったワイナリーは「カーブドッチ」⇒フランス語で″カーブ〟は=貯蔵庫・倉庫、"ド〟は=英語のOF,そしてオッチ=落・・・・「落のワイン蔵」と言ったところか!

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【そのワイン蔵には、彼の本にも書かれてある「ヴィノクラブ」創設時に会員になった折からの10本のワインが棚に眠っていると思う?】・・・・・・・・・・・

ヴィノクラブ」の詳細は


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≪彼は猫がよほど好きらしい、今でも14匹の猫と暮らしている!この本のタイトルの「理由」の下に小さな猫の写真があるよ≫・・・・⇒カーブドッチの猫たち←【猫好きで、カーブドッチのファンの方のブログ】より


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1992年に、ボルドー(仏ワイン産地)に地理的条件が似ていると、新潟の国定公園角田山の麓で、1ヘクタールの欧州産のブドウを植えたところから、彼の夢が?本の結びで⇒・・・・「人間思い続ければできるものです。あなただって、僕だってかなりのことができます。そう、自分の人生をかければ。そして、ワイン作りには、そんな夢が詰まっているのです。」

落希一郎「人生を賭した冒険」に、貴方もつきあってみませんか・・と彼は本のススメである
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彼との出会いは高校時代に始まる、親しい友人の一人である。そして、この本が出版された時に、いち早く読んで会報誌に掲載したのが、同じく親しい友人の「金子邦彦」(明治大学商学部教授)君だ

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「・・・彼の波乱に満ちた半生とともに、自家栽培・自家醸造による少量生産・少量販売というごまかしの無い本物のワイン造りにかけた情熱と苦闘、丹精こめて創り上げた自慢のワインを美味しく飲み、ゆったりとした気分に・・・

【ワイナリーの施設・生産製品の紹介がしばし】・・・資金調達の苦労とひねり出したアイデア・独特の経営哲学とロマンあふれる将来像、さまざまな出会いと四季の移ろいなどが、彼の人生を如実に反映するように、コンパクトかつ飾気なく率直に綴られている・・・・・是非一読をお勧めしたい ≪金子邦彦≫


110831_14260001■【創業時に植えたブドウの苗木】

会員番号”30800”の証と一緒に送ってきた⇒≪あなたの葡萄の木が決まりました≫と、こんな書き込みがある「陽春の光と風を浴びて、赤みを帯びた柔らかな芽が顔を出しました。 この小さな命が、やがて美味しいワインになる迄、心をこめてお世話いたします」

そして”木の所在地【C3-23-27】ともある(今でもそこに在るのかな?)それはどうあれ、丹精こめて育て上げたブドウの木が、右上の写真にあるように、立派に育って美味しいワインとなる。きっと子育てと同じなんだろうな

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話を高校時代にもどして、我々は”産めよ、増やせよ⇒旧約聖書のフレーズらしい”の「戦後っ子!」だ。今なら「団塊の世代!」とか「ベビーブーマー世代!」とも呼ばれている・・そんな時代の高校に、彼は転入してきた!いきなりその年の学年末試験で356人中、2番か3番だったような気がする、その後も落希一郎は絶えずトップ争いから降りることはなかった!

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天才と秀才が違うなら、彼はその二つを持ち合わせた男だった。3年の時には、生徒会議長に選ばれ、サッカー部のリーダー格存在でもあり、人格・人望・リーダー資質を、そなえ持っていたことが証明しているのでは・・

≪先日!携帯で聴いたところ、いまだサッカー少年とのことだ!≫

本を読むまでは彼の生い立ちなど知る由もなかったのだが、1948年に鹿児島で産声をあげたらしい・父親は営林署の職員で・・・【この辺りは本に書かれている】


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『カンブリア宮殿』特別版

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http://www.tv-tokyo.co.jp/cambria/list/list20111201.html
                                                                       「落希一郎」が番組ホストの「村上龍」氏からインタビューを受けての”カーブドッチ”の紹介"・・・・【情報ソース】掛川千恵子さん≪←「ヴィノクラブ」の発案者≫から


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≪ワイナリー「カーブドオッチ」の話は、彼の執筆 『僕がワイナリーをつくった理由』の本以外にも沢山のワイナリーファンが書かれているので、このワイナリーに行き付く前のお話を紹介したい


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【ワイナリーに行き付く前のお話を読む!】
       ↓   ↓   ↓   ↓

落希一郎≫≪ワイナリー「カーブドッチ」≫≪行きつく前のお話

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≪情報や本舗≫≪落希一郎≫≪ワイナリー「カーブドッチ」≫≪行きつく前のお話≫

Aaaaa≪OcciGabi・オチガビ≫のHome Page(ホームページ)が公開された!あなたのブドウの木を育成、ワインに・・・

⇒【ワインの木・オーナー募集中・・・・!】


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Photo行きつく前の!知られざる話!・・・その前に「落希一郎」の重大なる決心!の詳細が!・・・・

            ■≪落希一郎の新たなる挑戦≫■


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「落希一郎」は、確か高校を主席か二番で卒業した、彼が進んだのは東京外語大学の英米科だった。卒業式でも会わず終いだったというのに、偶然にも、この広い東京で偶然にも、会ったことがある。お互い通う学び舎も違い、生活圏も違ったりで会うことも少なくなっていた

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薬師のお祭りだったのかな?中野新井薬師に住んでいる同じゼミ仲間と祭りの帰りに、ぶらりとこれも偶然に入ったスナックだったカウンターが10席程の店で奥の方に、二・三人先客がいた。いきなり、その先客の中の一人が『ノリオじゃないか?…』その声は、聞き覚えのある声で、薄明かりの中、よく見ると落だった!

『落~!?どうして此処に・・』・・・『ノリオこそ、何でー此処に?…』確かに、私は荻窪に住んでいて、彼は江古田だったのと、深夜ということも重なってか、お互いの出現が驚きだったのか!懐かしさから近況、四方山話しと、シンデレラタイムの24時を過ぎても花咲爺なってしまった、又会おうとわかれた。

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その後、学生運動が広がり各大学で学校封鎖などによって向学心に燃える学生にとっては、憤懣やるせない想いでキャンパスを離れる学生も、風の頼りで落もそんな一人だったのか?地元に戻って叔父きの経営する小樽の会社を手伝っているらしいと今のように、携帯など在るわけもなく、その後、お互い会う機会もなく、小樽と東京とで、学生生活から社会人としての足を踏み出したわけだ!

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私は私で、家業を手伝う羽目となり、故郷の岩見沢に戻り精を出している頃、落の所在が分かってきた、やはり落は、小樽にいた。そして、小樽市がワイン造りに着手すると云うことでドイツにワインのすべてを学びに留学生を小樽市民から二人選抜して留学して学んできてもらう事をきめて、選考に入った結果、落がその内の一人に選ばれ、ドイツへ旅立ったことも・・・・!

突然に大学を中途退学して、詳しいことも語らずに彼は北海道に帰ってしまったのも、しばらくしてから分かった事だ!落は、小樽の繊維卸会社の紳装という、彼の叔父さんが経営の会社に身を寄せているという話しを小樽税務署にいる「谷」という友人から聞いた。

 【余談だが「谷」はこの数年後、何故か札幌の病院で飛び降り自殺してしまった・・・合掌!】

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1974年頃?に小樽市がワイン造り事業に乗り出す準備のため市民から選抜して2人の人材をドイツへワイン留学させるというプロジェクトが進められる中で、その1人に選ばれたのが落希一郎だった!ここから落の なぜ~… 人生が始まったのだろう・・・そう本には書かれてある!

叔父のところに、身を寄せ手伝いながら待つこと、3年半、叔父が以前にドイツを訪れた欧州の北限ドイツでのワイン造りは日本の北限!北海道でも役に立つと考えた事が、きっかけだったように書かれてあるそして叔父さんの考えが反映したかのように、ドイツ・シュツトガルト「国立ワイン学校」に 旧西ドイツ 留学先が決まったようだ

   ≪未来のワイナリーマン誕生!落希一郎 26歳のことである≫

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シュツトガルト「国立ワイン学校」を卒業して小樽に戻った彼が市のプロジェクトに、どう関わったかは、私の知り得ないことであるが、分かったことは、小樽の繁華街でレストランを開いていると!花園町アーケード通りでレストラン≪ ヴィーネ≫というドイツワインとドイツ料理の店を開店していたのだ

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ドイツ人シェフがまかなう料理だから、もちろん味は言わずもがな!ドイツ留学時に培った人脈が店のスタッフや時々店内で開催するミニコンサートも彼の人柄によること大であろう。おそらく、この頃の経験がカーブドォチに生かされているのだろう。札幌から高速を飛ばして家族で、よく行ったものだ!【娘がお気に入りだった事も・・・】

何年かして、レストラン≪ヴィーネ≫を突然クローズしたらしいと、小樽に住む友人から伝え聞いた数カ月後に電話があり唐突にも、『コンサートの案内状をおくるので』と・・・『ヴィーネ閉めたんだって?』・・・『「ところで元気かよ?』・・・『ああ元気だけど、また今度来た時に話すよ』・・と

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そして、『よろしく!』といって電話は切れた数カ月後の、彼が主催する、その弦楽四重奏のクラッシックコンサートに足を運んだ。何人かの高校時代の友人がそこには居た。落も皆への挨拶もそこそこに演奏者の待つ楽屋に戻って行った

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引き続き今度は母校のある故郷の岩見沢でコンサートを開くからと、『興行主にでも、なったのか?』と冷やかすと、落していたは笑ってヴィーネ時代のドイツから来てくれていた『音楽家のためにも骨を折らなくちゃね 』とチェロ奏者のドイツ美人と肩を組んで『今の俺の彼女!』とおどけて、みせながらドイツ語で何やら話しながら、舞台裏へと消えて行った

【最近分かったことだが、東京でも何回か興行主?となってコンサートを開催していたそうだ!2011・11・11】

半年も経った頃、電話で『ドイツに行ってくる』と・・・『詳しくは帰ってから話すから』と、いつ帰るのかも云わず電話は切れた!

     ≪落の電話はいつもこうだ、まったく消化不良になるよ≫

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そこから ふた月後に、電話で 『長野でワイン造りに精を出そうと思っていた矢先に、秋葉原の電気屋のオヤジが ほらあの『○×○×』氏 よ!ドイツに、お城を買ったのだが、マネジメントをする適任の人材を探していて、ドイツの友人が推薦したらしく、俺に白羽の矢が刺さったみたいだ』

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電気屋の社長が言うにはレストランはもちろんの事城に関わる、すべて『一切の権限をを任せると言うので是非とも行ってもらいたい』と 、年収も望んだ以上に提示された額に納得出来たのと、『ドイツは俺のワイン造りの故郷でもあるし、凄く楽しみなんだ』と・・・ 『やりがいのある事が見つかって良かったよな 戻ってきたら連絡をくれよ』・・・『必ずな!』・・・・【年収1,000万!悪くない・・・】

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それから一年も経たぬと云うのに、落は戻って来てしまった。第一声が 『無職になったよ !』の一言 ・・・無論、例の消化不良を起こす電話でである理由を尋ねると、『電気屋のオヤジにすっかり乗せられてしまったよ』・・・『一切を任せるどころか、うるさく口出ししてくる、オーナー故に致し方ない無いのだが、約束した金額を出してくれないことには、根も果てたよ』 ・・『そんなこんなで打ち切って帰って来たよ!』・・・・


『で、どうするね 』・・・『しばらく、考えるがワイン造りは俺の夢だから、この信念は変わらないよ 充電!充電! 』と言って、いつも通り切れた

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ここからは、何故かお互いい連絡を取り合うこともなく幾とせ月で、数年が立ち新潟からカーブドォチ落希一郎の差出人で手紙が届くまでに何年も経ったような気がする


Photo_2以下、落希一郎の新たなる挑戦が始まった!良い地=余市に時を越え,処を代えての一大決心をこころに秘めての途轍もない夢の実現の第一歩を踏み出した・・・その経緯は下記≪オチガビ誕生!≫から

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Images_1_4【カーブドッチ=新潟】から【オチガビ=余市】の経緯詳細は・・・

クリック!クリック! ⇒ ≪オチガビ誕生!≫

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 ≪カーブドッチ≫≪星野知子≫≪ワインと温泉≫ 


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