【随筆・書籍】

≪物理学者で文筆家「寺田寅彦」≫≪寅年の寅の日に生まれる≫≪「吾輩は猫・・」や「三四郎」のモデルとも≫≪情報や本舗≫

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大正から昭和にかけて活躍した「寺田寅彦」という物理学者がいました 科学者でありながら文筆家でもあった寺田寅彦は 明治11年(1878年)11月28日に、当時の「東京市麹町区」で生まれました 寅彦という名前は、誕生日が「寅年の寅の日」だったことにちなんだらしい

 

≪余談≫だが⇒もし寅の刻だったら「三寅(ミトラ)の福」となって三つそろうと強運・福運を授かり縁起がいいと 三つ揃いでこの世に生まれてきたのは「毘沙門天」「徳川家康」そして聖徳太子が討伐祈願を「寅年寅日寅刻」に行ったところ、目の前に毘沙門天が現れ、その加護によって戦に勝つ事ができたという伝説まである

 

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話を戻しましょう 「寺田寅彦」は夏目漱石の門下であったことでも知られ、漱石の作品「吾輩は猫である」や「三四郎」には、寺田寅彦をモデルにしたと言われる人物も登場します。

 

『吾輩は猫である』に登場する理学者の水島寒月、『三四郎』に登場する物理学者の野々宮宗八は「寺田寅彦」がモデルだといわれている

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地球物理学、気象学などに取り組み、一方で執筆活動も行った「寺田寅彦」は多くの随筆を残します

災害に関連するものも多く『天災と国防』(講談社学術文庫)今日でも警世の書とでもいうべきか 実に手際よく収められ読むことが出来ます

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 文豪・夏目漱石を「師」とあおぎまた、彼が漱石を慕っていただけでなく、漱石も彼に目をかけていました。 随筆「夏目漱石先生の追憶」では、漱石の家を訪ねた様子を次のように書いています

 

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「先生はいつも黒い羽織を着て、端然として正座していたように思う。結婚して間もなかった若い奥さんは、黒ちりめんの紋付きを着て、玄関に出て来られたこともあった。田舎者の自分の目には、先生の家庭がずいぶん端正で、典雅なもののように思われた。いつでも上等の生菓子を出された。美しく水々とした紅白の葛餅のようなものを、先生が好きだと見えて、よく呼ばれたものである」

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≪物理学者「寺田寅彦」≫≪随筆「天才と国防≫≪夏目漱石の門下≫≪情報や本舗≫

 

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大正から昭和にかけて活躍した「寺田寅彦」という物理学者  夏目漱石の門下であったことでも知られ、『吾輩は猫である』に登場する理学者の水島寒月、『三四郎』に登場する物理学者の野々宮宗八は「寺田寅彦」がモデルだと

 

研究者として地球物理学、気象学などに取り組み、一方で執筆活動も行った「寺田寅彦」は多くの随筆を残しました 災害に関連するものも多く、今日でもたとえば『天災と国防』(講談社学術文庫)という1冊に手際よく収められ読むことが出来ます。

大正、昭和初期の考察ですから、現代からすればある種の違和感、諸々の事情や状況の違いがありますが、モノの見方、考え方の本質には大いに頷かされます。とくに天災と「人間の宿命」についての示唆に富んだ考えは豊かな視点を与えてくれます。

 

過去を振り返れば、日本は繰り返し地震、津波、台風などの自然災害に遭ってきました。今回の台風19号を気象庁は「狩野川台風」になぞらえて警告を発しましたが、

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昭和33(1958)年9月に襲来したこの台風は、伊豆半島と関東南部に記録的な豪雨をもたらし、静岡県と関東地方で河川の氾濫、堤防の決壊を起こし、全国で死者・行方不明者1269人を出しました(台風の名称はこの時決壊した狩野川からきています)

「寺田寅彦」は、昭和9(1934)年9月の「室戸台風」襲来2カ月後にこう書いています。

 

 

                           

地震津波台風のごとき西欧文明諸国の多くの国々にも全然無いとは言われないまでも、頻繁にわが国のように劇甚な災禍を及ぼすことははなはだまれであると言ってもよい。

 

わが国のようにこういう災禍の頻繁であるということは一面から見ればわが国の国民性の上に良い影響を及ぼしていることも否定し難いことであって、数千年来の災禍の試練によって日本国民特有のいろいろな国民性のすぐれた諸相が作り上げられたことも事実である

(天災と国防)

 

室戸台風は、その名のとおり高知県室戸岬に上陸後、近畿地方、新潟県を通って東北地方を横断し、その間本州、四国、九州各地に甚大な風水害を起こし 死者 2702人、行方不明者 334人を数えました。



住宅損壊 約9万3千棟、船舶被害約2万7600隻のほか、高潮が発生した大阪湾沿岸の工業地帯にも大きな損害を与えました。被災して間がないにもかかわらず

災禍の頻繁であるということは一面から見ればわが国の国民性の上に良い影響を及ぼしている

とは何事か、と思われるかも知れません。被災した人々の困窮、苦悩を「寺田」はわかっているのか、と。「寺田」はそうしたことに理解や同情がなかったのではありません。〈数千年来の災禍の試練〉

という日本列島に生まれ落ちた者の宿命を前向きに受け止め、そこに日本人の“生き筋”を見出そうとしているのです「寺田」は次のように述べます

 

日本のような特殊な天然の敵を四面に控えた国では、陸海軍のほかにもう一つ科学的国防の常備軍を設け、日常の研究と訓練によって非常時に備えるのが当然ではないか

自然災害の発生を前提に対応機関を設け、社会制度を整えたり、社会全体の価値観の共有、行動を規定したりすることが必要だというわけです。「寺田」は、室戸台風の翌年(昭和10年)の大晦日に没しました。日本はその後も地震や台風などの災禍に遭い続けます。

 

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人類が進歩するに従って愛国心も大和魂(やまとだましい)もやはり進化すべきではないかと思う。砲煙弾雨の中に身命を賭して敵の陣営に突撃するのもたしかに貴い日本魂(やまとだましい)であるが、○国や△国よりも強い天然の強敵に対して平生から国民一致協力して適当な科学的対策を講ずるのもまた現代にふさわしい大和魂の進化の一相として期待してかかるべきことではないかと思われる。天災の起こった時に始めて大急ぎでそうした愛国心を発揮するのも結構であるが、昆虫や鳥獣ではない二十世紀の科学的文明国民の愛国心の発露にはもう少しちがった、もう少し合理的な様式があってしかるべきではないかと思う次第である    (天災と国防)

 

こうした「寺田」の言葉はその後、我が国の「防災」に活かされたのか、活かされなかったのか――戦後最大の台風被害とされるのは昭和34(1959)年9月の「伊勢湾台風」です。前年の「狩野川台風」を超える被害をもたらしました。

 

≪三重県と愛知県をはじめとする中国地方以東の 39都道府県に及び、死者 4697人、行方不明者 401人、負傷者 3万8921人、住家全半壊 83万3965棟、床上・床下浸水 36万3611棟。特に伊勢湾沿岸では高潮が平均潮位より 3.9m高くなり、木曽川河口部一帯に浸水、三重県桑名市から名古屋市西部にかけた一帯は泥海と化し、都市機能はまったくの麻痺状態に陥った≫・・・・(ブリタニカ国際大百科事典より)

 

高度経済成長期の台風禍は、秩序を欠いた土地造成の是正やゼロメートル地帯の防水対策の必要性を強く訴えることになり、2年後(昭和36年)、国の防災対策の基本である災害対策基本法の制定につながりました。

寺田はまた 次のように

わが国の地震学者や気象学者は従来かかる国難を予想してしばしば当局と国民とに警告を与えたはずであるが、当局は目前の政務に追われ、国民はその日の生活にせわしくて、そうした忠言に耳をかす暇がなかったように見える

 

と書いてから27年後です。自然の力は往々人間が考える備えを容易く超えます。惨禍に遭う度になにがしかの教訓を導き出し、その後に備えようとしても、天災そのものを止ませることは出来ない。

寺田は「災難の進化論的意義」といった問題意識から、〈古今東西を通ずる歴史という歴史が

ほとんどあらゆる災難の歴史〉で、〈人間は災難に養いはぐくまれてきた〉・・・・と述べます。

 

ちょうど野菜や鳥獣魚肉を食って育って来たと同じように災難を食って生き残って来た種族であって、野菜や肉類が無くなれば死滅しなければならないように、災難が無くなったらたちまち「災難饑餓(きが)」のために死滅すべき運命におかれているのではないかという変わった心配も起こし得られるのではないか。

 

          (中略)

 

植物でも少しいじめないと花実をつけないものが多いし、ぞうり虫パラメキウムなどでもあまり天下泰平だと分裂生殖が終息して死滅するが、汽車にでものせて少しゆさぶってやると復活する。このように、虐待は繁盛のホルモン、最難は生命の酵母であるとすれば、地震も結構、台風も歓迎、戦争も悪疫も礼賛に値するのかもしれない。〉 (昭和10年7月「災難雑考」)

 

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日本の国土などもこの点では相当恵まれているほうかもしれない。うまいぐあいに世界的に有名なタイフーンのいつも通る道筋に並行して島弧が長く延長しているので、たいていの台風はひっかかるような仕掛けにできている。

また大陸塊の縁辺のちぎれの上に乗っかって前には深い海溝を控えているおかげで、地震や火山の多いことはまず世界じゅうの大概の地方にひけは取らないつもりである。

その上に、冬のモンスーンは火事をあおり、春の不連続線は山火事をたきつけ、夏の山水美はまさしく雷雨の醸成に適し、秋の野分は稲の花時刈り入れ時をねらって来るようである。日本人を日本人にしたのは実は学校でも文部省でもなくて、神代から今日まで根気よく続けられて来たこの災難教育であったかもしれない

 

日本人は国土の地理的与件による避け得ない災難の数々によって鍛えられ、まさに〈災難を食って生き残って来た種族〉・・・だというわけです。これは実際に被災した人々への支援や復興の具体論ではなく、感情としてどう寄り添うかという話でもありません。

そこから離れて、日本列島に住む我々の宿命と、それに向き合う心構えを論じたものです。豪胆と云うほかありません。我々が自然の恵みと感じるものは、同時に我々への脅威ともなり得る その折り合いをいかにつけ、この列島で生きてゆくか。自然の猛威に対する人間の文明力――際限のない繰り返しの中で私たちは生きてゆくしかない。安全性を高める努力をいかに注いでも、完全なる安心感は得られず、また完全に安全な状態もない 「寺田」はこう述べております

 

 

〈文明が進むほど天災による損害の程度も累進する傾向がある〉

科学の力で捻じ伏せるような防災の考え方に潜む落とし穴についても私たちは承知しておかねばならないでしょう そして「寺田」は“災難雑考”をこう結びました(これに日本人を当てはめるとどうなるか)

このまとまらない考察の一つの収穫は、今まで自分など机上で考えていたような楽観的な科学的災害防止可能論に対する一抹の懐疑である。この疑いを解くべきかぎはまだ見つからない。これについて読者の示教を仰ぐことができれば幸いである

 

――日本人がこの列島に住む限り――避けては通れない宿命のようなものである、ということです。そうであるならば、豪胆に、大和魂を発揮してゆくしかありません。具体論は、そうした魂を基に論じられるべきものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

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≪情報や本舗≫≪古事記≫≪序文≫(太安万侶)

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古事記 序

 

臣下、安万呂が申し上げます。

 

そもそも、混沌とした大元はすでに凝り固まりながら、生命の兆しはいまだ顕れていない。名もなく目に見える動きもないままでは、誰が、その形を認識することなどできたであろうか。しかしながらついに、天と地とが初めて分かれ、三柱の神が万物創世の先駆けとして姿を見せた。

 

ついで女と男とがわかれて、伊さ那美命と伊さ那岐命の二柱の神が、あらゆる生きる物たちの祖(おや)となった。そして、伊さ那岐命は黄泉の国に行きこの世に戻り来て、日神と月神とを、己が目を洗うときに生み成し、海の水に浮き沈みしながら己が身をすすぐ時に、天つ神や国つ神を生み成した。

 

 

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まことに、始原の時は杳として明らかではないが、古くから伝えられた教えにより、国土を孕み島を生み成した時のありさまを知り、根源の時は遥かに遠く極めがたいが、今はなき聖たちの教えに頼り
、神を生み人を立てた世の様を知ることができたのである。

 

ありありと知り得たのは、鏡を榊の枝に懸け、口に入れた珠を吐き出して子を成し、その子孫が百代にもわたって相継いで地上を治め、剣を口の中で噛み砕き、恐ろしい蛇(じゃ)を切り散らし、万の神々が集まり、高天の原(たかまのはら)を流れる安の河で議論して天の下を平らげ、出雲の国の小浜(おばま)で敵と渡り合って国土を清めた、ということであった。

 

こうして、番仁岐命(ほのににぎのみこと)が初めて高千穂の峰に降り立ち、神ヤマト(神武)天皇は秋津の島を経巡って行った。熊に変化(へんげ)した悪神が熊野川に顕われ出たときは、天の剣(つるぎ)を高倉の中に見つけて危機を逃れ、尾の生えた野蛮な者どもが行く手を遮ったときは、天より遣わされた大きな烏(からす)が吉野の地に神ヤマト天皇を導いた 。その吉野の地では、舞を舞わせて刃向かう賊どもを払い退け、兵士たちは合図の歌を聞いて敵を討ち伏せたのである。

 

また御真木(みまき・崇神)天皇は、夢の中に神の教えを聞くや、天つ神と国つ神とを敬い祀った。そのために人々は昔、世にも賢き大君と敬っている。

 

大雀(おおさざき=仁徳)天皇は、民の炊煙のさまを視察して人々を撫育したゆえに、いまも聖の帝と称えれている。若帯日子 (わかたらしひこ=成務)天皇は、国境を定め国家を開いて近淡海(かつおうみ)の地で人々を治め、男浅津間若子宿禰(おあさつまわくごのすくね=充恭子)天皇は、臣下たちの姓(かばね)を正し氏を選び定めて遠飛鳥(とおつあすか)の地で人々を治めたのである。

 

歩みには穏やかさや速さの違いがあり、内実の華やかさや質朴さも同じではないが、いずれの天皇も、古(いにしえ)を顧みながら古来の教えがすでにくずれかかっているのを正しく整え、その教えによって今の世を照らし導き、教えの道が絶えようとするのを補正しないというようなことは、一度たりともなかったのである

 

飛鳥の清原の大宮において大八州(おおやしま)を支配なされた大海人(おおあま)天武天皇の御世に至り、水底深く姿を隠していた竜がおのれをしって立ち顕れるように、しきりに轟きわたる雷(いかずち)のように、時機に応えて動きがあった。

 

天皇は、夢の中で神の教える歌を聞いて事業を継ぐことを思い、夜の川で身を清めながら皇位を受け継ぐことを決意したのである。

 

しかしながら、天命の時はいまだ到来しないというので、南にある吉野の山に、蝉が殻を脱ぐごとくに抜け出て潜み、人事が整ったと見るや、東の国に虎のごとくに勢いよく歩み出た。

 

 

吉野を出立した天皇の輿は、たちまちのうちに山を越え川を渡り進んだ。天皇の率いる六つの軍隊は雷(いかすち)のごとくに大地を震わせ、その御子、高市(たけち)皇子が率いる3つの部隊も雷(いなずま)のごとくに前進した。

 

兵士たちは手にした矛を杖にして勢いを奮い立たせ、勇敢な戦士たちは立ち込める煙(けぶり)のように湧き起こった。大君の軍隊が捧げ持つ紅の旗は、兵士たちが手にした武器を輝かせて敵を威嚇し、凶徒どもはまるで瓦が落ち砕けるように散り散りになったのである

 

ほんのわずかな時も過ぎないうちに、災いは自ずから鎮まった。すぐさま天皇は戦いの荷を負わせていた牛の手綱をゆるめ゛敵を追うために疲れた馬を憩わせて、ゆったりと都に凱旋したのである。戦いの印の旗を巻き収め、矛を鞘に収めて、勝利の美酒に舞い歌いつつ戦士たちをねぎらって都に留まることとなった。そして、木星が真西に宿る酉の年、月は二月に当たる時に、天皇は清原の大宮において、天つ位に昇り即いたのである。

 

天皇の踏み行われた道は中国の黄帝にも勝り、その徳は名高い周の文王や武王をも凌駕している。天皇は、神器を受け継ぎ、天の下を隅々まで統べ治め、皇統を引き継いで、四方八方の果てまでも統治する事となった。そのために、陰と陽との二つの気は正しく整い、五行による天地の運行も規則正しく巡ることとなった。天皇はまた、神々の教えを守り古来の習俗に従うことを奨励し、優れた習わしを敷衍させて国中に広めていった。そればかりではなく、天皇の知恵は大海よりも広大で、深く上古のことを探り求めていた。その心はよく澄んだ鏡のごとくに輝きわたり、過ぎし代のことも明らかに見通すことができたのである

 

ここに、大海人天皇は次のごとく仰せになった。

 

朕(わたくし)が聞いていることには、諸々の家に持ち伝えている帝紀と本辞とは、すでに真実の内容とは違い、多くの虚偽を加えているという。今、この時にその誤りを改めない限り、何年も経たないうちに、その本来の意図は滅び去ってしまうであろう。これらの伝えは、すなわち我が朝廷の縦糸と横糸とをなす大切な教えであり、人々を正しく導いてゆくための揺るぎない基盤となるものである。そこで、よくよく思いめぐらして、帝紀を選び録し、旧辞を探し求めて、偽りを削り真実を定めて後の世に伝えようと思う。

 

ちょうどその時、天皇の側に仕える一人の舎人がいた。氏は稗田、名は阿礼、年は28歳であった。その人となりは聡明で、目に見たものは即座に言葉に置き換えることができ、耳に触れた言葉は心の中にしっかりと覚え込んで忘れることがなかった。すぐさま天皇は阿礼に命じて、自ら選び定めた歴代天皇の日継ぎの伝えと、過ぎし代の出来事を伝える旧辞とを誦み習わせたのである

 

 

 

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しかしながら、時は移り世は変わり、いまだその事業を完成させることは出来ないままであった

 

頭(こうべ)を伏して今の世の皇帝陛下(元明天皇)を思いみれば、誉れ高い皇統を受け継いで、徳はあまねく響きわたり、天・地・人の宇宙の万物に通じて人民を養い育てている。

 

身は紫しんの殿の内に坐(いま)して、徳は馬の蹄の至るはてるまでことごとくに覆い尽くし、古き中国の名君、黄帝の住まう岩屋にも似た大殿に坐して、威光は大海の果てを行く船の舳先まで照らしている

 

日は天空に高々と照り輝いて重なり、大空にはめでたい[?]しるしを示す慶雲が浮かんでいる。また地上には、二つの枝が結びあった連理の枝や二つの茎に出た稲穂が一つに結ぶめでたいしるし瑞が重なり、記録係の者たちは筆を置く暇もないほどである。

 

貢ぎ物をもたらす外(と)つ国の使者の訪れを知らせる合図の烽(のろし)は次々に届き、間に立つ幾人もの通訳が言葉を変えてつなぎ渡し、贈られた貢の品で溢れた倉庫の中は、隙間ができる月日とてない。

 

まさに、皇帝陛下の名は、夏(か)の国の名君、兎王よりも高く、その徳は、いんの国の湯(とう)王にも勝ると謂いべきである

 

ここに、名高き皇帝陛下は、旧辞が誤り違っているのを惜しみ、先紀が誤り乱れているのを正そうとして、和銅四年9月18日、臣下、安万侶にみことのり して、

 

稗田阿礼が誦めるところの、飛鳥の清原の大宮に挫した天皇の勅語の旧辞を撰び録(しる)して献上せよ

 

と仰せになったので、謹んでみことのりのままに隅々まで細やかに採り拾った。しかしながら、遥か上古の時代は、言葉も意味もともに朴直であり 文字面を整え句を構成するに際して、渡来の文字を用いて書き記すのは困難を伴うことであった。

 

 

すべての言葉を唐(から)の文章によって叙述したのでは、記された言辞が上古の心に及ばない。また逆に、すべての言葉を音を生かしながら書き連ねたのでは、文字の数があまりに多くて伝えたい趣旨が間延びしてわかりづらい。

 

そこでこのたびは、わかりづらい場合には、短い一句の中であっても、大和の音と唐の訓とを交え用い、わかりやすい場合には、一つの出来事を語りきるほどに長い叙述であっても、すべて唐の文章を用いて記録した。そのために文意が 取りにくくなった部分には注を添えて明らかにし、意味が取りやすい部分には改めて注を付けることはしなかった。

 

また、氏の読みとして日下を玖沙 訶(くさか)と謂い、名の読みかたとして帯という漢字多羅し と謂うが如き、よく知られた読み方の類は旧来からの表記を踏襲して改めてはいない。

 

 

おおよそ期されている内容は、天地の開闢から始めて、小治田(おわりだ)の 御世 (推古天皇)でおわっている。そこで、天御中主神から日子波限建 草 不合命までを上巻とし、神倭伊波礼毘古天皇から品陀ーはむだ の御世(応神天皇)までを中巻とし、大雀皇帝から小治田の大宮までを下巻とした

 

 

 

併せて三巻を筆録し、謹んで献上いたします

 

臣、安万呂、誠に かしこまり、誠に恐れつつ、頓首、頓首。

 

和銅5年正月28日

 

正5位上勲5等 太朝臣安万侶

 

 

古事記には、上巻の冒頭に(序)が置かれている。その文体は本文 とは違い、純粋な 漢文体で書かれた上表文の形式をとっている

 

 

 

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