【中村天風の生い立ち】

≪Tenboss mori≫≪天風の多く書かれている出自①≫≪成功の実現≫

 

🔶【多く書かれている出自①】・・・「通説」の眼鏡の掛け違いを 正せる「新説」がここにきて出始めているから かつての口伝伝承からの出自を正せる説が 裏付けありとなりつつあるからである

先ずは  子の出自を知るには親を知ることで さらに祖父を知り高祖父の出自まで調べることで出自が分かるのではと考えたところで 紐解くことにしました

33693 【通説は】7月30日、東京府豊島郡王子村(現東京都北区王子)にて、大蔵省紙幣寮の抄紙部長の「中村祐興」と母テウの三男として生まれる、本名は、中村三郎。(幼少の名前は三午)母テウは江戸生まれの明朗快活な女性であったという 父「中村祐興」は旧柳川藩主の立花家に生まれ中村家に養子となっており 初代の柳川藩主立花鑑徳(あきのり)

 

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中村祐興は官公庁(特に現在の大蔵省造幣局)においては周知のひとではあったが 地元福岡の出生地と言われる・・・ではあまり知られていなかったようである
🍓🍓🍓 時に中村祐興が中央官庁で活躍しだしたあたりから地元でも関係資料をひも解いたのであろう いろいろなことが判明し 福岡藩主「立花家」の血筋を歴として引き継ぐ人物であることが判ったのである

 

 

 

伯爵の孫にあたる。祖父は初代九州柳河藩主で伯爵(伯爵となったのは柳川藩最後の藩主12代目)の立花鑑徳(あきのり)「したがって立花鑑寛=あきひろ)中村祐興は第二夫人(千代子)の子として生まれ、会津中村の相馬の跡を継いで中村となる。(会津中村藩の名跡を言っているようだが 間違い⇒九州の中村家(蝋売りの)

 

 

🔶【多く書かれている出自②】

天風の祖父というのは、もと柳川藩藩主、立花鑑寛(あきひろ)です。

 鑑寛は、立花家12代になります。天風の祖母は、お千代さんという美しい方だったそうで、鑑寛の側室となりました。そして、お千代さんは天風の父、佑興を生みます。佑興を連れ子にして、跡継ぎのなかった名跡、中村家(中村一甫)にとついだのです。

 天風は、しばしば講演で、「私の祖父は鑑徳(かんとく)だ」と言っていますが、これは天風の思い違いです。鑑徳は14代目の嫡流で、天風の従弟(いとこ)になります。この従弟と天風は、交際はなかったようです。

 

天風に出自のことを親切に教える人もいなかったのでしょう。天風が嫡流ではなかったことが、そういう記憶ちがいにつながったと、考えられます

 松原千枝という作家がいます。天風の弟子で、天風の出自を調べあげて本を書いていますが、その推理には誤りがあります。天風は「私は子供の頃、大名の家にそだった」という言い方をしていますので、東京に当時在住した立花家の人を天風の祖父と、松原氏は推理していますが、それが間違いです。そうではありません。父佑興は大名の子ですから、天風の育った家庭は、大名みたいな感じだったのでしょう。

 

🔶【多く書かれている出自③】

柳川藩の名跡である中村家には、跡取りがありませんでした。千代さんは、佑興を連れ子にして、中村家(中村一甫)に嫁入りしました。

 

天風の思い違いというより、だれかが誤って祖父の名前を教えたのでしょう。松原一枝という作家が、天風の祖母は千代さんといって、たいへん美人だったそうです。千代さんは、立花鑑寛にみそめられて、側室になりました。その間に生まれたのが、佑興(すけおき)という男児で、この人が天風の父となります。

 

天風の祖父は、立花鑑徳ではなく、立花鑑寛(あきとも)です。天風はいつも講演になかで、「私の祖父は柳川藩藩主の立花鑑徳という人でした」と誤って語っています。鑑徳は鑑寛の孫で、天風の従弟に当たります。交際はなかったのでしょう。

 

鑑寛は、幕末に近い1846年、18歳で九州柳川藩の藩主(12代)を相続しています。

明治4年、廃藩置県のため、鑑寛は柳川を去り、東京の江戸屋敷に移住しました。私は、天風が祖父鑑寛に会ったのは、この江戸屋敷であったろう、と想像しています。鑑寛の江戸屋敷の上屋敷は、今の台東区下谷御徒町にありました。(中屋敷、下屋敷も同じ台東区の浅草にあった)。佑興は、美しい側室の千代にうませた子供だったし、天風は孫だったからです。「私は大名の家に育った」とよく言いました。父の佑興は大名の子であり、名門中村から相当の財産を引きついだであろうし、大蔵省の高級官僚(局長)でもあり、裕福であったと思います。鑑寛はのちに伯爵となりました。

 

■天風先生は講演の中でしばしば 「こういう家(大名の家)に生まれたとわかったのは ものごころついた三つか四つの時だった」と語っている つまり立花鑑寛といっしょに大きな大名屋敷に住んでいたが 嫡出ではなく庶子(正妻から生れていない今でいう私生児)だったので 御所院番を務めていた藩士の祐興のところに養子としてもらわれていったのではなかろうか

 

三郎の母・長子(テウ)は 立花鑑寛に侍女として仕えていた それが身ごもり 出産したので 中村祐興に妻として下されたのではと推測される 松原一枝(天風の弟子)さんは調査結果を『中村天風 活きてきた生きた男』に詳しく書いた 私にもこれが一番正確だろうと思われる

 

🔴【中村祐興も大名の一族】

 

中村祐興は柳川藩の一藩士でしかなかったが 長崎で新知識を得たことから 紙幣用紙の製造で一家言持つようになり 大蔵省紙幣寮(現在の印刷局)で力量を発揮するようになった 新政府は偽札の製造を防ぐことができなければ 紙幣を発行できない 祐興は「中村紙」と呼ばれた特殊な紙幣用紙を開発し 明治政府を救った

 

この長崎留学の費用をみたのが 第9代藩主「立花鑑賢」(あきかた)の娘で 後に家老 小野勘解由 に嫁いだ宣子である 実は宣子の母は千代子で 祐興は同じ母から生まれた弟である

 

もしそれが事実だとすると 立花鑑寛は三郎の養育を 藩士一族の中村祐興に頼んだということになり つじつまがあってくる 庶子であったとしても 藩士の血を引く者の養育を 素性のわからない下賤の者に託すことはありえないからだ

 

自分の出自の謎を知った三郎は それに納得できなかった 荒れに荒れ 乱暴狼藉者となった あの豪胆に見える人が 実は我々と同じようにくよくよ悩み 八つ当たりし 憂さを晴らしたのだ 晩年 講演中 母のことに言い及ぶと しばしば絶句したしたというが 涙なしには不憫な母を語れなかったのだ

 

人間的悩みに苦しむ三郎・・・何だか 限りなく共感できる 木の股から生まれた英雄豪傑ではなく 我々と同じ素性を持っていた弱い人間だったのだ しかしながら それを乗りこえ あの颯爽とした生き方が出来るようになったのだから やはり哲人と言われるだけのことはある

 

破天荒な青春時代を過ごしたことは無意味ではなかった そんな破天荒な時代を過ごしたからこそ 人の痛みがわかる人になることができ 人々を助けることができた 天がなさることは無駄がない 一見マイナスのように思えることも 益となって働き ついに心眼が開けたのだ 心さえ折れなかったら 道は拓ける 天風先生自身の人生がそう語っているようだ

 

 

■天風先生は幼少のころ、大いにあれ、父の「中村祐興」は、ほとほと手を焼いて、縁故などをたどって大アジア主義の巨頭「頭山満」に預けてことはよく知られている話である・・・・(中略)

 

「これは戦場出途の往来よって受けた男の誇りの向こう傷じゃ よくうけたまわれ 男が戦うは腕じゃないぞ 度胸だぞ いかに腕前がすぐれているといえども度胸がなければ 必ずその戦いに負ける

 

爺が何べんもの戦場を往来しても この傷だけでもって命を全うしたのは 自慢をするわけじゃないが しいだま(度胸)があったからじゃな いざという時は度胸ぞ!」

 

これが必ず 爺が私に言う毎晩の言葉なんです もう毎晩なんですから知って(覚えてしまっているんですね)」(『中村天風 活きて生きた男』著松原一枝 中央公論社)

 

天風が語った幼少期の話には爺さん(殿さん)の話がたくさん出てきます。膳をいくつも並べ、腰元に囲まれながら「三午よ、どれを食うか?」などとかわいがられたようですが、時には爺さんが眉間の傷を指さし「爺のこの傷を見よ。いいか。いざとなったら人間しいだま(魂)ぞ。」と繰り返し教えていたというのです。

 

しかし このことは話半分で聞いた方がほうがいい この時期の戦場というと戊辰戦争しかない 徳川幕府支持藩との戦いに 藩主が おもむくことはないはず せいぜい武将が派遣されるぐらいであろう だから「立花鑑寛」(あきとも)が額に傷を負っていたというのは おそらく戦場で負った傷ではなく 幼少のみぎりに剣道場で得たという傷であろう

 

この頃 柳川藩の上屋敷は上野下谷にあり 藩主「立花鑑寛」(あきとも)が住まいしていた 資料上 三郎(天風の幼少名)は父・中村祐興と共に 王子村(現・東京都北区王子)に住んでいることになっているが 王子から上野下谷まで子供の足で毎晩通うことは到底不可能である

 

王子から上野下谷まで 直線距離で六キロ 大人の足でも一時間半 ましてや子供の足となるとゆうに二時間以上はかかる ということは 三郎は幼少の頃は上野下谷の柳川藩の上屋敷に「立花鑑寛」(あきとも)といっしょに暮していたのではないかと推測される

 

天風先生は講演の中でしばしば 「こういう家(大名の家)に生まれたとわかったのは ものごころついた三つか四つの時だった」と語っている つまり立花鑑寛といっしょに大きな大名屋敷に住んでいたが 嫡出ではなく庶子(正妻から生れていない今でいう私生児)だったので 御所院番を務めていた藩士の祐興のところに養子としてもらわれていったのではなかろうか

 

 

 

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≪幼名”三午源の光興”≫≪天風⇒三郎の幼名について≫≪歴史上の名だたる人物幼名≫≪Tenboss mor≫

🔴天風の貴しくも美しくもある幼名「三午源の光興 」・・・おそらく地元での命名者が日本最古の小説「源氏物語」その主人公「光源氏」から誘因してきたのではなかろうかな?

中村天風の幼少のころの呼び名が「三郎」と呼ばれていた また「三午(さんご)」とも呼ばれていたようである 「午の年、午の月、午の日、午の刻」と干支の三つ揃いは「寅」のことのようだが 天風が後に自身の言葉で語っているのだが1歳から7歳ぐらいまでの記憶はハッキリとは存ぜぬ話になるが 「三郎」「三午」と呼ばれていた呼び名が「天風」となったのは 

「午(うま)の揃い」と天風の養父となった「中村祐興」そしてその妻とならざるを得なかった紛れもいない海の親「テウ⇒長子」「祐興」の国の中央における活躍が後々 判明したことにより地元では「中村祐興」像のやりくりに算段したようである

13_20230131053101 左上が「中村天風⇒三郎」その右が養父とならざる得なかった「中村祐興」 そしてその下「中村テウ⇒長子」

 

生まれが明治9年とあり9年は「子」の年である 「午」の干支ともなると明治15年まで待たねばならぬ また縁起の良いとされる「寅」ともなると明治11年となるが いろいろと残されている口述文書が様々な事柄か腑に落とすことが出来るのは明治9年生まれが妥当な年となる

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7歳以降に九州福岡の旧福岡藩士らによって結成された「アジア主義を」貫く政治団体「玄洋社」に預けおかれた そこの主宰であった「頭山満翁」に得意とするものがあるかと 尋ねられ江戸の上屋敷で手習いの武道「隋変流」(居合&抜刀流))を披露した際に

 

「頭山満」翁が「その術の名前は」と尋ねられ「抜刀術”天つ風”と言います 頭山王はすかさず「三郎とやら今日からおまん(お前)は「天風(てんふう)と名乗れと言われたのが経緯でしょう

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🔳 幼名は竹千代、後の徳川家康

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🔶織田信長が幼名を「吉法師(きっぽうし)」 長男に「奇妙丸 🔶伊達政宗は幼名を「梵天丸(ぼんてんまる)」 🔶前田利家は幼名を犬千代

🔶加藤清正は幼名は「夜叉丸」(やしゃまる) 🔶立花宗茂は幼名を「吉弘千熊丸」  🔶毛利輝元は幼名は「幸鶴丸(こうづるまる)」

🔶武田信玄は「勝千代」(かつちよ:[太郎]とも  🔶上杉謙信の幼名は「虎千代」

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さて 🔶神武天皇 - その幼名とは「狭野尊(さののみこと)」


🔶菅原道真 - 阿呼  🔶源義家 - 不動丸  🔶源頼朝 - 鬼武者  🔶源義経 - 牛若丸  🔶武蔵坊弁慶 - 鬼若 🔶源義仲 - 駒王丸

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≪歴史上名だたる人の幼名が≫≪天風の三午でない幼名が≫≪三午源の光興だと≫≪Tenboss mori≫

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さて 中村天風をご存知の多くの方は 中村天風の幼きころ あたりから”さんご””さんご”と呼ばれていたというのは周知の事実である 近年分かったことだが天風の幼名が「三午源の光興」とたいそうご立派な名がついていることから 何故このような仰々しい幼名なのか調べてみたくなった (アメリカ在住の野口五十六さんというまさに天風翁の事柄については博識以上の知識をお持ちの方のウェッブから)

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干支の午が三つ揃いで三午と著ばれていたと言うが 読んでいたのは「三郎」だったのでしょうよ 三男坊であり実父の11代藩主「立花鑑寛」が次男で次郎と呼ばれていたことから「鑑寛公」がそう呼んでいたとの逸話あり

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神武天皇の幼名と言えども「狭野尊(さののみこと)」である 歴史上登場すること多しの徳川家康はご存知「竹千代」と多くの大名たちの幼名は○○丸・○千代とかが多くみられおよそ3文字というのに「三午源の光興」は5文字ですぞ

🔳 「狭野尊(さののみこと)」

源氏物語の主人公の「光源氏」父親と称されている「中村祐興」興に源氏の光を灯したのであろう おそらくこの名前の名づけは福岡の祐興が9代藩主の側室「千代子」の弟として生を受けた姉・千代子の生家の中村家は山川町原町で櫨蝋(和ロウソク)造りの家という下級武士の家柄に明治になって大蔵官僚となって一躍世間に名を知らしめた「中村祐興」の出身の小さな田舎町が話題になり分け合って9代藩主「立花鑑賢」を祖父とした後には日本だけではなく広く世間に名を知らしめた「中村天風」翁につながる脈絡は その後大きな展開の中で逸話的な話を覆せざる得ないことになっていくのである

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また 午(うま)の年、午の月、午の刻「午の年、午の月、午の日、午の刻」と「午(うま)揃い」ですに産まれたことに由来しているらしいが これはこじ付けにすぎないであろう 干支の寅に関わるなら腑に落ちるいわれがあるので納得できる

【特記事項】
干支の月は年に数度あるし午の刻も一日に何度かある 天風がこの世に生を受けて150年以上も経っているのに 天風の生まれは明治9年が通説となっているが干支は「子」であるのだ

「午」となると明治15年まで待つ すると伝わる天風の経歴が歴史上からもあり得ないことに根底から覆えされることとな これは行かんだろう

 

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≪著名な大名の幼名≫≪いわくつきの逸話≫≪Tenboss mori ≫

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さて 中村天風をご存知の多くの方は 中村天風の幼きころ あたりから”さんご””さんご”と呼ばれていたというのは周知の事実である

近年分かったことだが天風の幼名が「三午源の祐興」とたいそうご立派な名がついていることから 何故このような仰々しい幼名なのか調べてみたくなった

🔳 アメリカ在住の「野口五十六」さんのWEBより情報を得ました

神武天皇の幼名と言えども「狭野尊(さののみこと)」である 歴史上登場すること多しの徳川家康はご存知「竹千代」と多くの大名たちの幼名は○○丸・○千代とかが多くみられおよそ3文字というのに「三午源の祐興」は5文字ですぞ

🔳 「狭野尊(さののみこと)」

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    ≪狭野神社が見つかりました≫

また 午(うま)の年、午の月、午の刻「午の年、午の月、午の日、午の刻」と「午(うま)揃い」ですに産まれたことに由来しているらしいが これはこじ付けにすぎないであろう 干支の寅に関わるなら腑に落ちるいわれがあるので納得できる

【特記事項】
2014年6月4日の12時から14時が、「午の年、午の月、午の日、午の刻」と「午(うま)揃い」だったんですね

干支の月は年に数度あるし午の刻も一日に何度かある 天風がこの世に生を受けて150年以上も経っているのに 天風の生まれは明治9年が通説となっているが干支は「子」であるのだ

「午」となると明治15年まで待つ すると伝わる天風の経歴が歴史上からもあり得ないことに根底から覆えされることとな これは行かんだろう

【長くなるので続きとして・・・書き込み】
 

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≪中村天風 葬儀記≫≪Tenboss mori≫≪情報や本舗≫

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       ”中村天風 葬儀記”

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さてさて タイムスリップを試みました 12月7日私はいま 完成して直ぐの天風会館の入り口に黒ずくめの衣装の出で立ちで 12時30分より始まる財団法人天風会葬の天風先生の告別式に 先生を偲んで次々とご参列されて来られる人びとを見守っているところです

直接薫陶を受けた人びとは 全国で百万人を数える  皇族をはじめ、大臣、実業家、学者、軍人、人間国宝や文化勲章者、落語家、俳優、相撲取り、金メダリスト、スポーツ選手、小説家、サラリーマン、市井の人々に及ぶ

この日 全国から集まった参列者その数250~60名 その人びとの中には 華族や著名な政治家、経済人、芸術家、アスリートと幅広い分野からお集まりなられたそうで この人たちを見ると天風先生の人徳、人間の大きさに今更ながらびっくりしてしまいますな

 

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13,000本の白菊の生花で富岳をピラミッド型に造られ 祭壇の中央に「天風哲人」記され額とに遺影が置かれ その前で粛然と合掌と献花する会員 惜別無限の情はまことに胸せまる情景です 黒門付きの羽織袴で霊前へ進み供花をされていたのは時津風・日本相撲協会理事長(元横綱・双葉山)でした

天風先生の葬儀・告別式に参列され、葬儀委員長として弔辞を読まれたのは参議院議長を3期9年間努められ参議院のドンとして君臨した「重宗雄三」氏は 池田勇人・佐藤栄作両政権を支えた人物でした。その影響力の強さから、佐藤・岸信介とともに長州御三家と呼ばれ、その権勢から「重宗天皇」と称され、参議院は「重宗王国」とまで呼ばれていました           

 

次のように弔辞を読まれています 「天風先生のお教えを受け、ご指導を預かるようになりまして20数年、先生の愛国の熱情には、常に強く胸を打たれました。こうしている今も先生の、あの独特の熱弁を忘れることができません しかしながら、先生の偉大な教えは永く後世に伝えられるでしょうし、また伝えていかなければなりません そしてそれが先生から教えを受けた我々が、先生のご高恩にお報いする唯一の道であろうと信じます。我々は、この悲しみを乗り越え真の人生に生きる者を一人でも増やし、共に手を携えて、先生の念願され、理想とされた明るい社会、住みよい社会、住みよい世界の実現に精進努力することを、先生のご霊前にお誓いするものであります」と 

                  (昭和44年1月号「志るべJNO.92号)

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つづいて 運輸大臣も務め天風会理事長であった丹羽喬四郎氏は 「幸運にも先生のお教えを受けご協力を賜ること40年、性愚根愚鈍の身を何回となく、或いは病弱のため、または世上の転移途上で挫折せんとせし危機を、恩師天風先生のお力により、尊きお訓えをいただき脱しえて今日に至っているのであります」と別れを惜しまれている。また、岳父が岡田啓介首相で内閣書記官長や郵政大臣を務められた迫水久常氏は当財団の顧問および会員代表として、岳父の勧めによる入会の経緯と弔辞を述べられた




次いで、外務大臣・厚生大臣などを歴任された園田直氏は評議員長および会員代表として、天風先生の言葉「天へ行くとして輝く日月に変わりはない。俺は月を見よと指をさして教えた。全国の会員に伝えよ、指を見ないで月を見よ、俺が指そうとも安武会長が指そうとも、ささるる真理の月に変わりはない。全国の会員に伝えろと賜った言葉は最期の言葉であります」と会員への再自覚と結束を呼びかけられました

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他にもあったでしょうが 記述・記載がないので不明 最後に友人代表として「笹川良一」氏が弔辞を読まれました 氏は 国ため世のため、人のために政治活動、慈善活動、戦犯者の救援活動、救済活動を始めとした福祉事業に多大な貢献をしていた事はあまり知られていません 実像とマスコミの虚像との落差が大きい人でしたが「中村天風師」の葬儀の時に、40数年来の友人代表として弔辞を読み上げているのですから 一角の人物であることは間違いないと思う

 

グーグル検索で見つけてあった弔辞(概略)ですが 失念してしまい手元に残っていません 遺影に向かい「中村天風くん・・・・・・・・」 と呼びかけに始まりました・・

天風会員の方なら一度ならず2度・3度とお読みになられているでしょう「ヨーガに生きる」「若き日の天風」の著者「おおいみつる」氏は機関紙「志るべ」に「哲人天風」追悼特別号 に次のように

「真理を説いて五十年 人の幸福と世の平和を願った哲人ここに静かに帰霊なされた」と結んでいる

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 ≪天風告別式≫

 真理を説いて五十年、人の幸福と世の平和を願った哲人ここに静かに帰霊なされた。(「志るべ」誌、哲人追悼特別号 おおいみつる)


 

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≪情報や本舗≫≪天風翁の出自の不可思議をひも解く【高祖父編】≫❸

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「中村天風の養父「中村祐興」の足跡(経歴)」⇒ 郷土史家の「田中節」氏という方が言うには 先祖の「宝珠山」氏の女子「文子」が あの第11代「鑑備(あきのぶ)」を生んでいる

 

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「猷子姫」を1827年に生んでいる 既に書き於いたように 「千代子」は実家に御子(男子)がいないことを理由に また第9代「鑑賢(あきかた)」の側室「文子」には「鑑賢」公の二人の男子が嗣子となると決まっていたし 「千代子」が実家に戻ったときには第9代「鑑賢」公のお子を身ごもっていた そこで実家の中村を継がせたいと・・・・   

正室に男子の嗣子が恵まれず側室「文子」のお子が⇒「鑑広」1823年生 「鑑備」1827年生と生まれたゆえ継嗣となった さすれば他の側室が先に男子を授かっていれば・・・例えですよ「千代子」といえども可能性は秘めていたはず「祐興」1829年生だから 徳川家康が決めた長子の家督相続は外様大名といえども破るはご法度だったから

 

どうあれ 「千代子」は実家中村で二男四女を生んだことになっている そしてその長男の「祐興」は7歳から17歳になるまで異父姉弟(実際は父も母も同じ)の姉「小野勘解由」の正室「猷子姫=宣子」の小野家で育つ「祐興」だけが 藩命で姉「猷子姫」のお側役を承っていたばかりであろうか 裏には藩主「鑑賢」公の配慮が動いたと推察

 

母「千代子」は「祥光院殿の御事」に記載あるようにこれまた「鑑賢」公の特別な配慮での終身扶持を賜っていたにも関わらず御歳39歳にて他界された そして記載のある二男四女の長男「祐興」を除いて他のお子らの消息は一切不明である「祐興」は姉「猷子姫」のお側役をとの藩命をうけ 次に下った藩命が長崎への遊学であった

 

再三登場してくる作家「松原一枝」女史の書かれている 著書のなかに“天風の生い立ちを推理する”という章があって そこに祐興の孫にあたる方 の所持していた嘉永3年から明治31年までの過去帳に残された故人の戒名の写しから拾い挙げた「祐興」と「テウ」の間に生まれた子供らの出生記録からも またまた「おや!」「なぜ?」との記述が出て来て 意外な事が分かってきたのです

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まずは  その過去帳記載から 【長男】光次郎 (慶応3年7月7日生)【次男】豊次郎 ( 明治9年4月8日生 ・・・「おや!」【三男】三郎 の出生が明治9年7月20日ゆえ あり得ない記述が 「なぜ?」十月十日が必要でしょう

【長女】なぜか名も生年月日も記載がない 【次女】ミネ (明治10年5月10日生) 【三女】カメ(明治13年11月1日生)・・・何故かここに登場【三男】三郎 (明治15年7月20日生) 【四女】政(明治16年3月13日生) 【四男】祐吉 (明治17年9月30日生) 【五男】祐雄 (明治19年8月18日生)

 

と書き込みがあるが 多くの書物では“成功の実現”を筆頭に多くの作家の方々も天風翁の生まれを明治9年7月20日(1876)としている  なぜなら明治15年生まれ(除籍謄本と過去帳の戒名写し)とすると 

 

①長男の光次郎を母「テウ」は12歳で生んだことになる 

②「祐興」その子とされている三男「三郎=後の中村天風」の経歴が成り立たなくからです 数例をあげるとするなら修猷館での軍の進軍に向かっての投石事件が僅か9歳か10歳の頃となるし 日清戦争直前に時に「頭山満」翁のところに向野陸軍参謀本部中佐が尋ね来て鞄持ちとして満州視察(実際は軍事探偵として)に行く年齢も11歳か12歳くらいとなる・・・無理でしょう

③明治13年(1880)荒川小学校に金二十円を寄付している 三郎が明治9年生まれなら5歳~6歳 明治15年(1882)となると2歳で小学校に通ったことになる 明治13年 東京本郷の小学校を卒業すると その後中学は九州福岡の屈指の名門校修猷館(現修猷館高校)に入学させられる 

明治16年(1883 )九州の中学校だけの連合柔道試合の遺恨から殺傷事件をおこしてしまう。

④「祐興」が偽札防止のための“中村紙”を完成させたのが明治19年(1886)であるから三郎が明治9年(1876)生まれなら10歳である

⑤「祐興」の出世の糸口ともなった長崎遊学は小野家の多大なる恩恵ありき

 

このように歴史的事実からの検証をすると天風翁にまつわる記述に誤りが多いのですね 何故なのでしょうか 現存する天風翁の録音テープ(講演)の“テープお越し”(注釈:活字にすること)を無条件に“孫引き”したことが一つ 

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もう一つは残っている録音テープが昭和30年から天風の晩年の頃のものしかないのと 聴き取りもテープ録音技術・マイク機器の性能が優れてもいなく(注釈:京都天風会の方が多くのテープお越しを実践されていて いくつか“聴き取れないのでここまで”と補足つきのものもありました・・・別掲しましょう)発音など 果たして正確にとらえていなかったのではと考えられます

 

残されていたテープの中身で 本論に入る前の“まくら”での場所・年月などは書かれ語られてはいるものの そうこだわらずに歴史的史実からはずれることも 出自・生い立ちにこだわらずとも「心身統一法」を創見されただけで良いと いわれる方が大半という事実は理解しうることではありますが  

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出自に関して述べさせて頂けるなら 歴史上の人物として活きて生かされるには 場所・年月等が歴史的史実から外れてしまっては 天風翁の教えと同じく 価値ある大切なことであり 歴史上の人物として生きないのですよ

 

■三郎の父「中村祐興」の足跡(経歴)は歴史上明らかである そこから掘り起こして実証し 「天風」の存在もまた歴史の中に留めおきたいからだ

天風翁の出自について 先ずは親の出自からと「中村祐興」について郷土に残されている資料などから実証 その歴史的事実を紐解いた本を出版されている方がいました お一人は「原田信」さんといって天風会員ではないようですが福岡生まれの九州大学卒 NHK入局の方です ご本人が本を出されたのではなく 2004年に亡くなられた後に ご子息の「原田哲哉」氏が原稿の存在(補足:著者の「信」氏は生誕地の福岡県山川町の教育委員会に原稿を送っていたとのこと)を知り「中村祐興小伝」サブタイトルが“天風を育んだ開花人”という本を出版されたのですね

 

中村祐興が9代目「立花鑑賢」の側室「千代子」との間の子であり中村天風が11代目「立花鑑寛」と侍女「テウ‥後に長子」との間に生まれた中村祐興どうように史実としての認知・認識は薄いものの中村祐興が自筆で書き残した「祥光院殿の御事」に不可思議と思われたことがすっきりと分かった気がしました

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≪情報や本舗≫≪天風翁の出自の不可思議をひも解く【高祖父編】≫❷

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天風の父「中村祐興」の生い立ちに大きく関わるのが9代藩主「鑑賢」だ 8代「鑑寿」の娘を正室に養嗣子となった「鑑賢」は「千代子」という側室をもっていて「鑑賢」との間に第7息女「猷子姫」をもうけていた

 

立花家の前の田中家は子供に恵まれない無継嗣のため改易となっていた、ですから家名を残すためにも藩主たちは多くの側室を抱えていたのでしょう それは将軍といえども同じで「徳川家康」公は20人からの側室がいた

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9代目の「鑑賢(あきかた)」も同様に抱えていた側室の「千代子」は美しく聡明な女性であったようだ 実家の中村家に嗣子が居ないことから藩主鑑賢に側室を辞する許しを得て山川村原町の櫨(はぜ)蝋作りの中村家に戻る

 

「千代子」は9代「鑑賢」の間に猷子姫をもうけていて その猷子姫は立花家の筆頭家老職の「小野勘解由」に嫁いでいる この姫と家老の詳細は後述するとして「千代子」が実家に幾つかの「おや!」「なぜ?」との記述が出て来てしまうのです 

 

中村天風にまつわる書籍・テープお越し・文字お越し等には ある時 側室「千代子」から 実家の中村家に継嗣がいないので改易にならぬよう 側室を辞して実家に戻るという宿下がりをねがいでたのだ 「鑑賢」はこころ広く許したことで「千代子」は実家にもどることができたのだ

 

せっかく中村家が実家に戻ったというのに 名跡中村家に戻った側室「千代子」は立花家藩士「西田一甫(御所院番」を夫に迎え 、2男4女をもうけ、その長男が「祐興」であるということになっている書き込みが多い

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御所院番というのは下級藩士です そもそも藩士を婿養子に迎えるなら「千代子」が実家に跡継ぎがいないからといって側室を辞さずとも中村家が婿養子を迎えることで解決したのではないでしょうか また側室「千代子」の戻った名跡中村家とあるが その千代子の生家の中村家は山川町原町で櫨蝋(和ロウソク)造りの家で名跡ということはない

 

≪出生の地=瀬高町の町の町史に戸籍の保存があります≫ 柳川藩の名跡である中村家とか 藩主と血縁のある中村家とか はたまた会津中村の相馬藩の名跡であるとか いずれも誤りである 御所院番というのは下級藩士だからである

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数冊の天風翁に関わる本を書かれている ある方の「祐興」の出生についての書き込みでは立花藩主「鑑賢」の第二夫人の子として生まれ「祐興」を連れ子にして跡継ぎの無かった名跡中村家「中村一甫」の養子となったと記載があるが

側室「千代子」が第二夫人かどうかは定かではない 「文子」という側室が嫡男を生んでいる(正室に子が出来なかったのであろう)多くの側室がいたからで また「千代子」が中村家に戻ったのは間違いないであろうが「祐興」を連れ子としてあるのは 既に生んでからということになるので(千代子が立花家を出てからの子であり現代で言うならば認知の無い庶子である) ここの二つは不可思議なところが残る

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この連れ子の件に関しては 天風翁の愛弟子で天風翁にまつわる天風の出生を福岡県のお墓まで追跡して、天風の出自を調べあげて本を書いている「松原一枝」という小説家は その本“「中村天風、活きて生きた男」のなかで” 柳川藩藩主「鑑賢」の隠し子であったのでは と記述がある・・・・・

 

側室「千代子」が宿下がりの際に千代子のお腹に子供がいたのではないかと 現代と違い三ヶ月・四ヶ月は妊娠しているかどうかは判らずじまいであっただろうから中村家に戻ってから気がつき利発な「千代子」のことゆえ仕えていた殿様には当然ながら報告をしたであろう

≪徳川家康に纏わる似たお話がありました≫

家康には20人もの側室がいて その内でも寵愛を熱くうけていた「お梶」だが子宝に恵まれず将軍職を秀忠に譲り渡した家康は完成した駿府城に移り住む際 居城につれ行く側室を各々に言い渡したのだが側室「お梶」はそこから外れていた  家康はお梶に松平昌綱 のところに行くよう申し渡した  ところが1ヶ月で城に戻ってきたのです なんとなんとお梶が懐妊していたというのです  松平昌綱は 恐れ多いと指一本触れぬからして  まちがいなく家康の16人目のお子である・・・≫

 

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≪情報や本舗≫≪中村祐興は9代藩主の嫡男ではないが実の子≫≪出自の不可思議をひも解く≫

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中村祐興は9代藩主「鑑賢」と側室「千代子」との間に生まれたのは事実であろうからして大名の子である ただし立花家を母の側室「千代子」が実家の中村家に男の子がいないため藩主「鑑賢」に願い出て側室を辞して実家に戻ることが許され 戻る途中で藩主「鑑賢」の「子種を宿していたことが判ったのです

 

「鑑賢」と側室「千代子」との間にはすでに「祐興」の姉にあたる「宣子」という姉がいて(「猷子(ゆうこ)姫」である) 立花家の筆頭家老「小野勘解由」に嫁ぎ裕福な暮らしぶりであった 7歳から17歳まで「祐興」は 姉の嫁ぎ先の小野家で暮らし育っているのだが理由は分からない 後に「祐興「」自身が自筆の姉宛の書き留めて文書が見つかっている 

1_20200702200201  9代藩主【立花鑑賢】

 

その文書から推察出来るかも知れないというのも 藩主「鑑賢」の実子(庶子とはいえ)にかける思い入れが伝わる裏づけとなりうる文書内容にが読み取れるからです

 


≪立花家の筆頭家老「小野勘解由」について≫

小野家として藩主「宗茂」以来300年 武門の家として仕え栄える 立花家の重臣として9代藩主「鑑賢」に仕えし時には4000石の禄高を承り(注釈:当時は1万石の禄高取りで一国一城の大名であった) また石炭の採掘権(後の三池炭鉱)を有し 「鑑賢」の第7息女「猷子姫=宣子」を妻に娶り 「宣子」と同じ母から生まれた弟「祐興」をなぜか7歳~17歳になるまで小野家に於いて面倒を見たようです それまで石炭採掘の台所部門(経理)をみていた「祐興」が17歳のときに長崎に留学した際の一切の費用など捻出したのは姉の「猷子姫=宣子」です・・・この当時の「祐興」の事は後述します 

 

その文書は「祐興」自筆の「祥光院殿の御事」(祥光院とは「鑑賢」の第七息女である「のこと)という一文が大蔵省印刷局の記念館(福岡県)に残っていることが分かったことで

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それも昭和41年になって天風翁の息女「鶴子」の夫「安武貞雄」財団法人天風会会長が天風翁の命によって調査に突然来局して写真と履歴書を借りてコピーしている記録が残っている これらはその後「鶴子」女史の手元にそして天風会館に所蔵

同様に「中村祐卿小伝」という本を書かれている著者「原田信(まこと)」氏もその本の中に写真で公開していますし 平成2年には天風翁と交流のあった近盛氏がジョセフ=ヒコ(彦)記念会の会報誌「浄世夫彦」でも写真版にして全文を公開しています

 


≪注釈「近盛晴彦=ジョセフ彦」は毎日News記者・啼塚山学院教授・ジョセフ=ヒコ(彦)記念会会長で自ら語っている「当初は「祐興」についての知識など全く無かったのに その「祐興」の境遇を辿って行く内に天風翁の存在を知り 天風翁との手紙のやり取りをしたり大阪の天風会であったりしていた」・・・天風の息女で「安武鶴子」夫人はジョセフ=ヒコ(彦)記念会理事でもあった 「ジョセフ彦」氏は日本人でアメリカ市民権を得た帰化第一号のひとである≫

 

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生い立ちについては 大蔵省印刷局の記念館(東京新宿区)に残っていた「祐興」自身の筆による「祥光院殿の御事」という一文は現代文ではないためネットでの拾い集めと独断解釈できるように編集手直ししたものを以下に・・・・

 

≪注釈:祥光院は9代柳川藩主「立花鑑賢(あきかた)の側室「千代子」のことです)


祥光院殿ハ旧柳河藩主従四位下立花鑑賢公(道雪公ヨリ拾代目体慈院殿ノ御事ナリ)第七ノ息女ナリ御名ハ猷子、文政十丁亥年[1827]7月18日ヲ以テ生ル長シテ藩ノ大夫小野勘解由ニ入興明治17年[1884]10月4日卒ス山門郡下内村慧日寺内ニ葬ル。謚シテ祥光院殿天珠浄円大姉ト云フ実ニ我慈母(中村家五代目夘三郎ノ長女 法号宝樹院殿釈尼妙好信女)ノ産ム所ナリ 是レヨリ先キ千代子鑑賢公ノ側室タリ猷子姫生ル コノ後 中村家男子ナキノ故ヲ以テ請フテ家ニ帰ル 公其貞淑ヲ賞シ賜フニ終身扶持ヲ以テセラル 尋ネテ同藩士西田一甫ヲ納レテ焉レニ配ス 二男四女ヲ挙ク 弘化ニ年[1845年]8月16日逝ク 行年39歳 爾後世故多難我家々産頓ニ傾ク 偶々夫人ノ知ル所ト為リ 夫人御合力米ノ内ヨリ特ニ 三人扶持を祐興ニ給セラレ其側役ニ就クコトトハナリヌ 後藩命ヲ奉シ笈ヲ負フテ長崎へ遊学セシ如キ皆夫人斡旋ノ結果ニシテ 祐興ノ今日アル一々夫人ノ賜物ナリ矣  我子孫タルモノ須ラク牢記シテ其鴻恩ヲ忘ルルコト勿レ

 

祥光院殿は旧柳河(川)藩主従四位下「立花鑑賢」公の第七息女で御名は猷子(ゆうこ)(猷子姫=宣子のことである)(「鑑賢」公は「立花道雪」公から数えて10代目にあたる体慈院殿のことである)

 


≪注釈ただし「道雪」は主家-大友家との確執が根強く立花姓を名乗ることはなかったので「宗茂」を初代とすると「鑑賢」は9代目となる≫

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文政十丁亥年7月18日に生まれ 長じて柳河(川)藩の筆頭家老「小野勘解由」のところへ嫁ぐ その後明治17年10月4日に身罷りて山門郡下内村蕊日寺に埋葬される 法号(戒名)は祥光院殿天珠浄円大姉と云う 実に我が慈母(祐興の母)は中村家5代目「卯三郎」の長女であった 法号(戒名)は宝樹院殿釈尼妙好信女と云い産むところである これより先は「千代子」は「鑑賢」公の側室となり「猷子(ゆうこ)姫」を産む 母「千代子」は姫を産んだあと中村家に男子がいないことを理由に家に戻ることを願い出た(暇乞いである)「鑑賢」公からの許しを得て実家中村家に帰った 「鑑賢」公は其の貞淑を賞し終身扶持を以って賜る

 


≪注釈千代子の貞淑をなぜ「鑑賢」公が宿下がりを願いでた側室に終身扶持まで賜るほど誉めたことは不可解ですよね 終身扶持とは主君からの俸禄が一生賜れるということです・・・当時「千代子」に賜った終身扶持がどれほどかは記載が無いのですが その内から「祐興」 に3人扶持を給せられるとあります ですから推して知るべしとしましょう≫

 

柳河(川)藩藩士の「西田一甫」と結婚して二男四女を産んだいる 弘化2年8月16日に身罷る 行年39歳の若さであった 中村家は多難なことが次々と起こり・・・・・・・・産頓に傾く偶偶夫人(姉・猷子姫)の知るところと為り 特別に三人扶持を以って 藩命を受けて実の姉「猷子姫=宣子」の側役に就いてから 藩の大夫・小野家との関係が深まり 将来が開けてきたのだ 長崎へ遊学したのもすべてが全て夫人(姉・猷子姫)の斡旋によるもので 「祐興」の今日あるのは一にも二にも夫人(姉・猷子姫)賜物である 我が子その孫孫に至るまで此の事を牢記(肝に銘じ)して この御恩を努々(ゆめゆめ)忘れてはならない・・・「勿れ」と

 


≪注釈 終身扶持とは主君から一生賜れる俸禄のことで 当時「千代子」に賜った終身扶持がどれほどかは記載が無いのですが その内から「祐興」 に3人扶持を給せられるとあります 当時の一人扶持は今の金額で約7万5000円×3ですね…(大蔵省印刷局百年史 第2巻S47 による)

それに藩士の俸禄が47万5千円が加わると⇒60万円となります≫

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「祥光院殿の御事」を読むことでいろいろな事が解明される 最後の方で記述している小野家の援助で家計も助かり藩命を受けての長崎遊学は「祐興」の出世の糸口となったこと

 

「其ノ貞淑ヲ賞シ賜フニ終身扶持を・・・」とあるが 「祐興」が「鑑賢公」の男子ではあるけれど 実家に後継男子がいないので 中村家の跡取りとしたいゆえ 暇乞いをさせていただき伴侶たる者をさがし中村家存続を願うだけな

ら「鑑賢」公が果たしてこのように誉めるだろうか

 

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多くの側室がいた内で稀なこととは言え “終身扶持”という生涯生計で困ることの無い俸禄を賜ることは異例のことと推察 前述の似た話で家康公の側室「お梶」は生まれた御子とともに家康のもとに戻りたかったのだが 「鑑賢公」の側室「千代子」は中村家のために実家に戻ったのだから中村家において伴侶を求めず「鑑賢公」の庶子といえども一生涯我が子を守っていくという決意に対して貞淑であると誉めたのであろうと思える

 

また もしも男子を生まずして側室だけを辞退し暇ごいを願いでて実家に男子がいないことを理由に誰ぞと結婚をして中村家を存続させたいというだけなら ありきたりのことゆえ「鑑賢」公が賞めるでしょうか

 

そして「鑑賢」公は千代子がこのまま独り身のまま実家で独身を貫くことはないと 立花家の御書院番「西田一甫」と結婚させ「西田」が中村家へ入ったのでしょう 「同藩藩士西田一甫ヲ納レテ・・・」⇒結婚して云々との記述も 二男四女を産んだとだけで 「祐興」が「西田一甫」の息子だとは一言も書いていない 弘化2年8月16日(1845)に行年39歳で「千代子」身罷る

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ここまで「祥光院殿の御事」は「祐興」の自筆の書であることは福岡の瀬高町の町誌を昭和49年に調べたところ 間違いの無いことが分かり この御事に記述の「鑑賢」の側室「千代子」から生まれし「猷子姫=宣子」その伴侶である立花家代々の重鎮家老「小野勘解由」と なんとか読み解くことで 殿様「鑑賢」公の側室「千代子」の労わり・思いやり また「猷子姫=宣子」の実の弟であるから故に 母・「千代子」の実家が多難のことに困窮していることに見かね 中村家の危機を救っている

 

将来が開けてくるようになったのは「御事」に書かれてあるように「祐興」が藩命により「小野勘解由」夫人・猷子の側役になって三人扶持を給わるようになったからでしょう 家長制度からすると「千代子」の伴侶で藩士でもある「中村(旧姓:西田)一甫」こそ藩命が下りるべき本人でしかるべきであろう

 

ここにきて「祐興」が「西田一甫」の長男であるということは「御事」の記載から背景を察しても誤りで 冒頭に書いた「千代子」が暇乞いをして中村家に戻るときに身ごもっていて お腹にいたのが「祐卿」というのが納得できるお話であろうかと推察

 


【補足】なぜなら見る側の視点によって、見えてくる世界が全く違ったものになるからだ。■おおよそ 都合良く書かれるもの さまざまな思惑にて削除あり 改竄あり  捏造ありと 抹殺されるのである 関ヶ原の戦いで言わずと知れた西軍の将「石田三成」といえども その出自さえ定かならず 祐興に至っては諸説少なからず

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≪情報や本舗≫≪天風翁の出自の不可思議をひも解く【高祖父編】≫❶

 

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≪天風翁の出自の不可思議を高祖父からひも解く≫

 

「運命を拓く」の序章は次のように始まっています 人は、自分の体験と学問の範囲でものをいう 範囲を越えたことに遭遇すると人は、うそ(否定)、ほんと?(疑惑)、信じられない(不信)と、拒絶的態度に出る

 

一人の人物やその思想を理解しようとするならば、まずその人の性格、その生きてきた環境、生い立ちを見つめてゆかねばなるまい

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中村天風翁は生前に 言い残している 「世の中のためになるなら私が言ったといわなくっても構やしない どしどし人に話せ  いちいち私の了解をとるな 私の教えは天の教えだからだ 私の名前などどうでもいい」

【注釈】 関ヶ原の天下分け目の戦いの西軍の将(司令塔)「石田三成」と言えどもその出自は全く不明のままである イエスキリストも然り 世界中が祝う12月25日キリスト生誕の日 これとて羊たちの生息の厩でと伝わるが「あり得ない話なのでsる」⇒どうやら4月17日という説が真説のようである

天風翁は次のようにも語っています 「わたしの講演を聴き なるほどと思い実行し実証した人は数知れない それが啓発されたものだとしても いつしか自説になっても それは最早や自己のものにした人のものである」と

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そしてこうも云っていた「世の中のためになるなら 私が言ったといわなくっても構やしない どしどし人に話せ いちいち私の了解をとるな 私の教えは天の教えだからだ」

 

また「模倣も極致に到達すると 真実と同様になる この真理にのっとって善いということは極力 模倣に専念すべきである 理屈抜きで先ず優れた人の言行を ひたむきに模倣すべし」と

 

そのように云われたところで 天風翁の歩んできた歴史だけは 他人が自己のものとするわけにはいかない天風翁の生きた証は紛れもなく天風翁自身の個人の歴史にしかないことを こころして於くべきだ

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多くの口述本・文字お越し・テープお越し・自らの著述本(成功の実現ほか7冊)などには 必ず簡略であっても天風翁のプロフィールが書かれてあるのだが史実として残されている文書等を検証すると 明らかに記述の誤りが見出されるのである

 

天風翁は講演(当初は主に公園で口演かな)で 本論に入る前に落語で云う“まくら”として自身の身上を体験談とともに話された そこでは史実にそれは年月であったり場所であったり 天風翁があまり留意されなかったのでしょう   また思い違いを繰り返し話されることが時に応じてはということもあり

 

天風翁は本論で話される”教え“は人と人との人格とのふれ合いの因縁によって伝えられるものとの信念がつよく 最初の頃の口演内容の文字お越しとか録音とか残っているものも少なく(昭和30年ごろからのものでそれ以前はほぼないのではなかろうか)機器の性能とか技術などの問題もあっただろうから

 

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  【現在の上野精養軒】     【大正8年頃の精養軒】

天風翁が上野の精養軒の前にある敷石の上に立ち手に持った鐘をガランガランと鳴らし 道行く人には「そこの道行く人たちよ」とでも語りかけ また界隈にいる人には手招きして「健康や運命は心の持ちようできまる 病気でも不幸でも必ず立て直すことができるもんだし その人の心次第で幸せになれる」

 

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と後の「心身統一法」につながるであろう話をやさしく語り始めた 時には講談を交えたりして 声をかけたのが大正8年6月8日から数えて ことし2019年は100年目にあたる

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天風の出自には多くの話・それも天風の本を何冊も書かれている作者たち 弟子もいれば弟子ではないが天風を啓蒙してやまない人も また天風自身が思い違いか・勘違いからか誤った祖先の名を講演でしばしば使い その口述本にも記載があったりして意見がお飛び交っていて どれが本当のことなのか

 

調べるに値ありと考えていたところに2019年2月に それらの教えとはかけ離れたこととは云え 600年も前の東と西の雌雄を決する あの「関が原の戦い」に ある戦国武将が開戦に間に合っていれば 西軍が勝利していたかも知れないとのネット記事を見つけた 

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その武将というのは 歴史シュミレーションゲーム「信長の野望」などで お城・よろい(鎧)&かぶと(兜)の甲冑ブームで戦国武将人気ランキング第一位の武将で 九州筑後の国の武勇卓越した武将でした 天下を統一した あの秀吉に「その忠義・武勇 まさに鎮西一(九州) 天下無双の武将である」と言わしめた「立花宗茂」という武将である

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NHK大河ドラマにと福岡【筑後】ではネットで全国に応援支持会員を募り盛り上がりをみせている・・「立花宗茂」だけではなく実父の「高橋紹運」・養父の「立花(戸次)道雪」・そして「道雪」のひとり娘でもあり「宗茂」の妻となった立花誾(ぎん)千代といずれも話の話題づくりには こと欠くことはない 

 

子の出自を知るには親を知ることで さらに祖父を知り高祖父の出自まで調べることで出自が分かるのではと考えたところで「立花宗茂」で検索して見ると天風の名前の由縁にもなった 剣術⇒居合い・抜刀流“隋変流”の開祖とある ならば中村天風の高祖父であることの所以 そしてまたネット時代の為せるワザなんでしょうね 立花家の系図も出てきたのですから 

 

「中村天風」の高祖父が筑後の国柳川藩の藩主立花家に継承されている既成年譜から「立花道雪」とわかった ただし道雪は立花を名乗ることがなかった

 

「道雪」は百戦錬磨(37戦37勝)の武勇高き 大友家の重臣であった 幾度となく大友家との確執があり 戸次(べっき)鑑連(道雪のこと)は立花氏の跡継ぎとして高橋紹運の子の高橋統虎(むねとら、宗茂の初名)を養嗣子として迎えようとした(道雪と紹運は共に大友氏の庶流にあたる)

 

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     【戸次(本来なら初代立花家藩主)】

初代立花家を継いだのが宗茂である 中村天風とその父中村祐興との関わりが出てくるのが9代の鑑賢(あきかた)からである 鑑賢は父である鑑一(あきかず)が早世したため嫡子(長男)として継承すべきところ4歳では儘ならず改易を避けるべくして鑑一の弟に継承したり養嗣子にしたりと画策し 晴れて9代目立花家の藩主となる

 

【立花家の系図】・・・(以下の系図は公開 まかりならぬ とありここだけに留め置き下さい)

 

田中家・・改易(本来は筑後国柳川藩の藩主であるべきところ継嗣に恵まれず)

 

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田中忠政1609-1620

無継嗣、改易

 

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そこで立花家が継承した 「立花道雪」が初代藩主となるべきところ大友家との確執から「道雪」は 嫡男にも恵まれず 予てから自身の嫡男にと想いをはせていた同じ大友家に使える「高橋招雲」の嫡男「宗茂」を養子に迎えたいと「招雲」に折衝 本来ならありえないことながら「道雪」の息女に9歳で城督していた「ぎん千代」を嫁として柳川藩主となった

 

《立花家の既成年譜》・・・(個々の注釈は勝手に付け足ししました)

 

    立花道雪

初代    【宗茂】(高橋招雲の嫡男)

2代    【忠茂】(宗茂の弟 宗茂に子が無かった)

3代         【鑑虎】

4代    【鑑任】

5代    【貞淑】

6代    【貞則】

7代    【鑑通】(あきなお)鑑門の子・・孫・鑑賢は立花鑑門の死去により、祖父鑑通の嗣子となったが1793に早世

 

8代    【鑑寿】(あきとし)鑑門の子立花鑑寿その跡を幼少の鑑賢が継ぐわけにもいかず 家督は叔父で鑑一の弟・立花鑑寿が継いだ。

 

9代    【鑑賢】(あきかた)筑後国・柳河藩の第9代藩主 第7代藩主・立花鑑通の嫡子だった立花鑑一の長男。母は立花茂久の娘 正室は第8代藩主 立花鑑寿の娘

      7代藩主立花「鑑通」の嫡子であった「鑑一」の長男であったが               「鑑賢」が4歳のときに父「 鑑一」が早世 家督を継ぐわけにいかず 祖父「鑑通」の嗣子となって年を得て正当相続した

 

10代    【鑑広】(あきひろ)「鑑賢」の長男として家督を継ぐも11歳で病死 また当然ながら子もおらず 末期養子の許可も下りておらず このままでは改易となるため 「鑑広」が生存していることにしようと「鑑賢」が辻褄合わせの策略を描いたのだ

11代    【鑑備】(あきのぶ)兄「鑑広」が天■したため急遽 立花家の存続のためにも替え玉にならざるを得なかった (次男)娘(内藤政義正室)

 

【なんと明治35年(1902)まで極秘事項とされ守り抜かれた】

 

12代    【鑑寛】(あきとも)18歳で家督相続

 

≪天風翁の出自の不可思議をひも解く祖父から❷≫・・・に続く

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